キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に) -25ページ目

キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

アンソニーメインの二次創作・ファンフィクション「バラの薫る季節に」を掲載しております。

立っていたのは、テリュース・グレアム!

「さあキャンディ、もうそのへんでいいだろう?失礼しよう」

テリィはこの上なく冷静に言ってのけた。
激昂(げっこう)してつかみかかられるだろうと構えていたアンソニーは、拍子抜けした。
予想に反し、テリィは意外なほど落ち着いており、「間男」を睨みつけるわけでもなく、殴るわけでもなく、フィアンセをそっとそばに引き寄せると、一礼さえした。

「いろいろ心配をおかけしたようだが、僕らは今年中に式を挙げる。もし良かったら出席していただきたい、君にも是非」

ストラスフォードの役者は、余裕の笑顔でそう言った。
なんともいえない迫力に圧倒され、アンソニーは一瞬たじろいだが、ここで取り乱しては男の沽券(こけん)にかかわる。
せめて最後はハーバードのエリートらしく、潔い態度で祝福しようと、痛々しい笑顔を作って見せた。

「それはおめでとうございます。幸せになられるように祈ってますよ」

言葉とは裏腹に、心には土砂降りの雨が降る。
こんなシーンを今まで何度経験したことだろう。

恋はいつもアンソニーの手をすり抜け、はるか彼方へ逃げていく。
あとに残るのは、ほろ苦い思い出だけ。
いつだってそうだった。
そう思った途端、たまらなくなる。
出来ることなら、こうして目を伏せているうちに、何も言わずに立ち去って欲しい。
だがそれでは、もう二度とキャンディを見ることは出来ない。
そっちのほうが辛いに決まっている。
だから意を決してアンソニーは顔を上げた。
どんなに情けない姿をさらしてもかまわない。さえない人だったと思われてもいい──そんな思いで、サファイアの瞳はキャンディを見つめた。

そのとき目に写った哀しい光景は、一生消えることはないだろう。


彼女は泣いていた!


テリィに手を引かれながらも、振り返り、振り返り、ずっと泣いていた。
「アンソニー、愛してたわ」──その目は、そう叫んでいるように見えた。

(どうしようもないくらい好きだよ、キャンディ。僕だって離したくないんだ。でも、君の手を引いてるそいつを殴り倒しても、僕たちが幸せになれる保証なんかない。だったら後ろ指を指されるようなことは出来ないだろう?これ以上君に辛い思いをさせたくないんだ)

駆け寄りたい衝動を必死で抑え、拳を握りしめるアンソニーの目の前から、今にもキャンディは消えようとしている。
到着したエレベーターに乗り込み、ドレスの裾(すそ)がドアの奥に隠れてしまうまで一瞬とて見逃さないように、アンソニーは愛する女を追った。
その瞳に愛惜の涙をたたえながら。



同じ頃、少し奥まって死角になっている階段の踊り場では、一部始終を観察していた男がほくそえんでいた。
金髪にプルシアンブルーの瞳をしたその役者は、壁に寄りかかったまま前髪をかきあげる。

(ふん・・・馬鹿な奴!これだけコケにされても、まだキャンディに未練があるか?いい加減あきらめて他の女をナンパしたほうが利口だと思うぜ。引っかけようと思えば簡単だろう?その奇麗なツラで「ハーバードの医学生です」って言えば、面白いくらいついてくるさ。俺ならそうするね)

レイモンドは声を押し殺してくっくっと笑うと、はるか彼方でまだ立ちすくんでいるブロンドの若者に、あらん限りの侮蔑を投げつけた。




部屋に戻るとアルバートとブライアンが待ちかねていた。
二人とも心配そうな面持ちだ。
アンソニーは事の次第を事細かに話して聞かせた。

中でも解せなかったのはテリィの態度。
大切なフィアンセと密会して堂々と抱き合っていたのに、怒鳴るわけでもなく、つかみかかるわけでもなく、実に淡々としていたのが妙に思えて仕方ない。
そもそも、なぜ来たのだろう。
どうやってホテルを突き止めたのだろう。

