アンソニーの車の少し前を自転車が走っていたのだが、それを追い越そうと、直後の車が接近した。
途端、自転車はバランスを崩し、運悪く車道側に横転した。
そこに悲劇が重なる。
追い越した車は何が起きたか気づかぬまま走り去ってしまい、後続の車は車道に投げ出された少年をよけきれず、はねてしまったのだ。
こうなって無事でいられる人間はいないだろう。
少年は身動き一つせず、道端に転がったままだ。
思いがけない大事故に、交通は完全な麻痺状態になり、犠牲者の周りはたちまち黒山のひとだかりになった。
惨劇の一部始終を目撃したアンソニーは、隣で青ざめているメイベルに、「ここで待ってて」と言い残すと外へ飛び出し、野次馬の群れに突進する。
それは医学生として出来ることがあるのではないかという、使命感から出た行為だった。
人ごみをかき分けて進み出ると、案の定の有様だ。
腹部を損傷し、血を噴いてうめき声を上げる少年を見て、「ワー」「キャー」と騒ぐやからは何人もいたが、動転しているせいか救助しようとする者は誰もいない。
アンソニーは狂ったように、「どいてください!」と叫びながら駆け寄り、少年の頭を自分の膝に乗せ、あふれ出る血を口で吸い出した。
ついさっきまでうめき声を上げていたのに、もうピクリともしない。
呼吸が止まり、心配停止状態になっているのは明らかだった。
こんなときこそ、日頃の研修が物を言う。
彼を生かすも殺すも、この瞬間の処置にかかっていると思った瞬間、アンソニーの手は震えた。
物言わぬ少年は、見たところ15、6歳だろうか。
亜麻色の髪が縁取っている顔面は蒼白で、生きている気配を一切感じさせない。
その姿に、八年前の自分が重なった。
きつね狩りで落馬したとき、丁度このくらいの歳で、同じように瀕死の状態に違いなかったから。
だからこそ、なんとかして助けたい!──そう念じながら、必死の思いで心肺蘇生術を施した。
若者の鬼気迫る形相と献身的な行為を目の当たりにし、周囲の人々は歓声を上げ始める。
好奇心が深い感動に変わったとき、誰からともなく、すぐそばにあるハーバード大病院へ向かい、事故が起きたことを伝えた。
医師たちが到着するまで、アンソニーは休むことなく少年の救命措置を続ける。
これこそが、まさに実践だ。
心臓マッサージに人工呼吸等、実習で身につけたイロハを現場で生かす。
気がつくと、いつの間にか太陽は位置を変え、真冬にしては珍しく強い光を地上に降ろしていた。
アンソニーの顔にまぶしい筋が降り注ぎ、頬を明るく照らし出す。
(頼む!助かってくれ)
ひたすら念じて処置を続ける。
もしもこのまま少年が逝ってしまったら、まるで自分自身が葬り去られるような気がしたのは、やはりきつね狩りを思い出したせいだろうか。
アンソニーの脳裏には、乗馬服で森を疾走する「あの日の自分」が、恐ろしいほど鮮明に蘇っていた。
その同じとき、一連の行為を食い入るように見つめている姿があった。
メイベル──彼女は車から降り、野次馬の集団から少し外れたところで一部始終を凝視していたのだ。
初めは、吐血する少年に恐れをなして正視できなかったが、懸命に処置するアンソニーの使命感と確かな技術に心を打たれ、いつの間にか真剣に成り行きを追っていた。
この感動が、これから先の彼女の人生を大きく左右する転機になろうとは、アンソニーもメイベル自身も、予想だにしなかったろう。
一時間後、少年は手術台に横たわっていた。
名前はティモシー・ランバート。16歳。ジョンストン・プレップスクールの生徒。
奇しくも、アンソニーやブライアンの後輩に当たる。
事故現場に散乱していた所持品から、容易に身元が判明したのだ。
学校に問い合わせれば、すぐ家族に連絡がつくから、これは不幸中の幸いだった。
医療事務の担当者が手続きをそつなくこなし、間もなく緊急手術が行われようとしている。
