そうこうするうち、二回目のノックがドア口に鳴り響く。
メイベルとレオノーラだろうと視線を向けると、予想どおりの人物が並んで立っていた。
メイベルは大きなトレイを持っており、その上には豪華なデコレーションが施されたバースデーケーキが鎮座している。
「お待たせしてすみません。思いのほか、ケーキに時間がかかってしまって」
言い訳しながらレオノーラが先導すると、娘はテーブルの上に、ゆっくりトレイを置いた。
途端、甘い香りがあたり一面に広がった。
「まさかこれ、君が焼いたわけ・・・ないよね?」
半信半疑のアンソニーに、メイベルは憤慨しながら答える。
「勿論焼いたんですよ、私が!」
「すご~い」
三人の招待客は、同時に感嘆の声を上げた。
一番目立つところには、チョコレートで Happy Birthday to Anthony & Brian と書いてあるウェハースが埋め込んである。
「あれ?君の名前がないじゃないか」
すかさず聞くブライアンに、メイベルは顔を赤らめた。
「だって、自分で自分の名前を入れるの、恥ずかしいもの」
今日の彼女は、特別大人びて見える。
瞳の色と同じエメラルドのドレスを着て、髪を結い上げている。
キラキラ輝くイヤリングやネックレスもまぶしい。
それでいて、どことなく幼さが残るアンバランスさがたまらない。
見ているうち、少女時代のキャンディの面影が重なり、アンソニーは息苦しくなった。
「なんだかすっかりお嬢様ね。15歳じゃなくて、18歳に見えるわよ」
パティはニコニコしながら教え子の変身ぶりを讃える。
「外見だけ大人っぽくても、中身はまだまだ子供です」
笑う母親に、娘はふくれっ面をして見せた。
「いえいえ、大人になりましたよ。なんせ、ちゃんと病院へリハビリに来るようになったんですから」
アンソニーが持ち上げる。
「欲を言えば、同年代の若者たちにもっと溶け込めればいいんだけどね」と、ブライアンがウィンクする。
「だって、こんな歩き方じゃ恥ずかしいわ。きっと誰も相手にしてくれない」
「どうして決めつけるの?君のことをわかってくれる人がきっと現れるさ。だから勇気を出して友達になってごらん」
優しく諭す青い瞳が愛しくて、メイベルはときめいた。
(友達なんかいらない。だって私が好きなのは、アンソニー先生だけだもの)
精一杯背伸びしたところで、想い人の目には、自分が15歳の少女にしか映っていないのだろう。
それが哀しくてたまらない。
悔しくてたまらない。
(お願い、こっちを向いて!大人の私を見て欲しいの)
そう叫びたい気持ちでいっぱいだった。
もしかしたらアンソニーは、すべてお見通しなのかもしれない。
尊敬と憧憬が入り混じった、切ない想いを。
知っていて、わざと気づかない振りをしているのかもしれない。
師弟という大切な関係を崩さないために。
そう思うと、尚更やるせなかった。
ボーッと考え込んでいる間に、レオノーラとパティが手早くケーキを切り分け、気の早い男性陣が、口いっぱいにほおばっていた。
だがメイベルは気づいていない。
「このケーキ、すごく美味い!君は筋がいいんだね。驚いたよ。この分だと、意外にいい嫁さんになるかも」
いきなり声が聞こえたから、驚いて見上げると、口の周りにクリームをつけたブライアンが満足そうに笑っている。
「まあ先生ったら。その顔、おかしい!」
「なんで?」
「だって、クリームが白いお髭みたいに見えるんだもの」
あわてて口の周りをこすると、クリームが手にべっとりついた。
