雑事に追われているうちに年が改まり、1920年を迎えた。
いよいよジェフリーとレイチェルの結婚式が迫ってくる。
週末にはニューヨークへ行かなければならないので、その前に顔を見ておこうと、アンソニーはローザの病室を訪れた。
目下担当している診療科の研修が忙しいので、なかなか時間を取れないのだ。
おまけに卒業を控えて、書かなければいけない論文がいくつもあるので、ローザと話せる機会は激減していた。
いつものように窓際の丸椅子に腰掛け、アンソニーは笑顔で話しかける。
「以前のように来れなくてすみません。どうか気を悪くしないでください。でも僕がいなくても、ちゃんと節制されてるみたいで安心しましたよ」
「大丈夫。前みたいに自殺しようなんて考えなくなりましたわ」
冗談めかしてローザは言った。
アンソニーはドキッとする。
「本当に、ですか?」
少女のようにあどけない視線をぶつけてくるローザを見ているうち、母の面影が蘇り、懐かしい空間がフラッシュバックした。
「ねえ、ママは死なないよね?」
「当たり前でしょ。ママはいつまでもアンソニーのそばにいるわ。約束よ」
そう言って抱きしめてくれた。
あのときの母の温もり── 一生忘れないだろう。
だが、幸せな日々は長くは続かなかった。
母と息子に永遠の別れが訪れたのは、それからわずかに三ヵ月後。
まだ五歳だったアンソニーは、手向けられた言葉の真意を理解するには幼すぎた。
「ママは僕に嘘ついた。ずっとそばにいるって約束したのに。絶対死なないって言ったのに。どうしていなくなっちゃったの?」
駄々をこね、泣いてばかりいた日。
どんなにか父を困らせた。
だが、今ならはっきりわかる。ローズマリーが残してくれた、本当のメッセージが。
(人は死んで、人の心の中に、より美しく永遠に蘇る──そうだね、母さん。本当にそのとおりだよ。今でも母さんは僕のそばにいる。いや、僕の中にいる。いつだって一緒だ。ある意味、生きてる人との絆より深い気がするよ。母さんがいたから僕がいる。僕の体の中には、母さんから受け継いだ血が脈々と流れているんだ。だから絶対人は死なない。自分が産み育てた子供の心と体の中に、いつまでも生き続けてる。あの日、五歳だった僕に言ってくれたことは嘘じゃなかったんだって、今なら自信を持てるんだ)
「自ら死を選んだりしちゃいけません。この世に未練を残しながらも、神に召される人は沢山いるんですから。僕の母のように」
回想から現実に戻るため、アンソニーは声を発して意識を呼び戻した。
「あなたに生きていて欲しいと願う人が一人でもいるなら、死を考えるべきじゃないです。たとえ辛くても、生きることを選んで欲しい。だから手術を受けてくれませんか?」
若者の真険な目がまぶしすぎて、ローザは正視できなかった。
こんなにも濁りない、真っ直ぐな瞳で見つめられたら、逃げることなど出来そうもないから。
思わず本当のことを全部話したくなって、心は激しく揺れた。
「再三説明させてもらいましたが、肺高血圧症を併発してるので、アイゼンメンゲル症候群(右心室から左心室に血液が逆流する現象)を起こす恐れがあるんです。そうなると手術は不可能だ。だからその前に、是非・・・」
「それはつまり、死ぬということですか?」
必死で説得するアンソニーをさえぎり、ローザは核心を突いた。
「残念ながら可能性は高いでしょう。母が他界したのは、手術が出来ない状態だったからです。もっと早く手を打っていれば、恐らく今も、僕のそばに・・・」
肩を落とす若者は、震えているようにも見えた。
一瞬にして母親を連れ去った病魔を、心底憎んでいるのだろう。
その同じ病がローザを苦しめ、またも命を奪うなど、耐えられないに違いなかった。