救助に当たったアンソニーも医学生であることを考慮され、末席に顔を連ねてオペを見守った。
予期せぬ展開になたっため、メイベルは一人でリハビリを終えたあと、どうやって帰宅しようか考えていた。
家に連絡して迎えに来てもらおうか、一人で馬車を拾うべきか・・・
そこへ丁度いいタイミングでフェリシアが現れ、親しげに声をかけてくれた。
「あなたはいつかの・・・。アンソニーとブライアンの大切な教え子さんだったわよね?えーと、名前は・・・」
「メイベル、メイベル・オウバートンです。フェリシアさんでしょう?私のこと、覚えていてくださったんですね。嬉しいです!」
目をキラキラさせる少女に、フェリシアは好感を持った。
「当たり前じゃない。だって私と同じ目の色の、かわいいお嬢さんだもの。忘れるはずないわ」
二人の間に穏やかな空気が流れ、陽の光がすぐそばの窓から差し込んでいた。
「家まで送ってもらうはずだったんでしょ?困ったわね。アンソニーはあのとおりオペにつきっきりだから。事故現場に居合わせた関係上、仕方ないのよ。かと言って私は車の運転が出来ないし・・・。そうだ!ブライアンに頼んであげる。彼ならなんとかしてくれるはずよ」
てきぱき事を進めるフェリシアは才女そのものだ。
しかも人の良さが全身からにじみ出ている。
美人なのに少しも鼻にかけない人柄に、メイベルは益々引かれ、憧憬の眼差しを向けた。
(この人ならアンソニー先生が好きになっても無理ないわね。頭が良くて、奇麗で優しくて。男の人が惚れこむ要素は数え切れないほどあるもの)
少しばかり切なげなため息をついたあと、メイベルは言う。
「アンソニー先生、処置をするとき、顔つきが変わるんですね。今朝、あの事故が起きて初めて見たんですけど、とても真剣で怖いくらいで。いつも私に見せる顔と全然違ってました」
「それで?イメージ変わっちゃったかしら。怖いお兄さんのことなんか好きになれないわよね」
おどけて言うフェリシアを、メイベルは強く否定する。
「いいえ。とっても素敵でした。今まで見た先生の中で一番」
そう言った途端、顔を赤らめた。
フェリシアは何かに憑かれたかのように瞳を見開き、照れ笑いするメイベルから視線を外せなくなっていた。
(この子、まだ15、6歳でしょうに、アンソニーの本質を見抜いてるのね。彼は何かに打ち込んでるときが一番輝いて見えるの。ひたむきで一生懸命で、たとえ損するとわかっていても、利害関係では動けない人・・・)
胸がときめいた。
どんなに思っても素直に出せない自分をもてあまし、フェリシアは少女のブロンドを黙って見つめた。
オペが終わってスタッフルームに移動すると、アンソニーのすぐあとから若い医師が入ってきた。
見たところ、歳はそう変わらない感じがする。二十代後半というところか。
オペの最中、執刀医のそばで補佐をしていたから、恐らくはレジデント(研修医)なのだろう。
茶色い髪のその青年は、手術着を脱ぎ捨てるなりニヤッと笑った。
「お前、キルヒアイゼンの研究室だそうだな。ってことは、普段からエリート扱いされてるんだろう。おまけに今朝は的確な処置で人命救助。さしずめ救世主ってところだ。天狗になるのもわからないじゃないが、しょせんはただの学生だ。実際にオペして患者を救ったのは、俺たち『医者』だってことを忘れてもらっちゃ困るんだよ」
挑戦的な態度を突きつけられ、アンソニーはムッとした。
(天狗になんかなってません。自分をエリートだとも、救世主だとも思ってません。僕はただ、しなきゃいけないことをしたまでです。ベストを尽くして)
そう言い返してやろうと思った瞬間、後ろから右腕を思いきりつかまれた。
振り返ると、ブライアンが睨んでいる。
今にも射抜かれそうな鋭い視線にひるんだスキをついて、アンソニーを廊下に引きずり出す。