「どうせ、あの金髪役者がチクったんだろうさ。兄貴のパーティーに現れたのも、何か魂胆があったからに違いない」

苦々しげに言い放つブライアンに、アルバートも同調する。

「僕とキャンディの会話を立ち聞きしてテリィをたきつけた──そんなところだろう。それとテリィが冷静だったのは、きっと余裕があるからさ。彼には勝者の風格が漂ってる。アンソニーには悪いけどね」
「それは『確実にキャンディを手に入れた。もう怖いものはない』って意味ですか?」

尋ねるブライアンに、アルバートはうなずく。

「そうでしょうね、悔しいけど。とにかく焦ってる様子は全然なかった。落ち着き払って、まっとうなセリフを吐いて、僕よりずっと年上に見えました。ただ・・・」

言いかけて黙る甥に、アルバートは先を促す。

「ただ・・・なんだい?」
「妙に冷めてました。なんだか機械的で。うまく言えないけど、僕に対する怒りとか嫉妬とか、そういう熱いものが一切伝わってこなかった。なぜでしょうね」

アンソニーの直観は当たっていた。
このとき既にテリィの中には、別の方向に向かって伸びる「心のベクトル」が現れていたのだ。
キャンディは勿論、彼自身、それに全く気づかぬまま。


翌朝、ホテルの部屋で朝食をとる三人のもとにジェフリーが顔を出し、また昨日の話題になった。
パーティーに、なぜレイモンドが現れたのか──
ああでもない、こうでもないと盛り上がるうち、ジェフリーは一年ほど前のことを思い出して話し始めた。

「あれは確か、テリィの婚約者が誰なのか、まだ正式に発表されてない頃だった。やっこさん、左足を骨折してウチに入院してたんだよ。で、彼を担当した看護婦がキャンディ。意外なことに、ヤツはすっかり入れ込んじゃってね」
「入れ込むって・・・まさかとは思うけど、レイモンドがキャンディに?」
「ご名答!」

目を白黒させる弟に、兄はウィンクした。
これにはアンソニーもアルバートもびっくり仰天。
「そんなことがあったなんて全然知らなかった」と口を揃える。

では、レイモンドも失恋したということか。
テリィのフィアンセがキャンディだと知ったときは、さぞやショックだったろう。
それで逆恨みでもして、ずっと根に持っていたとか・・・

「そういうことなら、僕がテリィの楽屋に怒鳴り込んでいったのを見て、あいつはさぞ面白かったろうな」

アンソニーは去年の六月を思い出し、ストラスフォード劇団がボストン公演に来たとき、なぜすぐキャンディと式を挙げないのか、テリィに抗議しに行った件を持ち出した。
そのときレイモンドがその場に居合わせたことも。

今度はジェフリーが驚く。
アルバートにとっても初耳で、「君はそこまで食い下がってたのか」と苦笑いした。

キャンディを好きでありながら縁がなかった──アンソニーとの共通項はそれしかないが、某かの興味を持ったレイモンドが、アンソニーとキャンディをからかいに来た──そんな図式が皆の頭に浮かぶ。

「大スターの気まぐれってやつか?自分を袖にした女を見返してやりたかった・・・まあ、それはわからないじゃないが、アンソニーに対してはどんな気持ちで乗り込んできたんだろう」

考え込むジェフリーに、アンソニーはすかさず答える。

「僕の惨めな姿を見て優越感に浸りたかったんじゃないですか?同じ『振られた者同士』ですから」

彼の推理は大筋で当たっていたが、真相はそんなに単純ではなかった。
なぜならレイモンドの復讐心は、アンソニーが考えているより途方もなく大きくて根深いものだったから。
その策略が全貌を現し始める日が、刻一刻と迫って来ていた。
だがアルバートもブライアンもジェフリーも、そしてアンソニー本人でさえ、そんなことには全く気づかぬまま、別れを惜しんでいた。



