こんばんは!
天安門事件からもうすぐ26年ということで
あの事件のまとめをブログに書かせていただいております。
事件の前半部分は、下記をご参照ください(リンクつけています)
↓
さて
1989年5月中旬より天安門広場にて
決行されたハンガーストライキ、
それは50万人規模にも達しました。
その民主化運動はどうなっていくのでしょうか。
■当時の首相李鵬(りほう)と学生代表による話し合い
私もこの事件を紐解いたとき
この部分にかなり驚きました。
ストライキだけに終わらず、李鵬は学生代表と話をしているのです。
5月18日ついに首相・李鵬と学生代表による会談が行われました。
学生側は
「学生運動を(動乱ではなく)愛国的なものとすること」と、
「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」
を要求しましたが
李鵬は要求に応えず、実質的な話し合いまでには至りませんでしたが
李鵬を批判する学生の様子が全世界にテレビで流されたのです。
■ソ連、改革の指導者ゴルバチョフ訪中
少し日にちはさかのぼりますが
5月15日、中国共産党は、平静を保つため
当時予定されていたゴルバチョフの訪中を強行しました。
ソ連との関係が正常化したことをアピールする狙いでしたが
ゴルバチョフは市内の移動すら手惑い、
天安門広場での歓迎式典が中止されるなど
明らかに北京は正常ではなかったのです。
そしてこの民主運動を行っている学生も
「改革派の一員」「民主主義の大使」としてゴルバチョフを歓迎したのです。
結果的に共産党指導部はメンツが完全に潰されました。
■李鵬による戒厳令 反対した趙紫陽(ちょうしよう)は解任
5月下旬、共産党政治局常任委員会にて
李鵬が戒厳令を推進しましたが
趙紫陽はこれに反対意見を述べます。
ついに趙紫陽は、自ら学生の前に姿を表し、そ
の愛国精神をほめたたえ、涙ながらハンストの中止を呼びかけました。
この時、学生から拍手喝采が起きたほどだったのです。
しかしながら、鄧小平により趙紫陽は解任。
前役職を解かれ、自宅軟禁状態とされます。
■そして100万人の大運動へ。
北京では戒厳令が本格的に布告され
それに反対するため運動の参加者は100万人にも達しました。
いよいよ武力介入も間近というところで
北京美術学院の学生により「民主の女神」が作られ
天安門広場に打ち立てられたのです。
欧米のメディアでは民主化のシンボルとして
取り上げれられたのです。
残念ながら日本では知る人は少ないでしょうね…
■報道管制と、6月4日武力弾圧
戒厳令に伴い、日本、イギリス、西ドイツなど先進国のメディアは
共産党により遮断されます。
アメリカのCNNは孤軍奮闘し、真実を報道していました。
やがて本格的な軍隊が出動されます。
ついに鄧小平(とうしょうへい)の指示にて武力鎮圧という
人類至上稀に見る愚行へと舵を切ったのです。
○アメリカの記者のおかげもあって6月4日の事件は
日本でも報道されました。
あの戦車が出てくる前の晩
笑いながら兵士が武器を持たない一般市民を
銃殺していました。
兵士は市街地でも平気で発砲しました。
もちろん学生らは軍服を着た同じ中国人へ呼びかけました。
しかし、理解せず発砲し続けたのです。
それはなぜかというと、地方の軍隊だったため
北京語が通じなかったのです。
解放軍の参謀などにより学生は「動乱を起こしている」と
嘘の情報を伝え、無差別発砲を繰り返させたのです。
民主化の声を、最終的に武力により鎮圧しました。
そして、丸腰の一般市民はこれに対し有効な策が
なく、3か月間の戦いは終わりをつげました。
世界にどういう余波を与えたのでしょうか。
続きはまた明日、書かせていただきます
お楽しみに!
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