「午後の講義があるので失礼します」
本来はアンソニーが言うべきセリフを残して。
まだ腕をつかんだまま無言で歩くブライアンに、アンソニーは吠えた。
「おい!どうしたっていうんだよ。今まさに反論してやろうと思ったのに。君はいつもいいところで邪魔するんだからな~」
完全に血が上っている相棒を見て、ブライアンはやれやれという顔をする。
「『いいところ』じゃなくて、『危機一髪のところ』だろ?あいつに食ってかかったら、あとがマズイぜ。仮にもここのレジデントだ。またどこで縁があるか、わかったもんじゃない。ここは一つ、こらえとけよ。それにな、どの世界にもああいう手合いはいるもんさ。いちいち反抗してたらバカ見るぜ」
「僕は君みたいに大人じゃないんでね」
まだ興奮が収まらないアンソニーに、ブライアンは苦笑しながら告げた。
「あんなヤツなんかどうでもいい。それより、あの少年のことを聞きたくないか?」
「あの少年って、彼?」
アンソニーはもう一度、オペ室のほうを振り返った。
「そうそう。君のおかげで九死に一生を得た坊やさ」
「何かわかったのか?」
ブライアンは得意げにうなずく。
事務畑の人間が手際よく処理したので、少年に関する基本的な情報が揃い、瞬く間に医局に広がっていた。
ブライアンもその噂を耳にした一人だ。
「名前はティモシー・ランバート。16歳。ここまでは知ってるだろ?」
アンソニーがうなずくのを確認すると、ブライアンは続ける。
「なんとジョンストンの生徒なんだよ。しかも俺たちがいたのと同じ、特進クラス。もっとも彼は文系だけどね。父親はピッツバーグ在住。この前の大戦じゃ、しこたま鉄で儲けた成金らしいぜ」
アンソニーは目を丸くし、「わずかの時間に、よくそれだけつかんだなぁ」と感心する。
「なに、俺が調べたんじゃない。言いふらして回ったのはゴシップ好きな医局の連中さ」
ブライアンは小馬鹿にしたような笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「ついでに言うと、君もかなりの評判になってるぜ。『瀕死の少年を蘇らせたキルヒアイゼンの秘蔵っ子』ってね」
「・・・・・・」
そのあとすかさず、「妬(ねた)む野郎が多いから気をつけろよ」と、ウィンクしながら付け足した。
だが、アンソニーの耳にその忠告は届いていない。
ティモシーという少年のことで頭がいっぱいになっていたから。
彼はあまりにも似ているのだ。
16歳。大事故。生死をさ迷う容体──まるで八年前の自分だ。
しかもジョンストンの後輩でもある。
とても他人事と思えない。
無意識のうちに自分自身の悲劇と今日の惨劇を重ね合わせてしまったのも、無理からぬ話だろう。
(ティモシー、君には失うと困るものが沢山あるかい?家、両親、自分の名前、友人たち、好きな女の子・・・。僕はあの事故で多くを失ってしまった。君にはそんな思いをさせたくない。だから早く元気になってもとの生活に戻れるよう、ベストを尽くす。約束するよ!)
決意した若者の頬を、紅(くれない)の落日が熱くまぶしく染め上げた。
「なんだか廊下が騒がしいし、皆さんそわそわしてらっしゃるようですけど、何かあったんですか?」
採血をしに来たフェリシアに、ローザは不安げな顔で尋ねる。
処置をする手が一瞬止まり、女子学生は患者の瞳を見つめた。
ほんの少しだけ、ためらいに支配されたが、深く息を吸い込んで吐き出すと照れくさそうに笑った。
「ハーバードブリッジで大きな事故があったんです。進学校に通う少年が車にはねられて重体になったんですが、通りがかった医学生が的確な処置を施して一命を取り留めて・・・。その緊急手術があったので、院内は大パニックだったんです」
「まあ!」
驚くローザにフェリシアは続ける。
「お手柄の医学生って、誰だと思います?」
「さあ。私にはさっぱり・・・」
