ジェンセン教授と指導医のブレンナーに、大おばの容体が悪いことを報告したり、ローザのところへ顔を出したりしているうち、あっという間に時間が経っていった。
勿論、誰にも本当のことは言えない。
アードレー家のアンソニーであることを隠している以上、エルロイはあくまで、「シカゴにいる親戚」でなければならなかった。
夜も深まり、指定された時間が近づいた頃、アンソニーは、「じゃあ、行ってくるから」と言い、笑みさえ浮かべて出かけた。
ブライアンは見送る振りをしながら、相棒のあとをつけていく。
暗い夜道で、探偵まがいの奇行に走っている自分がおかしくなってきた。
今までも、この相棒のために、幾度となく馬鹿なことをやってきたが、今回は格別に思える。
(やれやれ、また尻ぬぐいかよ~。とはいってもなぁ、何か起こるに決まってる場所へ、みすみす一人でやれるわけないだろ?それにしても、相手の目的はなんなんだろう。アードレー家をおとしいれることか?アンソニーに危害を加えようとしてるのか?それとも、キャンディのスキャンダルを狙って・・・)
いくら考えても、答えが出るはずはなかった。
ハーバードブリッジを渡りながら、ブライアンは思案に暮れた。
夜の闇が、尾行を覆い隠してくれる。
まさか親友につけられているなど、アンソニーは夢にも思っていないだろう。
ところどころガス灯がともっている大通りを抜けると、あたりは急に寂しくなった。
パブリックガーデンは、静まりかえっている。
いくら夏とはいえ、この時間にフロッグポンドで水遊びをする変わり者など、いるわけがない。
漆黒の闇が水面(みなも)に垂れ込め、月明かりが差し込んで、不気味に光っていた。
(こんな時間、こんな場所に呼びつける奴が、まともな神経の持ち主であるはずないのに。君もつくづく大胆な男だよ)
一人で池の淵(ふち)にたたずむアンソニーの後ろ姿を見つめ、ブライアンはある意味、尊敬の眼差しを向けていた。
そのときだ!
木の影から、いきなり巨漢が飛び出し、無防備のアンソニーを羽交い絞めにしたのは。
あまりに突然の出来事に、反撃する術(すべ)もないまま、腕をねじ上げられ、首をしめられた。
声すら出せない。
気を失わないように歯を食いしばると、真後ろから、低いしわがれ声が聞こえた。
「ふん!まんまと引っかかったな。のこのこ出てくるとは、見上げた度胸だ。もう一人の奴は怖気づいたのか、姿も見せなかったっていうのに。もっとも、あっちの男は小利口で、お前が馬鹿なだけかもしれないがな」
薄れていく意識の中、「もう一人の奴」だの、「あっちの男」だのいう言葉が、頭の中にボーッと入ってきた。
(僕の他にも、あの手紙を受け取った人物がいる?)
「そんなにあの女のことが気になるか?気の毒だが、手紙に書いてあったのは真っ赤な嘘さ。本当に知りたきゃ、自分で調べるんだな」
大男は尚も、アンソニーの首をギリギリ締め上げる。
明らかに殺意が感じられた。
隠れて様子をうかがっているのは限界だと察知したブライアンは、ここぞとばかりに飛び出した。
「そいつを放せ!」
そう叫ぶや、ありったけの力で体当たりする。
その衝撃にバランスを崩し、男はアンソニーをつかんだまま、池に突っ込んだ。
「ちぇっ!邪魔が入ったか」
想定外の助っ人が出現したせいで、さすがにひるんだのだろう。
それ以上の攻撃をあきらめて水中から身を起こし、ずぶ濡れのまま去って行った。
池の中には、意識朦朧(もうろう)のアンソニーだけが沈んでいる。
ブライアンは濡れるのも厭(いと)わず、水中へ入ると、今にも溺れそうな相棒を抱き起こした。
「おい!しっかりしろ。だから言わんこっちゃないんだ。殺されずにすんだだけ、ありがたいと思え」
