キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に) -34ページ目

キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

アンソニーメインの二次創作・ファンフィクション「バラの薫る季節に」を掲載しております。

その翌日、エルロイの世話を終えて部屋から出てきたキャンディを、廊下で待ち構えていたアーチーが勢いよく呼び止めた。

「ハロー、キャンディ!あのさ、どうせ暇だろ?ちょっと付き合ってくれないかな。これから兄貴の墓参りに行くんだ」
「まあ失礼ね。『どうせ暇だろ』って、随分ご挨拶だわ~。でもステアのところへ行くなら喜んで」

少しだけふくれて見せたあと、キャンディは嬉しそうに笑った。

「ちょっと待ってて。着替えてくるから」

あわてて駆け出そうとする手をつかみ、アーチーはニヤッとする。

「いいよ、そのままで。十分奇麗ですよ、お嬢様」
「ひどい!からかってるの?」

さっきより、もっとふくれっつらになったキャンディに、アーチーはとうとう吹き出した。

「からかってなんかいないさ。とにかく早く行こう。みんなが下でお待ちかねだから」
「お待ちかねって、誰が?」
「行けばわかるさ」

ウィンクしながら彼女の右手をつかむと、アーチーは走り出した。
階下に向かい、エントランスを出て、緑が美しい東の門へたどり着くと、そこにはもう、オープンカーが横付けされている。
後部座席にはアニーが座り、後ろを振り返って、「アーチーもキャンディも早く早く!」とせかす。
今日は体調がいいのか、顔が晴れやかだ。

運転席に目を移すと、ブロンドの若者が見えた。
彼は前を向いたままだが、それがアンソニーであることは、すぐわかる。

「ねえアーチー、彼、運転できるの?」

少々不安になって尋ねると、「そんなこと言っちゃ失礼だぜ。ボストンじゃあ、たまに運転してるらしいから」と笑う。

「たまに・・・ね。大丈夫かしら?」

不安は益々募る。

「あいつの運転でこの前一緒に出かけたけど、なかなかのテクニックだったよ」

アーチーのお墨付きだから、まんざらではないだろうし、何より身重のアニーを同乗させようとしているのだから信頼できる気がしてきた。

「そんな情けない顔するなよ。兄貴の発明した怪しげな車に乗せられるより、ずっとマシだと思うぜ」

そう言いながら、アーチーはもう車のところへ行ってしまっている。

「さあキャンディ、助手席にどうぞ」

アーチーがノブをつかんでドアを開け、手招きする。
恐る恐る近づくと、運転手の顔が間近に見えた。
瞬間、キャンディは驚いて目を白黒させる。

「アンソニー、どうしたの?」

彼はメガネをかけ、前髪を上げ、リーゼントで髪全体を固めていた。
年齢以上に落ち着いて見えるし、インテリそのもの。
もっともよく考えれば、そもそもはハーバードの医学生。
超エリートなのだから、インテリに見えて当然なのだ。

「あの・・・大学では、いつもそういうヘアスタイルで、メガネをかけてるんですか?」

アンソニーが急に遠い存在に思え、思わず敬語になってしまう。

「バカだなぁ。そんなわけないだろ?これは変装さ」
「変装?」
「忘れちゃった?僕はまだ、正式に社交界に紹介されてないんだ。アンソニー・ブラウンが生きてたことは、秘密のままなんだよ。だから堂々と表に出られない。しかも今日はアーチーとアニーも一緒だから、余計目立つんだよ」

そういえば、アーチーたちの結婚式でも彼は変装していた。
メガネをかけ、オールバックにし、口ひげを生やし・・・あまつさえ、「エドワード」と名乗っていた。
そんなことまでして素性を隠さなければいけないなんて!
いたたまれなくなり、キャンディは顔をゆがめる。

「アルバートさんや大おば様は、なぜ何もしてくれないの?早く事実を公表してしまえば、あなたがこんなに気をつかう必要なんかないのに」
「それは誤解だ。二人とも快く、いつでも帰ってきて欲しいって言ってくれてる。断ってるのは僕のほうなんだ」
「断るって・・・どうして?」