「ローザさんも、よくご存じの人ですわ」
にっこり微笑んで採血を続ける彼女に、「まさか・・・アンソニー先生?」と、ローザは興奮気味に言う。
「そのとおり!とても立派だったそうですよ。それを聞いたとき、私は・・・」
そこまで言い、先を続けるのをためらっていると、ローザはせっつくように促す。
フェリシアは観念したように、はにかんだ。
「私、すごく嬉しかったんです。まるで自分が褒められてる気がして」
みるみる、頬が桜色に染まっていく。
(フェリシア先生、やっと素直になれましたね。あともう一息・・・頑張って!今みたいに彼の前でも本音を言えたら、あなた方の距離はずっと近づくはずですわ)
ローザは心の中でそっとつぶやいた。
まるで自分の娘を慈しむかのように。
三月。
ブロードウェーにも、少しだけ春の気配が漂い始めた。
肌をかすめる風はまだまだ冷たいが、それでも真冬の寒さとは違う。
行きかう人々も明るい日差しを満喫し、晴れやかな表情を浮かべている。
そんな中、ストラスフォードでは春の公演に向けての最終調整が行われていた。
レイモンドとステファニーが主役を張り、それに次ぐポジションをテリィとシェリルが支える構図は、すっかり定着している。
それぞれが課せられた役を十分にこなすため、連日の厳しい稽古に耐えている。
だが、シェリルの心は浮かない。
恋仲だったショーンの裏切りを知ってから、ずっとふさぎこんでいるのだ。
持ち前の責任感と気丈な性格が幸いして、なんとか精神のバランスを保っているが、迷惑がかからないように振舞うのはかなり辛そうに見えた。
なまじ事情を知っているだけに、テリィの目にはその姿が凄絶にさえ見えた。
この頃はキャンディと一緒にいるときでさえ、脳裏をかすめるのはシェリルのことばかり。
これはいよいよ尋常でないと自分に警鐘を鳴らしつつ、今夜も自室でキャンディと夕食をとる。
見た目はいつもと変わらない空気が二人の間に流れている。
だが、何かが違う。
ごくわずかに生じた違和感を取りつくろうように、テリィはわざと明るい声で言った。
「仕事、順調にいってるかい?」
「何よ、改まって。もう何ヶ月も会ってない恋人が心配して言うようなセリフだわ、それ」
テーブルの上に皿を並べる手を休め、キャンディはおかしそうに笑う。
「そんなに変?」
「ええ、かなり」
「昨日は夜勤で疲れてるんだろ?わざわざ来てもらって悪いな、と思ったから。これでも気をつかったつもりなんだぜ」
テリィは照れくさそうに笑い返す。
「大丈夫。バリバリやってるわ。今日だって、誰の手にも負えない腕白坊主を見事に調教して診察を受けさせたのよ。そりゃあ大変な騒ぎだったんだから」
「君が子供を手なずける天才だってことは、よく知ってるよ。さぞかし医者はありがたいだろうなぁ」
「勿論!問題児は全部私のところに回ってくるの。今日の子もそう。名前とはイメージが全然違う悪ガキだったけど」
言ったあとで、キャンディはハッとしたような顔をした。
そして急に黙りこんでしまった。
テリィがそれを見逃すはずはない。
「なんて名前だった?その坊主」
なんとはなしに、聞いてみた。
一瞬、エメラルドの瞳に困惑の色が浮かぶ。
答えなきゃいけないの?という顔をしながら、小さな声で「アンソニーよ」とキャンディは言う。
途端、夜の闇が一挙に覆いかぶさってきたような圧迫感に支配された。
「その名前で君が想像するのは、少なくとも悪ガキじゃないだろうね」
不用意に「アンソニー」の名を出してしまい、一体どんな顔をされるだろうかとビクビクしていたが、テリィの反応は意外なほど落ち着いていて、逆に拍子抜けしてしまった。
「そんな名前、聞きたくないわよね。ごめんなさい。私ったら無神経なんだから」
「いや、気にしてないよ」
穏やかな声が返ってきたからキャンディは驚いた。
どうしてだろう?