しばらくするとレイチェルが合流し、一行はグランドセントラルステーションへ向かう。
彼女は見送りのために仕事を抜け出してきたのだ。
これからアルバートはシカゴへ、アンソニーとブライアンはボストンへ、明日から始まるそれぞれの生活の場へ帰っていく。

わざわざ駆けつけた義姉に、ブライアンは愛想良く笑いながら頭を下げた。

「レイチェル義姉(ねえ)さん、とんでもない兄貴だけど、どうかよろしく頼みます。見た目はこんなですけど、結構いいとこもあるんですよ」
「なんだと~!こいつめ」

ふざけて拳を振り上げるジェフリーをなだめると、妻はにっこり微笑んだ。

「あらイヤだ、義姉さんだなんて。今までどおりレイチェルでいいのよ。だって私たち、一つしか違わないじゃない?アンソニーと同い年のあなたに姉さん呼ばわりされたら切なくなっちゃうわ」

意味深なセリフが飛び出し、アンソニーはドキッとしてジェフリーを見る。
いつもは細かいことを気にしない彼も、さすがにちょっとばかり穏やかではないらしい。

「それ、どういう意味?」

早速妻に食ってかかると、ブライアンは呆れて「あーあ、早くも夫婦喧嘩かい」と肩をすぼめた。
アルバートは微笑ましく見つめながらも、レイチェルをたしなめる。

「君にはもう大切な旦那様がいるんだよ。滅多なことを言って焼きもちを焼かせちゃいけない。アンソニーも困るだろうし・・・な?」

そう言って、隣にいる甥っ子に目をやると、亀の子のように背を丸め、ひたすら申し訳なさそうな視線をジェフリーに送るアンソニーがいた。



気心の知れた仲間との楽しい再会は、間もなく終わりを告げようとしている。
アンソニーは、ふと思った。
ここにキャンディがいない。
本当ならこの笑顔の輪の中に、真っ先に彼女が飛び込んでくるはずなのに。

もう一度会うことは叶うのか。
会えたとして、いつのことだろう。
そのときこそ、彼女はあの役者の妻になっているに違いない。

切なさに心は乱れたが、汽車はアンソニーを現実の世界へ運んでいく。
ボストンに着いた瞬間、医学生としての課題が待ち構えているのだ。
だがすべてを忘れたい今、忙殺される日常に、むしろ感謝したいとさえ思った。




その翌日、朝一番でローザの病室を訪ねた。
主治医の回診は勿論のこと、まだ検温や血圧測定も済んでいない時間帯だ。
周囲はひっそりと静まりかえり、遅く顔を出した冬の太陽が弱い光の筋をベッドに投げている。
窓から降り積もった雪が見えた。
一面に広がる銀世界を狭い病室からではなく、もっと近くで見てみたいと思わないのか──アンソニーはそんなふうに思いながら、ローザの細い肩を見つめた。

「いつまでも閉じ込められて嫌じゃありませんか?早く元気になって外に出てみましょうよ。僕で良ければ喜んでお供しますから」

優しい目で語りかける医学生に、彼女は少女のように無邪気な笑みを浮かべた。

「先生は誘惑するのがお上手ね。何をおっしゃりたいのかわかりますのよ」
「じゃあ話は早い。何度でも言います。どうか手術を受けてください。手遅れにならないうちに」
「なら、私も申し上げますわ。苦しい思いまでして生きたいとは思いませんの。神に召されるなら、それも運命だと思ってますから」

二人の間でいつも繰り返される同じ会話──こうやって拒絶されてまうと、アンソニーは何も言えなくなってしまう。
どんなに救いたくても、それ以上口出しできないのだ。
それでも一縷の望みを託して食い下がってみる。

「息子さんと娘さんのために生きようとは思わないんですか?」

いつもここらで終わりになるのがパターンだった。

「あの子達はもう私を忘れてるはずです。ましてや息子は今、イギリスの侯爵子息。今更実母が現れたって迷惑なだけでしょう。だからこのままがいいんです」

そう言って節目がちに笑う。
アンソニーの必死の説得は、この段階で終焉を迎える。
今日も負けだ。
はかなげな表情を浮かべる美貌の患者は、悟りきった目で医学生を見つめ、巧みに話題を変えた。

