答えたくても答えられないジレンマに悩むアーチー。
その肩に、今現れたばかりのアルバートが、そっと手を置く。
「キャンディ、そこらへんで勘弁してやってくれないか。アーチーを責めちゃいけない。真相は誰にもわからないんだ。はっきりしてるのは、たった一つだけ。アンソニーは、今も君のために心を砕いてるってことさ。だから彼を助けてやってくれないか。ほんのちょっとでいいんだ。救いの手を差し伸べて欲しい」
(心を砕いてるって・・・私のために?)
魔法にかかったように直立するキャンディの前で、アーチーは静かに微笑む。
先ほどの興奮が冷め、少しは落ち着いたようだ。
「ねえキャンディ、君は強い人だと思うんだ。アンソニーと会ったからって、気持ちが揺らぐことなんかないさ。だって君にはもう、大切な人がいるんだから。それに、一度形にしてしまった愛は、そう簡単に白紙に戻せないんだよ」
「形にしてしまった愛?」
よくわからず、キャンディは不思議そうにアーチーを見上げる。
「たとえば、婚約とか結婚さ。そういう儀式を通して、『これが伴侶になる人です』って世間に公表しちゃったら、ちょっとやそっとで別れたり出来ないってこと。人はそうやって枠の中に自分をはめ込んで、相手に忠誠を誓う・・・そうだろ?」
キャンディを見つめるマリンブルーの瞳は、ドキッとするほど切なかった。
アーチーにこんな視線を注がれるのは、聖ポール学院の裏庭で告白されて以来だろう。
あの日の彼も、何かに憑(つ)かれたようだった。
思わず後ずさりしたくなるほど、激しくて強引で。
今の彼には、あのときと同じ空気が漂っている。
「わかったわ。私、アンソニーのところへ行く。あなたの言うとおり、病人を助けるのが看護婦の仕事だもの。でも、それだけのことよ。私が彼に手を貸すのは、それが『義務』だから。それ以上の何ものでもないんだわ」
キャンディは自分に言い聞かせるように、きっぱり言い放った。
そして大きく息を吸い込むと、決意を新たにしてエントランスへ入る。
その背中を見送りながら、アーチーはため息をついた。
キャンディ、僕だってそうさ。
失った愛は、とてつもなく深くて重い。
乗り越えるのに、一体どれくらいの時間がかかったろう。
いや、本当のところ、今も引きずったままだ。
きっと誰にでも、一生人に言えない秘密があるのさ。
それを背負って、黙々と生きていくんだろうな。
アニーと結婚しても、まだ君を忘れられない自分を疎ましく思ってたとき、アンソニーが言ってくれたんだ。
「相手が幸せなら、自分も幸せになれる」って。
あの一言で救われた気がする。
だから僕は、君を想う気持ちを思い出に変えられた。
形にしてしまったアニーへの愛を、より確かにするために。
僕の決意は、今、彼女のお腹に宿ってるよ。
だから君も、アンソニーを乗り超えろ!
強い意志で、恋心を愛に昇華させるんだ。
君ならできるはずだよ。
キャンディに向けたつもりのメッセージだったが、心の中でつぶやきながら切なくなった。
──君を想う気持ちを、思い出に変えられた──
本当にそうなのか?
打ちのめされそうな夜が、今でも数え切れないほど巡ってくる。
かたわらに眠るアニーを、何度キャンディだと思い込もうとしたか!
そのたびに打ち消し、幻を消そうと悶絶する。
そんな闘いを、今もひっそり続けている。
どんなに苦しくても、誰にも言えない。
許されぬ想いを秘めたまま、それでも「良き夫」であり続けなきゃいけない・・・
罪深い自分に恐れをなし、アーチーは救いを求めるような目で、そっとアルバートを見やった。
アルバートに案内され、アンソニーがふせっている部屋へ向かう途中、キャンディは震えを止めることが出来なかった。
彼の顔を見た途端、一番初めに思うことはなんだろう。
果たして、病人と看護婦という関係を保てるのだろうか。
不安はつきない。
部屋にたどり着き、アルバートがドアを開けた瞬間、何点もの肖像画や写真が視界に飛び込んだ。
妙齢の婦人が、パラソルを片手に微笑んでいる絵が目の前にある。
あまりの美しさに息を呑む。
──もしかしてこの人、アンソニーの・・・──
いずれの絵や写真にも、その美女がいる。
娘時代の物。仲むつまじくよりそう若いカップル。小さな息子を真中にして、幸せそうな親子の姿・・・どれもこれもが輝いて見える。
「これ、全部アンソニーのお母様?」
アルバートは誇らしげに声を弾ませた。
「当たり!いい勘してるね~。ここはローズマリーの部屋だったんだよ。亡くなってそろそろ二十年になるけど、そのままにしてある」
大おじ様の正体がアルバートだと知った頃、レイクウッドで初めて、ローズマリーの肖像画を見たのを思い出す。
あのとき・・・彼女の楚々とした美しさの中に、アンソニーの面影を感じた。
改めて見ると、なんて奇麗なんだろう!
