「おっしゃるとおりです。僕が間違ってました」
目の前には、予想通りの人物が立っていた。
アルバート──アンソニーの叔父でキャンディの養父。
もっと正確には、アンソニーの好敵手であり、キャンディをかつて愛していた・・・いや、今も愛してやまない男と言うべきか。
「この前も言ったはずだ。常識の範囲内で行動してくれって。気持ちはわかるが、彼女が置かれてる状況を考えて欲しい。それに君はまだ学生だろう。責任を取れないなら、さっきみたいな行動に出るべきじゃないな」
それは至極客観的な意見だった。
年長者が青二才をたしなめるには、十分理にかなった説教に違いない。
だがキャンディは必死で食い下がる。
「違うのよ!悪いのは私なの。急に泣き出したりしたから、アンソニーは心配してくれて・・・」
「わかってるよ。だけど考えてもごらん。ここには人目がある。誰かにつまらない誤解をされたら面倒だろう?だから君は、ジョルジュと一緒にお帰り。向こうに車を停めて待たせてあるから」
アルバートが指さすほうに向くと、木立の中にひっそり、アードレー家の紋章が入った黒塗りの車が見えた。
「ここを探し当てて、連れ戻しに来たの?」
怪訝(けげん)な顔つきでキャンディが尋ねると、「違う。仕事の帰りにフラッと立ち寄っただけさ。契約が成立すると、いつもここに来て一息つくのが習慣になってるからね」とアルバートは笑う。
恐らく彼にとっても、この公園は束の間の自由を味わえる、憩いの場になっているのだろう。
そんなところまでアンソニーと似ているなんて、さすがに血は争えない。
「アルバートさんの言うとおりだよ。ジョルジュと一緒に帰ったほうがいい。僕ら二人が同乗するのは危険だ。君は婚約者が──しかも相当顔が売れてる婚約者がいる身だからね。もしテリィのファンに見つかりでもしたら、彼にとっても君にとっても、それこそ・・・まずいよ」
穏やかな声で諭すアンソニー。
艶(つや)のあるブロンドが、森の中を吹き抜けてくる風にあおられ、心地良く揺れている。
彼はもうとっくに平静を取り戻しているように見える。
ついさっきまでほとばしらせていた激情が、すっかりなりを潜めているのが寂しい。
だが、もともとニューヨークへ帰るように説得するためにここへ来たのだから、別れを切り出すのは当然のなりゆきだったのだ。
キャンディにも、それはわかっていた。
「二人の言うとおりにするわ。アードレー家やアンソニーに、迷惑かけちゃいけないもの」
寂しげな笑みを浮かべると、キャンディは背を向け、車のほうへ歩き出した。
一歩一歩、踏みしめるように。
あまりに辛いのか、アンソニーやアルバートを振り返ろうとはしなかった。
「僕のことを恨んでるだろう?無理やり君らを引き離して」
キャンディが去ったあと、二人きりで残された叔父と甥。
気まずい沈黙を破るかのように、アルバートが切り出した。
「いいえ全然。だって、あなたのしたことは正しいし、僕らは一緒にいちゃいけない間柄なんです。だから恨むなんてとんでもない!でも、一つだけ聞いていいですか?」
遠くの街並を見つめる甥に、叔父は促す。
「何?」
「さっきのは、養父としての気づかいからですか?それとも・・・」
口ごもる甥に、アルバートは先を急かす。
「それとも・・・なんなんだい?」
「彼女を愛する者として?」
「そのどちらも・・と答えたら、怒るかい」
アンソニーは黙ったまま、首を左右に振った。
「この前、ボストンで会ったときも言ったと思うが、僕は君を、一人前の男として認めてるんだ。だから子供だましの嘘はつきたくない。本音をぶちまけて、君の審判をあおぐよ」