だがローザの反応は、全く別の形でアンソニーの耳元へ届いた。
「あら・・・雪!見てください、雪が降ってきましたわ」
拍子抜けして窓の外を見ると、彼女の言うとおり、白いものがチラチラ舞い踊っているのが見えた。
早くも木々の枝は薄化粧している。
「子供が出来たとわかったのも、こんな雪の一月でしたわ。あの人がどんな顔で聞いてくれるか、期待と不安に胸をときめかせて、いつもの場所で落ち合ったんです。結局それが最後の逢瀬になりましたけれど。別れを言い渡されて傷心だった私には、あの家の若奥様が、とても羨ましく見えたものです」
「奥様?・・・ってことは、あなたの恋人は妻帯者だったんですか?」
混乱したアンソニーは思わず口をはさんだ。
「いいえ、あの人は執事でした。若奥様とは関係ありませんわ」
ローザは笑いながら否定する。
「羨ましかったのは、奥様にかわいい男の子が産まれたばかりだったからです。前の年の秋だったと思いますが、それはもう、天使みたいな坊ちゃまでしたよ。私もあんな赤ちゃんを産めるかしらと、希望に満ちていました。だから余計、彼の裏切りがこたえたのかもしれません。それに、私は奥様によく似てると、使用人仲間の間では有名だったんです。おこがましいですが、自分でもそんな気がしてました。羨ましくてたまらなかったのは、そのせいもあったでしょう」
返す言葉がなく、黙ったままのアンソニーに、申し訳なさそうな声が聞こえた。
「ごめんなさい。つまらない話をしてしまいましたね。もうとっくに忘れていたはずなのに、先生を見ていたら急に思い出してしまって。どうしてでしょう。不思議です。そういえば、若奥様の坊ちゃまは、先生と同じ位の青年になってるんじゃないかしら。今頃はお屋敷の跡取りとして家業を継いでいるんでしょう。何しろ大変な資産家でしたから」
ボストン近辺にも、アードレー家のような富豪がいくつかあり、地盤争いが記事をにぎわしていた。
ローザの話に出てきたその屋敷も、恐らくはその一つなのだろう。
興味を持ち、もっと詳しく聞いてみたい衝動に駆られたが、彼女ににとって、それはもう「忘れたい過去」なのだ。
根堀り葉堀り聞くのは無粋と思い、アンソニーは控えた。
だが、もしこのとき、ためらわずに真相を聞き出していたなら、あるいは運命の歯車を止めることが出来たかもしれない。
それとも結果は同じだったろうか。
目の前で、重要な鍵を握る人物が微笑んでいることに気づかぬまま、アンソニーはニューヨークへ旅立とうとしていた。
一月も半ばに差しかかった週末、グランドセントラルステーションに到着したアンソニーとブライアンは、久々のニューヨークを心ゆくまで楽しんだ。
粉雪が降り積もり、街全体が美しい銀世界になっている。
この前見たときより益々ビルが林立し、往来には車が増え、来るたびに近代化が進んでいく大都会。
その光景に、若者たちは圧倒された。
「やっぱりボストンとは違うな」
感嘆のため息を漏らすブライアン。
アンソニーもうなずく。
「さすがは流行の発信地だ。ボヤボヤしてたら、あっという間に時代遅れになっちまう」
せわしなく行きかう人や車の波に目を奪われながら、二人は顔を見合わせた。
長旅の疲れが出たこともあったが、これと言って行きたい場所もないので、アンソニーとブライアンはすぐにアンドリュース病院へ向かった。
たまたまニューヨークに寄港しているヴィンセントと事前に連絡を取っており、ここで落ち合うことになっていたのだ。
週末で休診になっているから、正面玄関ではなく、裏口へ回ってチャイムを鳴らす。
間もなくドアが開けられ、モニカが出迎えた。