今までのテリィなら、アンソニーという名を耳にしただけで露骨に顔をしかめたのに、今日はまるで違う。
丸くなったというか大人になったというか、信じられない包容力で守られていることを実感し、キャンディは心底安堵した。
結婚を控えて、彼の気持ちが安定したのだろうか。
止めていた手を再び動かし始め、茹で上がった野菜を皿に取り分ける。
湧き上がる湯気が心を芯まで温めてくれる気がする。
テリィはソファに腰掛けたまま、そんな彼女を見つめながら、思うところを切り出した。
ごくごく自然な流れで。
「アンソニーって言えば、今まで聞いたことなかったなぁ。そもそもどうして死んだことにされてるんだ?」
「え?」
唐突の質問に面食らい、キャンディはまた手を止めた。
「今更って感じだけど、良かったら話してくれないか。無理にとは言わない。もし君が辛くなければ」
信じられない事態になり、キャンディは目を見開いた。
なぜそんなことを聞くのだろう。彼自身が言うとおり、まさにどうして「今更」。
これまでアンソニーの話題が出るだけで不快感をあらわにしたのに、今夜はいたって普通の表情でいるテリィ。
いや、むしろとても穏やかで、アンソニーにいい意味での興味を持っているようにさえ見える。
キャンディは不思議でならない。
「どうして今聞くの?これまで機会はいくらでもあったはずなのに」
胸騒ぎを覚え、思わずソファのほうに歩き出した。
テリィのそばに行かなければ、不安を鎮(しず)められない気がしたから。
「だからさ、深い意味はないんだ。ちょうど名前が出たから聞いてみただけだよ。彼は君にとって大切な人だったし、いろいろ知っておくのも悪くないだろ?」
テリィはウィンクして自分の隣のスペースを指差すと、座るように合図した。
促されて腰掛けると、少し安心したのか、キャンディはゆっくり話し始めた。
きつね狩りのあと、本当は息を吹き返したのに、なぜ死んだことにされてしまったのか。
執事ウォルター・ウィルキンソンの陰謀。シャルヴィ家との対立。アードレー家の対面。アンジェラの自殺── 一つ一つ明かされる重い事実に、テリィは揺れる。
たとえ何を言われようとすべて受け止められると思っていたのに、心臓は意志の力を裏切って高鳴り、体中がしびれた。
それほどまでに、恋敵が甘んじた境遇は救いのないものだった。
他人事(ひとごと)とはいえ、テリィは陰鬱の淵(ふち)に深く沈みこんでしまった。
「せっかくのお料理がすっかり冷めちゃったわ。美味しいのを食べさせてあげたかったのに」
放心状態のテリィにキャンディは優しく微笑んだが、恐らく何も見えていないだろう。
(知らなかったよ、アンソニー。あんたがそんな修羅をくぐってきた男だったなんて!苦労知らずの坊ちゃんにしか見えなかったのに)
すべてを知ってしまい、複雑な気持ちになった。
というのも、今まではなんのためらいもなく、キャンディと共に生きる権利は自分にだけあると思い込んできたのに、アンソニーの自己犠牲と献身を初めて知り、見えない力に圧倒されているのがわかったから。
(あいつを押しのけてまで、今の俺にキャンディの手を取る資格があるのか?そこまでしても許されるほど、俺は彼女を愛してるんだろうか)
瞬間、苦悶する心は、ある女性の影を映し出した。
その目は、エメラルドグリーンではない。
テリィは思わず身震いし、隣のキャンディをじっと見つめる。
「どうしたの?顔色が悪いわ」
だが彼は答えず、狂ったように叫ぶ。
「もし今でもあいつが好きなら、本当に好きなら・・・」
理性が押しとどめた言葉の先を、心の声が静かにつぶやく。
――好きなら、アンソニーのところに行け。俺に遠慮はいらない――
だがキャンディにその声が聞こえるはずはない。
テリィがなんと言おうとしたのか、いぶかしげに見つめるだけ。
その瞳に困惑の色がありありと浮かんでいる。
そこにテリィの動揺した顔が重なって映し出され、ゆらゆら揺れた。
二人の間には徐々に薄い靄(もや)がかかり始め、背後から押し寄せる大きな渦(うず)を、見えにくくしていた。
ハーバードブリッジの大事故から間もなく一週間が経とうとしているのに、ティモシーの意識は戻らない。
外科的処置はすべて施され、あとは本人の回復力次第なのだが、病院側の必死の治療にもかかわらず、彼はなかなか目を開けない。
父親や執事が入れ替わり立ち代わり顔を出したが効果はなかった。
不幸なことに、ティモシーには母親がいない。
幼い頃に病死したらしい。
そのせいもあるのだろう。細やかな看護が行き届かず、回復を遅らせているように見えた。
