夕方になると、仕事から戻ったアルバートが、ジョルジュを従えてアンソニーを訪ねた。
二人は終始にこやかに微笑んで、全快を喜んでくれた。
そして数日前、エルロイの見舞いに訪れたニールが、ついでにここへ顔を出してくれたことを伝えた。
「ニールがわざわざ僕のために?」
感激のあまり絶句したアンソニーを見て、アルバートは笑う。
「おいおい、あいつが生まれ変わったのは知ってるはずだろ?そんなに驚くなよ」
「いや~、つい昔のイメージが先行しちゃって」
「無理もないがね。何しろ、手のつけようがないひねくれものだったからな。それが今じゃ、ロサンゼルスでは、ちょっと名の通った実業家さ。人間、変われば変わるもんだな」
「じゃあ、彼は今、ロスですか?」
うなずくアルバートを見ながら、アンソニーは時の流れを感じた。
結婚し、遠く離れた地で立派にやっているニール。
MBA(経営学修士)取得まであと一歩に迫り、父親となるアーチー ──皆、いつまでも昔のままではいられないのだ。
身を固め、家族を守り、男としての責任を果たしていく・・・自分はまだ背負っていない重圧を痛感し、少しばかり息苦しくなった。
(レイクウッドで過ごした少年の日は、二度と戻ってこないんだな。あの頃はなんの不安もなくて、僕らは将来も考えず、ただ目先のことだけ追ってれば良かった。でも、そんな時代はもう終わったんだ)
一足先にジョルジュが退室すると、急に部屋の空気が変わった。
それまで和んでいたアルバートの表情が、ほんの少し硬くなる。
恐らくこれから彼が、キャンディの話をするだろうことをアンソニーは直観した。
この二月、ボストンへやってきた叔父から、「キャンディを愛していた」と告白されて以来、彼女の話題になるときだけ、冷たい壁の感触を感じてしまう。
もしかして自分を、突き放すような目で見ているのではないか。
同じ土俵に上るライバルとして見ているのではないか──ことキャンディに関しては──そんなふうに思えて仕方ない。
勿論、気のせいかもしれないのだが・・・
それにあのとき、別れ際、「もう君は子供じゃない。立派な男だ」と言われたことも引っ掛かっている。
何より気になるのは、「もしキャンディとテリィが別れるようなことがあったら、どうすることが、彼女にとって一番幸せなのか考えたい」と、アルバートが言い切ったことだ。
どういうつもりだったのだろう。
もしや、二人の別離を予見している?それとも望んでいる?
──僕やテリィの存在を、この人は一体どんなふうにとらえているんだろう──
叔父の真意が読み取れず、大きなわだかまりが、心の奥底に渦巻いている。
それを認めるのが、アンソニーは切なかった。
「君がこんなに早く治ったのは、やっぱりあの子のおかげなんだろうな」
アルバートの声が現実へ引き戻す。
「だけど忘れるな。彼女は看護婦だ。だから君を看病した」
甥に背を向け、窓辺にたたずむ若い叔父を、西日が照らす。
まぶしいほどに赤い色は、アルバートの複雑な胸の内を映し出しているのかもしれない。
「わかってます。僕らの関係は、患者と看護婦。それだけです」
ベッドに半身を起こして叔父の後ろ姿を見つめ、アンソニーは弱々しく笑った。
「良識派の君にこんな話をする必要はないだろうが、念のために言っておく。彼女はテリィのフィアンセだ。それを忘れないで欲しい」
振り返りざまに向けられた視線が、正直、少しばかり痛かった。
アルバートの瞳が、こんなに冷たいブルーに見えたのは、この瞬間が初めてかもしれない。
彼の言葉の中に、「父」として養女の幸せを願う親心を感じると同時に、自分に対する敵意のようなものがちらついた気がした。
それは、ほんのわずか・・・鈍感な人間なら気づくはずもないような、ごくごく微小なものではあるけれど、妙に哀しかった。
「勿論忘れちゃいません、彼女が婚約してること。だから安心してください。僕は人の道に外れたことをするつもりはありませんから」
返したセリフは、叔父に対するささやかな反撃だったかもしれない。
張り詰めた空気が二人を圧迫し、緊張は極点にまで達したが、キャンディの話が終わって他愛ない会話に移った途端、嘘のように笑いが戻った。
いつもどおりの叔父と甥が、そこにいた。
意識が戻ってからというもの、アンソニーは日一日と体力を取り戻していき、五日もすると、完全な体へと回復した。
若さは何よりの特効薬なのだろう。
スペイン風邪を患っていたことなど想像も出来ないほど元気になった姿を見て、キャンディは心底嬉しかった。
同時に、自分が彼にとっては、もう必要のない存在であることが気になりだした。
エルロイの看病にも、さほど手がかからなくなった今、ここにいる意味はなくなったのだ。
──アンソニーとの別れが近づいている──
その事実を思い知らされ、胸がざわつく。
(馬鹿ね、私ったら。何を恐れてるの?彼といつかはさよならしなきゃいけないなんて、最初からわかってたことじゃない。それに、あなたはテリィの何?誓ったはずよね?アンソニーのそばにいても、絶対テリィを裏切らないって。アンソニーの看病をするのは、私が看護婦だから・・・それだけの理由だったはずでしょ?)