透きとおるような肌のみずみずしさ。
ほんのり赤みが差した桜色の頬。
控えめだが、印象的な薄紅色の唇。
見る者すべての心を魅了する、輝くエメラルドの瞳。
額の中から、今にも飛び出してきそうなくらい、その存在は圧倒的だった。
キャンディはひたすら驚嘆する。
「アンソニーは小さい頃、よくこの部屋で母親と一緒に過ごしたものさ。ここには思い出が沢山つまってるんだ。だから彼を、ここに寝かせてる。ローズマリーが守ってくれるような気がしてね」
天国から息子を愛でる母の深い愛を感じながら、ベッドに目をやる。
ひたすら眠り続ける金髪の若者が、そこにいた。
「さあ、キャンディ」
緊張して足が動かず、微動だにしない彼女の背を、アルバートがそっと押してやる。
ためらいながら進むと、汗をかいて苦しそうなアンソニーの顔が目前に迫った。
「あ・・・」
そう言ったきり、言葉が出てこない。
もう少しで涙があふれそうだ。
一体なんのための涙?
痛ましさに同情してか?それとも再会を喜ぶせい?
理由などわからないが、込み上げてくる熱いものを、これ以上抑える自信はなかった。
たまらなくなって枕元へ駆け寄ると、若者がうわ言を繰り返しているのが聞こえた。
「キャンディ、キャンディ・・・」
「アンソニー、私よ。ここにいるわ!わかる?」
だが返事はない。
それでも再び、「キャンディ」と力ない声が返ってくる。
「夕べから、ずっとこうなんだ。きっと君の夢を見てるんだろう」
説明するアルバートの声は、もうキャンディの耳に届いていないのかもしれない。
彼女はひざまずいて病人の目線に合わせると、愛しげにアンソニーを見つめた。
そしてためらうことなく、熱い額に手を当てる。
その瞬間、すべてのしがらみが、音を立てて崩れ去った。
せき止めることの出来ない彼への想いが、激流となってあふれ出す。
彼女の後ろ姿を見ているアルバートにも、痛いほど伝わってくる。
道ならぬ恋へと堕ちていくキャンディを目の当たりにして、彼は胸苦しくなった。
彼女がテリィと婚約した日よりも、辛くてやりきれなかった。
(やはり、な。君はまだアンソニーを・・・)
そう確信し、黙って部屋をあとにする。
だがキャンディは、アルバートが出て行ったことにすら気づかぬまま、目の前の想い人を見つめ続けた。
「アンソニー、アンソニー・・・」
愛しい名前を何度も繰り返す。
それ以上は言葉にならなかったが、十分だったろう。
思いの丈(たけ)はその名にこめられ、彼の耳元でささやかれた。
キャンディはアンソニーの手を取って自分の頬に当て、何度もさすった。
(ごめんなさい、テリィ。今だけ忘れさせて欲しいの。この人が元気を取り戻して笑顔を見せてくれるまで、ほんの少し時間をちょうだい。だって私は看護婦だもの。病人を助けるのが仕事なんですもの。アンソニーのそばにいても、決してあなたを裏切ったりしないと誓うから!)
本当の気持ちと必死に闘いながら、懺悔の言葉をテリィに捧げた。
だが肌に感じるアンソニーの温もりが愛しくて、手を離すことが出来ない。
熱い涙が頬を伝う。
やがてそれは、キャンディの頬に当てられているアンソニーの手をも、しっとり濡らした。
(きつね狩りのあと、生死の境をさまよっていたあなたに、私は何もしてあげられなかった。それどころか、別の男性を好きになって、婚約までしてしまったわ。いくら生きてることを知らなかったとはいえ、そんな自分を許せないの。だからもし、罪滅ぼしが出来るなら、私はなんでもする。あのとき出来なかった分まで。あなたがもう一度微笑んでくれるなら、すべて失ってもかまわない!)
