ブライアンが料理に気を取られている間、アンソニーはあちこち動き回り、他の出席者と気さくに話した。
その最中、視界の隅にちらつく影が気になって仕方ない。
ペールグリーンの瀟洒(しょうしゃ)なドレスで着飾ったキャンディだ。
向こうも同じらしく、グラスを持って歓談する自分に、秘めた眼差しを向けてくる。
視線と視線が絡み合わないように絶妙なタイミングで互いに目をそらすが、まともにぶつかってしまうと、どちらからともなく顔をそむけた。
パーティーが始まったときから、その繰り返し。
「気になるか?彼女のこと」
会話が途切れた一瞬の隙をぬって、ジェフリーが声をかけてきた。
主役であるにもかかわらず、自分を気にかけてくれる優しさがアンソニーは嬉しくてたまらない。
手にしていたグラスを掲げて挨拶代わりにすると、「『気にならないです』なんて言えると思いますか?」と、苦笑しながら肩をすぼめる。
「だろうな」
ジェフリーが笑い返す。
「俺たちの結婚式がこんな時期に当たって悪かった。お前にはいつも辛い思いをさせてるようで、申し訳なく思ってる」
「辛い思い?先生に恩こそあれ、辛い思いをさせられたことなんか一度もないですよ!」
アンソニーは真正面から見すえ、きっぱり言い切る。
「そう言ってもらえるとホッとするよ。実を言うと、レイチェルを取っちまったことも少々気がかりだったんでね」
決まり悪そうに頭をかくジェフリー。
「取るも何も、彼女と僕は恋仲だったわけでもないし・・・」
「でも、いい気はしないだろ?今まで自分に熱を上げてた女が、他の男に嫁いじまうのは」
「僕は欲張って、なんでも抱え込むタイプじゃないですよ。一番大切なものが一つだけあればいい。ジェフ先生にとってはそれがレイチェルであり、レイチェルにとってはジェフ先生だったわけで・・・」
「わかったわかった、それ以上理屈をこねるな。お前、段々頭が硬くなってきたなぁ。論文の書きすぎと違う?」
放っておくとどんどん熱くなるアンソニーをなだめ、ジェフリーは微笑みながら弟分のグラスにワインを注いだ。
「楽しそうで結構だけど、あっちで若奥様が退屈してるぞ。あとが怖いんじゃないか?」
横から割り込んで新郎を冷やかしたのはアルバートだ。
「はいはい、ご忠告感謝しますよ。しかし妻帯者は辛いですね~。いつまでも自由でいられる王子様が羨ましい限りで・・・」と、ジェフリーはウィンクする。
「おい、それは僕への嫌みか?もうすぐ三十路だってのに、いまだに独身じゃサマにならないって?」
「これは失礼をば。どう取っていただいてもOKなんですがね」
軽口を応酬しながら、二人は大きな声で笑う。
そのうちジェフリーは、アンソニーの肩をポンと叩いて花嫁のところへ行ってしまった。
残された叔父と甥は、やれやれという表情で互いを見る。
「アーチーとアニー、今すごく大変でしょう?アレクシスにかかりっきりで」
ワインを一口含むと、アンソニーは待っていたように切り出す。
彼らの子供のことが、よほど気になっているのだろう。
「そりゃそうさ。なんたって産まれたばかりだから。アーチーがあんなに子煩悩だとは、今の今まで知らなかったよ。まるで人が変わったように精を出してる。息子の世話にね」
「じゃあ、ここへ来れるはずないですね」
「いや、ホントのところ、少しは気分転換したかったみたいだよ。君にすごく会いたがってたし。でも五月に卒業を控えてるからスケジュールがタイトらしい。今頑張っておかないとMBAが遠のいていくからなぁ」
「あいつも今年卒業か。僕と同じだ」
感慨に浸るアンソニーに、アルバートが微笑む。
「そういえば、フェリシアはどうしてる?君とブライアンと三人で、仲良くアカデミックガウンを羽織って卒業するんだろう?女性なのに、あっぱれだよ」
そのセリフがアンソニーの心臓をキリキリと揉んだ。
アルバートはまだ知らないのだ。