「なんだよ、これ」
ハンカチを取り出してゴシゴシこすっていたら、アンソニーが横から茶々を入れる。
「食い意地が張りすぎてるんだよ、ブライアンは。もっと上品に食べられないのかい?僕みたいに」
「ふん!そういうことは、鏡を見てから言って欲しいね。悪いけど君だって似たようなもんだぜ」
「・・・・・・!」
アンソニーも、あわてて口の周りを探り始める。
ブライアンはぶっきらぼうにハンカチを差し出す。
「ほら、ふけよ」
ばつの悪い顔で受け取るアンソニー。
二人のやり取りを見て、パティは思わず吹き出してしまった。
そしてメイベルにこっそり耳打ちする。
「23歳にもなるのに、あなたの先生たちはまるで少年みたいね。それにハーバードの医学生って、ものすごいエリートだと思ってたけど、イメージ変わったわ」
「私もです」
メイベルも、つられてクスクス笑った。
それからはお茶を飲みながら、いろいろな話で盛り上がった。
仕事のため父親がほとんど不在で、いつも母と娘だけで過ごしているから、気心の知れた若者たちが来てくれるのは、本当に嬉しいひとときだった。
しかもその中に、メイベルの大切な「王子様」がいる。
今年のバースデーは、忘れられないものになるだろう。
さんざん話して一段落した頃、外の空気を吸うため、パティはテラスへ出た。
レオノーラは席を外していたし、ブライアンとメイベルは二人だけで歴史の話に興じていたから、アンソニーは手持ち無沙汰だった。
フェリシアのことを聞き出すいい機会だと思い、席を立ってパティを追う。
バラ園を一望できる白塗りのテラスには、傾きかけた太陽がオレンジの光を投げ、彼女の横顔を照らしている。
改めて見ると、なかなかの娘だ。
「日没って、なんとなく寂しくありませんか?奇麗だけど切ないんですよ」
後ろから声が聞こえ、パティは振り返る。
「私も苦手ですわ。ステアが亡くなったのも、日没の頃だって聞かされましたから」
「そうなんですか?知らなかった・・」
「ごめんなさい。変なことを言ってしまったわ。いつまでも亡くなった人を思ってるなんて、おかしいでしょ?」
「いいえ全然。話したかったら、いくらでもどうぞ。あいつの思い出話が出来るなんて、僕も嬉しいですよ」
「本当に?」
パティは目を輝かしてアンソニーを見上げた。
「勿論です。思い続けても届かない恋に縛られてるのは、僕も同じですからね」
寂しそうな笑顔が、パティの胸をしめつける。
「私、最近思うんです。キャンディはテリィと結婚して当然。それが一番幸せだって信じて疑わなかったけど、それは私が、レイクウッド時代の彼女を知らないからじゃないかって」
意味がわからず、アンソニーは「え?」という顔をする。
「キャンディがどれほどあなたに惹かれていたか、私は知らないんですもの。どんなふうに出会って、どんなふうに好きになっていったのか、何も知らないんです。テリィと婚約した今でもこんなに引きずってるんだから、一生消せない想いなんだわ。フィアンセが、あのテリィなのに、ですよ。初恋の人だから忘れられない──そんな単純じゃないんだわ。うまく言えないけど、何かがキャンディの心をとらえて離さないんじゃないかしら。それはきっと、テリィすら持っていない何かなんだわ」
パティは独り言のようにつぶやいた。
隣にいるアンソニーの存在を、忘れてしまっているようにさえ見える。
「でも僕らは、再会するのが遅すぎました。互いをどんなに好きでも、失った時間を取り戻すのは、そんなに簡単じゃないんですよ」
