12月31日火、一色歴史ポタ①。

 

1.針曽根八幡社修福寺編

2.竃神社編

3.赤羽別院親宣寺前編

4.赤羽別院親宣寺後編

5.養林寺編

6.普元寺編

に続いて、

 

 

真宗大谷派 南潮山 安休寺

 

間色の富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう。

それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

「果しえていない約束」 三島由紀夫 昭和45年7月7日

 

三島由紀夫と和尚の意見に賛成。

ただ、もう経済大国でもなくなってしまう可能性が出てきたが。

私が写真を撮った直後にはがしていた。

年始に向けて新しい紙に貼りかえるらしい。

来年また来なければ。

 

鐘楼。

 

南潮山

山門。
南潮山
山門くぐる。
安休寺関連の年表。
1173年、親鸞誕生から始まる。
1356年、吉良満義没
 吉良嫡流の4代目。
1357年、光義の四男(次男との記述もあり)吉良有義、安休寺を開創する。
1872年、関信三、欧州留学
関信三の記述はこの1文のみだが、西尾歴史にとって安休寺は関信三の生家として有名。
1843年に安休寺に生まれた関信三は、仏教・関学についての学問をおさめた。
東本願寺より欧州に派遣され、欧米諸国を巡るなか、単身、イギリスに残ってキリスト教の教育について学んだ。
そこでドイツ人の教育学者であるフレーベルの思想にふれ、日本では女子や幼児の教育が必要だと知った。
帰国後、東京で英語の教師として活躍するなか、当時の文部大臣に訴え、日本で初めて東京女子師範学校(現在のお茶の水大学)に付属幼稚園が造られ、初代延長になった。
しかし、病気によって37歳という若さで亡くなった。
その功績をたたえ、宗善寺(東京都台東区)のある信三の墓は、フルーベルの墓と同じ形で造られている。
関信三は仏教界の重要人物であったが、のちにキリスト教に転向する。
その途中では幕府からの仏教界からの、欧州、キリスト教のスパイの役目を負っていた。
スパイから足を洗い、キリスト教に転向した。
 
西尾歴史マイスター勉強会の一色の日の先生は、関信三に思い入れが強いらしく、
 教科書の解説とは別に、「関信三、私の愛したスパイ」と題した資料を作り、
 信三の苦悩と転向、新しい生き方について情熱的に語っていた。
確かに、小説や映画になってもおかしくない人物である。
 
安休寺は他の吉良家ゆかりの寺と同じく、初めは臨済宗だった。
境内墓所には吉良満義、一色有義父子の五輪塔が現存しているという。
見逃した。
安休寺の北隣接には「一色氏発祥之地」の碑があるという。
見逃した。
また行かねば。
 
木鼻の獅子と象。
 
 
 
安休寺
 
8.安休寺後編 に続く