「まあ!アンソニー。それにブライアン。遠いところをわざわざようこそ。中で皆さんがお待ちかねよ。さあどうぞ」
愛想良く笑う彼女は、ダークブラウンの髪をアップにしている。
そのせいか、最後に会ったときより、驚くほど大人びて見えた。
「これはびっくりだ。すごく奇麗になったんで見違えちゃったよ」
目を白黒させるアンソニーに、モニカは、「まあ、お上手ね」とはにかむ。
「俺の目には相変わらずって感じだけど。どうだい、彼氏は出来たか?」
ニヤニヤ笑う兄に、妹はムッとして応酬する。
「何よ!そういうブライアンこそどうなのよ。さぞかし奇麗な人と付き合ってるんでしょ?」
顔を合わせた途端、嫌みを言い合う兄妹を見て、アンソニーは「また始まった」と呆れながらも、懐かしい心地がしていた。
スタッフルームに通されると、なじみの面子が顔をそろえていた。
主役であるジェフリーにレイチェル、それにベストマンのクリストファー、急遽(きゅうきょ)顔を出したヴィンセント、ジェフリーたちの母であるディアナ、そしてシカゴから駆けつけたアルバート。
感激で胸がいっぱいになり、すぐには挨拶が出てこない。
だが、喜びの一方、寂しさが襲ってきた。
キャンディがいない──
ジェフリーにもレイチェルにも近い存在なのだから、ここにいて当然のはずなのだ。
なのに、彼女は現れなかった。
これみよがしにフェリシアとキスした一件が尾を引いているのだろう。
明らかに避けられていると痛感し、たまらなくなった。
(やはり君は遠い人になってしまったんだね。せめて旧友として再会したいと思ってたけど、それすら無理なんだろうか。もっとも手ひどい仕打ちをしたのは僕だ。許してもらえなくて当然だけど・・・切ないよ)
「よお、感激で声も出ないか?」
複雑な思いに溺れていると、すぐ近くでジェフリーの声が響いた。
いきなり現実に引き戻されて戸惑いながらも、アンソニーはなんとか笑顔を返す。
「あまりに久しぶりなんで、ついボーッとしちゃって。このたびは本当におめでとうございます!」
新郎新婦に改めて頭を下げると、二人とも照れくさそうに、「ありがとう」と微笑んだ。
「本音は、レイチェルを取られて、ちょっと悔しいんじゃないか?それで心ここにあらずなんだろう?」
クリストファーが冗談を言ってからかう。
周りもどっと笑って、空気は一挙に和んだ。
「そんなんじゃないですってば~。僕は本気で二人を祝福してます」
顔を赤くしてうろたえるアンソニーに追い討ちをかけるように、ディアナが煽(あお)り立てる。
「あら、そういうときは、『レイチェルを取られて残念でした』ってお世辞を言うのがエチケットですよ」
「まあ、お義母様ったら」
姑の軽口に吹き出すレイチェル。
そうだ、この二人は義理の母と娘になるのか。
それに、ブライアンとモニカという義弟・義妹まで増えて。
急ににぎやかになるな、とアンソニーは内心ホッとした。
というのも、レイチェルには肉親がいないからだ。
父は蒸発。母は病死。そして伯父のウォルターは、あのとおりの死に様。
彼女が孤独な人生を歩んできたことを思い出し、ジェフリーと縁があったことを心底嬉しく思った。
「レイチェル、ホントに良かったね」
するとジェフリーが、少々挑発的なトーンで仕掛けてきた。
「それはそうと、お前に話があるそうだぜ」
「話?誰がですか?」
「俺の横にいる、この美人」
ウィンクしながら、もうすぐ妻になる人物を指差した。
「俺たちは一足先にここを出るから、あとから来いよ。レイチェルと一緒に」
「かまわないんですか?大事な奥さんを独占しちゃって」
「今日までなら許してやる。特別にな」
「そんなこと言っていいのかなぁ。二人きりになったら、もしかして口説くかもしれませんよ」