自らが助けた縁もあるし、母を亡くしている点も共感を呼んで、アンソニーはこの少年が気になって仕方ない。
事故以来、一日も欠かさず容体を見に病室を訪れた。
今日も、朝の病棟実習の前に彼を見舞い、閉じたままの目に落胆して引き上げた。
その足で、まだ人もまばらなstudent cafeへ。
無性にコーヒーが飲みたかった。
スケジュールはぎっしり詰まっていたが、自然と足が向く。
ドアを開けて中を見回すと、偶然にも知り合いの姿が目に飛び込んで驚いた。
パティだ。
こんな時間から他大学の学生が何をしているのだろう。
彼女はロールパンをほおばりながら、熱心に本を読んでいる。
邪魔しては悪いと思いつつ、好奇心にはあらがいがたく、アンソニーは近づいてそっと声をかけた。
「やあ!精が出るね。調べもの?」
予期せぬ声に驚いたのか、あわてて顔を上げたパティの髪に朝日が反射してキラキラ光る。
「まあアンソニー、早いのね。まだ七時前なのに驚いたわ」
「驚いたのはこっちさ」
そう言って本をのぞきこむと、ドイツ語の短文がびっしり並んでいる。
「あれれ?君はフランス語が専門じゃなかったっけ」
パティは苦笑しながら答える。
「ドイツ史の文献を読むのに、どうしても必要なの。ゼロからスタートだからすごく大変!」
「へえ~。それでドイツ語文法ってわけか。初級は覚えることが多くてキツイよね?僕も進学校の頃、苦労したよ」
「実はね、わからないところをフェリシアに聞こうと思って押しかけたの。でも彼女、具合が悪くて寝込んでるのよ。それで仕方なくここに・・・」
「具合が悪い?」
アンソニーは心配そうに聞き返した。
せっつくような瞳を見て、パティは、(余計なこと言っちゃったかしら)と表情を曇らせた。
「大したことないわ。ただの風邪よ。寝てればすぐに良くなるだろうから心配しないで。それより・・・」
そう言ってアンソニーを見上げる目は、甘えているように見える。
何かねだられそうなのは、すぐに察しがついた。
「ねえ、ちょっと聞いていいかしら。来週までにレポートを書かなきゃいけないの。アンソニーには簡単でしょ?」
(そらきた!)と思いながら、おもむろに椅子を引き寄せてパティの横に腰を下ろす。
「untergehen の前つづりは後ろに回るのに、どうしてunterrichten はそのままなの?ほら、これを見て。Er unterrichtet uns in Deutsch. (彼は私たちにドイツ語で教える)ってなってるでしょ?」
「それは分離動詞と非分離動詞の違いだよ。分離動詞の場合、前つづりのunter は、目的語や修飾語の後ろに回らなきゃいけないんだ。例えばこの文ではね・・・」
ペンを取って説明し始めた瞬間、まるで神の啓示があったかのように、(ちょっと待てよ。これはいいチャンスかも)と、ある考えがひらめいた。
途端に手の動きが止まる。
「どうしたの?」
途中で説明をやめられてしまったので、パティはじれったそうに催促する。
「いや、あいにく僕はドイツ語が大の苦手でね。悪いけど、わからないんだ」
「え?」
パティはあっけに取られて目を白黒させた。
(わからないって・・・そんな馬鹿な!だって、医学書の大部分はドイツ語で書かれてるんでしょ?レポートだってドイツ語で書かなきゃいけないことがあるって、フェリシアがぼやいてたわ。こんな簡単な文法、すぐわかるはずなのに)
言い返したかったが、さすがに遠慮した。
教えてもらう立場で文句は言えない。
困り果てるパティを尻目に、アンソニーは見え透いた提案を持ち出す。
「でも心配しないで。僕はダメだけど、ブライアンはバッチリさ!あいつは進学校の頃からドイツ語が得意でね。僕はいつも世話になってる。教え方もうまいから彼に聞くといい」
口をあんぐり開けたまま返事も出来ないでいるパティに、アンソニーはしつこく続ける。
「良かったら僕から頼んであげるよ」
気をきかせたつもりだった。
本当はパティをデートに誘いたくてたまらないのに、珍しくウジウジしている相棒が歯がゆいのだ。
どうでもいい娘(こ)には手が早いのに、肝心な相手には尻込みしてしまう──ブライアンが見せた意外な一面。
そんな態度から、「パティへの気持ちは本物だ」と確信を持ち、アンソニーは無性に嬉しかったのだ。
だからなんとかして、二人だけになるきっかけを作ってやりたかった。
だが、迷惑千万のはパティだ。
なぜわざわざブライアンを引っ張り出してくるのかわからない。
教えてもらうならフェリシアで十分ではないか!