不思議そうな顔をするキャンディに、アンソニーはきっぱり答える。

「だって、事実が知れ渡ったら、僕はハーバードにいられなくなる。大学をやめて本宅へ戻らなきゃいけないからさ。それがアードレー家のしきたりだから」
「そのとおり」

横からアーチーが口をはさんだ。

「ましてやアンソニーは、当主の甥。僕よりもっと重い立場だよ。本来はアルバートさんの片腕になって、アードレー家を継がなきゃいけないんだ。だから医者になる自由なんかないのさ」

二人の話を聞いてため息が漏れた。
上流社会の因習が、そんなに根深いとは!
アルバートが自由を求めて放浪の旅を続けたわけがよくわかる。
出来れば、いつまでもそんな身分でいたかったのだろうが、30歳を目前にした段階で覚悟を決めたに違いない。
そして家に戻り、当主としてのお披露目をし、今のアルバートがある。
きつね狩りの事故がなかったら、恐らくアンソニーも叔父と同じレールの上を歩かされただろう。
彼の補佐役として。

「本当の幸せがなんなのか、判断するのは難しいわね」

キャンディがしみじみ言うと、アンソニーはメガネの奥で微笑んだ。

「そんなことないよ。どんな道であれ、自分がやってることに誇りをもって最善を尽くせれば、それが一番幸せなのさ。事実僕は、あの事故がなかったら、なんの疑いもなくアードレー家を継いだと思う。それはそれで幸せだったろうし」

アーチーも静かにうなずいた。



助手席に座り、隣のドライバーを見つめながら、キャンディははしゃぐ。

「アンソニーの運転、すごく上手!正直言って驚いたわ。今だから言うけど、乗る前は怖くて仕方なかったの」

後部座席のアーチーとアニーは、そろって吹き出した。

「それはご挨拶だな~。これでも週一回は運転してるんだよ」と、苦い顔をするアンソニー。

「ホント?」
「ホントさ。家庭教師先の女の子が、リハビリをするためにウチの付属病院に来てるんだ。左足が悪くてね。その送り迎えに車を使ってる」
「まあ、アンソニーはお金持ちなのね!車を持ってるなんて」
「まさか。残念ながら、その女の子の家の車さ。僕なんか、その日の暮らしに追われる苦学生だよ。バイト代でなんとか食費をひねり出して、奨学金ももらってる」
「どうしてアルバートさんに出してもらわないの?」
「だって、自分の勝手で大学へ行ってるんだよ。アードレー家の仕事と関係ないのに、アルバートさんや大おば様に迷惑はかけられないさ」

するとアーチーが、後ろからキャンディに耳打ちした。

「こいつはバカ正直だから、援助の申し出を断ったんだぜ。大おば様は学費を払わせてくれって、何度も頼んだのに」
「余計なこと言うなよ!」

照れるアンソニーの頭を、アーチーがパコッと叩く。
二人のやり取りがおかしくて、キャンディもアニーもクスクス笑った。



30分も経ったろうか、四人を乗せた車は、郊外にある広大な墓地へ入ってきた。
いよいよステアに会える。
墓地はすみからすみまで管理が行き届き、芝が敷きつめられている。
鮮やかな緑が目に優しく、心を和ませてくれた。
そのかなり広い一角に、アードレー家代々の墓標が立ち並んでいる。
空には雲ひとつなく、青々と澄み渡り、湿気のない爽やかな風が頬を撫でていく。
まるでステアが歓迎してくれているようだ。