彼の手を自分の頬から離すと、握りしめたまま、間近でアンソニーを見つめた。
そして目を閉じ、唇をそっと彼の手の甲へ近づけた。
それから三日間、キャンディは付きっきりでアンソニーを看護した。
涙ぐましいほどの献身だった。
スペイン風邪がうつるのも恐れず、三日三晩、かいがいしく世話をした。
汗をふき、シーツやカバーを交換し、体を清潔にし、検温して血圧を測り、点滴を取り替え、看護婦としてできるすべてのことに、全霊を注いだ。
それこそ寝る間も惜しんで。
そんな姿に、アニーは眉をひそめ、アーチーは嬉しそうに目を細め、アルバートは寂しげに微笑んだ。
三者三様、アンソニーとキャンディの関係に対して、思うところが違うからだ。
(キャンディ、忘れないで!あなたにはテリィがいるのよ)
アニーは不安になる。
(君の心には、「男」として僕が存在できる場所は、ほとんどないらしいね。君の目に映ってるのは、養父であり、兄であり、友人であり、良きアドバイザーの僕。それ以上のものではないんだ。少なくとも今のところは・・・ね。記憶をなくしたアンソニーがレイクウッドへ来たときから、君の気持ちは百も承知だった。でも、予測できないことが起こるのが、この世の不思議なところでね。もしかしたら君は、いつの日か、思ってもみない人物を意識し始めるかもしれない・・・)
アルバートの胸に、複雑な思いが広がる。
(思ったとおりだ。やっと本音が現れたね。それでこそキャンディだ!良かった・・・心のままに振る舞えて。しがらみなんかに邪魔されるな。自分に嘘はついて欲しくないんだ)
キャンディの行動を誇らしげに思ったのは、アーチーだけだった。
彼は感染も恐れず、アンソニーの見舞いにやってきた。
看護するキャンディもねぎらってくれた。
「ちょっとは休まないとダメだよ。こいつが治る前に、君がぶっ倒れちまう」
涼しい顔で言うアーチーに、キャンディは呆れ顔になる。
「あなたこそダメじゃない!こんなところに入ってくるなんて、どういうつもり?スペイン風邪がうつったら大変よ。もうすぐパパになるのに」
「だって子供を産むのは僕じゃないんだ。平気さ。それにうつるなら、もうとっくにうつってる。こいつが本宅に来てから、イヤというほど接触しちゃったもんね」
ウィンクするアーチーが、なんだかすごく大人に見えた。
「アンソニーがいて、アーチーがいて、私がいる。あの頃、レイクウッドで同じ時間を過ごした三人なのに、いろいろなことが変わっちゃったわ。人はいつまでも、昔のままじゃいられない。もう、時は戻せないのね」
しんみりしたキャンディを、アーチーは上からのぞき込む。
「僕に子供ができるのが寂しい?」
意外なことを言われてまごついたが、それは図星だったかもしれない。
キャンディは頬を赤らめ、「ええ、ほんのちょっと。なんだかアーチーが遠くへ行っちゃったみたいで」と笑った。
「バカだな~。僕はいつだってキャンディの味方さ。結婚しようが、子供が産まれようが、それは変わらない。これかもずっとずっと、そばにいるよ」
言われた途端、ドキッとした。
マリンブルーの瞳が目の前に迫り、少年みたいにいたずらっぽい顔で、ふふっと笑う。
なんだか、とどめを刺されたようだ。
親友の夫である男性が、ものすごくまぶしくて、キャンディはまともに顔が見れなくなってしまった。
「いや~ね、アーチーったら。変な冗談言わないで」
はぐらかすと、「冗談なんかじゃない。マジだよ」という答えが返ってきた。
心臓がざわついた。
勇気を出してちらっと見ると、アーチーは真顔だった。
(ダメよ!私にそんな優しい言葉をかけちゃいけないわ。それはアニーのためだけに、とっておいてあげて)
部屋を出て行く彼の後ろ姿を見送りながら、キャンディは心の中でつぶやく。
なんともいえない甘い香りが駆け巡り、頭の芯をボーッとさせた。
妙な気持ちだった。
夢と現(うつつ)をさまよいながら、アンソニーは、エメラルドグリーンの美しい瞳に見つめられていた。