しきりに頬を叩いて話しかけるのだが、アンソニーは薄目を開けるだけ。
とろんとした目から、弱々しい視線が向けられた。
その翌日、高級マンションのペントハウスでは、レイモンドがほくそえんでいた。
大金を積んで雇ったマフィアの用心棒から受けた報告に満足したのか、笑いが止まらない。
(予想通りだったよ。テリィは冷静な判断が出来る奴だが、アンソニーは違う。たとえ罠だとわかっていても、キャンディのこととなると、前後の見境いがなくなる大馬鹿だ。つくづくおめでたい男だぜ。もうすぐ他人の女房になっちまう女に命を賭けたところで、なんになる?だけど、これではっきりしたよ。将来お前のアキレス腱になるのは、間違いなくキャンディス・ホワイトだってことが。こうなったら、徹底的に復讐させてもらうさ)
持っていたアンソニーの写真を握りしめた途端、青い瞳が不気味に光った。
ブライアンに担がれ、やっとの思いで寮へ帰ってくると、アンソニーは熱にうなされたまま眠りに落ちた。
それでも翌朝のことが気になるのか、しきりに、「シカゴへ行かなきゃ」や「エルロイ大おば様」という、うわ言を繰り返している。
聞きながら、ブライアンは胸が痛んだ。
(キャンディの次は、ばあさんの心配かよ。自分の身が一番危ないかもしれないのに)
解熱剤をのんで、やっと眠りについた親友の額に手をやり、流れる汗をぬぐってやる。
朝が来ても起こさず、このまま休ませてやりたい。
約束なんか反故(ほご)にして、ずっと眠らせておこうかと一瞬思ったが、すぐに打ち消した。
(いや、そんなことをしたら、一生恨まれるだろう。下手すりゃ絶交されるかも。こいつ、優しい顔してるくせに、信じられないくらい頑固者なんだから。仕方ないなぁ。朝が来たら、言われたとおり起こしてやるよ。君との友情を失いたくないんでね。その代わり、俺がシカゴへ同行する。嫌だと言っても、無理やりついてく!)
翌朝、ブライアンが提示した条件をのみ、アンソニーはサウスステーションに向かった。
依然、熱は下がらない。
足元もおぼつかないが、ブライアンが支えてくれた。
発熱までの潜伏期間を考えると、スペイン風邪の疑いが強かったが、「行くのをやめろ」と言ったところで、聞く相手ではない。
ブライアンはあきらめ、アードレー家まで無事に送り届けようと、覚悟を決めた。
「なあ・・・夕べの件、やっぱり警察に届けたほうがいいんじゃないか?もし、また狙われるようなことがあったら、今度こそヤバイぜ」
車中、心配そうにブライアンは言う。
だが当のアンソニーは、どこ吹く風だ。
「無理だよ。考えてもみろ。そんなことしたら、僕がアードレー家の人間だって、ばれちゃうじゃないか。それに、キャンディを巻き込みたくないんだ。そうでなくても悩みが多いんだから、そっとしておいてやりたい」
「じゃあ聞くけど、君の安全は、誰が保障してくれるんだ?」
腹立たしくなったブライアンは、語気を強める。
「キャンディをかばうのは結構だけど、所詮、もう関係ない女なんだぜ。彼女を守るのはテリィの役目だろ。どうして君が体を張る必要がある?」
サファイアの目が、切ない色に染まった。
それを見て、ブライアンはハッとする。
「はっきり言うなぁ。ホントのことだから反論しないけど、正直痛いよ。そんなセリフを聞くと」
そう言ったきり、口をつぐんでしまった。
ブライアンは何もフォロー出来ないまま、ただ相棒の肩をさするしかなかった。
★そもそもスペイン風邪の兆候がある医療関係者(アンソニー)が、汽車でシカゴへ向かうなど、ありえない話です(^^ゞ
周りに菌をばらまいてどうするよ(爆)?