アンソニーがホイットマンの許しを得て、バラ園から切ってきたスイートキャンディが、見事な花束となって墓に捧げられた。

「兄貴、見えるかい?ここにみんな揃ってるんだよ。キャンディもアンソニーも、遠くから来てくれたんだ。肝心のパティがいなくて悪いけど、たまにはいいだろ?」

兄に語りかけながら、アーチーは真っ白いバラの花輪を十字架にかける。

「今頃空の上で、ステアは何をしてるのかしら?」

晴れ渡った天界を見上げながら、アニーがつぶやく。

「きっと私たちを見守ってくれてるわ。優しい彼のことですもの。新しい命が誕生することを、誰よりも喜んでるでしょうね」

キャンディは幼なじみの肩に手を置き、優しく微笑んだ。

「もしかしたら、もう向こうで、素敵な彼女をつかまえてるかもしれない」

軽口を叩くアーチーに、妻は思い切り肘鉄を食らわす。

「ステアはそんな人じゃないわ!」
「いや、僕はむしろそうであって欲しいよ。でないと、パティに新しい彼が出来たとき、かわいそうだろ」
「アンソニーまでそんなこと言うなんて」

女性陣は驚き、口を揃えて叫んだ。

「じゃあ、このままパティは、一生一人でいなきゃいけないのかい?それじゃ、人生はあまりに長すぎる。彼女はもう一度恋をして、幸せにならなきゃいけないよ。ステアだって、よくわかってるさ」

アンソニーの言葉が、キャンディの胸に切なく響く。

(あなたは赦してくれてたの?アンソニーがいなくなったあと、テリィを愛してしまった私を。初恋の人を失ったあと、ずっと一人で生きていくには、人生は長すぎる。ホントにそう思ってる?)

赦しを乞うように、自分をじっと見つめるキャンディに気づき、アンソニーは優しく笑った。

「死んだ恋人を乗り越えて、その人の分まで生き抜くのは、決して裏切りじゃない。なぜって、恋人の存在は永遠に刻印されるからさ。生き残った者の心の中に。ステアはそんな奴だから、パティの幸せを願ってるはずだよ。勿論、僕だってね」

内なる叫びがアンソニーに通じたことがわかり、キャンディの瞳は潤んだ。



思い思いに祈りを捧げ、広い墓地の中を散策したあと、若夫婦は目くばせしあい、「じゃあ、このへんで二組に分かれようか。僕らは用事があるんだ。帰りはタクシーを拾うから、アンソニーたちはこの車を使ってくれ」と、アーチーが言い出した。

キャンディはあわてる。

「タクシーなんて・・・アニーの体に障るわ」
「そんなにヤワじゃないから心配しないで」とアニー。

「じゃ、そういうことで。おいアンソニー、車、ぶつけるなよ」

ウィンクして相棒の肘(ひじ)をつつくと、アーチーは妻をエスコートし、上機嫌で去っていった。

アンソニーが全く騒ぎ立てないところを見ると、どうやらキャンディ一人が蚊帳の外だったらしい。
三人は既に打ち合わせしていて、最終的にアンソニーとキャンディがドライブする手はずが整っていたのだろう。



墓地を抜け、大通りに出る小道を歩きながら、アーチーは嬉しそうに語りかける。

「ありがとう、アニー。僕の提案に賛成してくれて。アンソニーと二人きりにするなんて、許してくれないんじゃないかと思った」
「本当は反対したいのよ。これ以上キャンディに揺れて欲しくないから。でも、これで心の整理がつくなら、彼女にとっては必要な時間かもしれないと思ったの」

小さな声で言うと、肩に回されている夫の手に、自分の頬をそっと寄せた。



「これからちょっと付き合わない?連れて行きたいところがあるんだ」

二人きりになり、アンソニーは少し照れたように言う。
まともにキャンディを見ず、脇を向いて、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま。
ぎこちない姿は、なんだか少年のように見える。

「面白そうね。どこへ連れてってくれるのかしら?」

キャンディはからかうように、まだそっぽを向いている彼の右腕に、自分の左手をからませた。

「アルバートさんも来れば良かったのにね。こんな気持ちのいい日なのに」
「誘ったけど、仕事が入ってるらしくてダメだったんだ。このところ忙しいみたいだよ」
「そう・・・」

この前も、大事な取り引きでクライアントに会うと言っていたアルバート。
商用で飛び回る彼は、今や有能なビジネスマンなのだろう。
総長の座についてからは、昔のイメージとすっかり変わってきたことが、頼もしくあり、少し寂しくもあった。