「先生こそ、精神科のケアが必要そうな顔をしてらっしゃいますわ。なんだかとても辛そう。もしかしてニューヨークで何かありました?」

心配してくれるのはありがたいが、こういうときだけストレートに聞いてくる彼女が少しだけ憎らしい。
もし母ローズマリーが生きていたら、同じように世話を焼くのだろう。

「別に大したことはありませんでしたよ」

短く答えると、アンソニーは口をつぐんだ。

「キャンディスさんとお会いになったのね?」

図星を指されて驚く。
悔しいが適当な言葉が出てこない。一切、何も。
頭が真っ白になったまま立ち尽くす若者を見て気の毒になったのか、ローザはそれ以上踏み込もうとはしなかった。

「先生の苦しいお立場に免じて、一つだけ約束しますわ。卒業したら、すぐに医師免許を取られるんでしょう?優秀な先生のことですもの、すぐ一人前になりますわ。そうしたら・・・あなたが執刀してくださるんでしたら手術をお任せしてもよろしいですわ」
「それは光栄だな。でも、そんなのを待ってたら一体何年かかることか。僕は一刻も早くあなたに・・・」

また興奮する彼の袖を、ローザは突然引っ張って合図した。
その視線の先に立っている人物を認めるや、アンソニーはドキッとして熱くなる。
フェリシアだった。
彼女は朝の検温と血圧測定に訪れたのだ。
もうそんな時間になっていたのかと焦ったが、焦りの原因はそればかりではなかった。

「おはよう!ローザさんは君の担当だもんね。邪魔する気はないんだ。ちょっと話があっただけだから」

だが、返ってきたのはそっけない一言だけ。

「自分が担当してる病棟へ行かなくていいの?」

フェリシアはまともに目を合わせようともせず、患者に一礼するとカルテに記入を始めた。
妙に浮いてしまったアンソニーをローザがつつき、「ここは余計なことを言わず、早く退出したほうがいい」と目で語ったから、仕方なく病室を後にした。



アンソニーが出て行ってしまうと、フェリシアの表情は嘘のように和らいだ。
いつもの彼女に戻って、あれやこれや親身に話しかけてくれた。
それがかえって痛々しい。
恐らくこの娘は、相当なトラウマを抱えているのだろう。
だから必要以上に男性を意識し、心にもない態度をとって誤解を招いてしまう。
特に相手が意中の人であれば、尚更。

だがそれでは女として幸せをつかめるはずがない。
寂しげな横顔を見ているうち、薄幸だった自分の青春が重なり、ローザはたまらなくなった。

「怒らないで聞いてくださいね。フェリシア先生がさっきのあの若者にどんな想いを抱いているか、私にはわかります。でもね、もっと素直にならないと、いつまでたっても伝わりませんわ。彼、恋愛に関しては意外に鈍感そうですもの」

不意をつかれてドギマギし、フェリシアはもう少しで点滴の針を落としそうになってしまった。

「どうしてそんなことを・・・」と言って振り返ると、ローザはまだ微笑んだままだった。

「きっとニューヨークで何かあったんでしょう。今、彼はひどく傷ついてます。慰めてあげるならチャンスですよ」

ウィンクする婦人に、フェリシアは真っ赤になってしまった。

「じょ、冗談言わないでください!アンソニーなんかに興味ないです。それに私、国家試験の準備に追われてますから、彼に気をつかってる暇はないですわ」

精一杯の意地を張る彼女がいじらしくて、ローザは一瞬、自分の娘を重ね合わせた。
フェリシアよりは若いが、もう年頃になっているであろう、娘・二コラのことを。




昼休みになり、student cafeにやってきたパティと一緒にランチをとりながら、フェリシアは何気なくつぶやいた。

「ニューヨークでキャンディに会ったのかしら?」

ついさっきローザに言われたことが、よほど気になっているのだろう。
無意識のうちに口走り、自分でも驚いてしまう。
それは消え入りそうな声だったが、パティが聞き逃すはずはない。
すかさず突っ込まれてしまった。