淡々と言う叔父の顔が、妙によそよそしく見えるのは、気のせいか。
それとも、そんなふうにとらえてしまうのは、彼のことを意識しているせいなのか──勿論、恋のライバルとして。
風が強くなってきた。
サワサワと枝を揺らす木々に囲まれ、アンソニーは言い知れぬ不安を覚えた。
「正直に言うよ。キャンディが迷う姿を見るのは、もう嫌だ。一度決めた心が、また君に傾いて揺れるなんて考えたくもない。一日も早くテリィと幸せになって、安心させて欲しいんだ。そうしたらやっと、僕の長い春も終わりになるはずだから」
叔父のそのセリフは、アンソニーの心を強く揺さぶる。
(思ったとおりだ。まだアルバートさんは、キャンディのこと・・・)
彼も自分と同じように葛藤を繰り返し、悩み苦しみ、ようやく一つの答えを出せたのだろう。
そんなとき、自分が軽はずみな行動を取ったら、黙って見逃せなくて当然だ。
「アルバートさんの気持ち、よくわかります。でも心配しないでください。僕は明日ボストンへ帰りますから。そうすれば、キャンディも冷静になるでしょう。僕らの距離が離れて時間が経てば、妙な感情は消えると思います。それに、もう彼女に会うことはないでしょう」
きっぱり言い切るとアンソニーは向きを変え、眼下に広がるシカゴの街に視線を落とした。
ついさっき、キャンディと並んで眺めた風景が、そこにはある。
それと全く同じもののはずなのに、なんと違う世界に見えることか。
いや、恐らく彼の目には、何も映ってはいなかったろう。
目の前に広がる景色は、それほどまでに、意味のないものになってしまっていた。
「早く運命の相手に出会えるといいな」
甥の肩をポンと叩き、アルバートは静かに微笑んだ。
(いや、僕にはキャンディだけです。これから先も、ずっと)
本当はそう言いたかった。
だがアンソニーは寂しげな目をして、「お互いに」と笑った。
「良ければ、乗せてってくれないか。君の運転で」
「え?いいんですか。かまわないけど、命の保証はありませんよ」
「いいさ。死ぬときは一緒だから」
すると甥はすかさず、おどけてウィンクする。
「さぁ~、それはどうかな。僕は悪運が強いですからね!たとえ死んでも、きっとまた生き返りますよ」
笑って肩をすぼめる。
「こいつめ!」
叔父は、柔らかい髪に手を伸ばし、思い切りかきまぜた。
波打つブロンドが、たちまちクシャクシャになった。
翌日、ボストンへ帰るために荷造りをしていると、客間にノックの音が鳴り響いた。
「アンソニー様、失礼します。キャンディス様から、メッセージカードをお預かりしているんですが・・・」
外でメイドの声がする。
急いでドアを開けてカードを受け取ると、「ありがとう」と微笑む。
メイドは顔を赤らめ、嬉しそうに微笑み返した。
ドアを閉めて一人きりになったあと、そっと封を開けてみる。
ドキドキしながら、中のメッセージに目を走らせる。
いよいよお別れですね。
あなたが帰ってしまう前に、もう一度だけお話ししたいの。
例のバラ園で会えないでしょうか?
11時に待ってます。
どうか、願いがかないますように。
キャンディ
心の乱れが、文字の端々から伝わってくる。
昨夜は一睡も出来なかったに違いない。
話したい内容がどんなことなのか気になるが、アルバートと約束した以上、もう過ちを繰り返すわけにはいかない。
(彼女にわかってもらうには、どうしたらいいんだろう。ここは僕が悪者になって、嫌でもニューヨークへ帰らなきゃいけないように仕向ければいいんだけど・・・)
思案に暮れて腕時計をのぞき込むと、針はちょうど十時を指している。
そのとき、またノックの音が聞こえた。
胸がざわつく。
(まさか・・・キャンディ?)