「大おば様も、あんなふうに時々体調を崩すから、余計に自覚が出てきたんだろうね。あの人はもう、今までのアルバートさんじゃないよ。当主の顔をしてる」

アンソニーも、キャンディと同じ気持ちなのだろう。
なんとなく寂しげな表情で歩き出した。
キャンディは彼の腕に手を添えたまま、その横に並んで歩く。
知らない人が見たら、恋人同士だと思うに違いない。

「ねえ、これからどこへ行くの?」

ウキウキするキャンディを見下ろし、アンソニーは面白そうにじらした。

「それは、着いてからのお楽しみ!」


車を駐車した場所までもうすぐ、というあたりで、聞き覚えのある女性の声が耳に入った。
人違いならいいのだが、もし勘が当たっていたとしたら、ありがたくない相手だ。
二人で腕を組んで歩いているところなど見られたら、あとでなんと言われるか、わかったもんじゃない。

「隠れようか?」

アンソニーは困惑気味に、そばの大木を指差した。

「同感よ。あそこなら見つからずにすむわね」

彼女は右手の親指と人差し指で輪を作り、OKの意思表示をして見せた。
二人がイメージした女性は、どうやら同一人物のようだ。
アンソニーがキャンディの手を引いて、大きな木の陰に身を隠すと、目の前をイライザが取りすぎていく。楽しそうにおしゃべりしながら。
息を止め、通り過ぎるのを待つ。
完全に行ってしまったのを確認すると、アンソニーは安堵のため息を漏らした。

「助かった・・・。もう大丈夫だな」
「引き返してこないかしら」
「まさか!」

アンソニーは笑いながらキャンディの手を取ると、木の前方に出て、もう一度深呼吸した。

「驚いたわ。イライザと一緒にいたの、男性だったわね。誰だか知ってる?随分楽しそうだったけど」
「それがね、どこかで見たような気がするんだ。ダークブラウンの髪でメガネをかけて──どこでだったろう」

腕組みをして考え込むアンソニー。その隣で、キャンディは不思議そうに言う。

「あんなに生き生きしたイライザ、初めて見たわ。とても優しそうで、いつもの彼女じゃないみたい。アーチーたちにも見せたかったわね」

「アーチー」という言葉が出た瞬間、押し込められていた記憶が、濁流のようにあふれ出した。

「そうだ!思い出したよ。アーチーの結婚式で見たんだ。さっきイライザと一緒にいた男。遠くからだったから、はっきりわからなかったけど、確かにあいつだ」
「誰なのかしら。もしかして恋人だったりして」

途端にアンソニーは吹き出す。

「イライザに恋人?」
「あら、不思議じゃないでしょ。彼女だって、もう二十歳なのよ。それに、わざわざアードレー家の墓地に連れてくるんだから、ただの友達とは思えないわ」

確かにそのとおりだ。
あのニールでさえ、まともになったのだから、妹のイライザがそれに続いたとしても、おかしくはない。
やはり年頃になれば、人は変わるものなのだろうか。

「イライザが普通の女性になっちゃうなんて、信じられないよ。喜ばしいやら、もったいないやら」

肩をすぼめるアンソニーを見上げ、キャンディは「ホントにそうね」と笑った。



墓地をあとにして束の間のドライブを楽しんだあと、アンソニーがエスコートしたのは、シカゴの自然公園だった。
今日は絶好の行楽日和。
二人で昼下がりを過ごすには、理想的なシチュエーションだ。

車を停めると、アンソニーは先に降りて助手席にまわり、キャンディのためにドアを開けた。
そして彼女の手を取る。

「どう?この公園。僕の一番好きなところなんだ。本宅にいるときは、しょっちゅう来てたよ。緑が沢山あって、周りの景色が奇麗で。現実を忘れるには丁度いい」

キャンディの胸には、記憶をなくしていた頃のアルバートが、真っ先に蘇った。
何回一緒に、彼とここへ来ただろう。
自分が辛いとき、寂しいとき、アルバートは決まってここへ連れてきて、慰めてくれた。
懐かしい風景が浮かび上がり、なんともいえない気持ちになった。

(アルバートさんにも、連れてきてもらったのよ)