シカゴで無理やりキスして以来、彼女との関係がぎくしゃくし始め、修復困難になっていることを。
本来なら洗いざらい話して慰めの一つも言って欲しいのだが、なぜか出来なかった。
「フェリシアはアルバートさんが好きなんですよ。かなわなかった初恋の相手に似てるから」
「僕に似てる?その初恋相手って誰なんだい。君の知ってる人か?」
「エドワード・アークエット──アンジェラの恋人だったんです。残念ながら僕は会ったことありません。写真で見ただけです。アルバートさんによく似た男性でしたよ。今はもう、はるか空の彼方ですけど」
「気の毒に。じゃあ彼女は、自分の姉さんが愛したのと同じ男を好きになったってことかい?だから想いが報われないまま、永遠の別れを経験して」
「そういうことになりますね」
「それはそれは・・・」
アルバートは持っていた皿をテーブルに置くと、短いため息をついた。
「でもちょっと待てよ。僕に似てるってことは、そのエドワードって人、君にも似てることになるな?だからフェリシアは、君を好きになる可能性もあるってわけだ」
早口でまくしたてられた言葉が、アンソニーの脳天を突き抜ける。
ワケもなく胸が高鳴り、どうしようもない。
もうとっくに気づいているのに、気づかない振りをしている真実を、目の前に突きつけられた気がした。
「そんなわけないでしょう?彼女は同い年の男になんか興味ないそうですから」
弱々しく返答し、平静を装うのがやっとだった。
そのとき、レストランの入口が急に騒がしくなった。
そちらを見ると、招待客の視線は、突然現れた珍客に釘付けになっている。
不遜(ふそん)な笑みを浮かべて立っているのは、レイモンド・ブラッドリー。
今をときめくストラスフォードのトップスターだ。
一体なんのためにこんなところへ来たのか理解できず、アンソニーとアルバートは顔を見合わせる。
事態の異変に度肝を抜かれ、ジェフリーやレイチェルも硬直しているし、そのそばに立っているキャンディは、シャンパングラスを手にしたまま棒立ちしていた。
そんな彼女にわざとらしく会釈したレイモンドは、次なる標的を見定めるために視線を泳がせ、目当ての人物を探し当てると、氷のような目を向けてニヤッと笑った。
プルシアン・ブルーの瞳に映し出された「獲物」は、他ならぬアンソニー!
美貌の役者は意味ありげにアンソニーとキャンディを交互に見つめ、そのたびに口元をゆがめて薄笑いを浮かべた。
もしもこの二人が、もっと近い距離で立っていたなら、誰もが「何か」を感じ取り、噂のタネにしただろう。
「アンソニーとキャンディは、人に言えないような特別な関係か?」と。
そう思われても仕方ないほど、レイモンドは露骨に二人を見比べた。
だが、彼らを隔てる距離が幸いして、とりあえずゴシップは免れたらしい。
恐らく招待客の誰も、レイモンドの視線の先にいる人物を認知できなかったろうから。
「失礼だが、僕は君を招待した覚えはないんだが・・・。いくらストラスフォードの花形といえどもね」
異様な雰囲気に包まれた空間を、なんとか収めようとするジェフリーの声が響く。
「おっしゃるとおりです。でも光栄だな、僕を覚えていてくれたなんて。なんせお世話になりましたからね~。あなた、担当医だったでしょう?僕が骨折したとき。ナースは・・・そうそう、そこのお嬢さん!今度、ウチの『有閑マダム担当』と結婚する予定の」
そう言ってレイモンドは皮肉たっぷりに笑い、ペールグリーンのドレスに、上から下までなめるような視線を這わせた。
いやらしさにうんざりし、キャンディは眉をつり上げる。
――何が「有閑マダム担当」よ!ちゃんと名前で呼びなさいったら──
怒りに震えた緑の目は、明らかにそう言っている。
レイモンドはからかうような微笑を浮かべ、気取った足取りでキャンディの目の前にやってくると、早口でまくしたてた。