「キャンディがどうかした?」
「ううん、なんでもないわ」

平静を装い、ピンと背筋を伸ばすと、はるか彼方のテーブルに陣取ってハンバーガーをほおばるアンソニーとブライアンの姿が見えた。
どうやら向こうは、こっちに気づいていないらしい。
ドキドキ高鳴る心臓の鼓動をおさえようと、何度も咳払いしてごまかしたが、ついつい気になって目が行ってしまう。
パティが怪しんで視線の先を追うと、フェリシアはあわてて「彼」から目をそらした。

「『ニューヨークでキャンディに会ったのかしら』って、誰のことを言ってるの?」

茶色い目が、試すようにちょっとだけ意地悪そうに笑う。

「別に、誰でもないわ」

本音を探られないよう、懸命に取りつくろうが、パティも負けてはいない。

「もしかして、あそこにいる『彼』のことじゃない?」

指差す遠方の席には、豪快に笑い合う男子学生が二人。
かなり離れていても、顔ははっきり識別できる。

「私が言ってるのはね、ブロンドで青い目のほうよ」

瞬間、フェリシアは硬直した。

「ねえ~、ホントはアンソニーが好きなんじゃない?早く白状しちゃいなさいよ!」

とどめを刺され、いよいよ窮地に立たされたフェリシアは、耳まで真っ赤にしながらそれでも否定する。

「違う違う。絶対に違うってば!」

もう少しで泣き出しそうな顔は、駄々をこねる子供と大差なかった。
いつもはクールなフェリシアが別人のように感情的になったのを目の当たりにし、パティは自分の勘に狂いがないことを確信し、おかしそうに笑った。




二月に入り、ブロードウェーの街並みは、どこもかしこも白い妖精で埋め尽くされ、一年で最も寒い時期を迎えた。
凍てついた路面を注意深く踏みしめながら、人々は急ぎ足で通り過ぎ、メインストリートには黒塗りの車が所狭しと走り回る。
活況を呈する大都会で、ストラスフォード劇団は良質のエンターテイメントを提供し、ニューヨーカーのハートを鷲づかみにしているのだ。
それはライバルのローゼンバーグも同じで、両者は拮抗(きっこう)しながら互いのテリトリーを守って共存していた。

今日も劇場には多くのファンたちが足を運び、テリィやレイモンドの芝居に酔いしれる。
出し物は「真夏の夜の夢」。

ソワレを堪能してホールから出てきた観客たちは、二つのグループに大別される。
一つは、十代や二十代の若い女性ファン。
彼女たちは若手トップのレイモンドに胸をときめかす。
黄色い声を発して走り寄り、必死でサインを求めるのがこの集団だ。
狂信的で数が多い分、興行収入のかなりを占める。
劇団にとってはありがたい客層だ。

だが最大の欠点は、すぐ飽きて他の劇団のスターに宗旨替えすること。

もう一つは、三十代以上の有閑マダム。
彼女たちは若い娘と違ってそれほど熱狂的でもないし、スターのために大金をつぎ込むようなまねもしないが、移り気ではなく、のめりこみすぎて騒ぎを起こすわけでもなく、安定した収入を劇団にもたらしてくれる。
良識ある、扱いやすい大人の集団だ。

テリィは今、まさにこの客層に支持される俳優に成長していた。
自分の守るべきポジションを把握したことで、かつての気負いや焦りは消え、ようやく本来の自分を舞台で出せるようになったのだ。
それは観客にも確実に伝わる。
一皮むけ、本音で演技できる今、かつての「クールなテリュース・グレアム」を演出する必要はなくなった。
だから、ありのままの顔で笑った。何も意識せず、本当の自分として。
恐らくこの世界にデビューして初めてのことだろう。