アンソニーも負けじと、ドキッとするセリフで応酬する。
「今ならお前に勝つ自信があるから問題ない!七年前は負けまくってたけどな」
冗談めかして返答すると、その場は爆笑の渦に包まれた。
「参った」と苦笑いするアンソニー。
それを見て、レイチェルはうふふと笑う。
夫になる男を愛し、信頼している穏やかな心の奥に、ほんの少しだけもたげた「昔の気持ち」を押し込めながら、彼女は静かな瞳で、かつての想い人を見つめていた。
予約してあるレストランへ皆が出かけて行ったあと、静まり返った部屋で、アンソニーとレイチェルは向き合った。
すっかり日が落ち、赤々と燃えていた暖炉の火も弱まりかけている。
「寒くない?もっと薪(まき)をくべようか?」
ほんの少しだけ流れた気まずい空気を埋めるため、アンソニーは明るい声で切り出した。
レイチェルは首を振る。
「大丈夫よ。あれが燃え尽きる前に、話は終わるわ」
一体何を言われるのか不安げに見つめる顔を見て、レイチェルはくすっと笑う。
「心配しないで。明日の花婿をあなたに代えて欲しいなんて、今更言わないから」
「それは悪いジョークだよ。ジェフ先生にはとても言えないなあ」
アンソニーもつられて笑う。
「私ね、あなたにお礼が言いたかったの。ホーウィット夫人って呼ばれる前に」
「お礼を言われるようなこと、してないと思うけど。何しろ僕は、君を振った失礼千万な男だから」
「だからこそ、ありがとうって言いたいの。レイクウッドで言ってくれたでしょ?『愛されようとして自分を変える必要なんかない。素の君を愛してやまない男がいるはずだから』って。それに、こうも言ってたわ。『愛してなければ、すべてが嘘になる。偽善者の愛で、一生君を縛りつけることは出来ない』って」
「そうだったかな。はっきり覚えてないけど・・・。でも、確かに真理だ」
嘘ではなかった。
あのとき――自分に追いすがるレイチェルを必死でなだめたとき――は、ただもう夢中で、思うままをぶつけたから、何をしゃべったのか意識していなかったのだろう。
改めて内容を聞かされてみると、まっとうなことを言っていたのがかわり、少しだけ安堵した。
「ありがとう。正直、辛くて仕方ない日もあったわ。でもはっきり言ってくれたからこそ、ジェフの気持ちを受け入れられたと思うの。随分回り道しちゃったけど、かえっていろいろ見えて良かったと思ってるわ。あなたに優しくされてたら、同情と愛情の区別もつかないまま、今でも苦しんでるでしょうね。きっと」
清々(すがすが)しい瞳で見つめてくるレイチェルが、ほんの少しまぶしく見え、アンソニーは思わず目をそらした。
「幸せをつかめたのは、君に勇気があったからさ。それにジェフ先生の深い愛があったから。僕の言葉は関係ないよ」
「いいえ!はっきり突き放してくれなかったら、明日という日は永遠に来なかったはず。心から感謝してるの。だからね、あなたも約束してくれる?絶対幸せになるって」
レイチェルは感極まり、アンソニーの両手を取って握りしめていた。
「嘘や妥協の恋じゃなく、本物と向き合って欲しいの。いいこと?絶対にごまかしはダメ。あなたが本気になった相手でなきゃ、認めなくってよ」
彼女があまりに熱く語るので、すっかり圧倒されてしまい、アンソニーは目を白黒させるばかりだ。
一言も返せないままヘーゼルの瞳を見つめていると、レイチェルは続けた。
「この先どんなことがあっても、どうか自分を見失わないで。誰かのために犠牲になるなんて、私はイヤよ。あなたは優しい人だから・・・優しすぎるから、それが心配なの」
なぜか胸に鈍痛が走った。
理由はわからないが、聞いているうちにやるせなくなって仕方なかった。