「おっと!そんな怖い顔して睨んじゃ、素敵なドレスが台無しだなぁ。メイクもヘアスタイルもばっちり決めて、まるで別人なのに。病院で世話してもらったときは、さえないそばかすのナースくらいにしか思ってなかったんだけどね」
キャンディは薄気味悪くなり、なぜか一言も言い返せなかった。
本当は「失礼ね!」なり、「バカにしないでよ!」なり、強烈にお見舞いするところなのだが、エメラルドの瞳には恐怖の色さえ浮かんでいた。
それほど、この男の真意がわからなかったのだ。
「そんなに怪しまないでください。僕はただ、お祝いを持ってきただけなんですから」
そう言うなり、レイモンドは何事もなかったかのようにキャンディのそばを離れ、持参したバラの花束を抱えて新郎新婦の前にまかり出た。
「本日はおめでとうございます。ファンの子から、あなたが結婚すると聞いてお祝いしたくなったんですよ。他意はありません」
差し出された真紅のバラを拒否する理由もないから、ジェフリーは仕方なく受け取った。
すると役者はにっこり笑い、「ちょっとだけお邪魔しますよ。あそこに知り合いがいますんで」と言い、ジェフリーの返事も聞かないまま、標的に向かって歩いていく。
その足先には、一部始終を凝視していたアンソニーが険しい表情で立っている。
予想通りの反応を見せてくれるのがおかしくて、レイモンドは失笑した。
(しかしアンソニー、お前はホントにわかりやすい奴だな。思ったことがすぐ顔に出る。生真面目というか、融通がきかないというか・・・。そんなことじゃ、ポーカーフェイスを決め込むなんてとても無理だろう。今日はキャンディとどんな顔してしゃべるつもりだ?その滑稽なさまを拝みたくて、わざわざ足を運んだんだぜ。探偵からジェフリーが結婚するって情報をつかんだんでね。ジェフリー・ホーウィットとレイチェル・プレスコットは、お前とキャンディの両方に深く関わってるから、二人とも絶対招待されると踏んだんだ。見事的中だな)
そして大スターは、タキシードで正装したブロンドの若者の前に立ち、丁寧に頭を下げた。
「『初めまして』と言いたいところだが、あいにくお会いするのは二回目ですね?今日はまた格別な装いで、どこぞの御曹司に目えますよ。特に胸元のそのバラ!絶妙な色合いだ。白くて真中がほんのりグリーンで。どこで手に入れたんです?是非教えていただきたい」
火がついたようにまくしたてる役者に、アンソニーはニコリともしない。
隣のアルバートも警戒した面持ちで青年を品定めする。
「おやおや、どこかで見た顔だと思ったら・・・。こちらはシカゴの名士、アードレー家の大総長じゃありませんか!ニューヨークタイムズにも写真が載りますからね。よく存じてますよ。それにしても不思議なことがあるもんだな~。お二人が並んで立ってると、まるで双子の兄弟みたいだ。似てる。いや、似すぎだ!もしかして親戚か何かですか?」
カマをかけたレイモンドに、アルバートは低く落ち着いた声で応酬する。
「君は『他人の空似』っていう言葉を知らないらしいな。もっと教養を深めたほうが、後々舞台で役に立つと思うが」
白いシャツにダークブラウンのタイ、ツイードのジャケットというラフな格好で現れた大スターは、口元をつり上げて笑うと「お言葉、肝に命じておきます」と言うなり、立ち去ろうとした。
アルバートと少し距離が開くと、アンソニーにだけ聞こえるような小さい声でそっとささやく。
「君、ボストン公演のとき、楽屋に来ましたよね?あれには驚きましたよ。まさかテリィにケンカを売りに乗り込んでくるとはね~。でも安心してください。キャンディには言いませんから」
瞬間、アンソニーの心臓は踊った。
思わず振り返り、去っていくレイモンドの背を凝視する。
(なぜ今更そんな話を持ち出す?僕をからかってるのか?だとしたら、なんのためなんだ!)