「タイミングが悪かっただけでしょう?私、本気で悩んでるんです。キャンディにとって運命の相手は、どっちなんだろうって。テリィなのか、それともあなたなのか・・・」
「僕だったらどうします?」
からかうような目をされ、「それは・・・」と口ごもってしまった。
「ほら!返答に困るでしょう?今更どうしようもないんですよ。だってもう、あの二人は盛大に婚約パーティーを開いちゃったんだから。引き返せない道なら、そこで幸せになればいい。それにね、タイミングが悪かったっていうのも、ある意味、運命なんですよ。だからキャンディの相手は、やっぱりテリィしかいないんだ」
寂しそうな横顔を、パティはまともに見ることが出来なかった。
会うたび、この若者の背には、深い哀愁が漂っていく気がしてならない。
それは時に、彼を年齢よりずっと上に感じさせた。
もしステアが生きていたなら、アンソニーと二人で酒を酌み交わすこともあったろう。
腹を割って、とことん話し合っただろう。
そうしたら、少しでも心の傷を癒せたろうか。
アンソニーは救われただろうか。
考えれば考えるほど、やるせなくなった。
「もしステアが生きて帰ってくれたら、二度とそばを離れないわ。私ならそうする。どんなことがあっても、絶対!」
ブラウンの瞳は強い意志で澄み渡り、きっぱりと言い切った。
「そのとき、別に好きな人がいても?」
「ええ」
「新しい恋人のことを、すごく好きでも?」
「ステア以上に好きな人なんて、ありえないもの」
唇を噛みしめるパティに、アンソニーは肩をすぼめた。
「君には当分、男性を紹介できそうにないなぁ。ステアがいいと言っても、本人がダメらしい」
「当然ですわ」
パティは得意げに鼻を鳴らした。
「ところでフェリシアのことだけど、キャンディには、『僕と彼女が付き合ってるのは本当だ』と返事してください」
「どうして?嘘なんでしょ?」
「僕に恋人がいたほうが、あきらめもつくだろうから」
そして、キャンディをニューヨークへ帰すため、わざとフェリシアにキスしたことを話した。
あのままずっと優しい王子の顔をしていたら、キャンディは踏ん切りがつかず、テリィと別れるなどと言い出したかもしれない。
そうならないため、荒療治が必要だったとアンソニーは言う。
だがパティは眉をひそめた。
「悪者になったあなたは勿論気の毒だけど、女の立場から言わせてもらえば、一番かわいそうなのはフェリシアだわ」
「なぜ?」
「だって、恋人でもない男性にいきなりキスされて、嬉しい人がいますか?それにフェリシアは、そういうことに慣れてないと思うし」
聞いて、益々不安を掻き立てられた。
そういえばブライアンも、「彼女にとって、それがファーストキスだったらどうする?」と言っていた。
「もしかしてフェリシアは、誰かと付き合った経験はないのかな」
「エドワードが好きだったのは確かだけど、あれは片思いでしょ?だからきっと、お付き合いしたことはないはずだわ」
(じゃあ、僕のキスが初めての・・・)
知った途端、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
年齢も年齢だし、あれだけの美貌の持ち主だから、てっきり恋愛経験があると思ったのだ。
しかも、あのとおりの男勝り。
キスの一つや二つ、こだわりなくサラッと受け流してくれると信じて疑わなかった。
とんだ見当違いだとわかり、焦りまくる。
女性にとって特別な意味を持つファーストキスを、あんな形で奪ってしまったなんて・・・!