これが「予兆」だったのだろうか。
近い将来、アンソニーを苦悩の淵(ふち)から救い上げてくれる相手がレイチェルだなどと、このときは予想だにしなかった。
過酷な運命は、いつも音を潜めて忍び寄ってくる。
思いもよらない出来事に見舞われる日が、もう間近に迫っていた。
暖炉の火が燃え尽き、部屋に冷気が漂い始めたのに気づくと、もう一時間近く経っているのを知って二人は焦った。
いい加減に合流しないと、ジェフリーは不機嫌になるだろうし、皆も心配する。
どちらからともなく身支度を始めると、後始末をして病院の外へ出た。
途端、氷点下の寒さが全身を襲う。
「おお、寒っ!」
コートの襟を立てて縮こまるアンソニーの横で、レイチェルは鍵をかけながら小声で言った。
「それはそうと、新聞で見たんだけど、テリュース・グレアムは以前の人気を取り戻したそうよ。劇評もすごくいいの。ようやく安定したんでしょうね。結婚も近いって書いてあったわ」
心臓が踊った。
もうとっくに覚悟は出来ていたはずなのに、改めて言われると、やはり針のむしろだ。
明日、どんな顔でキャンディに会えばいいのか。
冷静に「おめでとう」と言える自信がなかった。
「大丈夫?」
反応がないのでレイチェルは不安になる。
やはり言うべきではなかったのだろうか──
申し訳なさそうに見上げる彼女がいじらしい。
「心配しなくていいよ。むしろ感謝してる。はっきり言ってくれたほうが、心の準備も出来るしね。どうせ、いつかは知ることになるんだから」
精一杯の強がりを言うアンソニーの顔を照らし、ガス灯の薄明かりがゆらゆら揺れる。
辛くても乗り越えなければいけない瞬間と、彼は今、必死で闘っていた。
レイチェルに連れられてレストランへ入ると、先に行っていた皆は恐ろしいほど盛り上がっていた。
「生贄(いけにえ)」になっていたのはブライアン。
久しぶりに兄と妹に挟まれ、言いたいことを言われている。
そこに母親まで参戦してきたから、たまらない。
「お前、ホントに好きな女はいないのか?もう23だろ。俺がそのくらいのときは、とっくにレイチェルを追い回してたぞ」
ジェフリーは、今入ってきたばかりの新妻をちらっと見ながら息巻いた。
レイチェルは呆れて肩をすぼめ、夫の隣に腰を下ろす。
アンソニーは必死に応戦する相棒の横に座り、ブライアンがなんと答えるか、興味深く見守っていた。
「俺は兄貴と違って品行方正なんでね。女の尻を追い回してる暇はないのさ」
自慢げに言う彼を見て、危うく吹き出しそうになる。
(女の尻を追い回してる暇はないって?ホントか?じゃあ、「あの子」はなんなんだ)
近頃いかにパティに熱を上げているか、もしここで暴露したら、いい笑いものになるだろう。
おかしさをこらえて肩を震わせていると、(余計なこと言うなよ!)とばかりに、ブライアンはテーブルの下で、アンソニーの足を思い切り蹴った。
「じゃあ、ここ二、三年、まともに帰省しないのは、勉強が忙しいせいなのかしら?私はてっきり、ガールフレンドに振り回されて、フィラデルフィアへの帰り方を忘れちゃったのかと思ってたわ」
次男坊に、皮肉をたっぷり浴びせかける母のディアナ。
これにはブライアンばかりでなく、アンソニーも焦ってしまった。
なぜなら、自分に何かあるたび、ブライアンは心配して寮に残ってくれていたからだ。
「すみません、お母さん。彼が帰省しなかったのは僕のせいなんです。トラブルが起きるたびにフォローしてくれて、なかなか家に帰れなかったんです」
たまらず立ち上がり、アンソニーはディアナに頭を下げた。