そこはその・・・「しがないファンフィク」ということで、目をつぶってやってくださいましm(__)m
シカゴ駅に着いたとき、既にあたり一面は、夜の闇に包まれていた。
それでも大都市では、人の動きが止まることはない。
この時間になってもまだ、発着する列車が煙を吐き、汽笛をあげる。
長旅で体力を消耗したアンソニーをブライアンが支え、改札を抜けると、そこには打ち合わせどおり、アルバートとアーチーが車で迎えに来ていた。
力なくうなだれたアンソニーを見るなり、アーチーは走りよって抱き抱える。
「大丈夫なのかい?こんな体でシカゴになんか来て」
挨拶もなしに、いきなり叫ぶアーチーに、アンソニーはやっとの思いで笑みを浮かべた。
「久しぶりだなあ」
「こんなときに、無理して笑ったりするなよ」
アーチーが眉をひそめると、アンソニーをはさんで反対側にいるブライアンも、賛同して大きくうなずいた。
そして初対面の二人は、どちらからともなく、笑顔で会釈する。
三人の様子を、停めてある車から見ているアルバートが、早く来いと手で合図している。
両脇を支えられ、苦しそうに歩いてきたアンソニーは、叔父の顔を見るや、ついに力尽きてがっくり膝を折った。
アーチーとブライアンがあわてて助け起こすと、アルバートも車外に飛び出し、駆け寄った。
「電話で聞いてたより重症のようだな。こんなに具合が悪いなら、わざわざ来てくれなくて良かったのに。君って男は、一体どこまで律儀なんだ」
叔父は甥の髪をくしゃくしゃにし、まるで子供にするように、頭を撫でた。
「だって大おば様の一大事なのに、放っておけませんよ。そうでなくても、僕は不孝者なのに」
「馬鹿だな。誰もそんなふうに思っちゃいないよ」
アンソニーを車に乗せるのを手伝いながら、アルバートは優しい声でなだめすかす。
そして改めてブライアンに挨拶した。
「やあ!二月にボストンで会って以来だね。また貫禄がついたんじゃないか?見るたびに医者らしくなってくよ。こりゃ、先が楽しみだ」
ブライアンは恥ずかしそうに頭をかいた。
「いや~、そんなふうに言われると照れちゃうなあ。まだ駆け出しの医学生ですから。アルバートさんは変わりませんよね。相変わらず爽やかで、頼もしくて」
「ははは。三十路が間近になると、変わらないほうがありがたいのさ」
豪快に笑う彼に合わせるように、ブライアンは「まだまだ若いですよ。人もうらやむハンサムだし」と笑った。
「そうだ。アーチーは初めてだろう?紹介するよ」
すると栗色の髪の青年は得意げに、「知ってますよ」とウィンクする。
「アンソニーとは兄弟同然に育った、アーチーボルト・コーンウェル。通称アーチー。サラサラのブロンドで、フリルのシャツが良く似合うシカゴ大の学生。僕らと同い年だけど、もうかわいい奥さんがいて、名前はアニー。でしょ?」
アーチーは、あっけに取られた。
「もしかしてそれ、全部アンソニーから?」
「察しがいいですね。ついでに、お兄さんのステアのことも聞いてますよ」
ブライアンは愛想良く笑う。
「こいつは驚いた。まさかそこまで把握してるとはね~。でも、こっちだって負けてませんよ。今度は僕がお返ししましょう」
そう言うなり、アーチーも自慢げに始めた。
「君はブライアン・ホーウィット。アンソニーとは、プレップスクールからの親友。兄と妹がいて、二人とも偶然、キャンディと同じ職場で働く医者と看護婦。趣味は絵。肖像画を描かせたら、右に出る者がいないくらいの腕前。頭脳明晰。人望も厚く、常に要領よくピンチを切り抜ける。だけど、なぜかしょっちゅうアンソニーの尻ぬぐいをさせられてる・・・こんな感じ?」
今度はブライアンが舌を巻いた。
「お見事、お見事!ちょっと褒めすぎのとこもあるけど、『尻ぬぐいをさせられる』ってのは、図星ですよ。今回だってそうだしね」
そう言って苦笑すると、アルバートがため息気まじりに言った。
「アンソニーは、いつもそんなに詳しく話してるのかい?こりゃ、滅多なことは言えないし、出来ないな~。あとでなんて言われるか、わかったもんじゃない」
一同は爆笑したが、アンソニー本人だけが、力なく車中に横たわっていた。
駅から車で本宅へ向かい、意識が朦朧(もうろう)としているアンソニーを寝室に運んだ頃、日付が変わった。
枕元にはブライアンが控え、血圧や脈を測って容体を見守っている。