キャンディのことばかり気になって、他は見えなくなっていたのだろう。
そんな自分が許せず、ひどく落ち込んだ。
ブライアンとの話も一段落し、テラスの二人が気になり出したメイベルは、まるで上の空。
会話もどこ吹く風になっていた。
アンソニーは庭の景色を見に出たまま、もう三十分以上戻ってこない。
エメラルドの瞳は、テラスに並んで話す二人を見つめ、寂しげに揺れた。
(何を話してるんだろう?とてもお似合いだわ。パティ先生が、なんだかすごく奇麗に見える。彼女に比べたら、私なんてほんの子供。あと五年、ううん、三年でいいから、早く生まれたかった)
「アンソニーが気になる?」
胸を焦がす少女の苦悩がわかったのか、ブライアンは優しい声でささやいた。
「悪いことは言わない。あいつはやめとけ。待ちぼうけを食らうだけだから。もしかして、一生結婚しないかもしれないし」
メイベルは驚いて見上げる。
「八歳も年上の男なんか好きになったって、ろくなことないぞ。もっと歳が近くてふさわしい相手が絶対いるから」
捨てられた子犬のように、哀しそうな目をして聞いている少女がいじらしかった。
その姿に、自分の妹が重なる。
モニカがクリストファーと出会ったのは、メイベルがアンソニーと出会ったのと同じ年頃だから。
年齢差も似ている。
「もう誰も愛さない」と公言している点も、アンソニーとクリストファーは同じだ。
モニカとメイベルが、似たような恋に翻弄されていることを思い、ブライアンはなんとかしてやりたい気持ちにさいなまれた。
「君は思い込みが激しそうだから、一度ハマったが最後、ずっとアンソニーを思い続けるだろう。だからその前に忠告する。やめとけ。そのほうが幸せになれる」
「どうしてそんなこと言うんですか?ブライアン先生、意地悪よ」
メイベルは泣き出しそうになったが、細い肩にそっと手を置き、「そのうち、俺の言ってることがわかるさ」とウィンクだけした。
アンソニーがキャンディへの想いを断ち切れないでいることも、モニカの悲しい恋も、口に出すことは出来なかった。
すっかり日が落ち、そろそろ肌寒くなってきた頃、皆は別れを惜しみあった。
「じゃあメイベル、また来週。リハビリのときには車で送り迎えするよ」
アンソニーの笑顔は、やはりまぶしい。
なんと言われようと、今のメイベルには彼がすべてだ。
パティは馬車で引き上げ、男二人は、乗ってきた自転車で夜道を疾走していく。
スピードを上げて風を切り、ハーバードブリッジを渡りきったあたりで、アンソニーが自転車を止めた。
「おい、見てみろよ。月が追いかけてくる」
相棒の言葉に、ブライアンもブレーキをかけて空を見上げる。
「ホントだ。今夜は満月か・・・」
近頃は研修や講義に追われて、ゆっくり空を眺めたことなどなかったから、久々に心が和み、二人は顔を見合わせて笑った。
「パティのこと、悪かったよ。もう無理に勧めたりしないから安心しろ」
アンソニーは、ばつが悪そうに言う。
「どうして?あんなに張り切ってたのに。まるでマッチメーカーみたいに」
「今日話してわかったんだ。彼女の中には、まだステアが生きてる。どっしり根を下ろしてね。あれじゃあ、他の男が入る余地なんて全くない」
ブライアンは何も言わなかった。
空を見上げたまま、じっと月を見つめている。
その胸に去来するものがなんなのか、アンソニーにすら見抜けなかった。
しばらくして、低い声が切り出す。
「俺も悪かった。『地味なメガネ女』は撤回するよ」
「へえ~、それはまたどうして?」
「理由なんかないさ。ただ、なんとなく」
自転車を押しながら歩き出したブライアンのあとに、アンソニーが続く。
「君にもやっと、パティの良さがわかったってこと?」
「それはどうかな。ただ・・・ステアの写真を見せられたとき、なぜか切なくなった。この子のために、なんとかして彼の絵を描いてやろうと思ったんだ」
ブライアンは立ち止まり、相棒のほうへ向き直る。
「もしかしたら、アマーリアを思う自分が重なって見えたのかもしれない。パティの中に」