すぐそばで、「アンソニー、アンソニー」と、懐かしい声が聞こえる。
「君は誰?」
目を開けると、ブロンドを編み上げ、ペールグリーンのドレスに身を包んだ貴婦人が微笑んでいる。
「久しぶりね、アンソニー。会えて嬉しいわ。でも、なぜあなたがここにいるの?まだ来るには早いんじゃないかしら」
優しい声でささやくこの女性には、見覚えがある。
「アンジェラ?」
女性は嬉しそうにうなずいた。
「今までどこにいたんだい?どうしてあの朝、急にいなくなっちゃったの?あれからずっと探してたんだよ」
「ごめんなさい。あなたには悪いことをしたと思ってるわ。でもね、仕方なかったの。彼に会う約束があったから・・・」
「彼?」
顔をゆがめたアンソニーの前に、金髪碧眼の若者が現れた。
「知ってるわよね?エドワードよ。私たち、結婚したの」
驚きのあまり、言葉を失う。
すると男性は、穏やかに言った。
「これからは、僕が彼女を守るよ。だから君は、安心して帰ってくれ」
「帰れって、どこへ?」
「君がいるべき場所だよ」
若者も、そしてアンジェラも、寄り添いながら幸せそうに笑う。
次の瞬間、恋人たちは視界から消えてしまった。
「待ってよ!まだ話があるんだ」
だが、もう人影は見えない。
果てしなく透明な空間に、アンソニーの声だけが空しく響き渡る。
絶望してうなだれていると、また耳元で声がした。
「アンソニー、アンソニー」
今度は、さっきと違う声。
もっと落ち着いた女性の声だ。
遠い昔に聞いたせいか、おぼろだけれど、胸をしめつける懐かしさがあった。
「誰?」
声の主(ぬし)に尋ねると、「彼女」はアンソニーの前に姿を現し、女神のように微笑んだ。
この人もエメラルドの瞳をしている。
「私のベビーちゃん、どうしてこんなところにいるの?」
女性は目を細めて若者を見つめる。
「もしかして母さん?そうだよね」
純白のドレスをまとったブロンドの女性は、言葉に尽くせぬほど美しい人だった。
白くて細い指には、燃えるような真紅のバラが一輪。
それを差し出しながら、彼女はまたにっこり笑う。
「大きくなったわね。私たちがお別れしたとき、あなたはまだ五歳の坊やだったのよ。それがこんな立派に・・・。いくつになるの?」
「あと二ヶ月で23歳」
「まあ!もうそんなに」
「母さんは変わらないね。あの日のままだ。奇麗で優しくて」
「それは、私の時間が止まってるから」
ローズマリーはバラの花をアンソニーの胸ポケットに挿すと、自分よりずっと背が高くなった息子を抱きしめた。
「でもあなたの時は、これから先も刻まれていくのよ。だから私と一緒に来ちゃいけないの。わかるわね?」
あの頃、母の胸にすっぽり包まれるほど小さかったアンソニーは、今や、母を包み込んでいる。
立場が逆転した。
その成長ぶりに歳月の流れを感じ、ローズマリーは感涙にむせぶ。
「パパを・・・ヴィンセントを頼んだわね。わかったら、さあ、お行きなさい。あなたの住む世界へ。そこに、大切な人が待ってるんでしょ?」
アンソニーはハッとした。
同時に、鈍い痛みが胸一杯に広がる。
「でも彼女は、もう僕のものじゃない」
悲しげな目をする息子の頬に手をやりながら、ローズマリーはもう一度微笑んだ。
「大丈夫。いつか想いはかなうわ。彼女を心から愛してる限り、きっとね」
「え?」
言われた意味がよくわからず、すかさず聞き返したが、母の姿は見えなくなっていた。
代わりに、そばかすだらけのかわいい少女が、とびきりの笑顔を見せる。
赤みがかった金髪に、よく動くグリーンの瞳。
決して美人ではないのに、なぜか心をひきつける愛らしい少女。
「キャンディ!?」
アンソニーは叫んだ。
つかまえて抱きしめようとするのだが、近づくと後ずさりする。
手を伸ばすと、遠くへ舞い上がる。
「キャンディ、待って!キャンディ!」
何度も叫びながら、アンソニーは両手を高く伸ばして、何かをつかもうとした。
「アンソニー、ここよ。私、ここにいるわ。あなたのすぐそばに」
