晩夏の西日が差しこむリビングのソファに腰かけ、実父と継母に向き合うフェリシアがいた。
ここはシャルヴィ邸。
つい先日、予期せぬ流れでアンソニーと婚約することになってから、まだいくらも時間が経っていない。
まさかこんな展開になるとは思ってもみなかったから、未だに実感が湧かない。
それにアンソニーは本心から婚約を望んでいるわけではないのだ。
継母たちが仕組んだ策略の犠牲になりそうな自分を、義侠心から救ってくれようとしているだけ。
分かりすぎるほど分かっているから辛かった。
こんな形で婚約し、夫婦になったとして、何の意味があるのだろう。
だがその一方で、結婚しようと言ってくれたアンソニーの誠意に心揺れる自分がいる。
彼の心にあるのが異性としての愛情でなくても、一緒に暮らせるだけで幸せな気がした。
どっちつかずの思いに振り回され、フェリシアの胸は千々に乱れる。
今の自分に出来ることといえば、正式に婚約する時期を少しでも遅らせることだけ。
その間に互いの気持ちを確かめ合い、本当に人生を共に出来るのか見極めたかった。
それまではボストンに戻ることなど出来ない。
どんな顔をしてアンソニーに会うというのだろう。
自分たち二人の将来のために、フェリシアは勇気を奮い起こして目の前に座っているジャクリーンに懇願した。
「アンソニーとの婚約ですが、お互いの気持ちが熟すまで、もう少しだけ待っていただけませんか?」
この期に及んでまだ及び腰の娘に呆れ顔をする冷たい継母。
「おやまあ、何を言い出すのかと思ったら、なんて往生際の悪い人でしょう!あの若者はあなたと婚約すると誓ったんじゃないですか。あなたにとっては又とないチャンスではなくて?およそ見込みのなかった相手との結婚が叶うんですからね」
これ見よがしに放たれた強烈な皮肉は、フェリシアの折れそうな心を嫌というほど打ちのめした。
(そんな言い方しなくても分かってるわ。改めてあなたに言われなくたって重々承知してる。アンソニーは私を愛してるから婚約するわけじゃないってこと)
そこへ実の父までもが加勢して、フェリシアを益々惨めにした。
「ジャクリーンの言うとおりだ。あいつの気が変わらないうちに婚約を急いだほうがいい。なぁに、既成事実を作ってしまえば観念するだろうよ。真面目そうでなかなかいい奴じゃないか。うまいこと話が進めばシャルヴィ家は安泰だし、お前も幸せになれる。一体何が不服なんだ。あの男が好きなんだろう?」
図星を刺され、顔から火が出る思いだった。
好きなのは事実だが、今この場で、冷酷な継母の前で言ってほしくはなかった。
案の定、冷ややかな笑いが自分に向けられているのを認め、フェリシアは凍りつく。
「研修医になったばかりで仕事もプライベートも軌道に乗っていません。せめてもう少し落ち着くまで彼を自由にしてあげてくれませんか」
「あら、随分と優しいこと!あなたみたいな真面目一徹の女がひとたび恋すると、滑稽なほど溺れてしまうものなのね。今のいじらしい言葉を聞いたら、きっとアンソニーはほんの少しくらいなら、あなたに興味を持ってくれるんじゃなくて?」
意地悪そうな目つきで薄ら笑いを浮かべるジャクリーンを、出来ることなら思い切り張り倒してやりたいと思った。
だが父親がいる手前、ぐっとこらえて両の拳を握りしめる。
(どうしてこんな辱(はずかし)めを受けなきゃいけないの?今この場にエドワードがいてくれたら!アンジェラ姉さんがいてくれたら!そして亡くなった母がいてくれたら少しでも勇気をもらえるのに。ああアンソニー、苦しいわ。どうすればいいの?)
