キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に) -23ページ目

キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

アンソニーメインの二次創作・ファンフィクション「バラの薫る季節に」を掲載しております。

翌日、ドイツ語を教えるという名目でパティとデートすることになったブライアンは、約束の時間まであと少しだというのに、まだブツブツ言っていた。
恋愛に関しては自分のほうが上手(うわて)だと自負していたのに、アンソニーの機転で、あれよあれよという間にデートをお膳立てされてしまったのが気に入らないのだ。
しかも、あろうことか大嫌いなドイツ語にかこつけて。
本来はフェリシアが教えてやるはずだったのに、体調不良のせいで自分が代わりをつとめるのも癇に障った。
どうでもいい代用品に思えたからだろう。

「なんでまたドイツ語なんか教えなきゃいけないんだよ。俺は家庭教師じゃないんだぜ。もっとまともな口実で誘いたかったのに」

チャコールグレーのスーツにレジメンタルのタイを着けたブライアンは、文句を言いまくる。

「そりゃ、あいにくだったな。で?そのチャンスは一体いつ作るんだ」

ソファに寝転がり、面白そうに見上げるアンソニーは余裕の笑顔だ。
さっきから一時間近くかかってやっとネクタイを選び、鏡とにらめっこしている相棒が滑稽に見えて仕方ない。

「そろそろ誘うつもりだったさ。このお節介め!」
「そのうちそのうちって言いながら、三ヶ月も経っちゃったぜ。去年のクリスマスにモーションかけたんだろ?こういうのはタイミングを逃すと難しくなるからな」
「ふん!えらそうに。恋愛不器用のアンソニー殿に説教されたくないね」

文句を言いながら、姿見に写る自分を念入りにチェックするブライアンに失笑する。

「ふくれるなって。ホントは嬉しいくせに。なんだっていいじゃないか。要はパティと二人きりになれればいいんだろ?」

決定打を放たれ、思わずニヤけるヘーゼルの瞳を見ているうち、自分まで幸せな気分になってきて、アンソニーは心の中でステアに語りかけた。

(君なら許してくれるよな?二人を引き合わせること。時間はかかるだろうけど、もし彼女がいいって言ったらブライアンに任せられるか?大切なパティを)

窓の向こうに広がる青空の中に、笑顔でうなずくステアを見た気がした。




パブリックガーデンの近くにあるオープンカフェで、ブライアンとパティは待ち合わせし、ランチをとった。
今日は珍しく天気で気候も穏やかだ。
降り注ぐ春の陽を浴びながら通りの向こうに目をやると、公園の広い敷地を散歩する人や犬を連れている人、寄り添って歩く恋人たちが見えた。
そのどれもが生き生きしている。
更に向こうには、チャールズ川がとうとうと流れている。
水面(みなも)が太陽の照り返しでキラキラ光っている。
長い間冬が居座るこの町にも、ようやく春の足音が聞こえてきたことが、そこここから感じ取れた。

そんなのどかな風景に心を和ませながら、二人ともしばらくは言葉も交わさず、穏やかな空気を楽しんでいるようだった。
やがてパティが沈黙を破る。

「あの・・・ドイツ語、聞いていいかしら?ランチに満足して眠くなっちゃう前に」

冗談を言いながら恥ずかしそうに笑った。

「どれ?」

よそに向けていた視線をパティに移すと、ブライアンは緊張気味に尋ねる。

「この前アンソニーにも聞いたんだけど、分離動詞がよくわからないの。abschicken(送る)は、どうしてこういう語順になるの?」

テキストを取り出し、該当箇所を指差しながらブライアンの横顔を見つめる。

「えっと・・・Bitte, schicken Sie diesen Brief ab! (どうかこの手紙を送ってください)・・・ああ、これね。分離動詞は前つづりのabが離れて、目的語の後ろに移動するんだ。でも非分離動詞の場合、前つづりを離しちゃいけない」
「じゃあ、非分離動詞ってことは、どこで見分ければいいの?」
「前つづりが決まってるんだよ。 be, emp, eut, er, ver, zer ・・・こんな感じでね」