不可思議な謎を残したまま、役者は会場中央に歩を進めた。
ものの一分もしないうちに、その周りを女性が取り囲み始める。
招待客の中には彼の熱烈なファンンが何人もいたからだ。
サインを求める彼女たちが一人二人と駆け寄り、あっという間に人だかりになっていく。
「うさん臭いヤツだなぁ。どんな魂胆か知らないが、とにかく様子を見てくるよ。君はこれ以上近づかないほうがいい」
アルバートは甥に目配せするとシャンパングラスをテーブルに置き、レイモンドのあとを素早く追う。
入れ替わりにブライアンがやってきて耳打ちした。
「あいつ、テリィのライバルだろ?なんだってこんなところに好き好んで・・・。何か心当たりはないのか?」
「全くなしだね、残念ながら。ただ気になるといえば、去年の6月、テリィがボストン公演に来たとき、キャンディの件で怒鳴り込んだことがあったろう?覚えてる?」
「ああ。君一人で芝居を見に行って、ついでに楽屋へ押しかけて──って、あの一件だろ?」
「うん。あのときレイモンドは、僕がテリィに食ってかかるのを見てたんだ。だから僕がキャンディを好きだったことに気づいてるはず」
「だとしたって、それと今日のパーティーと、どんな関係があるっていうんだ」
二人は不安げに目を合わせた。
売れっ子にありがちの単なる気まぐれ──そういう理由で片付けたかったが、奥底に潜んでいる「不気味な目的」を図りかね、いつまでも胸がざわついた。
しばらくしてもう一つ、アンソニーを悩ませる疑念が頭をもたげた。
それはレイモンドの青い瞳。
(あの青さ、あの輝き・・・どこかで見た気がする。それとも単に気のせいか?)
その記憶がきつね狩りの前だったのか、あとなのかすら思い出せないほど、アンソニーの頭には靄(もや)がかかっていた。
もしこのときはっきり認識できていたなら、間もなく起こる「大事件」を、未然に食い止めることが出来たのかもしれない。
「ねえアルバートさん、レイモンド・ブラッドリーはここへ何しに来たんだと思う?」
曲者スターとの距離をじりじりと縮めるアードレー家総長の真横に滑り込んだのは、キャンディだ。
「それがわからないから、こうして探偵の真似事をしてるんだよ。君こそ何か思い当たるフシはないかい?」
キャンディは小さなため息をつき、頭を左右に振る。
「テリィをからかいに来たんだったらわかるけど、どうしてアンソニーや私を見てニヤニヤするのかさっぱりわからないわ。薄気味悪い人!」
瞬間、アルバートは直観した。
――もしやレイモンドは、アンソニーとキャンディの関係を知っていて冷やかしに来たのでは?――
だが彼女を不安にさせるわけにはいかないので、何も触れないまま話題を変えた。
「ところでキャンディ、僕が見てた限り、君はまだ一度もアンソニーと言葉を交わしてないようだけど、いいのかい?このままじゃ、やがてパーティーはお開きになって、あいつはホテルに引き上げちゃうよ。明日は早々にボストンへ発つって言ってたし」
核心をつかれ、心臓が急に甲高いメロディーを奏で始めた。
熱くなってはいけない、想うことさえ罪──そう念じて必死で抑えこんできたのに、アルバートのたった一言で、こんなにも揺らいでしまう自分が情けない。
「かまわないわ。だって彼とは、もうなんの関係もないもの」
精一杯の強がりを言う養女に、養父は柔らかい笑みを浮かべた。
「つまらない意地を張ってないで、誤解はちゃんと解いたほうがいい。テリィと結婚するにしても、フェリシアの一件は別物さ。気になって仕方ないんだろう?あの娘が本当にアンソニーの恋人なのか、確かめる権利くらいあると思うよ」
「ホントに?」
途端にキャンディの瞳が輝く。
アルバートは静かにうなずくと、「マジソン・アベニューにある、このホテルだ。今声をかけるのが気まずいなら、あとで訪ねていくといい」