その笑顔があまりに優しく、そして柔らかだったので、現実に縛られる主婦たちは心底癒された。
劇場でテリィを見つめる瞬間だけは、夫を忘れ、子供を忘れ、姑とのいさかいも忘れ、夢の世界を浮遊した。
いつの間にか「癒しの微笑」と異名をとるほど、既婚者たちの間にテリィの存在は浸透していった。

そこにかつてのテリィはいない。
若く未熟で、どこか危なっかしく、ガラス細工のようにもろいトップスターは存在しない。
その代わり、彼は得がたい「本物のテリュース・グレアム」に生まれ変わったのだ。

「今日も最高でしたわね、奥様」
「本当に。テリュースを見てると、しばし現実の厳しさを忘れられますの」
「まあ!私もですわ」
「ほんの一瞬ですけど、それがたまらないんですよね」

口々に絶賛して劇場をあとにするマダムたちは、皆一様に満足げだ。
そんな彼女たちの背を見て、テリィもまた幸福な充足感に満たされる。

まさに役者冥利に尽きる瞬間だ。


そのとき、傍(かたわ)らにはシェリル。

「お疲れ様!有閑マダムのアイドルさん」

独特のジョークと共に、相方はいつもにっこり微笑んでくれる。
テリィはこの一瞬が、一日のうちで一番好きだった。

今夜も彼女は自分に笑いかけてくれるはずなのだ。
ミーティングが終了し、皆が帰り支度を始めた頃、いつものように残って互いの演技を確認し合おうと、プラチナブロンドを目で追ったが、映った姿はいつものシェリルではなかった。
窓辺にたたずみ、深いため息を繰り返しながらずっと夜の闇を見つめている。
その後ろ姿は、驚くほどはかなげに見える。

(理由はやっぱりこの記事か?)

テリィは新聞を片手に近づいていく。

声をかけられる前に足音に気づき、シェリルは振り返った。

「君らしくないな。こんなことで落胆するなんて」

周りに誰もいないことをもう一度確かめると、テリィは低い声でささやいた。
でかでかと書きたてられた新聞記事を差し出し、シェリルの前に広げる。
そこには「ローゼンバーグのトップスター、ショーン・マコーレー、フランス人女優と熱愛中。結婚間近か!?」の文字が躍る。
シェリルは少し目をやると、またため息をついて弱々しく言った。

「あれは去年の秋だったわ。あなただって見たでしょ?彼は私に言ってくれたのに・・・。『二人一緒でなきゃ幸せになれない』って。でもふたを開けてみたらこういう結果。つまり相手は誰でも良かったってことなのよ。言葉の通じないフランス人でもかまわないってことなのよ。『二人一緒』にさえいられれば」

自分を見上げるマリンブルーの瞳には涙が光っていた。
いつも明るく気丈なシェリルが、肩を震わせて忍び泣いている。
なんとか慰めてやらなければと、テリィは焦る。

「相手のエティエンヌ・ジュベールは英語が堪能だそうだ。それに『誰か他の人と幸せになって欲しい』って懇願したのは、君自身だったんじゃないか?」
「そのとおりよ。でも早すぎる。こんなに早く裏切られるなんて・・・!心の整理が出来てないわ。そんなに強くないのよ。見た目ほど私は強い女じゃない!弱虫なのよ。本当は」

感極まって思いの丈(たけ)をぶつけると、すぐそばに優しいgreenish blueの瞳が寄り添っていた。
意識した途端、シェリルは我に返り、あわてて口を押さえた。
まるで「今言ったことは全部嘘。魔がさしただけ」、とでも言いたげに。

「そんなことわかってるよ。言われなくても」

テリィは包み込むような、柔らかい微笑を浮かべた。

「君が本当は繊細で臆病だってこと、ずっと前から気づいてた」

意外なセリフをぶつけられ、シェリルはどぎまぎする。
ばつが悪くなり、焦点の定まらない目を泳がせて、もっともらしい返答を探しているようだ。
そんな仕草が益々いとおしくなり、テリィは低い声でもう一度言った。