心が揺れる。どうしようもないほど、強く、激しく。
葛藤を繰り返しながら、キャンディは手をきつく握りしめ、唇を噛んで耐えた。
そうでもしないと、大声で叫びそうだったから。
「アンソニー!私、今でもあなたを・・・」と。
必要以上に顔を合わせないよう、互いに一線を画して行動していたが、そんなある日、誰もいない裏庭で、アンソニーとキャンディは出くわした。
予期せぬ展開に戸惑い、二人とも言葉を失う。
適当な会話が浮かばないまま、ばつの悪い顔をして下を向く。
しばらくしたあとでやっと、アンソニーが第一声を発した。
「ハロー、キャンディ」
それは思春期だったあの頃、レイクウッドで幾度となく繰り返した挨拶。
「まあ懐かしい!そう言ってくれると、『ああ、アンソニーがここにいるんだ』って気がするわ」
茶目っ気たっぷりにキャンディが笑う。
「ホントに?」
アンソニーも微笑み返す。
その笑顔に朝陽が降り注ぎ、ブロンドがキラキラ光る。
「レイクウッドで辛かったとき、あなたの声にどれほど励まされたことか。今でも目を閉じると、あの日の風を感じるの」
そう言ってキャンディは目をつぶり、深く息を吸い込んだ。
「良かったね、今はこんなに幸せになって。あのとき苦労したから、神様がごほうびをくれたのさ」
「ホント?ホントにそう思ってる?」
途端、彼女の表情が曇ったから、アンソニーは巧みに話題を変える。
「当たり前だろ!ところで、ジェフ先生やクリス先生、モニカにレイチェル・・・みんなどうしてる?」
「すごく元気よ。誰かさんみたいに、スペイン風邪にもかからずにね」
アンソニーの意図を察してか、キャンディも努めて明るく振る舞った。
軽口が飛び出し、いたずらっぽい笑みがこぼれ、ほんの一瞬、少女の顔に戻る。
「それは良かった」
「クリス先生は相変わらず誰ともお付き合いしないで、女性たちを泣かせてるわ。その中にモニカが入ってること、知ってる?」
微笑みながらアンソニーはうなずく。
「そこへいくと、ジェフ先生とレイチェル、きっと『もうすぐ』なんじゃないかしら」
「もうすぐって?」
「あら、何も聞いてない?」
少年のように好奇心旺盛な顔が緑の瞳をのぞき込み、「聞いてないけど」と答える。
「じゃあ、これは内緒の話ね。多分近いうちに、嬉しいお知らせがあると思うわ」
「それってさ、もしかして『ゴールイン間近』ってこと?」
キャンディは得意げになって腰に手を当てると、「まあ、そんなところね」と胸を張る。
アンソニーは急に黙り込んでため息を一つつき、くるりと背を向け、遠くの空を仰ぎ見た。
しばしの間、言葉のない空間が二人の間に広がった。
いつまでたってもアンソニーがこちらを向かないから、キャンディは少し不安になる。
思い切って彼の真ん前に回りこみ、様子をうかがい、背伸びをし、青い瞳に自分の掌(てのひら)をかざした。
「大丈夫?魂の抜け殻みたいになってるわよ。レイチェルが結婚しちゃうのが、そんなにショックだった?」
核心に迫るセリフをいきなりぶつけられたから、ムキになって反撃する。
「こいつ、からかうなよ!」
初めて柔らかい風が流れた。
二つの魂が一つに溶け合い、優しい空間が広がっていく。
「正直言うとね・・・ショックじゃないって言ったら、嘘になるかもしれない。勿論焼きもちなんかじゃないよ。ただ、ジェフ先生とレイチェルに出会ってから起こった出来事を、一つ一つ思い出してた。あんなこともあったな、こんなこともあったっけって」
懐かしそうな目で遠くを見つめるアンソニーを、キャンディは黙って見上げる。
「僕はね、あの二人を心から祝福してるんだ。これだけは嘘じゃない。レイチェルには、本物の幸せをつかんで欲しかったから、これでいいと思うよ。彼女にふさわしいのは、ジェフ先生。僕じゃないんだ」
「アンソニー・・・」
「君だってそうだよ。幸せにしてくれる相手は僕じゃない。だから早く彼と一緒になれ」
包み込むような笑顔がこぼれる。
温かくて思いやりに満ちているからこそ、余計に苦しい。
胸がキリキリ痛む。
キャンディはもう少しで、泣き出しそうになった。