そう言ってしまおうかと思ったが、なぜか出来なかった。


やがて行き着いた先は、シカゴの街並みを見下ろせる、小高い丘の上にある背の高い木。
アンソニーが指差したとき、心臓が止まるかと思った。
なぜならそれは、よくアルバートと二人で上った木だから。

「ねえキャンディ、まだ木登りの腕は衰えてない?」

ちょっとからかうように言うアンソニーに、アルバートの笑顔が重なった。
やはり血は争えない──叔父と甥が、同じ木に心を留めていたとは。

「もしかしてこれ、アルバートさんに教えてもらったんじゃない?」

思わず尋ねたら、アンソニーは不思議そうな顔をした。

「違うよ。子供の頃に見つけたんだ。どうして?」
「ううん、なんでもないの。アルバートさんが放浪してた頃、やっぱりここに上ったのかな、って思っただけ」
「そうだね。目立つ木だから、上ったことあるんじゃない?」

あっさり答えてくれたから、ホッとした。
もう一度木を見上げる。
鮮やかな緑がまぶしい。木漏れ日がキラキラ光っている。

「きっと気に入ると思って連れてきたんだ。上ってみない?手を貸すよ」
「大丈夫。まだ腕は落ちてないから。一人で上れるわ」

腰に手を当て、得意げになるキャンディ。
アンソニーはそれを見て、「あはは」と笑い声を上げる。

「少しも変わってないな~。二十歳になるのに」
「もうなったわよ。五月の誕生日で」
「ごめん、そうだったね」

他愛ない会話が終わって、いよいよ木登りを始めたいところなのだが、さすがにスカートが気になる。
下着をチラチラ見せながら上っていくわけにもいかず、モジモジしていると、アンソニーはそのわけを素早く察知した。

「こうしよう!僕が先に上る。てっぺんに着いたら、絶対下を見ないようにするから、安心して上っておいで。それで、僕の隣に座ったら声をかけること。それまでは君を見ない。約束するよ」
「ホント?」
「ホントさ。信じられない?」
「ちょっとね」
「ひどいなあ。これでも紳士のつもりなのに」

少しだけふくれるアンソニーを見て、キャンディはぷっと吹き出した。

「勿論信じてるわ。だってあなたは、バラの門の王子様だもの」
「は・・・ん!王子様ね」

褒められているのか、からかわれているのか、複雑な気持ちで木を上り始めた。
長い足に力強い腕──なんの苦もなく、ものの五分もしないうちに頂上を極めてしまった。
すぐに上から声が降りてくる。

「キャンディ!君の番だよ。ゆっくりおいで。約束は守るから」
「ホントによ。もし破ったら、怒って帰っちゃうから」

そう言うなり、スカートをつまみあげ、猿のようにするする上っていく。
ものすごく器用で、まるで職人技だ。
王子様の隣に腰かけるのに、やはり五分とかからなかったろう。

「はい!無事に着いたわよ」

あまりに早く声をかけられたので、アンソニーは目を白黒させた。

「こいつは驚いた。もう来ちゃったの?さすがはキャンディ」

こんなことで褒められても自慢できるかどうか悩むが、照れ隠しに「えへへ」と笑った。
その横顔が、なんとも言えずかわいい。
たとえいくつになっても、アンソニーの心に住んでいるキャンディは、13歳の少女なのかもしれない。
時が戻り、一瞬、二人してレイクウッドにいるような錯覚を覚えた。

「ほら、見てごらん!ここに上るとシカゴの全景を見下ろせるんだ。すごいだろ?」
「うわあ~奇麗。家がとっても小さく見えるわ」

本当は、初めて見る景色ではないのだ。
アルバートと一緒に何度となくここへ来て、今見ているのと同じ街並みを眺めて語り合ったのだから。
一つしかないサンドイッチを、二人で分け合って食べたこともある。


── 一つのものを二人で分け合うって、いいことだね。これからも、そうしないかい?君の悩みや悲しみを、二つに割って僕にくれないか──


アルバートの声が、耳に残っている。
今になってやっと、素直に感じることが出来る。
彼は優しさや、いたわりの気持ちだけで、あんなふうに言ってくれたんじゃない。
あれは、愛のささやきだったのだと。