「付き合うよ、今夜はとことん。愚痴でもなんでも聞いてやる。泣きたきゃ思い切り泣けばいい。その代わり、明日はいつもの君に戻って欲しいんだ。シェリル・ドレイファスにそんな顔は似合わないぜ」

彼女の返事も待たずに二人分のコートを取るテリィのしなやかな指を見つめながら、シェリルはか細い声を出した。

「いいのよ、気をつかってくれなくても。私、行かないわよ。だってあなたには待ってる人がいるじゃない。彼女に変な誤解をさせたら気の毒よ。あなただってあとで困るでしょうし。それに私にはショーンしかいないの。昔も今も、そしてこれからも。誰も彼の代わりにはなれないわ」

瞬間、テリィは火がついたように否定した。

「バカ言え!そんなつもりじゃない。これは同志としての友情なんだ。それだけさ。そっちこそ誤解しないで欲しいな。悪いけど、君を女として見たことはないよ。俺にとっても大切な人はキャンディだけだから」

興奮して顔を上気させるテリィの脇を、夢遊病者のように彼女はすり抜けていく。
彼の手からコートを引き抜くと、すぐさまドアの外へ。
部屋から出た途端、立ち込めていた冷気が一気に肌を刺す。
だが、それさえ感じないまま、シェリルは無言でマンハッタンの闇に吸い込まれていった。

照明の落ちた薄暗い部屋には、テリィが一人だけ残された。

(大バカだな、テリュース・グレアム!飲みになんか誘ってどういうつもりだ?返事を聞く前から、こうなることはわかってたくせに)

つっ立っている自分が道化に思えて仕方ない。
体(てい)よく拒絶されたくせに、なぜか未練が残り、彼女が出て行ったドアをぼーっと見つめる。

さっき言ったセリフが頭の中で渦巻いた。

──君を女として見たことはない。俺にとっても大切な人はキャンディだけだから──

そうさ。そうに決まってる!他にどんな真実があるって言うんだ。


うすぼんやりと窓に映る自分の姿に問いかけながら、わけもなく胸を揺さぶる甘いうずきと、テリィは必死に闘っていた。




いつものようにリハビリに付き合うためにアンソニーはメイベルを訪ね、オウバートン家の車に彼女を乗せた。
左ひざの治療に乗り出して以来、毎週一回繰り返される光景だ。
ショーファー(お抱え運転手)がいるにもかかわらず、アンソニーは自ら運転を買って出た。
メイベルにリハビリを勧めたのは自分だから、快方に向かうまですべてに責任を持ちたいと強く主張したのだ。
その心づかいにメイベルは益々胸をときめかせた。

車でハーバード大病院へ送り届け、理学療法士の指導のもと、リハビリに専念してもらう。
どうしてもアンソニーが送迎できないときは、代わりにブライアンが車を出す。
二人の医学生は絶妙な連携プレーでメイベルの回復訓練を支えていた。

今日も同じように朝早く出発し、助手席に座っている可愛い教え子と何気ない会話をかわす。
走行を邪魔するほど降り積もった雪に閉口したが、スピードを落として注意深く運転する。

朝の太陽が雪に反射してキラッと光った。
その輝きがあまりに美しいからメイベルは思わず身を乗り出し、「わあ先生、見て!すごく奇麗」と叫んだ。

頭上には目のさめるような清々(すがすが)しく真っ青な空が広がる。

「こんなロマンチックな銀世界を見たら、すぐさま外に飛び出して駆け回ってみたくならない?」
「ええ、とても」

目を輝かせる彼女に、アンソニーは「大丈夫。夢はすぐにかなうさ。こんなに一生懸命頑張ってるんだから」とウィンクする。
女心をとろかす笑顔に、またくらくらしてしまう。

車はそろそろハーバードブリッジに差しかかっていた。
予期せぬ事故が起きたのは、その直後だ。