(ダメなのよ、アンソニー。だって、今テリィは悩んでいて、とても結婚できる状態じゃないんだもの)
そんな彼女を癒すように、穏やかな声が続く。
「もし時間があるなら、ちょっと付き合わない?この道を真っ直ぐ行くと、母さんが好きだったバラ園に出るんだ」
彼が指差す先には、萌える緑に覆われた、小さな森へ続く散歩道が広がっている。
キャンディは迷うことなく、首を大きく縦に振った。
これ以上表現できないというくらい、とても嬉しそうに。
木漏れ日がゆらゆら揺れる。
草木の薫りで息苦しくなるくらいの道を、二人は幾分早足に歩いていく。
小鳥のさえずりが、そこここに聞こえ、すぐそばを色鮮やかな蝶が飛んでいく。
まるで、のどかな田園風景だ。
本当はお互い、聞きたいことが山ほどあるのに、何一つ口に出来ないまま、黙々と歩を進める。
(あれからテリィは変わったかい?僕は彼の目を覚ますために、楽屋へ訪ねていったんだ。結婚話が早く軌道に乗ることを願って。でもそんなこと、勿論テリィは君に話してないだろうし、僕だって言えない)
(ねえアンソニー。今、好きな人いる?大学には女の子が沢山いるんでしょ?その中に、付き合ってる人がいるのかしら。それとも、他の場所で出会いがあって・・・)
自分の知らない誰かとアンソニーが、見つめ合ってキスをかわしている。
そんな光景が目の前に広がった。
ほろ苦い思いが胸をしめつけ、たまらなくなる。
思い切り頭を振って、幻を打ち砕く。
少し前を歩いているアンソニーの背中を、キャンディはじっと見つめた。
遠い昔、レイクウッドで一緒に過ごした頃より、ずっとたくましくなった後ろ姿がそこにある。
彼はもう、少年ではないのだ。
同じように、自分ももう少女ではない。
こうして二人で歩いていても、あの日々は帰ってこない。
時は戻せない。
(きつね狩りさえなかったら!そしたら私、こうやっていつまでも、あなたの後ろを歩いていけたのに・・・)
今更のように悔やんだとき、急にアンソニーが振り返った。
「そうそう、パティは元気で頑張ってるよ。大学は違うけど、彼女、よくハーバードのstudent cafeへ遊びに来るんだ」
思い出に浸り、感傷的になっていたから、キャンディはひどくあわてた。
だが、努めて平静を装う。
「どうしてわざわざ遠征してくるの?」
「ウチの大学の女子と仲がいいからさ」
「もしかして、イギリス英語を話す人でしょ?この前パティから来た手紙に書いてあったわ。名前は、えーと・・・」
「フェリシア」
「そうそう!フェリシア」
「いや~驚いたな。フェリシアのことまで伝わってるのか。君はなんでも知ってるんだね」
「当然よ!だってパティとは長いこと文通してるんですもの。だから、もしアンソニーが私の悪口を言ったら、全部耳に入っちゃうわよ」
おどけるキャンディに、アンソニーは声を立てて笑った。
「参ったね。悪いことは出来ないってわけだ。じゃあついでに、フェリシアがアンジェラの妹だってことも知ってるよね?」
瞬間、キャンディの顔がどんより曇った。
エメラルドの瞳に暗い影が差し、今にも夕立が来そうな、潤んだ目になった。
(もしかして、そこまでは知らなかったのか・・・)
そう思ったときには、もう遅かった。
一瞬間を置いて、弱々しい声が続く。
「聞いてないわ」
引きつった顔で涙をこらえているキャンディを見て、アンソニーは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だが、一度口にしてしまった言葉は引っ込こめられない。
「余計なこと言っちゃったみたいだね。気にしないでくれると助かるよ」
キャンディはそれに答えず、しばらくしてからポツリと言った。
「アンジェラさんの妹なら、きっと奇麗な人なんでしょうね」
そのセリフが、針のようにアンソニーの心臓をつつく。
今でもキャンディが自分を強く意識しているのを知って、たまらなかった。
「さあ・・・奇麗かどうかは別にして、彼女、ブロンドにエメラルドの目をしてる。君と同じだね。その上、すごい男勝りでさ。僕らがタジタジになるほど、たくましくて強い人だよ。美貌よりそっちのほうが印象に残るタイプだなぁ」