そう言って、地図が載っているホテルのパンフレットを渡そうとしたが、手元が滑って床に落ちてしまった。
すると真後ろにいた若い女性──恐らくレイチェルの関係者だろう──が拾い上げ、「落ちましたわよ」と、キャンディの手に握らせてくれた。
「ありがとうございます」
礼を言って丁重に頭を下げる。
少し離れたところで、虎視眈々と観察していたレイモンド。
彼がこの光景を見逃すはずはなかった。
女性たちに囲まれ、サインをねだられながらも、獲物を狙う獣のように、目はしっかりアードレー家の二人を捕えていた──彼はそういう男だ。
万事にぬかりないのだ。
だからこそ、テリィと並んでトップの座をつかんだのだし、アンソニーをも、ここまで追いつめられたのだろう。
「ちょっと失礼。知り合いに聞かなきゃならないことがありますので」
群がるファンをやり過ごすと、レイモンドは真っ直ぐターゲットへ歩を進める。
急に華が消えてしまったから、女性たちは落胆のため息をついてスターの背を追いかけた。
「知り合いって誰かしらね?羨ましいわ」
「もし女性だったらどうしよう。悔しいわよね~」
口々に言い合うファンたちの視線は、ワインレッドのドレスを上品に着こなす娘の前でピタリと止まった。
レイモンドが話しかけたからだ。
「すみません、お嬢さん。初対面でなれなれしく声をかける無礼をお許しください。あなたがあまりに素敵なので、つい・・・」
そう言うや、大スターはにっこり微笑んで見せた。
まさにkiller smile──女性はたちまち舞い上がってしまった。
目を白黒させ、「レイモンド・ブラッドリー・・・ホンモノだわ!」と独り言のように言う。
今にも腰が抜けそうだ。
恐らくは、彼女も熱烈なファンなのだろう。
何しろレイモンドは、今をときめく若手のトップなのだから。
皆、大変な思いでストラスフォードのチケットを手に入れ、憧れの俳優を遠くから拝むのが小さな幸せなのに、こんなも近くにレイモンドがいるのだ。
感動で我を忘れても当然だろう。
「実は・・・お美しいあなたに、是非ともお願いがあるんです。もしかなうなら、教えていただけませんか?」
「勿論です。なんなりと!」
完全に陶酔した彼女は、目を潤ませてレイモンドを見上げる。
「つい今しがた、ここにいた若い女性の落し物を拾ってあげてましたよね?あれはなんだったんですか?」
瞬間、女性は意外な顔をしたが、すぐに答えてくれた。
「ホテルのパンフレットでした。パークセントラルホテル・・・ご存じでしょ?有名なロゴだから、拾った途端すぐわかりましたわ」
レイモンドの青い瞳が鈍く光って揺れる。
「それはそれは。ご厚意、感謝します」
すかさず女性の右手を取ると、片膝をついて、甲にそっと唇を寄せた。
少し離れたところでそれを見ていた女性陣は大騒ぎだ。
「ちょっと!あれ、キャサリンじゃない?どうしてあの子がレイモンドにキスされたりするわけ?」
「いつの間に知り合いになったのかしら。そんな話、聞いたことないのに」
「こうなったら徹底的に聞き出してやるわ!」
蜂の巣をつついたように騒然となった人だかりは、コロンビア大病院の看護婦たち──つまりレイチェルの同僚だ。
一同はキャサリンのそばへにじり寄ってくる。
だが詰め寄られても、彼女は当分現(うつつ)に戻れまい。
レイモンドの唇が触れた甲を見つめたまま、天にも昇る心地になっていたから。
必要な情報だけ聞き出し、ジェフリーとレイチェルに一礼すると、レイモンドはレストランを抜け出した。
しばらくしてパーティーはお開きになり、招待客たちは三々五々、会場をあとにしていく。
その流れの中に、アンソニーやブライアン、アルバートやキャンディも入っていた。
門出した幸せなカップルに溢れんばかりの祝辞を述べ、皆満足そうに引き上げていく。