期待と不安が入り混じった心境でドアを開けると、立っていたのは満面に笑みを浮かべたアルバートだった。
「おはよう。取り込み中に申し訳ないが、大切なお客様が君を見舞ってくれたんで、直接お連れしたよ。入ってもらっていいかな?」
唐突の申し出に面食らったが、断る理由もないので、「かまいませんけど、お客様って?」と尋ねる。
しかし答える前に、叔父はもう「客人」に手招きしていた。
「さあさあどうぞ、お嬢様」
エスコートされてドア口に顔を出したのは、意外な人物だった。
見慣れてはいるが、まさかこんなところで会おうなどと思ってもみない女性。
開口一番、アンソニーは目を白黒させながら叫んだ。
「フェリシア!?どうしてここに?」
「お久しぶりね~。でも元気そうで安心したわ。あなたがここへ来てから、もう二週間以上経つでしょ?さすがに心配になって偵察に来たのよ」
淡いグリーンのワンピースがエメラルドの瞳と調和し、いつにもまして美しく見えるのは、気のせいだろうか。
「まさか、ブライアンの差し金じゃないだろうな」
怪訝(けげん)な顔で見下ろし、アンソニーは苦笑する。
「それもあるけど、たまには実家に顔を出さなきゃと思って。これでも一応、シャルヴィ家の娘ですからね」
「やっぱりあいつが一枚かんだ話か。離れてても、相変わらずお節介なんだな」
文句を言う割に、まんざらでもなさそうなアンソニーは、きっとボストンの街並みを懐かしく思い起こしているのだろう。
地元をあとにして、しばらく時間が経っているから、キャンパスが恋しくなるのも無理はない。
「さて・・・と。積もる話もあるだろうから、二人でゆっくりしたまえよ。なんなら一緒にボストンへ引き上げればいいじゃないか。男一人の孤独な旅より、美しいご婦人を同伴したほうが楽しいに決まってる。見た目もサマになるしね」
アルバートが茶化すと、フェリシアは真っ赤になって下を向いてしまった。
「美しい婦人」と言ってもらえたことが、嬉しかったのだろう。
彼女がはにかむ姿を初めて目の当たりにしたアンソニーは、不思議な気分になった。
(男勝りのフェリシアが、あんなふうに頬を染めるなんて!僕やブライアンの前では、絶対見せない顔だな)
少女のように純粋な彼女が急に可愛く思えてきて、温かい気持ちに包まれた。
部屋を出て行こうとするアルバートに深々と頭を下げ、礼を言っているフェリシアの姿が目に映る。
やはり彼女も、好きな相手の前では、「けなげな女」になってしまうのだろう。
今まで知らなかった一面が垣間見え、なんだか新鮮だった。
その瞬間、アンソニーはとんでもないことを思いついた。
(そうだ!彼女に一肌脱いでもらおう)
平手打ちを食らう覚悟で、「女性としてのフェリシア」に賭けてみる気になったのだ。
「あのさ・・・突然で悪いんだけど、生涯一度の頼みごとを聞いてくれないかな?一生恩に着るから」
急に真剣な目になって、真正面から見つめてくるアンソニーに圧倒されてしまう。
「なんのこと?」
「時間がないんで詳しく話せないけど、一緒に来てくれればわかるよ。別に難しいことじゃないんだ。但し・・・」
そう言ってはみたももの、次のセリフを言いよどみ、考え込んでしまう。
しばしの沈黙が流れても、依然彼が口を開かないのでフェリシアはじれた。
「但し・・・どうしたの?」
「実はね、一瞬でいいから、僕のことをエドかアルバートさんだと思って欲しいんだ。そうでなきゃ、きっと君は僕を殴る。いや、殴るに決まってる」
返答を聞いて益々わからなくなったフェリシアは、いぶかしげな顔でサファイアの瞳を見つめ返した。
ややあって、穏やかな声がアンソニーの耳に届いた。
「いいわ。了解よ。あれやこれや突っ込むのはやめとくから安心して。だってあなた、すごく追いつめられた顔してるから」
「良かった・・・。心から感謝するよ。この借りは、いつかきっと返すから」