とはいえ、アンソニーの厚意を無にするわけにもいかず、愛想笑いを浮かべた。
「あなたでもブライアンでもかまわないわ。こっちは教わる身分だから」
その微笑みを見て、アンソニーはホッとすると同時におかしくなってしまった。
さっき言った自分のセリフがあまりにウソ臭くて。
(進学校の頃からドイツ語が得意だったって?あのブライアンが?笑っちゃうよ。我ながら大ぼらを吹いたもんだ)
実は──ブライアンはドイツ語が大嫌いだった。
ジョンストン時代から、テストのたびにブツブツ言っていたっけ。
動詞の活用が煩(わずら)わしいとか、いちいち格変化するのが面倒だとか。
苦虫を噛みつぶしたような顔を思い出したら、笑いがこみ上げてきた。
今でもカルテを書くとき、ドイツ語のつづりに悩まされている彼を知っているだけに、パティには申し訳なくさえ思った。
カフェでパティと別れて病棟に戻ると、七時半を回っていた。
これから担当の患者をまわり、検温や採血をしなければならないが、その前にほんの少しローザの顔が見たくなり、病室へ急ぐ。
ティモシーが目覚めないことがよほどの重圧になっているのだろう。
彼女に何か言って欲しくて、救いを求めるような顔つきになっていた。
「あの少年、まだ眠ったままなんですよ。もう一週間経ったっていうのに、どうなるんだろう」
隠すことなく不安な顔をまっすぐ向けてくるアンソニーを、ローザは心底かわいいと思った。
今はイギリスにいる自分の息子も、こんな顔で語りかけてくるのだろうか。
今にも泣き出しそうな表情で。
「先生は本当に正直な方ですね」
意味がわからず、小首をかしげる。
「患者の前で、頼りないことを言っちゃいけないんでしょう?」
アンソニーはハッとした。
そのとおりだ。
この瞬間、目の前の婦人が患者であることを完全に忘れていたのだ。
愚痴を言って慰めてもらおうなんて、お門違いもはなはだしい。
彼女のことを母親と勘違いしている自分が恥ずかしくなり、うなだれた。
「いいんですよ。よほどティモシーが気になるんでしょうね。ぼやきたくなったら、ここにいらっしゃい。いくらでも聞いてあげますから」
花びらのような微笑を浮かべるローザが女神に見えた。
情けないとわかっていても、今は彼女に甘えていたい。
それほどアンソニーは滅入っていた。
ティモシーのことでもフェリシアのことでも。
そしてキャンディのことでも。
「実は、僕にも似た経験があるんです。ティモシーと同じ16歳のとき、大事故に遭って生死の境をさまよいました。一年以上も入院して・・・」
「まあ!」
初めて聞かされる事実にローザは驚く。
「医者になろうって思ったのは、その事故が起きたからなんです。あのとき僕を担当してくれた医学生が、ブライアンのお兄さんでした。僕は彼のおかげで生き返ったようなもんです。今でも忘れられません」
「素晴らしい出会いがあったんですね」
懐かしそうな目をして窓外を見つめるアンソニーに、優しい声が響く。
「人生万事塞翁が馬。最悪の事態も、その人の考え方や努力で、どんなふうにも変えられるんですよ。先生は身を持って知ったでしょう?だから今度はあなたがティモシーにとって『忘れられない人』になってあげる番ですわ」
途端にアンソニーの瞳が輝き出した。
「命を助けたあとは、話し相手になってあげるといいわ。16歳といえば、いろいろ考える時期ですから。先生にも経験があるでしょう?」
「僕に出来ると思いますか?」
「出来ますとも!誠実で情熱的で、不器用なくらい他人思いのアンソニー先生ですもの」
心にのしかかるいくつもの重石(おもし)が、ほんの少し取れた気がした。
窓から見える木には、早くも芽吹いた花の蕾(つぼみ)が点在し、日一日と春の気配が強まっていることを教えていた。
長く重い冬が終わる──それはまるで、アンソニーの冷えた心を溶かすように、ゆっくりと遠ざかっていくようだった。