抗生剤を注射して寝かしつけると、副作用のせいか、アンソニーは深い眠りに落ちた。
そばでアーチーが、しきりに感心する。
「医学生ってのは、便利なもんだな。具合が悪ければ、お互いに治療し合えるんだから」
「いやいや、僕らなんてまだまだ。これは応急処置。っていうか、本当は医療行為をしちゃいけないんだけど、こういう緊急事態には、そうも言ってられないから。明日、主治医にちゃんと診てもらって」と、ブライアンは念を押す。
「恐らくスペイン風邪だと思う。臨床実習をしているうちに、院内感染したんだ、きっと。それに追い討ちをかけるように、キャンディの件があって・・・」
そこまで言うと、ブライアンは言葉をつまらせた。
「自分がボロボロになっても、キャンディを助けようと必死になる。なりふりかまわず命を賭けて・・・昔からそういう奴なんだ。そしてそれは、今も変わらない」
アーチーは、ベッドに横たわるアンソニーを、切ない目で見下ろした。
「なのに、どうしてキャンディはそばにいてやらない?なんでいつも、こいつだけが苦しむんだ。俺には理解できないよ」
悔しそうに言うと、ブライアンは頭を抱え、髪をかきむしる。
「そこから先は言いっこなしだ。一番辛いのは、アンソニー自身だろうから」
アーチーは、ブライアンの肩をそっと叩いてなだめる。
そして、15歳の頃の話を聞かせてやった。
家出して森に迷いこんだキャンディを探しているうち、崖から落ちて傷だらけになったこと。
無実の罪を着せられそうになった彼女をかばい、誰もが恐れるエルロイに、たてついたこと。
(向こう見ずは、今更始まったことじゃないんだな)
話を聞くうち、ブライアンはくすっと笑った。
「それにしても、僕たち気が合うなあ。いつか必ず会う機会を作ろうと思ってたけど、こんなに早く実現できて光栄だよ」
ブライアンもすかさず言う。
「同感同感。俺も、是非会いたいと思ってた」
寝息を立てるアンソニーの頭越しで、二人は嬉しそうに笑い合った。
初対面とは思えないほど、もう完全に打ち解けていた。
翌朝、主治医のパーキンスに相棒を託したあと、ブライアンはアルバートとアーチーに、アンソニーの意志を伝える。
「キャンディの出生を聞き出そうとして危ない目に遭ったこと、どうか彼女には言わないでください。この先、どんなことがあっても絶対に。それが、こいつの望みですから」
言われた二人は、思わず顔を見合わせた。
「つまり、キャンディの負担になりたくないってことかい?」
尋ねるアルバートに、ブライアンはうなずく。
アーチーはイライラしながらも、半ばあきらめ顔になる。
「いかにもアンソニーらしいよ。見てるこっちは、じれったいけどね。かといって、本人の言い分を無視するわけにいかないし」
「それに、もう遅い。キャンディのために、アンソニーがどんな目に遭ったか、命も惜しまず危険な場所へ出向いていった──そう伝えたところで、彼女にはもう・・・テリィがいる」
アルバートの放った言葉が、全員の胸をしめつけた。
「じゃあ、これで失礼します。すぐボストンへ戻らないといけませんから。患者も待ってるし」
少しでも場を和ませようと、ブライアンは努めて明るい声で言った。
「今度は『野暮用』じゃなくて、遊びに来るといい。ゆっくり時間が取れるときに。シカゴ見物に連れてってやるからさ」と、ウィンクするアーチー。
「ありがとう。君もボストンへ来いよ。小奇麗な学園都市だから、きっと気に入る」
ブライアンも笑顔で応えた。
二人が別れの握手をがっちり交わすのを見守りながら、アルバートは独り言のようにつぶやく。
「恋愛運は良くなくても、腹心の友には恵まれたようだな。それはそれで、いいもんだよ」
ブライアンは、「当然でしょ」と、親指を立てた。
そして親友の手を取ると、静かに暇(いとま)を惜しんだ。
「じゃあ俺、行くから。先ずは十分養生して、自分の病気を治すこと!そのあとゆっくり、ばあさんに孝行してやれよ。わかったな?」
するとアンソニーは薄目を開けて、弱々しい声を出した。
「ごめん、いつも迷惑かけて。・・・感謝してる」
感激で涙腺がゆるんだブライアンは、言葉を返す代わりに、アンソニーの手をきつく握りしめた。
ブライアンをシカゴ駅に送り届けた帰り、アルバートとアーチーは、車中で今回の怪事件を考え直していた。
アンソニーを誘い出した相手は、なぜキャンディの出生に関わる秘密を匂わせたのか。二人がレイクウッドで一緒に過ごしたこと、恐らくそこでロマンスが生まれたであろうことを、なぜ知っているのか。