安堵して微笑むアンソニーの目は、窓から差し込む朝日でキラキラ輝いた。
だが、このとき何気なく言った、「借りは返す」というセリフが、のちのち二人の関係を複雑に絡み合わせていくなどと、誰に想像できたろう。
運命は、いつもアンソニーをもてあそぶ。
自らまいた種のせいで、キャンディがまた遠くへ離れていこうとしていることに、彼は気づかないままでいた。
それからしばらく、ブライアンやパティ、ローザ、リハビリ中のメイベルのことなど、今ボストンで起こっている話に花が咲き、アンソニーは身を乗り出して聞き入った。
一通り話し終わったところで、フェリシアは思い出したようにポツリと言う。
「そういえば、昨日、うちの使用人から妙なことを聞いたわ」
「妙なこと?」
「ダニエル──私の弟なんだけど、ダニエルが親しくしてる女性は、アードレー家のお嬢様だっていうのよ」
「え?」
意外なことを聞いて、アンソニーは驚いた。
アードレーとシャルヴィは、今でも敵対関係にある。
だから堂々と交際するのは、なかなか難しいだろうに。
もしその話が本当なら、ダニエルの相手は一体誰なのだろう。
いろいろ思い巡らしていると、フェリシアの声が現実に引き戻した。
「イザベル、イライザ・・・どっちだったか忘れたけど、そういう名前の人、いない?」
「イライザだって!?」
これにはもっと驚き、思わず絶叫してしまった。
「いるいる!イライザ・ラガンさ。彼女は分家の娘だよ。でもはっきり言って、男が好んで付き合うようなタイプじゃな・・・」
そう言いかけたとき、アンソニーの脳裏には、昨日ステアの墓参に行って偶然見かけたイライザの姿が蘇った。
彼女には、連れがいた。
ダークブラウンの髪にメガネをかけた、おとなしそうな青年だった。
「もしかして君の弟って、髪がダークブラウンでメガネをかけてる?」
「髪の色はそうだけど、近視じゃないわね」
「じゃあ、変装用の伊達メガネってことか。敵対してる家同士だから、デートするにも人目を忍んで・・・。まるで現代版ロミオとジュリエットだな」
一人で納得するアンソニーを不審に思い、フェリシアは「なんのこと?」と詰め寄る。
「君の家の使用人が、どうしてイライザを知ってるのか謎だけど、その噂は多分本当だよ。君の弟が付き合ってる相手は、アードレー家と縁続きの娘だ。こともあろうに、あのイライザ!」
意味ありげに「イライザ」の名を強調するアンソニーの真意がわからず、フェリシアは益々顔をしかめたが、どうしてもバラ園についてきて欲しいと懇願されるうち、この話題は立ち消えになってしまった。
時計の針が、運命の時刻を指す。
11時──キャンディがメッセージで指定してきた時間だ。
アンソニーは言われたとおり、バラ園に足を運んだ。
そこにはもう、キャンディが来ていた。
彼女は不安そうな顔をして、たった一人でたたずんでいる。
晴れ渡った空に入道雲が浮かび、頭上をゆっくり流れていく。
あたりには、甘いバラの香り。
絵に描いたように美しく、手入れの行き届いた花園は、キャンディが最後の賭けをするのにふさわしい舞台に思えた。
ここですべてをぶちまけ、もう一度初めからやり直したい──彼女は意を決し、ブロンドの若者に思いの丈(たけ)をぶつける。
「アンソニー!来てくれたのね。私・・・」
そう言いかけたとき、若者は屈託のない笑顔を向けた。
「やあキャンディ、いい天気だね。カードは受け取ったよ。ありがとう。昨日は、あれから無事に帰れたかい?ジョルジュの運転は、僕よりずっと安心だったろう?」
妙にサバサバしたその顔は、思いつめたキャンディの表情と対照的だった。
この差は、どこから生まれてくるのだろう。
それくらいアンソニーの陽気さは、とてつもなく不自然に思われた。
「ねえ、もしかして怒ってる?突然カードなんか贈ったから」
気になったキャンディは、益々不安に襲われた。
