以前何かで読んだのですが。
「母親を喜ばせるために拒食症になる子供」がいるのだという感じの話がありました。
「子供が拒食症になったら、親が甲斐甲斐しい母の役ができるから。親は内心では喜ぶ」
みたいな親の欲求を無意識的に察知して、子供が拒食症になる…という感じの話でした。
子供が親を依存させてあげているの図なんです。
ここからは、私の感覚での話なのですが。
高校生のときに、周りの子が何人か拒食症になったのを見て、私は「ヤバいな」と思いました。
私の家の場合、私が拒食症になったら
「母が、自分は良い親だと勘違いを始める」
から飛躍して
「長男の兄への人格否定が加速して(母が自分で肯定しちゃうから)、母が絶頂な気分になる」ことが予想されたのです。
そんなわけで、私は高校に真面目に通うのをやめました。
拒食性になっている場合じゃないと思ったのです。
多分この話は、普通の人にとっては
「そんなの自分が妄想で作った言い訳であって、本当は元々が真面目じゃなかったのでしょ?」
って思われるところなのでしょうけども。
あのときの危機感は本物でした。
あれから20年以上経って思うのですが。
多分、普通の家に育った人は、違う問題にさらされているのだと思います。
それが「人に好かれるために何かをするのには、限度がある」
という話です。
私の場合は高校生のときに、
「ここで自分も拒食症になったら、親の思うつぼの展開になる」
という危機感がありました。
なので、それから
「人に好かれるための行動にも、限度がある」
と思っています。
ちなみにですが、今までの時代の話でいうと
そういう危機感がある女は、そんなに好かれなかったと思います。
「女は依存症であり、男の自尊心をくすぐる類いの弱さを持っていてほしい」
みたいな感じが、あったからです。
日本人の男は「女の弱さ」とか「幼児みたいで、自分を必要とする感じ」とか、そういうのが好きなんだろうなーと思っていました。
ひとまず、男の自尊心をくすぐってほしいのだと思います。
(今は違う流れだと思います。
そして、元々そんなこと全く考えたことがない人もいると思います。
そういう前提があっての話です。)
けど、モテるとは言っても、限度があるのです。
親子関係と同じです。
「モテるメリット」と、「これが限度の境界線」とのバランスが必要なのだと思います。
「女は人を頼るものだ」という考え方が強かった、昔の時代の背景もあっての話だと思います。
なので、簡単に否定もできません。
あと、親を依存させてあげたいから、
「無意識的に、優しさで拒食症になる人」も、案外多かったのかもしれません。
そういう人は、多数いると思います。
私には、その気が全くないのですが。
(自分でもビックリするほど、その気かないです。ドライだなーと自分で思います。)
私は「好かれる」のと「労力」を切り離して考えたいのです。
比例していると考えるのが、嫌なのだと思います。
比例していると思うと、急にやる気がなくなるのです笑。
そして多分、そういう切り離しは「元々必要なこと」なのだと思います。
親子や恋人の、どちらかの権力が強くなって、相手を安心させるためだけのことですしね。
最近、そんなことを考えました。
あ、ちなみにですが。
「私は、モテるのだけど。男をみる目がないんです」
というのも、モテ要素だと思います。
なぜなら、
「前の男で苦労しているのなら、きっと自分の良さを理解するに違いない。
自分のことを、ありがたいと感じるに違いない」という、根拠のない期待をする男(女)がいるからです。
普通に考えると、「モラハラ男」を好きになる女が、
普通の男をありがたいと感じる確率は低そうです。
けど、「私は男をみる目がない」は有効です。
「前の男より自分の方がまし」という自信が、始めから用意されていますしね。
もしかすると、「私には男をみる目がない」と言っている女性の4割くらいは、
「親を依存させるために、自分を低く見せるテクニック」みたいなものを、
恋愛においても、無意識的に使っている場合もあるのかもしれません。
なんてことも思います。
ちなみにですが、「私は男を見る目がない」というのも、
時代が終わればなくなる手法になるのかもしれません。
(本当に見る目がない人もいますが。割合として減る感じが出ているかもしれない、という話です)
まぁ、何でもいいのですが。
そもそも「人に好かれるために何かする」のにも、限度があるのです。
推し活を客観視しながら、
「日本の推し活って、親子関係の毒の延長みたいだな」
と、私は思ってしまいます。
「そういう感覚がない人」の方が多いのが疑問です。
というわけで、最近考えたことの話でした。(^^)