目を開けると、自分の手を握りしめるキャンディの顔が、はっきり見えた。
緑の目には、涙が浮かんでいる。
「僕は一体・・・」
ようやく意識が戻ったアンソニーは、自分が今いる状況を理解できず、視線を泳がせる。
「ずっと眠ってたのよ。スペイン風邪で倒れて。でも、もう大丈夫。熱も下がったし、汗もひいたわ」
キャンディは目を潤ませ、握りしめた手に力を込めた。
「もしかして、僕についててくれたの?」
頬を染め、彼女は恥ずかしそうにうなずく。
「夢を見てた。エメラルドの目をした少女の夢を。お転婆で可愛くて、そばかすが沢山あって。あれは・・・13歳の君だった」
そう言うと、アンソニーはキャンディを見つめ、柔らかい手を強く握り返した。
「まさかこんなところで、もう一度会えるとは思ってなかったよ。どうしてシカゴへ?」
手から伝わるアンソニーの温もりにときめいて、キャンディは真っ赤になってしまった。
まぶしい朝の陽が差し込み、二人の顔を明るく照らす。
光の筋は乱反射し、それぞれのブロンドが鮮やかに輝く。
アンソニーの顔は、まるでギリシャ彫刻だ。
端正な顔立ちが、キャンディの心臓の鼓動を更に大きく激しくした。
レイクウッドで再会したあの夏から二年を経て、彼は益々大人びた気がする。
凛々しさにみとれてしまい、キャンディは言葉を失ったまま、サファイアの瞳に吸い込まれた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもないの。あなたが目を開けてくれたから、嬉しくて。ここに来たのはね、大おば様のお見舞いをするためよ」
「じゃあ、同じだ。もっとも僕は、まだ大おば様の顔すら見てないけど。いきなり倒れちゃったからね。医学生のくせに、だらしないだろ?」
照れくさそうに笑うアンソニーがまぶしい。
病み上がりとは思えないほど、爽やかな顔をしている。
「だって仕方ないわ。患者さんの世話をしているうちに、スペイン風邪がうつったんですもの。病院関係者には、よくある話よ」
「ニューヨークもそう?」
キャンディはうなずく。
「それに大おば様は、もう大丈夫。夕べのうちに意識が戻って、今朝は調子がいいそうよ。さっきアーチーが教えてくれたわ」
「ホント?それは良かった。あとで顔を出さなきゃ」
嬉しそうに言うアンソニーを見て、キャンディは顔をしかめる。
「ダメダメ、そんなことしちゃ」
「どうして?」
「医学生さん、しっかりしてくださいな。あなたはまだ完治してないのよ。体力の落ちた大おば様と接触して、万一感染させたらどうするの?」
そう聞いた途端、アンソニーはまた照れくさそうに笑った。
「君の言うとおりだ。全くどうかしてるよ、僕は。熱に浮かされて、おかしくなっちまったのか。こんなんじゃ、来年の国家試験に受かるはずないよな~」
「医師免許を取るのね?」
「ああ。今月から最終学年になるから、気合いを入れなきゃ」
「卒業したら、いよいよお医者様ね」
「いや~、医者と言っても、初めはレジデント(研修医)だから、まだまだ戦力にはならないさ。一人前になるには、相当場数を踏まないと」
彼の意気込みを聞いた途端、胸が張り裂けそうになった。
(もしアンソニーと一緒に歩いていけるなら、どんなにいいかしら。微力ではあっても、きっとあなたを支えていける。だって私たち、医療という同じ世界に生きてるんですもの。でもテリィとは・・・。どんなに努力しても、どんなに背伸びしても、演劇に素人の私は、彼の力になってあげられないかもしれない)
「どうしたんだい?なんだか辛そうだよ」
キャンディの心が透けて見えたのか、アンソニーは心配そうに言う。
「なんでもないわ。お医者様になるあなたが、ちょっぴりうらやましかっただけ」
本当のことを言えず、とっさに思い付きを口にした。
午後になると、主治医のパーキンスとアーチーがやって来て、アンソニーを見舞った。
意識が戻ってから、初めて会話を交わすとあって、パーキンスはことのほか緊張している。