「そんなにたくましいなら、私といい勝負?」
「とんでもない。確かに君はお転婆だけど、男をやり込めたりしないだろ?だからフェリシアより、ずっとかわいいよ」
「まあ、アンソニーったらひどいわ!お転婆だなんて」
ふくれっつらをしながらも、キャンディにやっと笑顔が戻った。
そのとき、道は大きく左にうねり、カーブを曲がりきった途端、目の前におびただしい数のバラが姿を現した。
赤、白、黄、ピンク、オレンジ、クリーム──とりどりの色を呈しながら見事に群生し、あたり一面、甘い香りが漂っている。
「うわあ~奇麗!」
そう言って立ち止まり、可憐な妖精たちに見とれるキャンディは夢見心地だ。
「ね?来て良かったろ?君ならきっと喜んでくれると思ったよ」
「すごいわアンソニー。こんな素敵なの、見たことない!まるでバラの門ね」
目を輝かせ、思わず駆け出した。
見事なバラを前にして、いても立ってもいられなくなったのだろう。
バラのアーチをくぐり抜け、庭園に足を踏み入れると、清楚なバラに近づいて触れようとした。
その白い手を、追ってきたアンソニーが、あわててつかんで握りしめる。
「おっと!危ないよ。触っちゃダメだ。トゲが刺さる」
ウィンクするサファイアの瞳が間近に迫って、のぞき込んだ。
ドキドキする。
咄嗟(とっさ)に触れ合った手と手の温もりにときめいて、キャンディは頬を染める。
(昔、レイクウッドでもこんなことがあったわ。あのときもあなたは、私の手を取って・・・)
まるで時間が止まったように、柔らかい手を取ったまま、アンソニーはしばらく何も言わずにキャンディを見つめた。
「どうしたの?」
恥ずかしそうな声が、耳元でかすかに揺れる。
それで我に返り、あわてて手を離す。
「ごめん・・・」
照れくさそうに謝る若者に、思わず吹き出してしまう。
「なんで笑うんだい?」
「だって、あのときと同じだから」
「あのとき?」
ピンと来ないアンソニーは、不思議そうに尋ねた。
「もうずっと前のことよ。レイクウッドでね、殺虫剤を運ぶのを手伝ったとき、私が転んじゃったのを覚えてる?」
「うん」
「そうしたら、助け起こそうとして、あなたは手を差し出してくれたの」
キャンディは懐かしそうな目をした。
そこまで言われて思い出したのか、アンソニーは急に赤くなった。
「あれか・・・。僕がいつまでも手を離さなかったから、『アンソニー、どうしたの?』って、君は言ってたね」
キャンディはうなずき、幸せそうに笑う。
「あのとき、何を考えてたの?」
脳裏には、少女のあかぎれだらけの手が鮮明に浮かび上がった。
(小さな手・・・こんなに荒れて)
ラガン家で女中見習いとして重労働に追われる辛い姿を想像し、あの日も心を痛めたのだ。
傷ついた手を見たとき、心に誓った。
大人になったら、彼女を幸せにするんだ!と。
今はなんの力もないけど、いつかきっと。いつか、必ず・・・
あれから何年経っただろう。
少年を卒業した今なら、あの日の誓いの少しでも、行動に移せるのに・・・
でも、新たな障害が行く手を阻(はば)み、今もキャンディを守ってやることが出来ない。
自らの手で彼女を包み、抱きしめ、幸せにしてやることが出来ない。
悔しさにさいなまれながら、静かにつぶやく。
「君には幸せになって欲しい──あのとき、そう考えてた」
優しい声が全身を貫き、心地よい陶酔で満たしていく。
キャンディは感激し、たちまちのうちに頬が熱くなるのを感じた。
恥ずかしくなり、返す言葉もないまま、下を向く。
(アンソニーったら、いつからそんなに口がうまくなったの?そんな直球投げられたら、何も言えないじゃない)
うつむいてモジモジしている姿を見て、アンソニーはそっと話題を変えた。
「それはそうと、ここはレイクウッドにそっくりだろ?でもね、もともとは、このバラ園のほうが最初からあったんだよ。バラが大好きだった母さんが、レイクウッドの別荘に移ったとき、当時のウィリアム・アードレー──つまり僕にとっては祖父がね、本宅と同じバラ園を庭師に作らせたんだ」