だが「美貌の策士」だけは、まだ物陰に身を潜め、「新たな獲物」が息せき切ってやってくるのを、面白そうに見ていた。
レイモンドは、駆け込んできたテリィを見つけたのだ。
レストランへ入ろうとする彼の腕を引っ張り、したり顔で「仲間」をたしなめる。
「キャンディなら今帰ったところですよ。ついでにアンソニーもね。一足遅かったなぁ」
ニヤニヤ笑うプルシアン・ブルーの瞳が癇(かん)に障る。
「何が言いたんだ。それに、どうして君がここにいる?」
威圧するテリィに、レイモンドは尚も意味ありげな薄笑いを浮かべる。
「そんなこと、どうでもいいじゃないですか。それより確かめなくていいのかな。『二人一緒に消えたのか』って。あなたがこんなにあわてて来たのは、あの金髪男が自分のフィアンセを誘惑しやしないか、気が気じゃなかったからでしょう?」
テリィは何も言わずに鋭い目を向け、相手の反応をうかがう。
「残念ながら予想はハズレだ。追いかけていったのはキャンディのほうですよ。今頃いそいそパークセントラルホテルへ向かってるはず。そこに愛しいアンソニーが泊ることになってるんでね。どうです?確認してみるのも一興でしょう?」
ついに我慢できなくなり、テリィはレイモンドの胸倉をつかんで拳を握りしめた。
手はワナワナと震えているが、「今思っていること」を行動に移す勇気はさすがになかった。
感情のままに突っ走ったら、あとで劇団からどんな制裁を受けるか重々承知していたから。
悔しいが、レイモンド・ブラッドリーはストラスフォードの看板俳優なのだ。
その顔を傷物にしたらまずいことくらい、テリィにだってわかる。
それがこの世界の掟(おきて)だから。
「明日公演を控えてることに感謝するんだな。でなきゃ、俺は貴様を殴り倒してるだろう」
吐き捨てるように言うと、「ふっ、悪あがきか」という声が返ってくる。
またはらわたが煮えくり返ったが、思い切り突き放して背を向ける。
そしてテリィはマンハッタンの街並みに吸い込まれていった。
キャンディが「あの男」と密会するのを食い止めるために。
一足先に引き上げたアルバートを追い、アンソニーとブライアンはホテルへの道を急いでいた。
ニューヨークの寒気が鋭く肌を刺す。
ましてパーティーで不愉快なことがあったばかりだ。
なぜレイモンドが現れたのか謎を解けないまま、アンソニーは考え込んでいる。
見かねたブライアンが呆れ顔で切り出した。
「もういい加減、あの役者のことは忘れろよ。考えたってどうにもならないだろ?俺が思うに単なる気まぐれか、それともあいつ、キャンディに気があるか・・・」
「え!?」
意外なことを言われたので、ハッとして顔を上げる。
「バカだな。冗談だよ、冗談!」
ニヤッと笑い、ふざけて小さなパンチをアンソニーの腹に繰り出すブライアン。
そうこうするうちホテルに着き、エントランスホールに入った。
フロントから部屋の鍵をもらうとエレベーターに乗り込み、行き先階のボタンを押す。
ややあって扉が開くと、目の前にはいくつものドアが並んでいた。
このホテルには、相当数の客室が完備されているようだ。
「705号室だったな」
早くくつろぎたいのか、せっかちに歩いていくブライアンのあとを追い、アンソニーはため息混じりに窓外を見つめる。
夜景を楽しめるように取り付けられた大き目の窓──そこからはマンハッタンの闇夜が、濃く、果てしなく広がっていた。
「暗いな、まるで僕の心みたいに」
ボソッとつぶやくと、「何か言ったか?」とブライアンが振り返る。
「いや・・・」
低い声で答えたとき、さっき乗ってきたエレベーターのほうでドアが開く音が聞こえた。
誰かが走ってくる気配がする。かなり大きな音を立てて。
何事かと思ってそちらを見たとき、呼吸を荒くして走ってきたのはキャンディ!