「まあ!さっきのは冗談ですのよ。本気になさらないでね。帰ってこないのはジェフリーも同じ。息子なんてつまらないですわ。まとわりついてくるのは、小さいうちだけ。大人になったら寄り付きもしないんだから」
少しふくれる彼女に、クリストファーがすかさず、「いいじゃありませんか。お嬢さんがいるんだから。モニカは何かにつけて休暇を取っては、実家へ戻ってるでしょう?」と、とりなす。
「もおっ、クリス先生ったら!兄さんたちと一緒にしないでください」
今度はモニカがご機嫌斜めになる。
「ごめんごめん。褒めたつもりなんだから怒らないでよ」
端正な顔立ちのクリストファーが照れる姿に、ディアナは目を細める。
この若者こそが、娘の大好きな人だということを、彼女は知っていた。
気心の知れた者同士で楽しく語り合う時間は、あっという間に過ぎていく。
時計の針が九時を指したのに気づいて、皆はあわてて帰り支度を始めた。
明日の結婚式に備えるためだ。
アンソニー、アルバート、ブライアン、ヴィンセントは、ジェフリーが手配してくれた近くのホテルに行くため、タクシーに分乗した。
その夜、アンソニーとヴィンセントは、久々に親子の会話を交わした。
一年の大半を海で過ごす父親と、ハーバードで研修に追われる医学生の息子。
頻繁に顔を合わせるのは至難の技だ。
まだアンソニーがニューヨークの大学に籍を置いているなら、寄港したヴィンセントが、ひょいと会いに行くのも可能だろう。
だがボストンは遠い。
そのせいで、再会できたのはアーチーの結婚式以来、実に二年ぶり。
「さっきブライアンのお母さんが言ってただろう?家に寄り付きもしないから、息子なんてつまらないって。笑いながらだったけど、きっと本音だよ。だからずっと気になってるんだ。父さんもそう思ってる?」
不安げな息子を見て、ヴィンセントは笑う。
「なんだ、神妙な顔をしてどうしたのかと思ったら、そんなことを考えてたのか。気にしてなんかいないさ。だって仕方ないじゃないか。私には仕事があるし、お前にもやるべきことがあるんだから。会えなくたって忘れたことなどないよ。お前もそうだろう?」
髭を蓄えた口元がゆるみ、青い瞳が穏やかな光を放ってこちらを見つめた。
自分と同じ色の、深いサファイアブルー。
父の気持ちを知ったとき、アンソニーは心底安堵した。
「良かった。親不孝してないってわかっただけで救われたよ」
「私のほうこそ、何もしてやれなくて申し訳なく思ってる。だがもう、お前は子供じゃない。親の助けが必要な歳でもなかろう。それに、私は息子で良かったと思ってるんだよ。なんせ、将来はかわいいお嫁さんを連れてきてくれるだろう?それが何よりの親孝行だと思わないか?」
思わぬ反撃を食らい、アンソニーはたじろぐ。
「まだ早すぎるよ!」
「いや、このくらい言って焦らせないと、お前は一生結婚しそうにないからな」
ウィンクする父の横顔が、一瞬寂しげに見えたのは気のせいだろうか。
もうキャンディの手を取ることはかなわない息子を、少しでも励まそうとする父の優しさ。
それが嬉しくて、涙をこらえるのに必死だった。
親子の会話は今夜限りで、夜が明ければ、式を待たずにヴィンセントは出港する。
名残惜しいが、それが船乗りの宿命。
次に顔を合わせるのは、一体いつだろう。
想像もつかないまま、二人は静かな眠りに落ちていった。
翌朝、目の覚めるようなスカイブルーが頭上に広がり、市内の教会にはウェディングベルが響きわたった。
ジェフリー・ホーウィットとレイチェル・プレスコットは、互いに向き合い、夫婦の契りを交わそうとしている。
七年という歳月を経て、やっと。
二人の恋の経緯を知っている者は、皆、感無量だった。
その年月が長くて険しかったからこそ、いっそうの喜びをもって幸せな結末を祝うことが出来た。