わかっていたのだ、本当は。
でも、認めるのがなんだか怖かった。
気づかない振りをして、自分をごまかしていた。
あの頃、心の中には、まだテリィが鮮やかに生きていたのだから。
思い出にしようと必死で闘ったけれど、恋の残り香は、消そうにも消せないほど、心の底に染み付いていた。

そんなとき、包み込むように癒してくれたアルバート。
このまま時が流れていったら、いつかは彼の思いを受け入れ、「養父と養女の関係」にピリオドを打つ日が来る──そんな予感もあった。

だけれど、現実に向かって走り出すには、テリィの存在はあまりに激しすぎた。
心を整理するには、かなりの時間が要る。
それに、自分の中にいるアルバートは、いつでも助けてくれる頼もしい人。
苦しいとき、悲しいとき、悩んでいるとき、いつもそばにいて励ましてくれる優しい人。
目を閉じると、初めて出会った頃の彼が浮かんでくる。
それが恋人になり、やがては夫婦に──そう考えると、ためらいを覚えた。
なぜなら彼の妻になるということは、アードレー家総長の妻になることだから。
孤児院出身の自分に務まるのか、自信など全くない。

アルバートさんに恥をかかせてしまったら?
とんでもない迷惑をかけてしまったら?

自分のせいで彼が後ろ指を指されたり、アードレー家の評判を落とすようなことだけは、絶対にしたくなかった。
だからこのままいつまでも、二人のいい関係を変えたくない──そんな思いが強くあった。

そしてその年の五月、バラの薫る季節。
死んだはずのアンソニーが、実は生きていたことを知る。
あのときから、すべてが始まった・・・




目の前には、数え切れないほどの家や、林立し始めたビル、市中を貫く鉄道の線路が広がり、街全体が生き生き動いているさまが見える。

「ここには、沢山の人が暮らしてる。みんな、思い思いの生活を送ってるんだよ。僕らは、その中のほんの一人に過ぎない。そう考えると、自分の存在が、どんなにちっぽけかわかるだろ?」

思い出に浸っていたキャンディを、アンソニーの声が呼び戻した。

「こうやって高いところに上ると、現実が遠くなっていくんだ。嫌なことなんか、全部吹っ飛んじゃうよ」
「あなたは、こんなふうに辛いことを忘れていたの?」
「かもしれない」

アンソニーはキャンディを見つめて微笑んだ。
その瞳があまりに切なくて、思わず叫んでしまう。

「ねえ、恨んだことはないの?だってウォルターのせいで、人生をメチャメチャにされてしまったのよ。自分の家に帰るのだって、コソコソ隠れるように変装までして。あんな事故さえなかったら、今頃はアルバートさんの右腕になってたはずなのに。それに、それに・・・私たちだって」

そこまで言うと、キャンディの目に熱いものがにじんできた。
これ以上話したら、あふれ出て頬を伝ってしまう。
アンソニーを困らせたくはない。
だから手を硬く握りしめ、滴(しずく)がこぼれ落ちないように耐えた。

「恨んだことがないって言えば、嘘になるな。でも失ったものと同じだけ、得たものは沢山あったよ。今はそれに感謝して生きていきたいんだ。後ろを振り返っても、何も変わりはしないから」

きっぱり言い切ったアンソニーの髪を、一陣の風が揺らしていく。
彼はまだ、変装している。
前髪を上げ、メガネをかけたままでいる。
いつもより大人っぽくて、別の人に思えたりもする。
そのせいか、妙にドキドキする。

木漏れ日が差し込んで端正な横顔を照らし、それを縁取るメガネに反射する。
キラキラ光ってまぶしいのは、金縁のメガネだろうか。
それとも、アンソニー自身か。

「君はテリィと生きる道を選んだ。だからもう、よそ見しちゃいけない。もしもあのときこうだったら、と思ってもいけない。彼を信じて、今だけを見つめるんだ。そうすれば、きっと道が開ける。それでも辛いときは、こうやって広い世界を感じればいいさ。それで落ち着くはずだから」