「お互い、過去を引きずりまくってるなぁ。君もパティも、僕も」
「まあ、そんなとこだ。誰が一番早く抜けるか、競争しようか?」
「よう~し!その前に、寮まで競争だ。負けたほうが明日の朝食をおごること。いいな?」
言うなり、アンソニーは自転車に飛び乗り、思い切りペダルをこいだ。
置いてきぼりを食らったブライアンは、鼻息を荒くして猛追する。
「待てよ!ずるいぞ」
夜の街を駆け抜ける若者たちの背を、月が追いかけてくる。
その光はチャールズ川の水面(みなも)に緩い筋を伸ばし、ゆらゆら揺れた。
十月に入り、深まる秋の気配がニューヨークを包み始めた頃、ストラスフォードに懐かしい顔が戻ってきた。
ロンドンのロイヤル・シェークスピア・カンパニーに引き抜かれた、ロバート・ハサウェイだ。
ブロードウェーを離れて一年以上経つから古巣の様子が気になるし、現団長のフィリップ・ウィンクラーの采配振りを、自分の目で確かめたいという思いがあったのだ。
レイモンド・ブラッドリーとステファニー・レンデルの若手コンビを頂点に、名優たちが脇を固めるストラスフォードは、ロバートが去ったあとも隆盛を極め、ライバルであるローゼンバーグ劇団を凌(しの)ぐ興行成績を収めていた。
実に喜ばしいが、一つ気になることがあった。
それはテリュースの凋落──
想像以上に傷は深そうだ。
ロンドンのマスコミが報じているより、ずっと大きなダメージを呈している。
彼の姿を目の当たりにし、ロバートの心痛は深まった。
思えば、テリィが婚約すると言ってきた段階で、今日の惨状を招くことは、ある程度予想できた。
だからこそ別れ際に、「役者としての心得」を伝授して去ったつもりだった。
だが、テリィはまだ若い。
自力で苦難を乗り越えられなかったのだろう。
心配していたとおり、後進のレイモンドに出し抜かれ、単独トップスターが務まらなくなって悶々としている。
突破口を見つけられず、大人の役者への脱皮もかなわぬまま、もがいている。
出口のない迷路に迷い込んだ若者の地獄が、胸に鋭く突き刺さった。
(今こそ、私がなんとかしてやらなければ!)
ロバートに渡米を決意させた一番の理由は、もしかしてテリィだったかもしれない。
前団長の稽古総見が終わったあと、団員たちが次々に引き上げていく中、ロバートはテリィにそっと声をかけた。
「話がある。少し時間を取れないか?」
「喜んで!実は僕も、ご相談したいことがありまして・・・」
礼儀正しく頭を下げる若者は、真剣な目をしている。
「そうか、良かった。どうやら目的は同じらしいな」
テリィの決意を確認するや、黒褐色の瞳が優しげに微笑んだ。
指示されたとおり、ロバートの宿泊先のホテルを訪れ、客室のドアをノックする。
時計はもう、九時を回っていた。
前団長は、温かく出迎えてくれた。
「悪いな。わざわざ来てもらって。レストランやバーだと、込み入った話が出来ないからね。記者さんたちの目がうるさくて」
「お心づかい感謝します。こんな僕のために」
「『こんな』だって?随分弱気な発言だな。君らしくもない。劇団のトップスターじゃないか。もっと自信を持ちたまえよ」
ロバートは豪快に笑いながらテリィを招き入れ、客用の椅子を勧めた。
部屋にはぼんやり灯りがともっている程度で、それが妙に心を落ち着かせる。
ここは、マンハッタンの街並みを見下ろせるスイートルーム。
広々とした空間には、わずかの調度品以外めぼしい物はなく、中央に設置されたテーブルの上に、オードブルと極上のワインが乗っていた。
ルームサービスで取り寄せた物だろう。
ロバートは高級そうなグラスに赤い液体を注ぎ込み、テリィに差し出す。
「先ずは再会を祝して乾杯といこう!」
「お忙しいところ、お招きいただきありがとうございます」
ロバートはウィンクして腰を下ろし、テリィにも椅子を指し示した。
「夜も更けたから、単刀直入に言おう。君はレイモンドを蹴落とそうと躍起になってるようだが、それは逆効果だ。彼と同じ土俵で張り合っちゃいけない。そうしようとすればするほど、ファンは離れていく。今までそうだったんじゃないか?」