アンソニーもその一人だった。
バージンロードを歩いてくるレイチェルは、純白のウェディングドレスをまとい、その横には父親代わりに、アンドリュース病院のルパート院長が並ぶ。
目を見張る豪華なドレスではないが、上品で控えめなデザインが、着る者の美しさを際立たせている。
亜麻色の髪を結い上げ、白いベールに包まれた花嫁は雪のように白く、まるで天から舞い降りた妖精に見えた。
――なんて奇麗なんだ!――
アンソニーの脳裏には、17歳だったレイチェルが蘇る。
記憶を失い、足元もおぼつかない自分を深い愛で包み、かいがいしく看護してくれた白衣の天使。
ウォルターの野望から守ろうと、「一緒に逃げましょう」と抱きついてきた美少女。
あのとき、彼女の髪から甘い花の香りが漂ったのを思い出し、アンソニーはハッとした。
あれが、初めての女性の香りだった。
初めて腕に抱いた異性の温もり。胸のラインの柔らかさ。
わけもなく高鳴った心臓の鼓動。
あの瞬間がいとおしくて、思わず手を開き、まじまじと見つめる。
レイチェルの想いを抱きとめた、あのときの手を。
だが、今は何も残ってはいない。
ただ、時だけがすり抜けていった。
もしもあのまま彼女を受け入れ、一緒に逃げていたらどうなっただろう。
アンジェラを愛することもなく、キャンディと再会することもなく、今日、レイチェルの隣に立つのは自分だったろうか。
そんなことを考えてフッと笑うと、隣にいるブライアンが怪訝(けげん)そうな顔でのぞき込んだ。
その目は明らかに、(お前、大丈夫か?)と言っている。
広げた掌(てのひら)を眺めながら薄笑いを浮かべるアンソニーが、心配になったに違いない。
やがて花嫁は祭壇の前に立ち、モーニングで正装したジェフリーに手を取られる。
聖書に手を置き、誓いの言葉とキスを交わし、二人は正式な夫婦になる。
儀式を見届ける証人として、ベストマンにはクリストファー、ブライドメイドにはキャンディが選ばれた。
既に婚約している女性がつとめるのは稀だが、レイチェルのたっての願いでキャンディは引き受けたのだと、風の便りに聞いた。
今ではそれほどキャンディを信頼しているのだろう。
レイクウッドで火花を散らしたライバル同士とは、とても思えない。
あの夏が、まるで嘘のように流れていく。
時は移ろい、人の心も変わっていく──そんな不思議な力を今更のごとく思い知らされ、感嘆と切なさが交差した。
「キャンディ、大人っぽくなったな」
耳元でブライアンの声がする。
「ヘアスタイルのせいだろう。アップにしてまとめてるから」
複雑な思いで返答する自分の声が、うつろに響く。
「このあとのパーティーじゃ、嫌でも顔を合わせることになるぜ。覚悟は出来てるのか?」
「ああ。逃げるわけにいかないしな」
「ま、いざとなったら、俺が盾になってやるから安心しな」
ブライアンはそう言い、親指を立ててウィンクした。
無事に式が終わり、チャーターされたタクシーで、一行はパーティー会場へ向かう。
行き先は、ジェフリーとレイチェルが馴染みにしている大きなレストラン。
ホテルを借り切って豪華なレセプションを催すより、美味しい料理でもてなしたいという心配りだった。
テーブルの上には食欲をそそる料理が並び、ワインやシャンパン、ウィスキーがずらりとお目見えしている。
つい先日、1月17日に禁酒法が施行されたとはいえ、現状はこのありさま。
「よくもまあ、これかだけそろえたもんだね」と舌を巻く一同に、「なに、隠し持ったり闇で流通させる分にはお咎(とが)めなしですよ」と、店主は笑ってのける始末。
