キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に) -32ページ目

キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

アンソニーメインの二次創作・ファンフィクション「バラの薫る季節に」を掲載しております。

「本気で思ってるんですか?さっきキャンディに言ったこと」

やけにサバサバしているアルバートに違和感を覚え、アーチーは語気を強めた。

「まさか。そんなはずないだろ。アンソニーの真意は、痛いほどわかってるつもりだよ」
「真意?」

はっきり事態をのみこめず、もどかしい表情でアーチーは当主を見すえた。

「シャルヴィ家のアンジェラは知ってるだろ?その妹のフェリシアっていう娘が、アンソニーと同じ研究室にいるのさ。今朝、突然見舞いに来てくれてね。実家に帰省したついでだとか言ってたが、恐らく彼女に頼み込んで、一芝居うってもらったんだろう。キャンディが自分を嫌うように」
「芝居って、どういうことです?」

アーチーがそう言うか言わないうちに、浮き立った声がさえぎった。

「おっと、そうこうしてるうちに本人の登場だ。僕らがあれこれ思い巡らすより、直接聞いたほうが確かだよ」

アルバートはしたり顔で、裏庭から続いている小道を指差した。
その方向を見ると、魂の抜け殻のようになったアンソニーが、足元もおぼつかないまま、フラフラ歩いてくるのが視界に入った。
まるで生気がなく、立っているのがやっとという感じだ。
酔っているようにさえ見える。
辛すぎる姿を見るに見かねたアーチーは、駆け寄って彼の体を支えた。

「なんてかっこうしてるんだよ!」
「そんなにひどい?」

抱えられたアンソニーは、上目づかいでアーチーを見る。
焦点の定まらない瞳は、澱(おり)がたまったように濁り、顔面は蒼白だが、目の周りだけ赤みを帯びていた。
泣いていたのだろうか。
およそ、いつものアンソニーらしくない。
心の憂いが顔に表れると、こうも雰囲気を変えてしまうものなのか。

「キャンディの前で何をしたんだよ。彼女、泣いてたぞ」
「僕のこと、軽蔑してたろう?」

薄笑いを浮かべるアンソニーに、アーチーは返す言葉を失った。
困り果てた視線を弱々しく投げるだけ。
だが、アンソニーが状況を察するには、それで十分だった。

──キャンディは自分に愛想をつかして、ニューヨークへ帰ろうとしている──

何も言われずとも、一瞬にしてそう悟った。

「フェリシアとキスして見せたのさ。あのくらいやれば、さすがに誤解するだろうと思って。これで僕のことなんか忘れて、心置きなくテリィのところへ帰れるってわけだ」
「馬鹿野郎!なんでそんなことしたんだよ。彼女がどんなに傷ついたか、わかってるのか?それに、どうしてお前がそこまで悪者にならなくちゃいけないんだ」

あきらめ顔でうつむく相手の襟首をつかむと、アーチーは思い切り揺さぶった。
だがアンソニーは、されるままになっている。

「心の傷はテリィが癒してくれるさ。すべては時間が解決する」
「じゃあ、お前はどうなるんだ?キャンディのために暴漢に襲われたり、わざと嫌われるようなことをして身を引いたり、これじゃあ、救いがなさすぎる。なぜそこまで自分を犠牲にして・・・」

力任せに揺さぶるアーチーを見かね、アルバートが割って入る。

「そうやって責め立てたら、アンソニーは益々辛くなるだけだ。ここは一つ、見て見ぬ振りをしてやろうじゃないか。そうすれば、彼がやったことも報われるってもんだ。現にキャンディは、やっとニューヨークへ帰る気になったんだから」
「でも僕は納得できませんよ。たとえキャンディとテリィが結ばれたとしても、それはアンソニーの犠牲の上に成り立ったものなんだ。そんなのは本物の幸せじゃない。アンソニーも幸せになって、初めてすべてが解決するんじゃないですか?」

きっぱり言ってのけたアーチーは、珍しく一歩も引かなかった。
丸く収めようとするアルバートを正面から見すえ、この当主が一体なんと言い返してくるか、じっと待っているように見える。