「別に・・・」
そばにあったバラの枝をつかむと、アンソニーは素早く引き寄せ、花びらを一枚むしって唇に当てた。
その直後、悩ましげなウィンクが投げられた。
いつものアンソニーと、どこかが違う。
彼は、女性に対して、こんなふうに思わせぶりな態度を取る若者ではない。
言葉では言い表せない違和感を覚えた。
挑発されているような気さえしてくる。
キャンディはいたたまれなくなり、今にも泣きそうな声で叫んだ。
「お願い!真面目に聞いてちょうだい。話っていうのは、テリィのことなの。私、やっぱり・・・」
だが、それをさえぎるように、アンソニーは一層大きな声で割り込んだ。
「ちょっと待って。君の話を聞く前に、謝罪させてくれないかな。実は僕、嘘をついてたんだ」
途端にキャンディの表情が曇る。顔が青ざめる。
不吉な予感が黒雲のように広がり、いても立ってもいられなくなってきた。
これから何を言われるのか、言い知れない不安が胸をかきむしる。
「フェリシアのことなんだけど。彼女はただの友達だって言ったよね?でも、ホントは違うんだ」
そう言うと、少し離れた木立のほうへ振り返り、大きな声で「彼女」の名を呼んだ。
「フェリシア!こっちへ来いよ」
呼ばれて姿を現したのは、ペールグリーンのドレスに身を包んだ、見目麗しい貴婦人。
少し離れた距離からも、艶(あで)やかなブロンドが際立っている。
髪をアップにし、シフォンの飾りをあしらっているところに品の良さが感じられる。
誰が見ても、文句なく美しい。
ため息が漏れるほど、魅力的な女性だった。
(この人がアンジェラの妹──なんて奇麗なの!きっと姉妹そろって、評判の美人なんでしょうね。それに比べて私は・・・)
落胆するキャンディに追い討ちをかけるように、アンソニーの声が重苦しく響く。
いつもとまるで違う、冷酷なトーンで。
「紹介するよ。こちらはフェリシア・シャルヴィ。僕の大切な人だ」
──大切な人──
そう言われ、もう少しで失神するところだった。
無情な告白が脳天を突き破り、心臓をキリキリもむ。
アンソニーの隣に寄り添う貴婦人は、バラのように華やかで、蝶のように可憐(かれん)で、二人並んで立つ姿は、一幅の絵のように完璧だった。
どこから見ても、美男美女。似合いのカップル。
微笑みながら会釈するフェリシアの目が、自分と同じエメラルドグリーンであることも、キャンディのコンプレックスを刺激した。
耐えられなかった。
「大切な人って・・・恋人なの?」
震える声が発せられ、すがるような眼差しがアンソニーを見上げた。
「そういうことになるかな」
日焼けした、たくましい腕がフェリシアの肩に回され、強く引き寄せた。
「嘘でしょ?嘘だわよね?私は信じない。だって、あなたは言ってくれたじゃない。『彼女とは、なんでもない』って」
目に涙をいっぱいためて訴えるキャンディを哀れむように、アンソニーは薄い笑いを浮かべた。
「あのときは、気をつかったつもりだよ。ほら、よく言うだろ?『優しい嘘』って。もし本当のことを言ったら、あのあと、君は口もきいてくれなかっただろうから」
ショックのあまり、頭が真っ白になり、舌が萎縮して言葉が出てこない。
瞬く間に頬から赤みが消え、唇が紫色になった。
足の震えだけが全身を支配し、これでもかというほど、小刻みに体を揺らした。
「そんなに疑うなら、証拠を見せてあげるよ。ここまでしても、彼女が恋人じゃないって思える?」
そう言うなり、フェリシアの肩に手を回したまま自分のほうへ向き直らせ、細い顎(あご)先を人差し指で持ち上げて身をかがめた。
次の瞬間、キャンディの目の前で、悪夢のようなシーンが広がった。
重なり合った二人の唇が、蜜のようにとろけ合い、その残像が鋭い刃となって心臓をえぐった。
刺すように強烈な光景が、水晶体に映し出される。
アンソニーが目の前で、他の女性とキスするなんて!