「素敵!あなたのおじい様ってことは、アルバートさんのお父様ね?」
「そういうこと」
ぎこちない空気が一蹴(いっしゅう)され、二人はやっと、いつもの会話をかわせるようになった。
「母は子供の頃から心臓が弱くてね、VSD(心室中隔欠損症)を患ってたんだ。あ、VSDって知ってる?」
キャンディはうなずく。
「転地療養のために、たびたび本宅とレイクウッドを行き来してたそうだよ。だから僕も子供の頃は、ついてまわってた。シカゴもレイクウッドも、両方故郷みたいなもんさ」
「お母様・・・大変だったんでしょうね。うちの病院にもVSDの女の子が入院してるから、よくわかるわ。その子、近いうちに手術の予定だけど」
「手術できるうちは、まだいいよ。大事にしてやらなきゃ」
「じゃあ、アンソニーのお母様は・・・?」
サファイアの瞳は、自分と同じ色の、深く青い空を眺め、小さなため息を一つついた。
「遅すぎたんだ」
少しだけ歩を進めてバラの茂みに入り、身をかがめる。
「そんなに重症じゃないと思いこんで、放置してたらしい。でも実際には、かなり大きな穴があいてたんだ。そこに出産と育児が重なって、症状が悪化した。気づいたときにはもう、アイゼンメンゲル症状を併発して、手術できない状態だった」
「まあ・・・」
キャンディはローズマリーの経過を初めて聞かされ、なんと言っていいのか言葉を見つけられないでいた。
アンソニーは母を思い出したのか、ひざまずき、咲き誇っている大輪のバラを一つ一つ手で包み込んだ。
まるでローズマリーに話しかけでもするように。
「僕を産まなければ、あるいはもっと長く生きられたかもしれないのに。そう思うと、自分がとんでもない親不孝者に思えてくるんだ」
「そんなこと言うなんて、あなたらしくないわ!」
キャンディが急に大きな声を出したから、アンソニーは驚いて振り返る。
「お母様はあなたを産んで、本当に嬉しかったはずよ。愛する夫と子供に囲まれて、心から幸せだったはずよ。私にはわかるわ。だからそんな悲しいこと言わないで!天国のお母様が悲しむわ。それに私だって・・・」
そこまで言うと言葉につまり、先を続けられなくなった。
涙があふれてきそうだった。
「ごめん、つまらないこと言っちゃって。確かにそうだな。せっかく拾った命なんだから、精一杯生きて、恩返しをしなきゃいけないね。僕を愛してくれるすべての人に」
うるんだ瞳から滴(しずく)がこぼれないよう、懸命に耐え抜き、キャンディはなんとか笑って見せた。
「今、病棟実習で、母にそっくりな女性を担当してるんだ。顔が似てるだけじゃなくて、ブロンドに緑の目で、名前も似ててね・・・おまけにすごい偶然なんだけど、病名まで同じで。だから初めて会ったとき、これは運命かもしれないって思ったよ。若くして逝ってしまった母が生まれ変わって、僕に会いに来たのかって」
「不思議なことがあるものね~。そんなにお母様にそっくりなら、さぞや恋しいでしょ?」
そこまで言うと、キャンディはふふっと笑った。
さっきまでの涙が、嘘のように消えている。
「どうかした?なんで笑うの?」
「ううん、なんでもない。あなたがあまりに熱心だから・・・」
「何かおかしなこと言ったかい?」
「全然。ただ、すごく嬉しそうよ」
「嬉しそう?」
「ええ。よっぽどその患者さんがお気に入りなのね」
冷やかされたことが悔しくて、思わずムキになる。
「バカ言うなよ!あの人は母と同世代なんだぜ」
「わかってるわ。でも気になるんでしょ?」
面白そうに見上げ、ふと脇に目をやると、珍しい白バラが視界に飛び込んだ。
もしやと思って駆け寄り、真中を見る。うっすらグリーンに染まっている。
そうだ、それは忘れもしないあのバラ。
アンソニーが心を込めて贈ってくれた、思い出のバラ。
「ねえ見て!こんなところにスイートキャンディが」
キャンディは我を忘れ、大声で叫ぶ。
(まさか。あれはレイクウッドにしかないはずだ。それとも、誰かがこのバラ園に株を持ってきて増やしたのか?)