悔し涙がにじんでくる。
気を許したら熱いものがすーっと頬を伝いそうになるのを必死でこらえる。
そのとき、まるで救いのようにドアがコンコンとノックされた。
「一体誰だ?休日の朝だというのに」
ぶつぶつ言うパトリックの横顔を見ながらジャクリーンはドア口まで歩いて行ってノブを回す。
するとそこに立っていたのはシャルヴィ家の跡取りのダニエル。フェリシアとは腹違いの弟だ。
「まあ!誰かと思ったら珍しいこと。いつ大学の寮から戻ったの?」
実の息子が顔を出してくれるのはやはり嬉しいと見えて、さすがのジャクリーンも弾んだ声になった。
さっきフェリシアを攻めまくっていたときとは対照的だ。
慈悲深い聖母マリアさながらの眼差しで、最愛の息子を部屋へ招き入れる。
「すっかりご無沙汰してすみません。留学する前に一度顔を見せなきゃと思いまして」
既に決まっていたこととはいえ、いきなり留学の話を出されたからジャクリーンの顔は寂しげになる。
「どうしても行かなくてはいけないの?フランスへ」
「まさかこの期に及んで止めたりしませんよね。パリ行きを」
釘を刺されて諦めたのか、母親は毅然とした態度に変わった。
「そんなことしないわ。あなたにとって必要なら黙って送り出すしかないでしょう?その代わりしっかり勉強して、必ずシャルヴィ家の役に立ってちょうだい」
「分かってますよ。もともとうちはフランス移民ですからね。ご先祖の歴史を本場で学ぶことは決して無駄にならないと思います。あっちで学位を取れば箔も付きますし。悪い話じゃないでしょう?」
言い終わるとダニエルはちらっとフェリシアを見て、こう続けた。
「フランス留学の件では姉さんに随分口添えしてもらったから、今度は僕が恩返しする番だな」
急に話を振られてドギマギするフェリシア。
しきりに目配せしてくる弟には何か思うところがあるらしい。
意図が分からず益々狼狽する。
「新聞読みましたよ。アードレー家の御曹司と婚約するらしいですね。それが姉さんにとっていいことか悪いことか分らないけど、後悔だけはしないでください。例の中年公爵――アンジェラ姉さんもフェリシア姉さんも嫌がってたイギリス人の・・・クラクストンでしたっけ?あいつと婚約させられそうになったときは二人とも家出しちゃったし。今度は大丈夫なんですか?」
昔の暴挙を思い出してフェリシアは顔を真っ赤にした。
「姉さんが望まない結婚なら断固として僕が阻止します。いいですね?これまで姉さんは十分家の犠牲になってきたんだ。いい加減解放してやってくださいよ。さもなければ・・・」
そこまで言ってダニエルは急に黙り込んだ。
気になったジャクリーンが、先を急かすように息子を見つめる。
「さもなければ僕は母さんを嫌いになりますよ。この家だって継ぎません。僕が相続するはずの財産は、すべてフェリシア姉さんに譲ってフランスに永住します」
「まあなんてこと。お黙りなさい!」
思いもよらない息子の発言に驚き、ジャクリーンは大声を上げた。
「お母さんの言うとおりだ。シャルヴィ家の次期当主たるお前が・・・バカも休み休み言え」
たまりかねたパトリックが妻に加勢する。
「じゃあ聞いてもらえるんですね?さっきの提案。婚約するしないはフェリシア姉さんの気持ちを第一に考えて欲しいんだ。家の都合を優先させるなんてもってのほかです。この条件をのんでくれない限り、僕はあなた方の言うなりにはならないってこと、よく覚えておいてください」
言い終わるとフェリシアの腕をつかみ、「姉さん行きましょう。外はいい天気ですよ。こんな日に部屋に閉じこもってるから、ろくなことを考えないんだ。小人閑居して不善をなす・・・ってね。さあ出ましょう」と皮肉りながらダニエルは大股で歩きだした。
「ちょっとお待ちなさい」
慌てて止めるジャクリーンを振り返り、うっすらと笑みを返す。