きつね狩りで落馬したアンソニーに、誤って即死の診断を下した負い目に、ずっと悩まされているからだ。
ベッドに半身を起こしているブロンドの青年を見るなり、初老の医師は駆け寄ってひざまずき、許しを請うた。
「アンソニー様、本当に申し訳ありませんでした。私の誤診のせいで、あなた様の人生をこんなにも変えてしまいました。本来なら、ここでアーチーボルト様と一緒に、ウィリアム様を補佐なさっているはずですのに。すべて私の責任です。お詫びのしようもございません」
ひれ伏すパーキンスはそこまで言うと、言葉をつまらせた。
だが、アンソニーはきっぱり否定する。
「どうか頭を上げてください。むしろ僕は、先生に感謝してるんです。だってあの事故がなかったら、医者になろうなんて一生思わなかったでしょう。それに、今回僕を救ってくださったのは、他ならない先生じゃありませんか」
アンソニーはパーキンスに向かって、深々と頭を下げた。
「生涯を捧げてもいいと思える道を見つけられて、僕は幸せです。きっかけを与えてくださって、ありがとうございました。先生を見習って、早く一人前の医者になれるように頑張るつもりです」
真摯(しんし)な心がけに胸を打たれ、、パーキンスはやっと顔を上げた。
目の前では、アンソニーが満足そうに微笑んでいる。
その目には、恨みの色など微塵も感じられない。
この青年が、本気で自分の境遇を受け入れていることを知り、パーキンスは心から安堵した。
「そのお言葉、何より救いになります。あなた様なら、きっと素晴らしい医者になられるでしょう。強さと優しさの両方をお持ちになっていることは、以前から存じておりますが、最高峰のハーバードで確かな知識と技術を学べば、鬼に金棒です。二十世紀の医療を支えていくのは、その若い英知なのですよ」
アンソニーは目を輝かせてうなずいた。
エルロイの病状を細かく説明したあとでパーキンスが退室すると、部屋の隅に控えていたアーチーが、上機嫌で近づいてきた。
「よお!今度は死なずにすんで、ホントに良かったな。一時はどうなるかと思ったよ」
軽口が飛び出し、マリンブルーの目がいたずらっぽく笑う。
「パーキンス先生のおかげさ。さすがはアードレー家の主治医だ」
「それとキャンディね。ろくろく寝ないで、お前に付きっきりだったんだぜ」
アンソニーは何も言わず、照れくさそうに下を向いた。
その様子をほほえましげに眺めながら、アーチーは窓辺へ歩いていく。
「そうそう、ブライアンに会ったよ。いい奴だな。話に聞いたとおり、どことなく兄貴に雰囲気が似てた」
「だろ?人を和ませるところとか、縁の下の力持ちって感じがするところが」
「ああ。彼のおかげで、お前がどんなに救われてるか、よくわかった。うらやましいよ。あんな相棒がすぐそばにいて」
少し寂しそうな顔をするアーチーを、今度はアンソニーがからかう。
「何言ってるんだ。アニーがいるじゃないか。誰にも代わりが出来ない、世界一の相棒が」
「違いない」
アーチーはふふっと笑う。
「実はさ、クリスマス頃、もう一人増えるんだ。とびきり手のかかる相棒がね」
聞いた途端、サファイアの目が大きく見開かれた。
「じゃあ、その・・・あれか?ついに・・・ってこと?」
「まあね。これでいよいよ、僕も親父ってわけさ」
なんとなく顔を赤らめ、何度も頭をかくアーチー。
そんな姿を見て、アンソニーは子供のようにはしゃいだ。
「おめでとう!アニーも大喜びだろ?本当に良かった。今頃ステアが、天国で祝杯を挙げてくれてる」
嬉しそうにうなずいたあと、アーチーは真顔になった。
「子供ができたら、もう言い訳は出来ない。それに逃げ道もない。女房と赤ん坊を守るために、男として体を張るよ。そう決心させてくれたのはお前だ」
「僕が?」
身に覚えがないという顔で、アンソニーはアーチーを見つめる。
「去年のクリスマス・・・ニューヨークの街頭で言ってくれた言葉は、一生忘れない」
「なんて言ったっけ?覚えてないよ」
「思い出さなくていい。僕の胸にだけ、しっかりしまっておくから」