「じゃあ君は、どんな展開になれば、アンソニーが幸せになったと思えるんだい?」

アルバートも目をそらさず、燃えたぎるマリンブルーの瞳をなぞった。

夏の午後だというのに、風がひんやり感じられ、論じ合う三人の男の頬をかすめていく。
まるで時間が止まっているようだ。

「二人とも、もういいよ。僕は十分幸せだから気にしないで」

緊張をほぐすようにアンソニーの声が静寂を打ち破ったのは、そのときだ。

「どこが幸せだって?お前はウォルターに殺されそうになったんだぞ。おまけに家を追われ、キャンディも奪われ、アンジェラにも死なれて・・・」

興奮するアーチーに、アンソニーはポツリと言う。

「幸せを測る尺度は、人によって違うんだよ。お前には不幸に思えることでも、それが僕にとっても不幸だとは限らない」

達観したセリフに、アーチーは勿論のこと、アルバートまでが息を呑んだ。

「なあアーチー、お前には素敵な奥さんがいるし、もうすぐ子供も産まれる。それに堂々とアードレーを名乗り、MBAを取って、家のために働くことを期待されてる。それに比べて僕は今でも独身だし、知らない土地で何年も暮らしてる、しがない医学生だ。誰が見たって『かわいそうな奴』だよ。だけど僕は自分を不幸だと思ったことなんか、一度だってない。最大の不幸は、他人と比較することにあると思うから」

必死で語るアンソニーを見ているうち、アルバートは胸苦しくなった。
この若者が、どんな思いで不遇と対峙してきたのか、今更のごとく思い知らされた。
きつね狩り直後の姿が蘇ってくる。
あまりの痛ましさに身震いした。

(思えば、よくここまで回復したよ。あのまま死んでしまっても、あるいは廃人になったとしても、全然不思議じゃない状態だったのに・・・)

死の淵(ふち)から舞い戻り、こうして立派に生きている甥が、たまらなく愛しく思えてくる。
思わず歩み寄り、その肩に手を置いた。

「今こうして生きていること自体、君にとっては大きな幸せなのかもしれないな。あの事故で命を落としていたら、医学生のアンソニー・ブラウンは、ありえなかったわけだから」

叔父の言葉にうなずき、アンソニーは無言で空を見上げる。

「早く運命の相手に出会えるといいな。フェリシアのこと、どう思ってるんだい?芝居なんかじゃなく、この際、本気で彼女と・・・」

言いかけた言葉をさえぎるかのように、甥は苦笑した。

「知ってました?運命の相手は、この世に一人しかいないんですよ。それにフェリシアが好きなのは僕じゃない」
「え?」

意外な顔をする叔父に、茶目っ気たっぷりにウィンクした。

「彼女はね、別に僕の見舞いに来たわけじゃないんですよ。それは口実。ホントはある人に会いたくて、いそいそやってきたんです。普段は着たこともないような女らしいドレスを着てね」

言外の意図を汲み取り、アーチーも含み笑いをする。

「じゃあ、彼女のお目当ては、この家の主人ってところか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

クスクスス笑い合う若い二人を睨むと、アルバートは、「お前たちなぁ、アードレー家当主をからかうと、どういうことになるか、わかってるんだろうな」とすごむ。
あまり効き目はなさそうだったが・・・。

「とにかく僕は大丈夫です。さすがにさっきはへこんだけど、大分落ち着きましたから。このくらいのことには慣れてます。それよりキャンディが心配だ。ついててやってくれませんか?」

叔父に、乞うような視線を向ける。

「こいつの言うとおりですよ。アンソニーは僕がシカゴ駅へ送っていきますから」
「いや、いいんだよ、アーチー。悪いけどタクシーで行く。一人で考えたいこともあるし。お前はアニーのそばにいてやれ。な?」

申し訳なさそうに笑みを浮かべるアンソニーが気の毒すぎて、アーチーはそれ以上何も言えなかった。




午後になると、キャンディとアンソニーは相次いで本宅を後にした。
エルロイやアニーやホイットマンに別れの挨拶をし、別々に引き上げていく。
二人とも、癒しがたい傷を抱えたまま。

アルバートに付き添われ、ジョルジュの運転で駅まで送ってもらったキャンディは、最後の最後まで憮然としていた。

「今回ほどアンソニーに会って後悔したことはないわ。こんなふうに別れるなら、いっそ会わなきゃ良かった。だって私、彼のことは奇麗な思い出のまま、しまっておきたかたったんだもの」
「これから先、一生?」

問い返すアルバートに、黙ってうなずく。

「そりゃあ大変な重荷だなあ。あいつだって、いつまでも優等生の王子様じゃないんだ。あるがままの姿で封印してあげることが、せめてもの優しさじゃないかな」

聞いた途端、無性に胸が痛んだ。

(もしかして私、アンソニーを理想化しすぎてたのかもしれないわ)