「僕は姉さんの味方です。たとえ何があっても。相手が父さんだろうと母さんだろうといじめる連中は許さない」
きっぱりと言われ、さしものジャクリーンも二の句を継げなかった。
溺愛している息子から最後通牒を突き付けられたのは何にもまして辛い。
だから不承不承、「分かってますよ」と答えるしかなかった。
「ありがとうございます。それでこそ僕の敬愛する母さんですよ」
ドア口で微笑みながらフェリシアを外へ優しく出し、自らも廊下に出ると、ダニエルはゆっくりドアを閉めた。
晩夏の太陽が降り注ぐ庭園の小道を、腹違いの姉弟が仲良く歩いていく。
ガゼボの片すみにある人目につかない場所では、風にそよぐ可憐なバラが二人を見守っている。
人の出入りが激しいエントランスに咲き誇っている真紅のバラとは全く違うこのバラたちは、エドワードが恋人のために作り上げたアンジェリック・ブラッシュだ。
それは限りなく清楚で優しい趣き。
クリーム色で真ん中だけうっすらピンクのバラは、名前のとおり、天使が恥じらっているようで、さながら少女の頃のアンジェラを思わせた。
切なげな遠い目をして見つめるフェリシアに気づいたのか、ダニエルはしばらくの間何もしゃべらなかった。
そっとバラに話しかける姉を邪魔してはいけないと遠慮しているようにも見える。
実のところ彼は気づいていたのかもしれない。
フェリシアの見つめるバラの向こうに、エドワードの微笑みがあることを。
「知ってる?これは家庭教師だったエドワード先生がアンジェラ姉さんのために作ったバラなのよ」
まるで夢から覚めたように、長い静寂を破ってフェリシアがぽつりと呟いた。
ダニエルはアンジェリック・ブラッシュの前まで歩いて行き、じっと見入ったあとで振り向きざまに答える。
「知ってますよ。アンジェラ姉さんはとても大切にしてましたから」
「そこにバラを植えた直後だったわね、二人がボストンへ駆け落ちしたのは」
微笑を浮かべるダニエルは、姉の独り言には答えずに話題を変えた。
「さっきの続きですけど、姉さんはどう思ってるんですか。婚約する相手のこと。アードレー家の・・・なんて言いましたっけ?」
「アンソニーよ。アンソニー・エドワード・ブラウン」
「そうでした、アンソニー。その男のこと、気に入ってるんですか?」
バラを見つめたまま姉が何も答えようとしないからダニエルは続ける。
「アンソニーと婚約しても大丈夫なんですか?新聞に出てた写真を見る限り、エドワード先生とかなり似た顔立ちに思えましたけど」
瞬間、フェリシアの肩がピクッと震えた気がした。
ややあってバラから視線をそらすと、エメラルドの瞳はゆっくりと弟の姿をとらえた。
「彼には好きな人がいるの。その女性・・・もう婚約してるらしいんだけどね」
今度はダニエルが驚きを隠せない表情になる。
「アンソニーの気持ちが落ち着くまで無理だと思うわ。だって強引に婚約したって幸せになれるはずないもの。彼も、そして私も」
伏し目がちな哀しい瞳を見た瞬間、ダニエルはすべてを悟った。
何も言わずとも、姉がアンソニーという男――エドワードとそっくりの面立ちをしたアードレー家の御曹司――を深く愛していることを。
「心配しないでください。そんな無茶な真似は絶対させませんよ。幸い僕の言うことならすんなり聞き入れてくれる単純な人ですからね、母は。丸く収まるまで、なんとしても婚約は待ってもらいましょう」
豪快に笑う弟につられ、フェリシアもくすっと笑った。
「許してください、母のこと。あの人は嫉妬してるんです。アンジェラ姉さんとフェリシア姉さんの母上に」
「私たちの母に?」
「写真でしか見たことないですけど、すごく奇麗な人ですよね。父が一番愛しているのは今でもフローラさんじゃないかって、母は悩んでるんだと思います。意外に少女じみたところがあるんですよ」
(注:フローラ→アンジェラとフェリシアの母親)