アーチーは笑って窓の外を見た。
夕方近くなっても、陽の光がまぶしい。
萌えるような木々の緑にそれは溶け込んで、目を開けていられないくらい輝いている。
夏の陽は、どこまでも激しく、力強い。
「キャンディは太陽に似てる」
独り言のようにつぶやくアーチーの声を聞き逃さず、アンソニーは静かにうなずいた。
「僕もそう思う。目がくらむほどキラキラしてて、いつも暖かくて、周りを明るくしてくれる。そんな彼女のそばにいると、気持ちがウキウキしてくる。でも・・・」
「でも?」
「どんなに手を伸ばしても、決して届かないんだ。近づきすぎると火傷をする。まぶしすぎて目を開けていられない。そのうち、視界からフッと消えて、暗い闇夜をつれて来る・・・」
二人は顔を見合わせた。
その言葉の中に、紛れもない真実があったから。
「ごめん。つまらないことを言った。ところでアルバートさんは?」
「さっきジョルジュと一緒に、仕事の打ち合わせに出かけたよ。夕方には、ここへ顔を出すって言ってた」
アンソニーはうなずき、そして叔父の心中を思い巡らした。
(アルバートさんもキャンディが好きだったんだ。彼女がテリィと結婚することを、自分の中でどんなふうに昇華したんだろう。しかもあの人は、養父として、これからもずっとあの二人と関わっていかなきゃならない。僕なら逃げ出すだろうな、そんな辛い役目。すべて包み込める人格者のアルバートさんだからこそ、耐え抜ける重圧なんだ!)
同じ頃、キャンディはエルロイの部屋に出向き、やっとベッドに起き上がれるようになった彼女を見舞っていた。
今までアンソニーの看病に専念していたため、まともに顔を合わせる機会がなかったのだ。
それでもエルロイは目を細め、はるばるニューヨークから来てくれた大切な養女を歓迎した。
「遠いところを、わざわざ私のために悪かったねえ。仕事も忙しいだろうに」
細やかに気づかう姿から、昔の大おばは想像もつかない。
かつてあれほどキャンディを疎んじ、敵対視してきたエルロイ。
キャンディに与えた試練は数え切れないほどあったが、それらすべてを水に流し、何事もなかったかのように、彼女は老婦人をいたわった。
その優しさに胸を打たれ、エルロイは若い看護婦に、全幅の信頼を寄せている。
「私のことなんか気にしないで、お体を大切になさってくださいね。早く元気にならないと、みんな心配しますよ」
肩を冷やさないようにカーディガンをかけてやりながら、キャンディは微笑んだ。
「ところで・・・アンソニーはすっかり良くなったのかい?」
「ええ。今朝やっと意識が戻りました。もう心配いりません。すぐ元気になりますわ。そうしたら、真っ先にここへ来るはずです」
キャンディが付きっきりで看病していたのを知っていたとみえ、エルロイが一番初めに聞いてきたのは、アンソニーの容体だった。
「昔、さんざんお前に辛く当たったくせに、今更なんだとお思いだろうねえ・・・」
窓の外を見つめながら、ポツリと言う。
「アンソニーには、キャンディが一番お似合いだよ。ええ、今ならはっきりそう言えますとも。だからねえ、二人してここへ戻ってきてくれたら、どんなにか・・・」
そこまで言って口をつぐむ。
それが言ってはいけないセリフだということを、知り尽くしているのだろう。
「ごめんよ。お前はもう婚約したんだったね。ブロードウェーの俳優と」
寂しげな横顔を見た瞬間、キャンディは胸がつぶれそうになった。
「あまり考え込むと、お体に障りますわ」
そう返すのがやっとだった。
「心配なさらなくても、アンソニーは大丈夫です。だって、周りの女性が放っておくはずありませんもの。だから私なんかより、ずっとふさわしい相手に出会いますよ。いつかきっと」
自分で言った言葉なのに、切なすぎて涙がにじんでくるのがわかった。
必死でこらえて無理矢理笑顔を作る。
それに気づいたのだろう。エルロイは気をきかせ、「車椅子に乗せておくれ。少し庭を散歩したいんだよ。お前と一緒にね」と言い、かすかに笑った。