「こっちでアンソニーに会ったこと、テリィには黙ってたほうがいい。要らぬ心配をかけたら気の毒だからな。いいかいキャンディ、これから大切なのは、君たち二人が、いかに力を合わせて幸せをつかむかなんだ。だからこの二週間で起こったことは、すべて忘れなきゃいけない。何よりテリィのために」

首を縦に振り、深く息を吸い込むと、キャンディは頭上に広がる青い空を見上げた。
まるで自分自身を鼓舞するかのように。

(これから現実に戻るのね。夢の世界はもう終わり。私が好きだったアンソニーは、どこにもいなくなってしまったし)

あきらめ顔でため息をつくと、頬に強い日差しが照りつけ、まぶしすぎる光に思わず目を閉じた。



一方、アンソニーはアーチーと再会を約束すると、一人でタクシーに乗り、駅への道を揺られていった。
苦い想いを胸の奥にしまい込み、ひたすら前だけを見つめて。

(父さん、母さん、今やっとボストンへ帰るよ。大おば様の見舞いに来ただけのつもりだったのに、とんだ長居をしちゃったな)

ポケットに手を突っ込み、別れ際にアルバートから渡された紙包みを探り当てて取り出すと、ゆっくり開いて中を見る。

「これは・・・」

“May God bless you (神のご加護を)!”と、ペンで走り書きしてある紙に包まれているのは、アードレー家の紋章だった。
それは少年の日、キャンディから見せてもらった「王子様の落し物」と同じ型のバッジ。
どんな思いで叔父がこれを託したか考えると、目頭が熱くなった。
アードレーを名乗れず、キャンディもあきらめなければならず、たった一人で去っていく自分に、叔父は無言のメッセージをくれたのだろう。

──たとえ今はどんな状況にあろうとも、君がアードレー家の一員であることに変わりはないんだ──

そう断言するアルバートの声が、すぐそばで聞こえたような気がした。

(ありがとう、アルバートさん。なんだか勇気が出ました。たとえ名乗り合えなくても、僕らは同じ血で結ばれてるんですよね。だからアードレーの名に恥じないよう、精一杯頑張ります。いつかここへ帰ってくる日のために)

傾きかけた日が、タクシーの窓から差し込んで横顔を照らし、彼はまぶしそうに往来の人ごみを見つめる。
疲れてはいたが、その瞳は決して濁ってはいなかった。




ニューヨークに戻り、明日からまた元の生活が始まるという日、キャンディはテリィと落ち合い、馴染みのレストランで夕食を共にした。
店内の灯(あか)りは控え目で、心地良い音楽が流れている。
幸い客は多くなく、さほど周りに神経をつかわなくてすむから、ありがたかった。
二週間以上も会えなかった上、今度はテリィがウィスコンシンに巡業に行くことになっているから、二人にとって今夜は貴重な時間だった。

「ずっと大おば様の世話で大変だったんだろ?」
「ええ。でも、すっかり良くなったからホッとしたわ」

気づかってくれるテリィに、キャンディは嬉しそうに微笑んだ。

「アルバートさんには会えた?それにアーチーやアニーにも」

一瞬ドキッとしたが、「勿論!みんな元気よ」とだけ答えると、口をつぐんだ。
アンソニーのことは、どうしても言えない。
秘密を作ってしまうようで後ろめたい気がしたが、アルバートに口止めされたとおりにした。
要らぬ心配は、かけないほうが賢明だろう。
それが優しさというもの、恋人同士のルールというもの──キャンディはそうやって、自分を納得させようとした。

(テリィ、ごめんなさい。嘘をついてるわけじゃないのよ。あなたとうまくやってくために、言わないほうがいいと思うの)

心の中で詫び、「アンソニー」の名は、そっと胸にしまいこんだ。


そのとき、少し離れたテーブルに座っていた若い女性二人が、「話題のカップル」に気づいてヒソヒソ話を始めた。

「ねえ見て!ストラスフォードのテリュースよ。一緒にいるのはフィアンセじゃない?」
「あら~、ホント。驚いたわ。テリィが笑ってる。ファンには笑顔を見せたことなんて滅多にないのに。彼女にだけは特別なのね」