ジャクリーンの隠れた一面を聞かされ、フェリシアは驚き顔になる。
「わがままな母にずっと耐えてくださって感謝しています。これまでどんなにか辛いことが沢山あったでしょう。だからこそ幸せになってください。姉さんが大切に思う人とずっと一緒に。今度こそ」
今度こそ――最後の一言を聞いてフェリシアは確信した。
恐らくダニエルは気づいていたのだと。自分がエドワードを――アンジェラが愛した同じ男性を愛していたことを。
だからもう取り繕う必要はないと思ったのか、深くゆっくり頷いて「ありがとう」と微笑んだ。
「ところで前から聞きたかったんだけど、もしかしてあなた、アードレー家のお嬢さんと付き合ってる?」
言われた途端、ダニエルは焦り顔になる。
「どうして知ってるんですか?うまく隠してるつもりだったのにバレてたのか」
「ハーン、やっぱりね」
片目を閉じてニヤッとするフェリシアに、照れ臭そうなダニエル。
「尤も、正確には本家じゃなくて分家の娘ですけど」
「らしいわね。確かイライザとか」
「詳しいですね~。参ったな」
「秘密っていうのは、なぜかバレちゃうものなのよ」
「ははは、そのとおりです。まあこの際、お互いさまってことで」
仕返しとばかりにダニエルがウィンクすると、フェリシアは少々ドッキリした表情になる。
「じゃあついでに、イライザが僕の母そっくりな性格だっていう噂も聞いてますか?」
さすがにそこまでは知らなかったと見えて、フェリシアは頭を大きく左右に振った。
「好き好んで、なぜあんな女狐と付き合うのかって何人からも忠告されたんですけど・・・どうしようもないんです。正直、僕だって頭では分かってるんですよ。彼女は危険だって。でもなぜか放っておけない。イライザを見捨てるってことは母を見捨てるみたいな気がするんです」
必死に弁明する弟を見ているうち、うっすらと記憶が蘇ってきた。
「私の弟がイライザと付き合っているらしい」と以前アンソニーに告げたとき、信じられないという顔つきで「あのイライザと?」と、彼が何度も聞き直してきたことを。
今になって漸く分かった。
恐らくイライザという女性はアードレー 一族の中でも有名な問題児なのだろう。
よりによってダニエルがそんな女性と付き合わなくてもいいのに――トラブルメーカーはジャクリーンだけで沢山と思ったが、「蓼食う虫も好き好き」だから仕方ない。
「なんのかんの言ってお母さんのことが好きなのね。きっと無意識のうちにイライザとお母さんを重ねてるんだわ。当たり前よ、親子ですもの」
フェリシアはにっこり微笑み、弟の手を取った。
「フランス留学のこと、イライザにはもう言ったの?彼女はちゃんと理解してくれてる?」
「ええまあ。しぶしぶですけど」
「良かった・・・。アードレー家と縁続きのお嬢さんだから、この先いろいろあるかもしれないけど幸せになってくれなきゃ」
ダニエルはふふっと笑う。
「それはこっちの台詞ですよ。アードレー家の御曹司が相手だといろいろ大変でしょうが、姉さんは幸せにならなきゃいけません。絶対に!」
そして重ねられた姉の手を、強く強く握り返した。
アンソニーをシカゴへ送り出してからというもの、一人ボストンに残ったブライアンは相棒を案じながら不安な毎日を過ごしていた。
シャルヴィ家の総長夫妻に詰め寄られた直後、アンソニーはあっという間にフェリシアと婚約することになってしまい、何の助けにもなれなかった自分の無力さを思い知らされた。
恐らく彼は覚悟する時間も与えられないまま、運命を受け入れざるを得なかったのだろう。
こんなときこそ真っ先に話を聞いてやりたいのに、電話で話すくらいしか出来ないことに、もどかしさを覚える。
そんな折、唯一心の支えになったのはパティの存在。
とはいえ、親友の一大事に自分一人が浮かれてデートする気にはなれず、たまにハーバードの学食にパティを誘ってランチを奢ってやるのが、ささやかなときめきだった。