指摘されて初めて気づいたが、そのとおりだった。
目からウロコとは、まさにこのこと。
自分が狙ってきたポジションは、若い二枚目の主役級ばかり。
それはロミオであり、ハムレットであり、フランス王であり、ドリアン・グレイであり──ことごとく、レイモンドが狙う役柄と重なっている。
オーディションを受けるたび、おいしいところを持っていかれ、自らは二番手に甘んじてきたのだ。
「おっしゃるとおりです。主役を巡って、ずっとレイモンドと対立してきました。それに彼のファンは、ほとんどが、昔は僕のファンだったと思います」
苦笑するテリィに、ロバートは微笑み返す。
「彼女たちが、なぜ宗旨替えをしたかわかるかい?理由は簡単だよ。ちょっと考えてみたまえ。もし目の前に、二人の美女がいたとして・・・一人は独身、もう一人は既婚だったら、君はどっちを口説くかね?」
テリィはハッとした。
理屈では、わかっている気がしていた。
だが本当のところ、ピンと来なかったのかもしれない。
あるいは、怖くて想像できなかったのだろうか。
結婚によって、この世界の人間が、どんな影響を受けるのか。
「僕なら、独身のほうを口説くでしょうね」
テリィはフフッと笑う。
「だろう?私とて同じだよ。これでわかったかね?若い娘たちを夢中にさせることにおいて、レイモンドは第一人者になってしまったんだよ。君が太刀打ちできないほどね。だから同じポジションを巡って争っても、残念ながら勝ち目はない。もうすぐ結婚する君より、シングルのレイモンドのほうが、ロミオにふさわしいってわけだ。だがキャストは若い独身男ばかりじゃない。君はそれを忘れてやしないか?」
テリィの目が驚きで見開かれた。
これも理屈ではわかっているつもりだったが、指摘された途端、心臓の鼓動が速くなった。
「独身の美女は、確かにいい。なんとかして自分の女にしたいと思わせる。だが、とかくわがままで気難しいのさ。長いこと見てると飽きてくるしね。ふと疲れたとき、落ち着いたたたずまいの大人と話してみたい──そんなふうに思ったことはないか?たとえ既婚であっても、年齢がそこそこいっていても、それが心地いいときだってあるのさ。ホッとするんだ。その『癒し』こそが、君の目指すべきものだと思う。若いレイモンドには、決してないものなんだ」
感極まり、テリィはグラスをテーブルに置いた。
長いことさ迷ってきた暗闇の出口が、初めて見えた──そんな喜びに満たされた瞬間だった。
「ありがとうございます。そう言っていただいて、やっと胸のつかえがおりました。そういえば、もう随分前に似たようなことをシェリルが言ってたのを思い出しましたよ」
「シェリルが?」
「ええ。劇団員全部が主役を狙ったら、芝居は成り立たなくなる。なら、自分はあえて脇を固めよう。主役を食うくらい、あくの強い演技で印象づけたい。名脇役と呼ばれたい──そう言ってました」
話を聞きながら、ロバートは伏目がちに笑った。
「いかにもあの娘らしいな。それだけの強さがあるから乗り越えられたんだよ。いや、もしかして本当は、まだ引きずってるのかもしれないが」
意味がわからず、テリィは身を乗り出す。
「乗り超えられた?引きずってる?失礼ですが、どういうことでしょう」
「なんだ、聞いてないのか?」
「何も・・・」
困った、という顔でロバートはため息をつき、テリィの様子をうかがった。
その目は好奇心に満ちあふれ、もはや知らぬ存ぜずでは、とおせそうにない。
「シェリルの噂、知らないか?毎月15日になると、どんなに忙しくても、必ず墓参して花を手向ける──有名な話だよ」
言われて初めて、先日、劇団の端役たちが教えてくれた噂の意味がわかった。
あの男も確か、「シェリルは15日になると、早々に稽古を切り上げて、どこかへ消える」と言っていた。
どこへ行くのかまでは、知らない様子だったが。
それにしても、墓参が目的だったとは!
一体、なんのために?誰のために?