そう言われ、もう一人の女性も興味深げにトップスターを見つめた。

「あのクールさが魅力に思えたのよ、以前は。でも今は・・・ちょっと違うんじゃないかと思っちゃう」
「同感!レイモンドはいつも愛想が良くてファンサービスに徹してるから、余計に差がつくのよね」
「そうそう。やっぱり優しくしてもらったほうが嬉しいに決まってるわ。なんたって『100万ドルの笑顔』ですもの、彼」

二人は口々にレイモンドを讃(たた)え、すぐそばにいる役者にはサインをねだろうともしない。
ほんの一、二年前だったら、冷たくされるのを承知の上で、近寄っていったはずなのに。

キャンディもテリィも、元ファンが自分たちを肴(さかな)に、噂話に花を咲かせていることなど気づきもしなかった。


「ねえ、新作のオーディションはどうだったの?いい役がもらえそう?」

努めて明るく切り出したが、テリィの返事は「ああ、多分ね」とそっけない。
恐らく今回も、主役はレイモンドに決まるのだろう。
たとえそうだとしても、キャンディはいっこうに構わないが、テリィはそう見えない。

これからまた、長い闘いが始まる。
彼を勇気づけ、励まそうとしても空回りしてしまうジレンマ。

出口のないトンネルのような悪夢。非力な自分──すべての圧力に押しつぶされそうになり、キャンディはため息を漏らした。
テリィに気づかれないよう、息を殺してひっそりと。

その様子に気づいたのか、彼は穏やかな目で語る。

「俺にとって一番大切なのはキャンディなんだ。だからファンにどう思われたっていい。『テリィは無愛想だから嫌い』だって、離れていくファンもいるけど、そんな奴らはこっちから願い下げだ。作り笑いがうまいレイモンドのところへ行くがいいさ。嘘の姿を演出してまで売れようとは思ってないから。これからも俺は、君のためだけに演技する。それでいいか?」

真剣な眼差しが嬉しくて、キャンディは涙が出そうになった。
テリィはこんなに一生懸命なのに、一時(いっとき)でもアンソニーになびいた自分が許せない。
これからは絶対によそ見なんかしないと誓い、バラの門の王子を封印した。




ボストンに戻ったアンソニーは、数々の便宜を図ってくれたブライアンに心底感謝したが、一つだけ小言を言うのも忘れなかった。

「キャンディに会ったんだって?彼女から聞いてびっくりしたよ。そんなこと、君は一言も言わなかったじゃないか」
「今頃になってバレちゃったわけ?」

焦る相棒に、アンソニーは「残念ながらね」と苦笑する。

「黙ってたのは謝るよ。でも、君には言いたくない内容だったから・・・」
「大体の想像はつくさ。『テリィと結婚する前に、もう一度アンソニーのことを考え直して欲しい』とか言ったんだろ?」
「鋭い!」