会話はいつも決まって他愛ないもの。
「アンソニーとフェリシアは今頃どうしているだろう。二人は本当にうまくやっていけるのか」など、自分たちのことは棚に上げ、他人の恋の行方を心配するばかり。
だから仲が進展することもなく、ブライアンとパティは未だに友達同士のままだった。
パブリックガーデンのフロッグポンドでデートして以来、ステアのことが話題になることはない。
ブライアンは意図的にその名を口にするのは避けていた。
今まさに苦しんでいるアンソニーに遠慮してというのもあったが、それ以前にパティをこれ以上動揺させたくなかったから。
いつか自然に彼女の気持ちが自分に向いてくれればそれでいいと素直に思えた。
そのときは、彼女が愛したステアの存在も一緒に受け入れる覚悟は出来ている。
こんなにも広い心で一人の女性を想うことが出来る自分に驚くばかり。
これまで心をいっぱいに占めてきた初恋の少女・アマーリアの影が、静かに溶けて昇華していくのをブライアンは感じていた。
(決して彼女を忘れたわけじゃない。でも張り裂けそうになるほど恋い焦がれた想いはどこかへ消えて、胸がキリキリ痛むあの気持ちは、月日の流れとともに穏やかな愛に変わったような気がする。アマーリアは故郷のドイツに帰って同国人と結婚し、母になった。彼女には彼女の幸せな時間が流れているに違いない。僕らの道は二つに分かれてしまったけど、これで良かったんだ)
胸の奥底が、一瞬ちくりと痛んだ気がした。
だが、今この瞬間愛してやまない女性の笑顔が浮かんだ途端、翳(かげ)りはたちまち柔らかな笑みへと変わった。
一方パティは――
どこかでブライアンに惹かれながらも、依然としてステアの存在が心の大部分を占領している。
鎮めたくても鎮まらない恋心。思い出にしてしまうには深すぎる恋心。
第一、遺体が見つかったわけではない。
いつかひょっこり帰ってくるのでは?――そんな期待が常にある。
そうなったとき、もし新しい恋人が出来ていたらステアはどう思うだろう。
それが怖くてなかなか一歩を踏み出せない。
(そうよ、身近にキャンディの例があるじゃない。私のすぐそばで体験した親友がいるのよ!アンソニーが生きているとは知らずにテリィを好きになって、彼女がどんなに辛い思いをしたか私は知ってる。ううん、苦しんだのはキャンディだけじゃないわ。アンソニーもテリィもどんなにか悩んだでしょうに。誰も悪いわけじゃない。運命だったのよ。でも私はステアやブライアンにそんな思いをさせたくないわ)
その瞬間、パティはハッとした。
ステアを思うのと同時にブライアンの顔が心に浮かんできたことに。
今まで一番だったのはステアだけなのに、もしかしたら今は同じくらいにブライアンも思っている。
日に日に膨らむ彼の存在を持て余し、抑え込むことが出来なくなっている自分に憎悪すら覚える。
とんでもなく罪深いことをしている気がして、恐怖から固く目を閉じた。
夜、一人だけの寮の部屋。
目を閉じたまま、瞼(まぶた)に浮かんでくるステアの幻に赦しを請う。
「私、最近おかしいの。今まではあなたしか見えなかったのに、この頃別の人の影がちらついて離れないのよ。どうしちゃったのかしら。ねえステア、もう見えてるでしょ、『彼』のこと。これは一時の迷いよね?時間が経てば消えてなくなるわよね?ああ早く消してちょうだい。私がこれからもあなただけを見つめていられるように。ずっとずっと一緒にいられるように。お願いよ、私をしっかり抱きしめていてほしいの」
一瞬幻は寂しそうな目になり、何か言いたそうに口を開きかけたが、その唇から言葉が発されることはなかった。
代わりに向けられたのは、眼鏡の奥から覗いて見える、この上なく優しい微笑み。
そしてそれを最後に、彼はゆっくりパティに背を向けた。
行ってしまう!