しかもこんなに激しく、官能的に。
彼の裏切りを、まともに見られない。いや、見たくはない。
正視したら、きっと狂ってしまうだろう。
そう思ったキャンディは、目をつぶったまま二人の間に割って入り、力任せにアンソニーの頬を殴った。
「バカにしないでよ!じゃあ、今までのはなんだったの?楽しかった時間も、温かい言葉も、優しい眼差しも、全部ウソだってこと?」
涙があふれ出す。あとからあとから、まるで湧水のように。
熱くて激しい滴(しずく)が、頬を伝って滑り落ちた。
エメラルドの瞳が、怒りでメラメラ燃える。
だがアンソニーは無表情のままだ。
いや、それどころか、不敵な笑いさえ浮かべている。
隣にいるフェリシアは、突然の彼の行為に言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
真夏だというのに、凍りついた時間が三人の間に流れる。
「君だって、もう子供じゃない。いい加減に現実を見ろよ。僕はいつまでもバラの門の王子様じゃないんだ」
そのセリフは、キャンディの心を鷲づかみにした。
ショックのあまり、全身に震えが来る。
「あなたからそんなこと言われるなんて、思ってもみなかった。幻滅よ」
「幻滅?フッ・・・強烈だね。でも丁度いい機会だろうな。こんな不実な男のそばでモタモタしてないで、早くフィアンセのところへ帰れよ。それが一番いい」
アンソニーは殴られて赤くなった頬に手を当て、吐き捨てるように言った。
「言われなくたって、そうするわよ。もう二度と会わないわ。さよなら!」
血走った目でアンソニーをにらみつけると、フェリシアには目もくれず、キャンディは全速力でバラ園から逃げ出した。
あとに残るのは、苦い嘘と胸の痛みだけ。
平手打ちを食らった頬より、心に負った傷のほうが、もっと深くて痛い。
茫然自失したアンソニーは、がっくり肩を落とし、しばらくの間は顔を上げることさえ出来ずにいた。
かなりの時間が経ってやっと前を向くと、えもいわれぬ哀しい目をして、愛する人が去っていった方角を見つめた。
深いため息が漏れる。
「ごめん。君にひどいことをした。改めて殴ってくれていいんだよ。僕はエドワードでも、アルバートさんでもないんだから」
フェリシアのほうを向き、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ホント、失礼な人よね~。まさかこんな芝居をやらされるなんて・・・驚いたわ。じゃあ、お言葉に甘えて一発殴らせて、って言いたいところだけど、やめとく」
「え?」
「だって二発目をもらったら、あなた、この場で倒れそうだもの。立ってるのがやっとって感じよ。それに顔が腫れちゃうわ。かなり手ひどくやられたようだから」
そう言ってフェリシアは笑った。
アンソニーも照れ笑いする。
「さっきの彼女のこと・・・ホントに好きなのね。婚約者がいるようだけど?」
早くフィアンセのところへ帰ったほうがいいと言ったのを聞き逃さなかったのだろう、さりげなく尋ねられたが、アンソニーははぐらかした。
「悪いけど、今は何も聞かないで欲しいんだ。正直、相当へこんでるから。心も、ここも、全部ね」
ぶたれた頬を指差す彼に、フェリシアはふふっと小さく笑う。
「それと、ボストンへは君一人で帰ってくれないか。今日はなんとなく一人でいたいんでね。僕は夕方の汽車で発つよ。何から何まで、わがまま言ってすまない。虫のいい話だってのは重々わかってるんだ。だから・・・さっきも言ったけど、この借りは、いつか必ず返すから」
勝手な申し出を快諾してくれたフェリシアの優しさに、心から感謝した。
陽射しは相変わらず暑いはずなのに、なぜか肌寒くさえ感じられ、美しいバラ園も、今はうらさびれた荒野にしか見えなかった。
泣きながら屋敷のほうへ走っていくと、東の門にたどり着くあたりで、キャンディはアーチーに出くわした。
本当はこんな姿を誰にも見られたくなかったが、隠しようがない。
観念したように正面を向き、澄んだ青い瞳を見上げた。
あふれ出る涙に、アーチーは驚く。
「一体どうした?アンソニーと何かあったのかい?」
キャンディは涙をぬぐおうともせず、目を大きく見開いて、自分に言い聞かせるように叫んだ。
「今わかったわ。この前あなたに聞かれた質問の答えが、やっと出たの」
「なんのこと?」
唐突に切り出され、戸惑いを隠せないアーチー。
「テリィにはなくて、アンソニーにしかないものを探すといい──そう言ってくれたでしょ?やっとわかったのよ。なんだかわかる?それはね、人を平気でだます心──これが答えよ。だってテリィは私を裏切ったことはないもの。スザナを選ばなきゃならなかったあのときだって、彼は一生懸命だった。私のこと、真剣に思ってくれた。でもアンソニーは・・・」