今日こそ理由を聞かずにはいられなくなり、食いつきそうな目でロバートに迫る。
「誰の墓参りに行くんでしょう?肉親でも亡くしてるんですか?それとも恋人?」
「もっと重くて悲惨な存在だよ。彼女にとって」
益々合点のいかないテリィは、早く真相を知りたくて、無意識のうちに身を乗り出し、ロバートとの距離を縮めた。
「たとえば・・・そう、あのときもし、スザナが自殺していたら、君は今頃どうしてると思う?彼女の月命日には、、花束を持って墓参してるだろうか。シェリルと同じように」
「まさか・・・!?」
テリィは言葉を失った。
これからロバートの口から語られるであろう悲劇が、我が身に振りかかったような錯覚を起こした。
震えが止まらない。
よもやシェリルが、自分と同じ運命をたどっていたなんて、今の今まで知らなかった。
なのに、なぜ彼女はあんな前向きでいられるのだろう。
強くてしなやかで、それでいて周りへの気配りを忘れない。
それが不思議であり、驚異ですらあった。
「そう・・・その『まさか』なんだよ。いずれ知るだろうから、君にだけは言っておく。わかってると思うが、他言は無用だ」
念押しすると、ブルーグリーンの瞳が静かにうなずいた。
「あれは、君がまだ入団テストを受ける前だったろう。シェリルには密かに付き合っている恋人がいた。名前はショーン・マコーレー。知ってのとおり、彼は今や、ローゼンバーグ劇団のトップスターだ。我々にとっては商売敵になってしまったが、昔はストラスフォードに在籍していたのさ。シェリルとは同い年で、端役ながらも輝いている有望株だった。二人は必ず、揃ってトップに駆け上がる。ストラスフォードをしょって立つ大物になる──私は、そう信じて疑わなかった」
胸が熱くたぎり、心臓の鼓動が速く高く鳴り響くのを、テリィは感じた。
シェリルとショーンが恋仲だった!
それは魂を揺さぶる衝動に違いなかったが、そんな単純なものでは割り切れない。
言葉で言い表せない激震だ。
嫉妬──そう呼んだほうがいいかもしれない。
何に対しての嫉妬なのか、なぜこんなにいきりたつのか、自分を納得させることが出来ず、テリィは焦った。
わけもなくじれた。
「だがある日、予期せぬ不幸が襲う。馬車にひかれそうになったシェリルを、熱烈なファンが身を挺して救ったんだよ。おかげで彼女はかすり傷一つですんだが、その男──ウェズリーというんだがね──彼は半身不随になってしまった。君をかばって片足を失ったスザナとまるで同じだろう?」
言われた途端、蒼白になった。
あの日の悪夢が蘇る。
突然落ちてきた照明をかわそうと、自分をつき飛ばし、代わりに下敷きになったスザナの姿が浮かび上がり、体中がキリキリ痛む。
「それでその・・・ウェズリー、事故が原因で亡くなったんですか?」
「いや。不自由な体で、残りの人生を生きていくことになった」
ロバートは深いため息をつくと窓辺に歩いていき、果てしなく広がるマンハッタンの闇を見下ろした。
「君は同じ経験をしているから、わかるだろう?そのあとシェリルとショーンがどうなったか」
「大体は」
「あの二人も例外じゃなかったのさ。責任を感じたシェリルは、ウェズリーにかかりきりになり、ショーンは彼女の気持ちを察して劇団を去った」
「それでローゼンバーグへ?」
「ああ。同じ舞台に立つのが辛かったんだろう。二人は別れ、違う人生を歩むことになったんだ。話がここで終わるなら、君とキャンディの顛末(てんまつ)と同じだが、シェリルには、この先にもう一つの悲劇が待っていた」
「もしかしてウェズリーが自殺したのでは?シェリルとショーンが別れたことに気がひけて・・・」
ロバートは苦しそうにうなずく。
その瞬間、シェリルの瞳が鮮やかに浮かんできた。
あの澄んだマリンブルーの奥に、こんな哀しい思い出が潜んでいたなんて!
