現在高校三年生の娘が中学三年で摂食障害(拒食症)を発症し、回復までの道のりと個人的に感じたこと、思ったことを記録しています。

 

今回は娘の記録とは少し脱線して、本を読んで不登校について考えたことを書こうと思います。前回、学校に行かないことに関する記事を書いていて、以前読んだ書籍の内容を思い出しました。


 

読んだ書籍は、ハワード S ベッカー(著) 村上直之(訳) の『完訳 アウトサイダーズ ラベリング理論再考』です。

 

ラベリング理論って何?かというと、

(「逸脱」という言葉の定義の理解も必要なのですが、それも含めて簡単に言うと)

 

集団の多くの人が「これって大事だよね」って感じた価値基準がルールとなって、それに違反してる行動を『逸脱行為だ』と周囲がラベリングしてるんだ、という理論です。

ルールを作るから違反が生まれるってことですね。

(長谷川公一という人の「逸脱」という定義を用いて私が理解した内容です)


そして、

このラベリングによって、ラベリングされた人は「自分は逸脱してるんだ。まっとうな道筋から外れているんだ!」というアイデンティティが形成されて、そのように行動する(逸脱行為の継続や激化になる)、と言われています。

(ラベリング理論について色んな人が考察してるのですが、土井隆義という人の考察を参考にしてます。)

 

で、私がこの理論を知ってまず浮かんだのが不登校は逸脱のラベリングがされてるんじゃないか?ということです。

 

現在の日本は、中学までは学校に行く(親は行かせる)ことが義務です。

そして今の日本社会は、大卒と高卒の生涯年収が大きく違うというデータがあります。

また、年金や医療保険などの社会保険制度を考えると、自営業より企業に務める方が安心です。さらに大企業は福利厚生も手厚いことが多いので、高学歴と大企業への就職に価値が置かれるのは至極当たり前ではないかと思います。

 

大企業に就職するには、順当に進学して高学歴であることが多くの場合必要で、この義務と価値基準に違反する不登校は逸脱であって問題だと親や社会は捉える。

 

そして、なぜ学校に行かないのかと聞いてみたり、学校や勉強の必要性を話してみたりする。

 

そういった行為を否定してるわけではありません。

 

ただ、不登校の子ども本人は学校に行かないことの罪悪感をもっていたり、

「学校に行けない自分の将来は真っ暗だ」

「学校に行けない自分はダメな人間だ」というような意識を持っている

という話を見聞きします。

それは、順調に進学するという暗黙のルールから逸脱してしまった自分への無意識の責めのように思えます。

 

娘が摂食障害になって入院・退院後、登校を再開しますが、学校に馴染めず通信に切り替えることを考えていました。その時、私は自分の中の価値基準から外れるからでしょう、頭ではそれもありだと考えながら、心中はめちゃめちゃ不安でした。

 

娘は現在大学進学を希望していますが、大学卒業後に製菓の専門学校に入ってパティシエになり独立する夢を持っています。(一時は管理栄養士が志望でしたが変わりました)

パティシエとして独立する夢をもつことは素敵だと思いますが、現実的には非常に険しい道のりで、収入的にもなかなか厳しいものが待っている可能性が想像に難くありません。

 

でも、その現実をしっかり本人が理解した上で希望しており、親としては見守るしかありません。

彼女の人生は彼女のもの。

私の価値基準と彼女の価値基準は違う。

彼女が自分の生きたいように人生を歩むことが彼女の幸せ。

 

その覚悟ができて心から娘を応援できた時、娘は夢に向かって自ら前進し、大きく回復したように思います。

(ちなみに摂食障害も不登校も出方が違うだけで根っこは同じだと思ってます)

 

不登校の原因や経過が必ずしも書いたようなことだとは思いません。

でも、こういう見方もできて、そうすると社会のあり様の課題とかが見えてくるように思いました。