ため息をつくパティを見て、ブライアンは笑い出した。

「覚えるしかないのさ。初めはきついけど。ほら!ここに表が出てるから暗記すればいいんじゃない?」


当たり前のように言い、パラパラとページをめくって自分の前に指し示す彼が、なんだかかっこよく見える。


「ブライアンってすごいのね~。こんなに沢山のことを全部覚えてるなんて、さすがハーバードだわ」
「それは違うな。ホントにすごいのはアンソニーみたいなヤツさ」
「どうして?彼は『ドイツ語がよくわからない』って言ってたわよ。進学校時代から得意だったのはあなただって・・・」

ブライアンはこらえきれずに吹き出した。
パティをおびき寄せるために、そんな嘘までついたのかと思って。

「あいつは俺と違って、冠詞や名詞の格変化も、不規則動詞の活用も、接続法の形も、一発でクリアしたさ。毎晩遅くまで暗記してた。それに引き換え、俺はいつもサボってたよ。おかげで今もドイツ語には泣かされてる」

ばつが悪そうに頭をかく姿を見て、パティは小首をかしげた。

(じゃあ、アンソニーはなんのために嘘をついたのかしら。そんなにドイツ語が得意なら、あのとき教えてくれても良かったじゃない)

「白状するとね、俺はドイツ語が大嫌いなんだよ。ラテン語のほうが百倍好きだ。だってロマンがあるだろ?アンソニーは逆。あいつはラテン語では相当苦労してたよ」

夢中で語るブライアンを見ているうち、「もしや」と思った。
アンソニーはわざとドイツ語がわからないふりをして、今日の日をセッティングしたのでは?
だとしたら、なんのために?
もしかしてブライアンのため?
彼は自分と二人きりで会いたくて・・・それは好意を持ってるからで・・・
あてどない妄想が次々と駆け巡る。


そのとき、すぐそばでブライアンの声がした。

「かくいう俺も、昔は、『死んだローマ人と話も出来ないのに、どうしてラテン語なんか勉強しなきゃいけないんだ』って思ってた。でもあるとき気づいたんだ。単語の響きが抜群に奇麗なことに。それからさ、俄然(がぜん)興味が出たのは」

聞いた途端、パティは大いに共感し、幸せな気分に包まれた。

「まあ!ラテン語が好きなの?実は私もなの。気が合って嬉しいわ。おしゃるとおり、確かに実用的な言語じゃないけど、知ってれば文学や歴史の世界が広がるわ。だから夢があるの」

目を輝かせるパティを見ているうち、なんだか勇気が湧いてきた。
彼女と同じものに興味を持ち、知識を共有できるなんて、考えただけでドキドキする。
このまま勢いに乗じて誘おうか・・・そんな気合いがみなぎってくる。

ブライアンは改めてパティを正視すると、正々堂々と切り出した。

「ねえ、どうかな。今度はドイツ語抜きで会ってくれない?」
「え?」
「つまりさ、仕切り直したいんだよ。ドイツ語を教えるためってことじゃなく、純粋に君と会って話したい。ラテン語や文学や歴史のこと。その他なんでもいい。君が興味を持ってること、好きなこと」
「じゃあ、ステアの話でもいいの?」

茶化すように言い、パティは相手の反応をうかがった。
ムッとして嫌われたら、それでもいい。
いや、むしろ愛想をつかして消えてくれればいいとさえ思った。
今はステア以外の男性なんて全く考えられないのだから。
だが予想に反し、ブライアンの答えは従順だった。

「かまわないさ。君の心に今も生きてるステア──どんな男だったのか教えてよ」

思わぬセリフに驚き、隣に座っているブライアンを凝視した。
そのとき見た、寂しそうな目と切ない微笑みに、なぜか強烈に心を揺さぶられた。
この感覚は一体なんなのだろう。
ようとして知れない不思議な思いがいつまでも胸の奥に残り、これから長いこと、パティを悩ませるようになる。