そして最大の疑問は、どうしてアンソニーに危害を加えたのか──考えれば考えるほど、謎は深まる。
ウォルターが他界した今、アンソニーをおとしいれようとする者は、もういないはずなのに。
それがかえって不気味だった。
「やっぱり警察に事情を話して、身辺警護してもらったほうがいいんじゃないでしょうか。もしも、ってことがあるし」
不安げなアーチーに、アルバートはきっぱり答える。
「いや、アンソニーはそれを望んじゃいないはずだ。キャンディにすら、内緒にして欲しいって言ってるんだから。おまけに、もし警察に話したら、身分が割れておかしなことになる。彼がアードレー家の人間だってことは、現時点でまだ公表してないんだからね」
「でも、また危険な目に遭ったら・・・」
「僕は、これっきりって気がするんだ。相手も馬鹿じゃないだろうし。アードレー家当主の甥に、そう何度も同じ手口を繰り返すはずないさ」
自信ありげに言うアルバートが、完全に「総長の顔」になっているから、アーチーは少し戸惑った。
彼はもっと、人間臭い男ではなかったか。
それに誰より、甥っ子の身を案じているのではなかったか。
いずれにせよ、アンソニーならきっと、「警察には絶対知らせないで」と言い張るに違いない。
アルバートはそれを嫌というほどわかっているから動かない──アーチーはそう思い込むことで、自分を納得させた。
その頃、本宅には、はるばるニューヨークから珍しい客が訪れて、エルロイを見舞おうとしていた。
「彼女」はアニーから連絡を受け、取る物もとりあえずに駆けつけたのだ。
まさかここにもう一人、看護の手を必要としている病人がふせっていることなど、露知らず。
しかもその病人は、彼女にとって、永遠に「運命の人」──
婚約という儀式が彼らを隔てた今も尚、神は新たな喜びと苦しみを、二人に与えようとしていた。
風の流れが再び変わる。
吸い寄せられるように、この地へ足を踏み入れた二人の再会は、もう間近に迫っていた。
使用人からキャンディが到着したことを知らされると、アニーは喜び勇んでエントランスホールへ向かう。
久しぶりに会うのだから、嬉しさのあまり走り出したい気分なのだが、ぐっとこらえてゆっくり歩く。
体をいといながら。
それにはワケがあった。
目の前に現れたアニーを見たとき、キャンディの第一声は──「あなた、まさか・・・!」
そしてエメラルドの瞳は、彼女の腹部に釘付けになった。
ポッコリ目立ち始めた丸いふくらみは、アニーが妊娠していることを物語っている。
「驚いたでしょ?」
目を白黒させたままのキャンディを見て、アニーはふふっと笑う。
「ごめんなさい。隠しておくつもりはなかったの。キャンディには、一番に知らせたかったわ。でもいろいろ悩んでることを知ってるから、なかなか言い出せなくて・・・。それに安定期に入るまで、そっとしておきたかったの」
そう言うと、恥ずかしそうに、また笑った。
「『水臭いじゃない!』って、ホントは怒りたいけど、アニーの気持ち、すごくわかるわ。私に気をつかってくれたのも嬉しいし。だから許してあげる」
キャンディは駆け寄ってアニーの手を取ると、目を潤ませながら祝福した。
「予定日はいつなの?」
「12月。クリスマスの頃らしいわ」
「まあ!なんて素敵!きっと神様からのプレゼントよ」
「かもね」
話しながら、アニーが始終手でお腹をさすっているから、キャンディは気になってしょうがない。
「ねえ、触ってもいい?」
「勿論よ」
触れたら、マシュマロのようだった。
愛された女性だけに与えられる、まさに天からの贈り物。
「いいわねえ・・・」
ため息混じりに本音が出た。
「ここに幸せがいっぱいつまってる感じよ」
「そう?キャンディだって、もうすぐ結婚するんですもの。そしたら、テリィの赤ちゃんを授かるのよ」
優しい目で言ってくれるアニー。
そんな彼女が、心からうらやましかった。
結婚式の日も、目を見張るほど奇麗な花嫁だったけれど、もうすぐ母になる自信と誇りがそうさせるのだろうか、今日のアニーは、今までで一番輝いて見える。
きっとこれから、益々奇麗になっていくのだろう。
女性として、妻として、母として。
なぜだか彼女が、遠い存在に思えて仕方ない。
そのときキャンディは思った。
自分はなんなんだろう?