今追わなければ、ステアは妄想の空間から消えてなくなってしまう。
パティは慌てて目を開けた。
そのとき窓の外でひとすじの流れ星がひときわ明るく光り、次の瞬間、鬱蒼(うっそう)とした森の中にすーっと消えた。
マンハッタンにそびえ立つ高級マンションのペントハウス。
もう小一時間も経つだろうか、黒縁メガネの中年男と美貌の青年が向き合ってひそひそやっている。
窓外にはどこまでも広がる漆黒の闇。
だが、そこかしこに点在する摩天楼からは七色の光が漏れ出て、周りの黒色と好対照をなし、幻想的な夜景を形作っていた。
男から話を聞いているのはストラスフォードの看板俳優、レイモンド・ブラッドリー。
得意げにまくしたてているのは探偵のレーノルズ。
盗み聞きされる心配がないからか、今夜はことさら声のトーンが大きい。
「シャルヴィ家の娘たちのことはすっかり調べ上げましたので、これ以上叩いても埃(ほこり)は出ないでしょう。アードレー家についてもしかり。ですから恐らく今日が最後のご報告になると思います」
レーノルズはメガネをずらし、上目遣いにレイモンドをちらっと見る。
「今までご苦労だった。報酬は約束どおり支払うから案ずるな。で、最後の報告とは?」
男は一瞬ニタリと笑って話し始める。
「現在アンソニーが担当している患者にローザ・ヘイワードというのがおりまして、以前お話したアードレー家のローズマリー・・・つまりアンソニーの母親ですが、容姿がそっくりなんですよ。まるで瓜二つでして」
ローザという名前を聞いた瞬間、レイモンドの口元がピクッと動いたのを探偵は見逃さなかった。
「ちょっと面白いと思いましてね、調べていくうちにいろいろ分かりました」
「何が分かったんだ!」
相手が俄かに取り乱したので、レーノルズは反射的に身構える。
レイモンドが激しく興奮しているのは、小刻みに震えている肩や大きく見開かれた青い瞳を見れば一目瞭然だ。
いつも冷静でポーカーフェイスを崩さない雇い主とは全く違う反応を見せていることに、レーノルズは益々したり顔になる。
「ローザはVSD(心室中隔欠損)という重い心臓病を患っていまして、早急に手術しないと命を落とす可能性が高かったということです」
プルシアンブルーの瞳が怖いほど険しくなり、思い切り前かがみになったかと思うと急に立ち上がり、レーノルズの胸倉を掴んだ。
「それでどうしたんだ。死んだのか?そのローザという女性は」
息が出来ないほど強く締め上げられたため、必死で相手の手を振りほどいて襟元を直す。
「あなたらしくありませんな、こんなに興奮するなんて」
一呼吸ついたあと、レーノルズは口角をつり上げてまたニタッと笑う。
だがレイモンドはおかまいなく同じ質問を繰り返した。
「死んだのか、ローザは」
「いいえ、助かりましたよ。アンソニーのおかげでね」
プルシアンブルーの瞳は再びカッと見開いたが、しばらくすると安堵の表情に変わり、ホーッと一つ小さなため息を漏らす。
「アンソニーが助けたのか。死ぬはずだったローザを」
「結局はそういうことになるでしょう。手術を拒否する彼女を何度も説得してオペに持ち込み、自らも研修医としてオペに立ち会ったらしいです。おかげでローザは一命を取り留め、リハビリも順調に進んでいます。もうすぐ退院できるでしょう。あの若造の手柄ですな。でなければローザは間違いなく死んでいたでしょう」
レイモンドは目を閉じてじっと聞き入っていた。
(あいつが助けたのか!あのアンソニーが・・・)
「ここから先はお話しする必要はないと思いますが、報酬を頂く以上、報告するのが私の義務です。続けてよろしいでしょうか」
したり顔で確認してくる探偵が疎ましい。
だがローザを助けたのがアンソニーだと知ってしまったことのほうが、もっと疎ましくて残酷だった。
これからどんな内容が話されようが大して興味はないが、話したくてうずうずしている男を止めることなど出来そうもない。
レイモンドは半ば投げやりになって、「好きなようにしろ」と言い放った。