アンソニーは右手を差し出し、キャンディに握手を求めた。
あまりに唐突だったので、一瞬戸惑い、サファイアの目を見つめる。
誠実な瞳の奥に、温かく優しい光が宿っている。
それを認めたキャンディの胸に、穏やかな風が吹き込んだ。
彼のほうへ体を向け、自分の右手を、大きな手の中へそっと滑り込ませる。

「笑ってごらん。君には笑顔が一番似合う。いつも笑顔でいて欲しいんだ。幸せになって欲しい」
「あなたも・・・」

本当は、目の前の広い胸に顔をうずめたかった。
そして思い切り泣きたかった。
だが出来ない。
なぜなら、アンソニーが求めているのは笑顔なのだから。
キャンディは精一杯の笑みを浮かべると、「じゃあ、私が先に降りてもいい?そうすれば、下からのぞきたい誘惑に負けずにすむでしょ?」とおどけた。

「勿論、レディファーストでどうぞ。但し前言は撤回してほしいな。僕は、そんなさもしいことをする男じゃないよ。なんたって、バラの門の王子様だからね」

アンソニーも応酬する。
軽口を聞いているうちに、ようやくキャンディに笑顔が戻った。
器用にするすると降りて、スカートの埃(ほこり)を払っていると、あっという間にアンソニーが隣に並ぶ。

「さあ、夢の世界はこれでおしまい。どう?楽しかった?」

手をパンパンとはたきながら、彼は微笑む。

「ええ、すごく。連れてきてくれて、ホントにありがとう」
「良かった・・・。じゃあ、これでお互い、悔いを残さず現実に戻れるね」
「現実?」

彼の言う意味がわからず、キャンディは不安顔になる。
それを少しでもや和らげてやろうと、アンソニーは細い肩に両手を置いて、もう一度微笑んだ。

時間が経過したせいか、太陽の光がほんの少し弱まり、さっきまでのまぶしさが消えている。
まるで、彼がこれから言おうとしている、辛い事実を暗示するかのように。

「キャンディ、落ち着いて聞いて。僕は明日、ボストンへ帰るよ。大おば様もすっかり良くなったし、もうここにいる理由がないからね」

青い瞳はまばたきもせず、エメラルドの瞳をじっと見つめた。
彼の両手は、まだ肩の上にあるのに、その温もりとは裏腹に、なんと残酷に響くのだろう。
突然の別れの予告は──
たった今、二人寄り添って夢の景色を眺めたばかりなのに。
それでも時は無情に流れ、アンソニーとキャンディの間に埋めがたい距離を作っていく。

これが運命か──
頭ではわかっているのに、感情だけが先走りする。
自分を抑えきれないほど混乱してしまう。
心の迷いに歯止めがきかず、思うままを彼にぶつける。

「いや!行かないで。お願いだから一緒にいて!だって私、あなたを失ったら・・・」

奥底にしまいこんだはずの涙が、堰(せき)を切ったように流れ出す。
どうあっても止めることが出来ない。
一瞬、頭の中から、「ブロードウェーの俳優」が消え去った。

こんなにも大切な人のはずなのに・・・

「あなたを失ったら、私はダメになるわ」

キャンディはうつむいたまま、アンソニーの腕にもたれかかる。
彼の手も、キャンディの肩に置かれたままだ。
本当は今すぐ引き寄せ、壊してしまうほど強く抱きしめたかった。
キャンディも、強い腕と広い胸に包み込まれていたかったろう。

だが理性はギリギリのところで感情を抑え込み、超えてはならない一線の手前で、二人を食い止めていた。
アンソニーの手が震え、キャンディの嗚咽(おえつ)が胸をしめつける。

「キャンディ・・・」

そう言いかけたとき、後ろから無機質な声が聞こえた。

「そこまででやめておくほうが賢明だな」

声の主(ぬし)が誰なのか、大体予想はつく。
振り返りたくはなかったが、アンソニーは覚悟を決め、静かに顔をそちらへ向けた。