コートを羽織り、脇に小さなクラッチバッグを抱えている。
あまりに急いできたせいか、結い上げた髪がほつれ、おくれ毛が揺れている。
それが妙に艶っぽい。
なんともいえない色香を漂わせている。
こんなに大人びたキャンディを見たのは初めてなので、アンソニーは息を呑んだ。
「私、あなたに話があって・・・」
やっとしぼり出した声が震えているのは、駆け込んできたせいだろうか、それともアンソニーがなんと答えるか不安だったからか・・・。
いずれにせよ、エメラルドの瞳は何かを切なく求めるように潤んで見えた。
「先に行ってるぜ」
ブライアンは相棒の肩をポンと叩き、ウィンクする。
そしてキャンディに軽く会釈すると、「積もる話があるでしょうから」と微笑んだ。
くるりと背を向け、彼は部屋へ向かう。
その後ろ姿に、キャンディは感謝して頭を下げた。
「一体どうしたんだい?外は寒かったろう。下のバーに行って、体が温まるものを飲もうか」
「ううん、ここでいいの」
アンソニーの甘い声が胸をくすぐる。
そうでなくても走ってきたせいで息が苦しいのに、彼が目の前にいることが余計に鼓動を高鳴らせる。
この上バーになんて行ったらどんな行動に出てしまうか、キャンディには自信がなかった。
「素敵な人ね、ブライアン。あんなに仲がいいお友達がいて羨ましいわ。いつも一緒に行動してるの?」
栗色の髪の若者が歩いていった方向に目を向け、場つなぎのセリフを口にするキャンディ。
アンソニーは目を伏せたままフッと笑った。
「そんなことを聞くためにわざわざ来たの?」
「・・・・・・!?」
「君が話したいのはもっと別のことだろ?遠慮せずに聞いてくれてかまわないんだよ」
サファイアの瞳が真っ直ぐ見つめてきた。
その目があまりに奇麗で、哀しくて、どうにもならないほど苦しくなる。
キャンディは何も言えないまま、悩ましげな表情で見上げてしまった。
「もしかして、知りたいのはフェリシアのことじゃない?」
そう言うとアンソニーは窓のほうへ歩を進め、外に広がる漆黒の世界を見下ろした。
小さなため息が漏れる。
「『彼女と付き合ってるのにどうして黙ってたの?』って怒りに来たんだよね?」
背を向けたままの若者に、やっとの思いで答える。
「ちょっとは当たってるけど、怒りに来たわけじゃないのよ」
優しい声に、アンソニーは思わず振り返った。
彼の胸元に一輪飾られている、懐かしいバラが視界に飛び込む。
「まあ、スイートキャンディ」
「君に会えると思ったから・・・」
小さな声で答えると、照れ臭そうにうつむくアンソニー。
(ああ、このはにかんだ顔が大好きなの。彼が他の女性の手を取って、どこか遠くへ行ってしまうなんて!)
キャンディは勇気を奮い起こして直球を投げた。
「実は・・・聞きたかったのはね──フェリシアさんが好きなのは何色のバラ?」
「なぜそんなことを」
「いいから答えて。いつも何色のバラをプレゼントしてるの?」
これには困ってしまった。
フェリシアが何色を好きかなんて、考えてみたこともないからだ。
答えに窮(きゅう)して、「ピンク。いや・・・赤・・・かな?」と、しどろもどろに返答する。
そのうろたえようを見て、キャンディはくすっと笑った。
まるで予想していたかのように。
「ダメね~。正解は白よ。恋人が好きな色くらい、ちゃんと覚えておかなきゃ」
「そうだね・・・」
苦笑して頭をかきながら、アンソニーはフェリシアの顔を思い浮かべた。
この前、クリスマスプレゼントとして、たまたま白いバラを贈って良かったと思った。
まさか本当にお気に入りの色だったとは!