そんなこと、彼女は微塵も感じさせなかった。
自分よりずっと重い過去を背負いながら、力強く生きていることに、どうしようもなく胸が高鳴った。
それは感動を通り越し、甘美な陶酔を伴って全身を覆った。
「ウェズリーが亡くなったあとも、二人がよりを戻すことはなかった。いや、かえって別離を決定づけたのかもしれない。あの事件から何年も経ったというのに、生涯消せないトラウマとなって、若い彼らを支配し続けているんだろう。思い出すたび、やるせなくなるよ。だからせめて君が幸せに結婚してくれるだけで、私は嬉しい。これは親心さ。かなうことなら、シェリルにもショーンにも、それぞれいい伴侶をつかんで欲しいと心から願ってるがね」
ここまで聞かされ、テリィは初めて、なぜあの日、シェリルが涙を流したのか、はっきりわかった。
あの日、彼女は感情をあらわにして号泣したのだ。
些細なことでキャンディともめ、主役が取れないからとウジウジ悩む自分に、強烈な平手打ちを食らわせた。
「せっかく幸せをつかんだのに感謝できないなんて最低。世の中には、もっと不幸な人間がいることを知るべきだ」と、彼女は泣いて叫んだのだ。
その真意が、やっと今、理解できた。
あのときは何も知らなかったから、ただ驚いた。
本当にびっくりしたのだ。
まさかシェリルが、自分やキャンディの前で涙を見せるなんて。
強くてしなやかで、自信にあふれている、あの彼女が!
「知りませんでした、そんな過去があったなんて。彼女は何も言ってくれなかったから」
「そういう女だよ。苦しみを内に秘め、自力で昇華していく。並みの精神力じゃ出来ない。きっとあの件で成長できたんだろう。だから君も、今、とことん悩み抜け。苦しんでもがいて、一皮むけたら、そのときは一回りも二回りもスケールの大きい役者になれるはずだ。君はそのために生まれてきたような男だろう?」
一つ一つの言葉が重みを持って、テリィの中に響きわたる。
目先のことしか見えずに汲々(きゅうきゅう)としていた自分を、初めて客観的にとらえられた瞬間だったかもしれない。
(俺は、主役を勝ち取ることしか眼中になかった。ファンになってくれるのも、若い女だけだと思い込んで演出してきた。だけどそれは違ってたんだ。キャリアを積んで結婚したあとは、それにふさわしいキャラに脱皮しなきゃいけない。いつまでもレイモンドと同じ土俵で争ったって無駄なことさ。あいつは若くて独身なんだから。なら、今の俺にしか出来ない役を、精一杯演じよう。気に入ってくれるファンは必ずいるはず。たとえそれが、若い娘じゃなくたっていい。どんな年齢層に支持されるかなんて、どうでもいいことなんだ!)
今まで背負っていたものからすべて解放され、靄(もや)がスーッと晴れていくのを実感した。
薄暗い客室が、バラ色にさえ見える。
何かを一つ、乗り越えたのだろう。
キャンディというかけがえのない存在を手に入れながら、その一方で、醜い欲の虜(とりこ)になっていた自分が、心の鏡に映し出された。
二枚目スターとして君臨し、いつまでも若い女性にちやほやされたいという邪(よこしま)な思いが、役者としての目を濁らせていたことに、ようやく気づいたのだ。
でも、もう違う!
「これまで僕は、ファンの前で笑顔を見せることが出来ませんでした。それはきっと、『クールでハンサムなテリュース』というイメージを作り上げようと、躍起になっていたからだと思います。でもこれからは肩肘張らず、素直に笑えそうです」
再びグラスを取り、軽く掲げて会釈すると、テリィは一気に飲み干した。
その顔には、今まで見せたことがないような、優しい笑みが浮かんでいる。
「そう!その笑顔だよ。君・・・今、最高の顔をしている。それならファンを癒せるに違いない。今度こそ『本物』になれる。私が請け合おう」
窓の外には漆黒の世界が広がっていたが、心の闇はすっかり消え去り、テリィの瞳は輝く未来だけを見つめていた。