半信半疑のアンソニーは、促されるままじっと見つめると確信した。
スイートキャンディに間違いない。
「ほら、言ったとおりでしょ?他にも咲いてないかしら。ちょっと見てくるわ」
キャンディが小走りで駆け出すのにも気づかず、アンソニーは合点がいかない顔で、尚もバラを見つめる。
「なんで、これがここに・・・」
そうつぶやいた瞬間、聞き覚えのある懐かしい声が、少し離れたところから聞こえた。
「アンソニー様!もしや、アンソニー坊ちゃまじゃありませんか?」
ハッとして振り返ると、そこには初老の紳士が立っていた。
丸メガネをかけ、フサフサした白い髭(ひげ)を蓄え、園芸用の作業着を着ている。
目を細めて穏やかに微笑むその人は、少年の頃、最後に見た姿と少しも変わっていなかった。
「ホイットマンさん!」
アンソニーは目を輝かせ、嬉しそうに叫ぶ。
「本当にお久しぶりです。お元気そうで何より」
老紳士はそう言って、愛想良く笑った。
駆け寄って手を取ると、懐かしさでいっぱいになり、思い切り握りしめてしまった。
少しだけ小さく、細くなった老人の指に、過ぎ去った年月を感じる。
「アンソニー坊ちゃま、私は夢を見てるんでしょうか。いや、もう坊ちゃまなんてお呼びできませんな。こんな立派になられて・・・」
熱いものが込み上げてくる。
老人は片手でメガネを上にずらすと、目頭をそっとぬぐった。
「じゃあ、このスイートキャンディは、ホイットマンさんが?」
ようやく事態をのみ込めたアンソニーが尋ねると、庭師はうなずく。
「あなた様が遺された傑作を、一人でも多くの人に見てもらいたくて、レイクウッドから持ってきたんですよ。ここの土にもよく馴染んで、根付いたでしょう?今ではご覧のとおり、見事な花を咲かせてくれます」
「じゃあ、今はこの本宅に住み込んでるんですか?」
「はい。ウィリアム様やエルロイ様に誘っていただきまして。妻を見送り、せがれも独立した今、身軽になりましたから。ああ、レイクウッドのバラ園は心配ありませんです。信頼のおける庭師が、ちゃんとお世話しておりますから」
「何から何まで、本当にありがとうございます。皆さんにこんなに愛されて、スイートキャンディは幸せ者ですよ」
アンソニーの嬉しそうな顔を見て、ホイットマンの胸は益々熱くなった。
「ハーバードで医学を学んでらっしゃると、いつだったか、ウィリアム様がこっそり教えてくださいました。アンソニー坊ちゃまらしい生き方だと、私は思います」
アルバートがホイットマンに「事実」を話していたことに、少しばかり驚いた。
自分が生きていることは、ごく一部の親族しか知らないはずなのだ。
なのに真相を明かすとは、それほどまでに、この老人が信頼されていることを物語っている。
改めて彼の人柄がしのばれた。
「医者を選んで本当に良かったんでしょうか?時々、道を間違えたんじゃないかって、不安になるんです」
若者は照れながら、ブロンドの前髪をもてあそぶ。
「いいえ、間違ってなんかいませんとも。アードレーを名乗れなくて辛いこともあるでしょうが、ローズマリー様とヴィンセント様のために、どうぞ頑張ってくださいまし。あなた様なら、きっとやり遂げます。病に苦しみ、不安を抱える患者にとって、救世主のような存在になられるでしょう。そんな不思議な力を持ったお人ですよ、アンソニー坊ちゃまは。お小さい頃から存じ上げてる私が言うんですから、間違いありません」
心の底からの励ましに感動し、老人の右手を取ると、「ありがとう」と言いながら、自分の両手で包み込んだ。