「昔、初恋の人がくれたのが白いバラだったそうよ。『まだ誰の色にも染まってない君は、これから何色になっていくんだろう』って、その彼は言ったそうだわ。パティから聞いたの。ごめんなさいね、あなたを試したりして」
フェリシアとの関係をテストされたことより、今聞いたばかりのエピソードがアンソニーは気になって仕方ない。
初恋の人がくれた白いバラ──エドワードはフェリシアにそんな贈り物をしていたのか。
だったら、なぜ彼女が白を愛しているのか理由はわかる。
(君が好きなのが白バラだったなんて!何か運命みたいなものを感じるよ。だけど驚いたなぁ。僕もエドワードも同じ理由で、君には白が似合うって思ったんだから)
そうだ、フェリシアには白が似合う。
まだ誰の色にも染められていない、純真な人だから。
これから彼女に色を付けていくのはどんな男なのだろう。
アンソニーは全くの他人事として、ふとそう思った。
「フェリシアさんのこと、無理して恋人の振りをしてくれなくていいのよ」
思索に耽っていたら、切羽つまったキャンディの声が耳元で聞こえた。
「あなたに恋人がいなくたって、もう『一緒にいたい』なんて言わないわ。大丈夫、心配しないで。私はちゃんとテリィと結婚するから」
そう言って背筋を伸ばし、無理に笑ってみせる顔がなんだか痛々しい。
本当は泣きたいのに、わざとポーカーフェイスを決め込んでいるように見えて仕方なかった。
アンソニーは揺れる。
彼女の気持ちを思って、痛いほど揺れる。
──離したくない!──
心は、あらん限りの力を振り絞ってそう叫んだ。
「だからあなたはもう自由なの。今度こそ素敵な女性を見つけて、私のことなんか忘れて・・・」
言った途端、こらえきれず、エメラルドの瞳から大粒の真珠が流れ出て頬を伝った。
わけもなくこぼれ落ちる滴(しずく)を止めることが出来ないまま、キャンディはアンソニーを見つめる。
理性のタガが外れたのはその直後だった。
パーティーで口にしたワインが、今頃になって陶酔感を与えたのだろうか。
アルコールの力に導かれ、アンソニーは後先も考えずにキャンディを抱き寄せた。
感情が理性を凌駕(りょうが)した瞬間だった。
華奢(きゃしゃ)な肩を自分の両腕ですっぽり覆い、低く殺した声でささやく。
「誰にも渡したくないんだ。テリィにもアルバートさんにも、誰にも。本当は君を連れてボストンへ逃げたい。いつだってそう思ってた」
抱きすくめられて驚いたキャンディは、「アンソニー、ダメよ」と小さな声で抵抗し、体を泳がせる。
だが彼は一層力を込め、愛する女性を逃すまいと躍起になった。
「お願いだ。ほんの少しでいいから、このままでいてくれないか。君のこと、覚えておきたいから」
その言葉が心臓をえぐり、涙を誘う。
(ホントは私だって離れたくないの。あなたのそばにいたい。ずっとこのまま一緒に・・・)
キャンディは思わず背伸びをし、両腕をアンソニーの首に絡ませて体をぴったり寄せた。
ワインとタバコのかすかな香りが鼻先をくすぐる。
彼もごく普通の男性であることを、このとき初めて実感した。
(バラの門の王子様じゃなくたっていいの。ありのままのあなたとこれからの人生を歩いていけたら、どんなにいいかしら)
今この瞬間、ここはまさに、愛し合う者たちの空間だった。
いくつも並ぶドアの向こうには多くの宿泊客が存在しているのだが、それとは無縁の世界に二人は立っていた。
暗い廊下を照らしているのは、ところどころに設置されたランプの薄明かりだけ。
照らされて浮き上がったシルエットが重なり合い、静かに揺れたとき、少し離れたところで聞き覚えのある声がした。
「キャンディ」
ついに来るものが来たかと観念し、抱き合っていた二人は咄嗟(とっさ)に互いの体を離した。
これは人の道に外れたこと。してはならないこと。
だから非難されても仕方ない。
覚悟を決めて声のしたほうを見ると、彼らの目には、想像したとおりの人物が映し出された。