ブライアンは驚き、目を白黒させた。

「なんでわかった?」
「君が考えることなんかお見通しだよ。なぜって、もし僕だったら、やっぱり同じことを言っただろうから」

ウィンクして椅子に腰掛けると、テーブルに用意してあったワインの栓を開け、グラスに注ぐ。

「今度という今度は、本格的に嫌われちゃったよ、キャンディに。これでホントに終わりだ」

アンソニーは苦い顔で、ワインを注いだグラスを勧める。
受け取りながらブライアンは、やれやれと肩をすぼめた。

「何があったんだ?話して楽になるなら聞いてやる。もっとも、聞きたくないって言ったって、話すんだろうけど」
「違いない」

アンソニーはふふっと笑った。
そしてシカゴで起きた顛末(てんまつ)を話し始める。
最後にはフェリシアを巻き込んで、とんでもない幕引きになったことも、何もかも。

ブライアンはブライアンで、初めてアーチーに会ったことを親友に告げた。
「とてもいい奴だったよ」と興奮気味に。

窓の外には漆黒の闇が広がっていたが、満天に広がる星は、地上であくせくするちっぽけな人間たちの生態を浮き彫りにしていた。




その晩キャンディは、何度も苦しい夢を見てうなされた。
まるで断末魔のうめき声に聞こえたから、心配になったモニカは、たまらず揺り起こす。

「大丈夫?一体どうしたの?」

体を揺さぶられ、驚いて目を開けると、燭台を片手に枕元にかがみこむ親友の顔がぼんやり見えた。

「モニカ・・・」

キャンディはおびえたような目をしている。

「苦しそうに何回も叫ぶから心配になっちゃったの。だって放っておいたら、死んじゃいそうだったんだもの」
「叫ぶって、何を?」
「彼の名前よ」
「テリィ?」

モニカは首を横に振り、押し殺すような声で言った。

「アンソニーよ」

途端、キャンディの目には熱いものが込み上げ、やがて滝のように頬を伝った。

「泣いてちゃわからない。何かあったのね?もしかしてシカゴで?」

優しい声を聞くや、堰(せき)を切ったようにキャンディは泣き叫んだ。

「アンソニーったらひどいのよ。思わせぶりな言葉をさんざんかけておきながら、フェリシアっていう恋人がいたんですもの。しかもその人、誰だと思う?」

モニカは黙っていた。

「アンジェラの妹なの。知ってるでしょ?あのアンジェラよ。彼女が死んだあとは妹と付き合う・・・そんなの最低!とにかく奇麗な人だったわ。私なんかより、ずっとずっと。でも瞳は私と同じエメラルドだった。だから余計にショックで」
「ショック?」
「だってキスしたのよ。私の目の前で!肩に手を回して、抱き寄せて・・・」

そこまで言うと耐えられなくなり、キャンディは飛び起きてモニカにしがみついた。
燭台の灯りが大きく揺れ、苦悩する影をシーツに映し出す。

「それにはきっと、何かわけがあるはずね。私はアンソニーがそんな人だとは思わないわ。でも・・・」

燭台をテーブルの上に置くと、キャンディの髪を撫でながら、モニカは静かに言う。

「でもね、そんなのは、もうどうでもいいことなのよ。だって彼はあなたの恋人でもないし、フィアンセでもないんだから。たとえそのフェリシアと本当に付き合ってるとしても、責める権利はないのよ。わかるでしょ?」

射抜くようなセリフを放たれ、一瞬クラクラしたが、モニカの言い分がまっとうであることだけは理解出来た。
確かにアンソニーは自由だ。
誰を好きになろうが、誰とキスをしようが、責めることなど一切出来ない。
当の自分には、フィアンセという決定的な存在がいて、将来を約束しているのだから。

「シカゴで起きたことは全部忘れなきゃいけないわ。それが幸せになるための条件よ。あなたは初恋の幻影に手足を縛られて、前に進めないだけなの。そんなのは私だけで沢山!」

涙声のモニカには妙な説得力があった。
何年も引きずっているクリストファーへの想いが、現実味を持たせるのだろう。
髪に触れられた手の温もりを感じながら、キャンディは、心のおもりが、ほんの少し軽くなっていくのを噛みしめていた。




間もなく八月になろうという頃、アンソニーは、たまっていた論文を仕上げ、未消化のセッションも終了させ、やっとブライアンに追いついた。
シカゴで足止めを食らった二週間は痛かったが、これで遅れを取リ戻した。

今日は晴れて現場に復帰する日。
長いこと顔を見なかったローザの病室へ行けると思うと、ワクワクする。
回診というより、まるで恋人に再会する気分だった。

循環器科の病棟へ向かう道すがら、アンソニーはブライアンと短い会話をかわす。

「これですべてが日常に戻るな。ローザさんは君の帰りを待ちわびてたようだから、すごく喜ぶはずだ」
「ホントに?」

アンソニーの顔がパッと輝く。

「よっぽど似てるんだろうなぁ、彼女の亡くなった息子さんと君。悔しいけど、俺のことはそれほど気に入ってくれてないらしいよ」

ブライアンがウィンクすると、アンソニーはちょっと自慢げに胸を張った。



病室に入って窓際の定位置に目をやると、彼女はいつものように半身を起こし、窓外の景色を眺めていた。
そっと近づき、「ローザさん」と声をかける。
瞬間、彼女は驚いたように目を向け、「アンソニー先生!」と言う。
聞いたこともないような、興奮気味の声で。

「ずっと不在にしてすみませんでした。もうお聞きでしょうが、親類が倒れたのでずっとシカゴにいたんです」

恐縮する青年に、ローザは嬉しそうに微笑んだ。

「本当に大変でしたこと。さぞやお疲れでしょう?私なら大丈夫です。そこにいらっしゃる若先生が、それはそれは親切にしてくださいましたから」

優しい眼差しを向けられ、ブライアンは珍しく赤くなってしまった。


しばらく雑談したあと、二人の医学生は引き継ぎ事項を確認する。
これからブライアンは、自分の担当患者がいる別の病棟へ向かうのだ。
彼が出て行ったあと、午後の講義が始まるまでには、まだ間があった。
少し話をしようと思って、アンソニーはベッドサイドの椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「少しお痩せになったんじゃないですか?何か悩んでいることでも?」