酒の製造、販売、運搬、輸出入の禁止をうたった法律は、実は抜け穴だらけであることを露呈していた。
新郎新婦を囲んで結構な人数が集まっている。
コロンビア大病院に勤務するレイチェルの職場仲間も来ているからだ。
その中に、アンソニーの主治医だったエリック・シーモアもいた。
すっかり立派になって、もうすぐ卒業しようというアンソニーを見て、彼は舌を巻いた。
「夢を見てるんじゃないだろうね。君はあのときの少年だろう?あの大事故のあと、もう一度記憶を失ってうちの病院に来たのに、どうだろう、この回復ぶりは。奇跡は本当に起きるんだってことを、身をもって知ったよ」
そう言って再会を喜んでくれる命の恩人に、アンソニーは涙ぐみながら何度も頭を下げた。
アンドリュース病院からも、勤務医たちが出席し、新郎新婦を祝福する。
院長のルパート・アンドリュースは、アンソニーにいたく惹かれた様子で、熱心に話しかけてきた。
「君はホーウィット兄弟と以前から親しくしてるそうだね。知ってるかもしれないが、私は彼らの父親の同窓だ。つまりハーバードの卒業生で、君の先輩というわけだ。これも何かの縁だろう。よろしく頼む」
満面に笑みをたたえて右手を差し出す院長は、いかにも人の良さそうな紳士に見える。
予期せぬ相手から言葉をかけられ、アンソニーは嬉しさに顔をほころばせた。
「そんなふうに言っていただけるなんて光栄です。僕のほうこそ、よろしくお願いします」
「間もなく卒業だろう?国家試験に通ったら、どこで研修するつもりだい?大学病院か?」
ルパートは、アンソニーの隣にいるブライアンにも同時に尋ねた。
「そのつもりですが」
想像どおりの答えを確認すると、ルパートは持っていたグラスをテーブルに置き、身を乗り出すようにして話し出した。
「どうだろう。九月から二年くらい、うちの病院で研修しないか?実は、ジェフやクリスの下で働いているシニア・レジデント(研修医)が急に故郷へ帰ることになってな。欠員を補充したいんだよ」
それを聞いて、ブライアンは目を丸くした。
「お言葉は嬉しいですが、僕らなんか、まだまだ戦力にはなりませんよ。ルーティーンをこなして、マニュアルどおりの治療をするだけなんですから」
「病棟実習はしてるんだろう?患者を受け持って」
「それはそうですが・・・。血圧測定や採血、注射、点滴・・・実技でまともに出来るのはその程度です。あとは手術に立ち会ったりとか。ブライアンと僕を併せて、やっと半人前って感じで」
今度はアンソニーが、情けない目で付け足した。
「だからこそ研鑽(けんさん)を積んで欲しいのさ。なに、心配することはない。今いるレジデントだって、大した働きはしてないんだから。君ら二人で、彼が抜けた分を埋めてくれればいい」
豪快に笑うルパートを前に、アンソニーとブライアンは半信半疑で顔を見合わせた。
「なあブライアン、私はね、亡くなった父上の代わりに君を鍛えたいんだよ。だからジェフにもモニカにも、アンドリュースで頑張ってもらってる。もしモーリスが生きていたら、兄弟が力を合わせて医療に当たる姿を見て、きっと感激すると思う。それに、そちらの若者にも好感を持ったのでね」
(注:モーリスは、ブライアンたちの父親です。生前は医師でした)
ルパートはアンソニーのほうを向いて、柔らかい笑みを浮かべた。
「聞くところによると、オーベンはキルヒアイゼンだそうじゃないか。あいつもモーリスと同窓だから君たちを離したくないだろうが、研修が終わったら古巣へ戻ればいい。ハーバード以外で経験を積むのも、後々役に立つはずだよ」
熱心に勧誘され、すっかりその気になった二人は、「先ず医師免許を取らなきゃ話になりませんね。頑張ります」と答え、固い握手を交わした。