テリィと婚約はしたけれど、薄い膜のようなものが、自分たちを隔てている気がしてならない。
いつまでたっても、本音でぶつかり合っていない気がする。
わざと「真実」から逃げている気がする。
何かが引っかかり、邪魔をし、すれ違いを繰り返している気がする。
昔は、こんなことありえなかったのに・・・
少なくとも、アンソニーが生きていることを知るまでは──!
「早速だけど、大おば様の顔を見に行く?心配でしょうから」
アニーの声が現実へ引き戻した。
ハッとして「ええ」と返事をすると、「キャンディったら、大丈夫?なんだかボーッとしちゃって。長旅で疲れてるでしょうから、無理もないけど」と言われてしまった。
エルロイの部屋に通されると、主治医のパーキンスと看護婦が一人、付き添っていた。
まだ意識ははっきりしないが、危険な状態は脱したと説明を受け、安堵する。
一時間ほどベッドサイドの椅子に腰掛け、深い眠りについているエルロイを見守った。
その顔から、かつての威厳はすっかり消えていた。
ただひたすら、命の闘いをしている老婦人の哀愁が漂っている。
これが、あれほど怖くて冷たかったエルロイなのだろうか。
ステアを失い、アンソニーを手放し、アーチーが結婚して独立した今、この人は何を考え暮らしているのか。
愛してやまない者たちが、次々に手元を離れていき、寂しくて仕方ないのだろう。
病の床にふせる姿が、なんだか妙に小さく見え、キャンディはいたたまれなかった。
このまま付き添っていてもエルロイは目を開けない様子なので、ひとまず退室しようと席を立ったところへ、アルバートとアーチーが入ってきた。
「外に出て」と、二人はキャンディに合図する。
言われたとおりにすると、少し前から待っていたアニーが、不安げな顔をこちらに向けた。
「キャンディ、遠いところ来てくれたのに、挨拶もなしで悪いんだけど、具合の悪い客人がいるんだ。看護を頼めないだろうか」
前置きもなく切り出したアルバートは、いつになく焦りの表情を浮かべている。
隣のアーチーも、真顔で言う。
「大おば様の見舞いに来たはずなのに、自分がぶっ倒れちまったんだよ。全く困った奴だろ?」
しかしキャンディは、彼らの言う「客人」が誰なのか、皆目見当がつかない。
「お客様って?」
だが、二人して顔を見合わせたきり、どちらも口を開こうとしない。
キャンディは益々途方に暮れる。
たまりかねたアニーが、か細い声でやっとしぼり出した。
「その人・・・ボストンから来た医学生よ」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
脳裏には、「彼」の顔がくっきり浮かび上がり、胸を激しく揺さぶる。
(ボストン・・・医学生・・・ハーバードの・・・バラを育てるのが上手な・・・ブロンドにサファイアの瞳で・・・)
ああ、それは間違いなく「あの人」!
忘れようとしても、心の奥に住み着いて離れない、大好きなあの人!
キャンディは怖くなった。もう一度ここで、「彼」に会うことが。
こんな近くで顔を合わせたら、平常心を保てる自信などない。全くない。
ましてや看病をするなんて!