「今でもはっきり目に浮かびます。まだ小さかった坊ちゃまを連れて、ローズマリー様は、いつもそこの茂みに腰をおろされていた」
ホイットマンが目をやったその場所には、今戻ってきたばかりのキャンディが立っていた。
メガネの奥の優しい目が、驚きで見開かれる。
「これはこれは、キャンディス様!おいでになってるとは知らず、失礼を・・・」
あわてて謝罪する老人に、彼女は首を左右に振って否定した。
「いいえ、声もかけずにいた私が悪いんです。それより、お会いできて本当に嬉しい!一体何年ぶりでしょうね」
懐かしそうな目をして気さくに話しかけてくるキャンディが、あの頃と少しも変わっていないことに深く胸を打たれた。
こうしてアンソニーとキャンディが並ぶ姿を見るなど、もう二度とないと思っていた。
だから感激もひとしおだ。
七年前、レイクウッドで淡い想いを育んでいた少年と少女──誰の目にも微笑ましく映った初々しい二人が、今はすっかり大人の男女に成長して、目の前に立っている。
今も変わらず、似合いの恋人同士に見えてしまう。
先ごろ婚約したのは彼らだという錯覚を起こし、ホイットマンはもう少しで、「お二人とも、本当にようございました」と言いそうになってしまった。
彼らが結ばれないことが、残念に思えて仕方ない。
もっとも二人が「相思相愛」だったのは、十年近くも前の話だ。
それだけの時が流れれば、人の気持ちは変わる。置かれた状況も変わる。立場も変わる。
ましてや二人とも、成長著しい年代だったのだから、数々の出会いと別れを繰り返し、いろいろ経験して、大人の階段を上ってきたのだろう。
いつまでも、あの頃と同じではいられない。
そんなことは重々承知している。
だがそれでも。
アンソニーとキャンディが別々の人生を歩んでいくことに、強烈な違和感を覚えた。
何かが違う──運命の糸は、間違って絡み合っている──そんなふうにさえ思える。
けれども現実は現実。
老人は小さな声で、キャンディにだけ聞こえるよう、祝いの言葉を述べた。
「このたびは、おめでとうございました」
軽く頭を下げたあと、彼女の顔をちらっと見る。
エメラルドの瞳は、心なしか寂しそうだった。
返ってきたのは、「ありがとうございます」という一言だけ。
それは、隣にいるアンソニーに遠慮したせいだろうか?
すっきりしない思いが残ったが、いらぬ詮索をしたら無礼だから、「では、私はこれで。剪定(せんてい)の作業が残ってますので」と、いとまごいをする。
「無理しないで適当にやってくださいね。体が一番ですから」
案じてくれるアンソニーの顔が、この上なく切なげだったのが、いつまでも気にかかった。
「さて・・・と。これから大おば様のところに行ってくるよ。風邪も完治したし、感染の心配がないから、やっと顔を出せる」
ホイットマンを見送ったあと、アンソニーは肩をほぐしながら、そう言った。
「私も一緒に行ったほうがいい?」
「いや、一人で十分さ。君はアニーの相手でもしてあげてくれ」
それが何を意味するのか、キャンディにはよくわかっていた。
きっとアンソニーは、エルロイにこう言われるのが辛かったに違いない。
「婚約したのが、どうしてお前たちじゃないんだろうね。もう一度やり直せないのかい?すべて白紙に戻して」──だから二人そろって顔を出すのは避けたいのだろう。
「わかったわ。大おば様が喜ぶように、優しくしてあげてね」
キャンディはにっこり微笑むと、もと来た道を一人で帰っていった。
小説版では、ホイットマンさんはカリフォルニアに移住して、息子一家と幸せに暮らしていることになっています。