例えば私が教育者であったとします。ある生徒が私の要求に応じない場合、その生徒に自分の感情をぶつけるのではなく、まず自分自身に向かい合います。そして生徒と自分とが一つであるように感じながら、

「この子の不十分な点は私自身の行為の結果なのではないか」

と自分に問うべきです。そうなれば、自分の感情をすぐ生徒にぶつける代わりに、その生徒が私の要求にもっとよく応えてくれるようになるためには、今後私自身がどういう態度をとったらいいのか、熟考するようになるでしょう。

 このような考え方を育てていくと、次第に人間の思考方法が全体的に変化します。そして些細なことに対しても重要なことに対しても、従来とは考え方が違ってきます。

例えば、一人の犯罪者に対しても、自分の判断を差し控えて、

「私もこの人と同じ人間にすぎない。ただ環境が与えてくれた教育だけがおそらく彼のような運命をたどることから私を守ってくれたのだろう」

と考えるようになります。

もしも私を教育してくれた人たちが、その同じ努力を彼や彼女のために用いていたとすれば、今犯罪者にされているこの人にも別様の生き方ができたに違いない、

彼もしくは彼女に与えられなかった何かが私に授けられているということ、私の長所は彼には与えられなかったこの幸運に負っているということ、に考えが及びます。

その時、自分は全人類の単なる一部分ではあるが、そのような部分として、生起する一切の出来事に対する責任をも分有している、という考え方がもはやそれほど無縁とは思われなくなるでしょう。



 このような考え方を、直ちに扇動的な社会活動に転化すべきだというのではありません。魂の奥深くで、密かに、このような考え方を育んでください。そうすれば次第にその考え方が、人間の外的態度にも刻印づけられていきます。

自己改革は各人の内面の問題として、内面の問題としてのみ、始められなくてはならないのです。

そしてこの考え方からすれば、すべての人間に対して一般的な要求をすることには何の意味もありません。人間はどうあるべきかということについて、あまりにも安易な判断が下されています。しかし神秘修行者は、社会の表面においてではなく、魂の内奥において判断してください。

ゆえに、このような自己改革を外的な要求や政治的な要求と結びつけることは間違った態度と言えます。一般に政治的な扇動家たちは、他の人たちに対して何を「要求」したらよいか、よく「わきまえて」います。しかし彼らは自分自身に対する要求を問題にしようとはしないのです。


(p127-p128)


相手や環境の自分に対する不都合な点やトラブルだと思う理由を相手にではなく、自分の中に探そうとする考え方は、「ホ・オポノポノ」に通じるのではないかと思いました。


「起きる出来事は100%自分に責任がある」という考え方を出発点としているところは、自分が全体の一分子であるということを受け入れることと繋がっていると思います。


「私は、一瞬一瞬、その場所に存在して、クリーニングしているだけです。クリーニングするために存在しているのです。」


というホ・オポノポノの提唱者であるヒューレン博士の言葉が、自らを世界のために役立たせるために進化させるという高次世界認識に必要な法則に非常に近いと感じました。