そこまで言うとキャンディは号泣し、がっくり膝を追って地面に突っ伏した。
驚いたアーチーは、あわててかがみこんで抱き起こす。
「何があったんだい?僕で良ければ力になるよ。落ち着いてゆっくり話してごらん」
潤んだ瞳がアーチーを見つめ、次の瞬間、夢中でしがみついた。
「彼、フェリシアと付き合ってたの!」
「フェリシア?」
「アンジェラを知ってる?昔、アンソニーが好きだった人。フェリシアはその妹。今度はアンジェラの妹を恋人にしてるのよ。この前はただの友達だって言ってたくせに」
「信じられないな。あいつがそんな嘘をつくわけない。それに、付き合ってる女性がいるなら、僕に紹介してくれそうなもんだし」
混乱するアーチーの前に、通りがかりに様子をうかがっていたアルバートが割って入った。
「フェリシアと一緒にいるところを見たのかい?」
揃って地面に膝をついている二人に声をかけた彼は、すべて事情をのみこんでいるように見える。
その姿を認めたキャンディは、支えてくれるアーチーの腕をすり抜け、養父の広い胸に飛び込んで泣き出した。
「アンソニーったらひどいのよ!私の目の前でフェリシアと・・・」
そこから先は言葉にならなかったし、したくもなかった。
ただ黙ってアルバートの白いシャツを握りしめ、顔をうずめた。
(フェリシアと何をしたんだ?恋人のふりをしてキスでもしたか。いずれにせよ、随分と苦い決断を下したようだな。キャンディのためなら、そこまで泥をかぶってもかまわないってことか。それにしても、フェリシアを恋人に仕立てるとは、よく考えたよ。案外君はテリィより芝居がうまいかもしれないぞ)
そう思いながら、なぜか焦りを感じた。
捨て身の献身も惜しまない、アンソニーの深い愛を知って嫉妬した。
いつまでも子供だと思っていた甥が、いつの間にか一人前の男に成長していたことを目の当たりにしたのだ。動揺しないほうが、どうかしている。
(アンソニー・・・本当に大人になったな。もしテリィの存在がなくて、僕らがライバル関係にあったとしたら、考えただけでゾッとするよ。本気で争って、果たして僕は君に勝てたかどうか。だけど、キャンディをこんなに悲しませるなんて感心できない。少なくとも僕なら、こういう手段は選ばないだろう。最後の最後で、愛する人を追いつめてしまう――この余裕のなさ・・・若さゆえか。僕が君に勝てるとしたら、そんなところだろうな)
「あんなに奇麗な恋人がいるのに・・・!今まで思わせぶりなことを言ってたなんて許せないわ。おまけに最後は平気な顔して、『フィアンセのところへ帰ったほうがいい』なんて言うのよ」
泣き言を繰り返すキャンディに、アルバートは至極常識的な宣告を下した。
「残念だけど僕も同感だよ。もうアンソニーの顔なんて見たくないだろ?」
優しい慰めを期待していたキャンディは、予想外の言葉を投げられて戸惑い、どう答えていいか、わからなくなってしまった。
「恋人がいることを隠しておくような男は、忘れたほうがいい。それより君には、もっと大切な人がいるだろう。テリィはニューヨークで、ずっと帰りを待っていてくれるんだよ。その真心を裏切っちゃいけない。わかるね?」
アンソニーを手厳しく批判するアルバートに反発を覚え、アーチーはたまらず割り込む。
「ちょっと待ってくださいよ!それじゃ、あまりにあいつが気の毒だ。これにはきっと、何かわけがあって・・」
だがアルバートは、首を左右に振って制止した。
キャンディに気づかれないように、そっと静かに。
後先考えずに熱くなったアーチーは、その合図を見て「何か」を感じ取ったのだろう。それ以上は続けられず、黙り込んでしまった。
「キャンディ、悪い夢を見たと思って早く忘れるんだ、アンソニーとフェリシアのことは。ジョルジュに駅まで送らせるから、このままニューヨークへお帰り。大おば様やアニーにお別れを言って、すぐ発ったほうがいい。ウロウロしてると、またあの二人に見せつけられるぞ」
半分おどけてそう言うと、内ポケットからハンカチを取り出し、キャンディの涙をぬぐった。
そして小さな子供にするように、優しく頭をなでてやった。
「ありがとう、アルバートさん。それにアーチー。私、もうあきらめた。それによく考えてみたら、おかしな話よね?大切なテリィがいるのに、アンソニーの恋人に嫉妬するなんて。どうかしてたわ」
涙の跡を残しながらぺロッと舌を出すキャンディは、努めて明るく振舞ったが、どこか痛々しかった。
強がりを言ってみたものの、今もまだ忘れられない初恋の人の面影をしまいこみ、うつむき加減で去っていく。
その背に、真夏の太陽が照りつける。
赤く、激しく、そして哀しく・・・。