ヨギは、自己の身体は自分の楽しみだけに与えられているものではなくて、目覚めている各瞬間、他に奉仕する目的のために、神から与えられているものであると信じている。すなわち身体は自分のものではなく、与え主である神が、いつか取り戻していくということを知っているのである。
ヨガの求道者は、まずアサナの実践によって健康になる。それは、金で購入できる日常品ではなく、非常な努力を通して得ることのできる宝物であり、その宝物は身体と心と精神の完全な安定状態を意味している。体も心も、意識しなくても良い自然の状態であることが、健康な状態であるといえるのである。ヨギはアサナを行うことによって、身体的な弱点と心の混乱を取り除くことができる。またヨギは利己的活動を放棄し、社会のために奉仕することによって、自分のすべてを神に捧げる生き方をするのである。
ヨギは、自己の生命も、また自己のすべての活動も神の行いの一部であって、自分自身は人間という形をとって、そのことを表現させていただいているのだと自覚している。彼らは自己の脈と呼吸の中に季節の流れと大宇宙の鼓動を聞いている。彼らは、自分の身体は神の生気が宿る神殿であるから、自己の身体に必要なものを無視したり、自己の中に神性を見ないことは、自分の身体が宇宙の一部であるということを否定することであると自覚している。すなわち、身体の要求は神の要求であると承知しているのである。ヨギは神を天国に見つけようとはしない。それは、神は自己の中に“内なる自己”として存在していることを知っているからである。
ヨギは心身のいずれも無視せず、心身の双方を大事に育てる。ヨギのとっての身体は、心の開放を妨げるものでもないし、心の堕落の原因ともなり得ないものであって、体は心の開放を得るための協力者と思っている。ヨギは、神への奉仕に専心できるよう、強く健康で、いかなる苦しみにも耐えうる身体をつくることを求めるのである。『ムンダコンパニシャッド』に指摘されているように、「絶対なる自己」は、力や思慮なくして、また目的なくしては得ることのできないものである。素焼きの土器が水に溶けるように、強め清めるためには、ヨガの訓練という火で強く焼かなくてはならない。
アサナをしているとき、ヨギの身体は、いろいろな種類の生物に似た形をとる。このようにしてヨギの心は、いかなる生物も軽蔑しないように訓練されるのである。なぜなら、最も下等な昆虫類から最も完成された賢者に至るすべての生物は、ただ形が異なるのみであって、みな同じ宇宙の魂を持って存在しているからである。最上の形は“無形”であって、宇宙と一体になるものである。本当のアサナでは、ブラーフマンの考えが、たえまなく求道者の心にゆきわたるものでる。損と得、勝利と敗北、名声と恥、体と心、精神と魂といった二元性は、アサナの習得によって自然に消えてしまい、求道者は次のプラーナヤーマの第4段階に入ることができる。
※『ハタヨガの真髄』 (B.K.S.アイアンガー著 沖 正弘監訳 白揚社) PARTⅠ「ヨガとはなにか?」より引用しました
B.K.S. アイアンガー, B.K.S. Iyengar, 沖 正弘, 玉木 瑞枝, 後藤 南海雄
ハタヨガの真髄―600の写真による実技事典