ずっと付き添って汗をぬぐい、脈を測り、身の回りの世話をする。
彼の鼓動を間近で聞いたら、自分がどんな行動に出てしまうか、予想もつかない。
テリィの婚約者として、道に外れない常識人であり続ける自信が、今の自分にはなかった。
呆然としたまま、キャンディが何も言わないから、アニーは念を押すように、はっきり彼の名を口にした。
「わかってる?お客様っていうのは、アンソニーなのよ」
改めてはっきり発音された「アンソニー」という名前に、胸が躍る。
もう一度繰り返されたら、きっと泣き出してしまう。
だからただ、夢中でうなずいた。
その様子を見た誰もが、彼女の心の奥に隠された真意を察したろう。
──キャンディはまだ、アンソニーを愛してる!──
だが、次の瞬間に飛び出したセリフは、実に意外なものだった。
「悪いけど、彼の面倒はみれないわ。だってここへ来たのは、大おば様の世話をするためですもの」
返答を聞いて驚いたアーチーが、怒ったような顔で食い下がる。
「どうしてそんな冷たいことが言えるのさ!あいつは今、すごく苦しんでるんだよ。誰かがついててやらなきゃ、死んじまうかもしれない」
「僕からもお願いするよ。大おば様にはパーキンス先生がついてるし、症状は安定してきた。すぐにどうこうって心配はないはずだ。だからせめて今日だけでも、アンソニーに付き添ってやってくれないか」
アルバートも真剣に説得する。
だが依然として、キャンディの意志は固い。
「そんなに悪いなら、尚のこと私の手には負えないわ。今すぐ、別のお医者様を呼ぶべきでしょう?もし何かあったとき、看護婦じゃ責任もてないのよ」
象牙のような顔で言い放つキャンディには、情熱のかけらも感じられない。
さっきとは、まるで別人だ。
アーチーはたまらなくなって、またも激しく食いついた。
「君がそんなこと言うなんて、信じられないよ。わかってる、本心じゃないんだろ?でも今は、つまらない意地を張ってる場合じゃないんだ。アンソニーは夕べからずっとうわ言で、君の名を呼び続けて・・・」
キャンディはついに耐えられなくなり、最後まで聞かないうちに走り出した。
どこへ行くのか当てなどないが、とにかくここにいたくなかった。
逃げたかった。
アーチーの言葉をまともに聞くのが怖いのだ。
聞いたら、アンソニーを放っておけなくなる。
駆け寄って手を差し伸べて、かいがいしく看病してしまうだろう。
そうなったら、テリィを裏切ることになる。
彼に愛を誓ったフィアンセとして、それだけは出来なかった。
「待つんだ、キャンディ!」
がむしゃらに走ってエントランスから外へ飛び出した彼女の手をつかみ、アーチーは声を荒らげる。
「君が何を恐れてるのか、よくわかってるよ。でもアンソニーの世話をしたからって、それがテリィへの背信行為になるのか?そんなのおかしいよ。だって君は看護婦なんだぜ。高熱で苦しんでる病人を助けるのは当然だろ」
「でも怖いの!アンソニーの顔を見たら、今まで抑えてきたものが、全部爆発しちゃうような気がして。だから会いたくない。テリィを裏切りたくないのよ!」
背を向けてうつむいたまま、キャンディは小刻みに震えていた。
「君がそんなに自分勝手な女だとは思わなかった。幻滅したよ」
アーチーはつかんでいた彼女の手を思い切り振り放すと、見たこともない厳しい視線を投げた。
「テリィに忠誠を誓うためには、アンソニーがどうなってもかまわないのか?じゃあ、あいつはどうなる。誰が報いてやるんだ。君のせいで、どんな目に遭ったか・・・」
言いかけて、アーチーは拳を握りしめた。
その先は言えない。どんなに言いたくても、言ってはいけない。
それがブライアンとの約束だから。
そしてアンソニーの望みでもあるから。
なす術(すべ)もなく立ち尽くすアーチーは、唇を噛んで全身を震わせた。
「悔しいよ。君にわかってもらえないなんて」
キャンディが恐る恐る振り返ると、うなだれたまま涙をこらえるアーチーがいた。
ただ事ではない気配を、咄嗟(とっさ)に感じ取る。
── 一体何があったんだろう──
不安な心が言葉になり、ほとばしり出た。
「私のせいって・・・それ、どういう意味?アンソニーが倒れたのは、私と関係あるの?ねえ、知ってるなら教えて!」