「ではお話しします。ローザは昔アードレー家に奉公していまして、そのときウォルター・ウィルキンソンという執事に見初められ、双子の男児をもうけます。勿論未婚のまま。長男はスタンレー、次男はフランシスといいまして。スタンレーは自身が引き取って育てることにしましたが、フランシスはイギリスの公爵家へ養子に出します。公爵夫妻の一粒種は出来の悪い大変な放蕩息子で、一族の悩みの種でしてね。養子のフランシスのほうがよほど人間性に優れ、何につけても優秀だともっぱらの噂だそうです。それで夫妻も実子に爵位を継がせるのを諦め、跡取りとしてフランシスに期待を寄せているようでして。彼はイートン校からオックスフォードに進学して法律を学び、まあ、絵に描いたようなエリートコースをまっしぐらです。それに引き換え、長男のスタンレーはローザの手元に残ったせいで貧しい暮らしを余儀なくされ、五歳のとき母親が結婚してボストンに移住すると、継父のマイケルにさんざん虐待されまして。夫婦の間に二コラという娘が産まれたあとは、更にひどい仕打ちを受けたようです。この頃からローザの心臓は徐々に弱っていき、母思いのスタンレーは甲斐甲斐しく介護していたようです。それも気に食わなかったんでしょう、継父の折檻は益々エスカレートしていきました。あまりの酷さに耐えきれず、病弱な母を案じながらもスタンレーは15歳で家を飛び出し、ボストンのダウンタウンを転々とします。そこで出会ったのがケビン・ブラッドリー。役者の卵をスカウトしようと、たまたま来ていたブロードウェーの興行主です。『ストラスフォード劇団のスターになってひと稼ぎしないか』という誘いに乗り、ニューヨークを目指すことになります。稼ぎの半分はプロモート料としてケビンに支払う契約を結び、彼の息子という触れ込みで売り出します。このときのスタンレーには、失うものなどもう何もなかったのでしょう。母のローザを残してきたことだけが気がかりだったと思われますが、家に戻ったところで継父の虐待が待っているだけ。別人として生まれ変わるにはこのチャンスをおいて他にないと決心した彼は、「レイモンド・ブラッドリー」と名前を変え、ストラスフォードの役者として新たな一歩を踏み出します。その後の出世ぶりはマスコミが報道しているとおりです。天性の美貌の故か、めきめきと頭角を現し、あっという間にテリュース・グレアムを脅かす存在に成長しました。そして彼は今、押しも押されぬトップスターにまで登りつめ、人気を欲しいままにしています。その昔、人生のどん底を経験したスタンレー・ヘイワードが、今どこでどうしているか、あなたが一番よくご存じでしょう?」
一気に話すと、探偵は目の前に座っているレイモンド、いやスタンレーを見つめてにやりと笑った。
「幼い頃はさぞ恨んだでしょうな。元凶となったウォルター・ウィルキンソンを。あの男がフランシスではなくスタンレーを公爵家の養子にしていたなら、あなたは悲惨な幼少期を過ごさずに済んだんだ。よりによってどうして自分が辛い思いをしなきゃいけないんだと思ったでしょうな。お察ししますよ。しかし人間万事塞翁が馬と申します。結果としてこれだけ大成して金も名誉も思うままになったんですから、苦い過去はそろそろ封印してもよろしいのでは?」
喋りが過ぎると思ったのか、レイモンドは男に鋭い一瞥をくれた。「黙れ」と言わんばかりに。
あまりの目力に圧倒され、レーノルズは口をつぐんだ。
レイモンドは静かに立ち上がると窓辺に歩いて行き、眼下に広がるマンハッタンの闇を見下ろす。
深いため息が漏れた。
(あいつが・・・今まで目の敵にしていたアンソニーが助けてくれたなんて!別れてから一日たりと忘れたことのない母を。ああ、みんなどうしているんだ?お願いだから答えてくれ。俺はとんでもない仕打ちをしてしまったんだろうか、母の恩人であるアンソニーに。一体何のためにあの男をはめようと躍起になってきたんだ?俺が今までやったのは恩を仇で返すことばかりだ。これからどうすればいい?どう償えばいい?なあ教えてくれ、フランシス、二コラ、そして母さん!)
「どうされました?まさかこれまでの所業に怖気づいたのでは?」
思索を打ち消すようなレーノルズの声が背後から聞こえる。
ハッと我に返り、レイモンドはくるりと振り返った。
「帰ってくれ。これですべての仕事は終わりだ。約束の金はそこのテーブルにある。今までご苦労だった。もう会うことはないだろう」