心配そうなローザの視線をまともに受け、ばつが悪くなってしまう。

「あなたに隠し事は出来ないみたいですね。実は彼女に・・・キャンディに、ひっぱたかれちゃって」

ローザは驚き、なぜ?という目をした。

「彼女が婚約していることはお話ししましたよね?僕のことは早く忘れてフィアンセの元へ戻って欲しかったんです。だからわざと彼女の目の前で、他の女性と・・・」

そこでつまってしまったが、ローザには十分だった。
キャンディの前で何をして見せたのか、容易に想像がつく。

「随分と憎まれ役を買って出たんですね。本当は好きなのに、わざとお芝居をしなきゃいけないなんて、さぞ辛かったでしょう。でもね、平手打ちをするってことは、彼女もあなたを愛してる証拠です。忘れようとしても忘れらないくらい、深く。それが先生にとって、いいことか悪いことかわかりませんけど」

まるで少女のように、いたずらっぽく笑うローザ。
その笑顔に救われた。
道に外れているとわかってはいても、キャンディがまだ心を寄せてくれているのが、どんなにか嬉しかった。

「思うようにいかないものですね、人生って。そんなお顔を見ていると、昔を思い出しますわ。私にも先生と似たような経験がありますのよ」

謎めいた微笑を浮かべながら窓の外を見る彼女のブロンドに、太陽が一筋の光を投げる。
黄金色に輝くその頬は、神々しくさえ見えた。

「良かったら話してくださいませんか?」

聞きたくてたまらないという目をする医学生。
ローザはまた微笑んだ。

「長い話になるかもしれませんよ」
「かまいません」

青い瞳が真剣に見つめてくる。

もう、かわせそうもなかった。
ローザは深く息を吸い込んで吐き出すと、ゆっくり語り始めた。

「私の実家は貧しかったので、十五の頃から奉公していたんです。あれは二十歳のときでした。そのとき仕えていた家の偉い方に見初められて、私は恋に落ちました。愛されてると思ったんです。玉の輿に乗ろうなどという考えは、一切ありませんでした。やがて私は身ごもり、幸せの絶頂にあるときに別れを切り出されたんです」

アンソニーは驚いて、「その彼にですか?」と聞き返した。

「そうです。手切れ金を渡され、強引に追い出されました。『玉の輿に乗ろうと企んで、俺をおとしいれる気か』とも言われました」
「そんな・・・」
「私と関係したことを、誰にも知られたくなかったんでしょうね。周到な人でしたから。きっといまだに、あのお屋敷の方々は誰も、彼と私のつながりを知らないはずです。ましてや、実家に戻って男の子を産んだなどとは」

ローザは寂しそうに笑った。

「それが、亡くなった息子さんなんですか?」
「ええ」

話を聞くうち、アンソニーは漫然と彼女の奉公先を思い浮かべていた。
恐らくはこの近辺にあるのだろうから、たとえば、ビーコンヒルのオウバートン家のような広い屋敷にバラ園があり、庭の植え込みには美しい花が色と香りの競演を繰り広げている・・・そんな邸宅。
その家の主人と、かりそめの恋に落ち、許されない子をもうけ──

妄想が渦巻いて、胸一杯に広がっていく。

若くして奉公、愛人の裏切り、孤独な出産・・・そして挙句にはその子も命を落として、今はたった一人で人生を歩んでいるローザ。
彼女がなぜうつ状態になったのかが、やっとわかった気がした。

「それで、息子さんの父親という人は、まだその家に?」
「さあ・・・消息はわかりませんわ。知りたくもありませんし。出産後に何回か子供の顔を見に来て、それっきりです」

乾いた笑いが、うっすら浮かんだ。
こんなとき、どんな言葉をかけたらいいのだろう。
思い悩んでいると、か細い声が耳元で聞こえた。

「つまらないことをお話ししてしまいましたね。辛い恋をなさっているのは先生だけではないとわかっていただきたかったんです。余計なお節介でした。どうぞお忘れくださいませ」
「お節介だなんて!僕のほうこそ、申し訳ないことをしました。悲しい思いをさせてしまって。あなたは一生懸命だっただけです。悪いのは彼のほうでしょう。だから悲観することなんか全くないんだ!」

必死で手を握ってくる若者の真心と情熱に打たれ、ローザは涙を浮かべた。
とうの昔に失った息子の面影が、その顔と重なったのだろうか。