シカゴのアードレー本宅も、日に日に春の暖かさに包まれるようになった。
長かった冬がようやく重い腰を上げて暇乞い(いとまごい)をする頃、コーンウェル夫妻の長男・アレクシスは、かわいい仕草を見せるようになってきた。
透き通るようなブロンドにスカイブルーの瞳は両親ゆずりだ。
無邪気な顔で笑う天使を抱いて目を細めるアーチーに、隣のアルバートは不思議そうな視線を向けた。
少し離れたところにアニーが立ち、車椅子のエルロイに付き添っている。

珍しいメンバーが、アルバートのサンルームに集っているのだ。

なかなか結婚話を受けようとしない当主に業を煮やし、策をめぐらすエルロイが苦し紛れに呼んだ助っ人は、アーチー、アニー、アレクシス。
親子三人、仲睦まじいところを見たら、少しは刺激になるだろう、身を固める気になってくれるだろう──老婦人はそう目論んだのだろう。

果たして狙い通りにことが運ぶか、そうでないのか、勝率は五分五分か。
というのもアルバートは羨ましそうな顔というより、別世界を見つめるような目でアレクシスを見ているのだから。

(ウィリアムにとって、結婚はまだ現実味がないんだろうかねぇ。もしずっとキャンディスがそばにいてくれたなら、違う状況になっていたんだろうか)

今まで考えたこともない妄想に取り付かれ、エルロイはハッとした。
ウィリアムの真意、本当の望み──まさかそれがキャンディスだったとしたら!
彼は今、どんな気持ちで養女の結婚をとらえているのだろう。
やるせない思いに駆られたが、一族の長たるもの、ふさわしい相手と添い遂げなければならない。
周りからの期待を一身に背負い、重責を担う運命にあるのだ。  

だからエルロイは心を鬼にして言い渡した。

「ウィリアム、あなたももう30歳になったのでしょう。いい加減に妻を迎えて私を安心させておくれ。隣にいるアーチーは七つも年下だというのに、立派な妻帯者じゃありませんか!まして言いたくはないけれど、アードレー家の総長として・・・」

繰言を最後まで聞いてやる余裕はなかった。
アルバートは待ちかまえていたように、「ご心痛はお察ししますが、あいにく僕も頑固者でしてね。納得のいく相手でなければ、残りの人生を分かち合うことなんかできませんよ」と言い放つ。

「だから納得できるような令嬢を紹介してるじゃありませんか。なのにあなたときたら、ろくろく会いもしないで・・・」
「納得してるのは僕じゃなくて大おば様でしょう?家柄や容姿だけを選考基準にしてるうちは望み薄ですね。申し訳ないですが」

半分おどけて頭を下げたアルバートに、呆れて口もきけないエルロイ。
両者の板ばさみになり、アーチーは仲裁役を買って出るしかなかった。

「まあまあ二人とも、そのへんでいいじゃありませんか」

困り顔の夫を見て、アニーは楽しそうに笑う。

「僕ももうすぐ卒業しますから、今まで以上に助けになれると思います。そうしたらアルバートさんも少しは楽になるでしょう。奥方探しはそれからでも遅くないんじゃないですか?こういうことは、焦ってもいい結果が出ないだろうし」

予想外の援護射撃に機嫌を損ねたエルロイは、ムッとしながら言う。

「アーチーまでウィリアムの肩を持つなんて!一家の主(あるじ)になったから、少しはまともなことを言ってくれると期待したんですけどね」

と、そこへ、「私は大おば様のお気持ち、わかりますわ」とアニーの声。

「いろいろな意味でご心配でしょう。それはアルバートさんを心底かわいがっておいでだからです。でももう五つや六つの坊やじゃありませんでしょう?将来のことはアルバートさん自身に任せたほうが、きっとうまくいきますわ」

おとなしそうな顔をしてハキハキ言うアニーに、もはや昔の面影はない。
母になるというのは、これほどにも人をたくましくさせるのか。
実にうまく言いくるめてくれたことに驚きながら、アルバートもアーチーも心の中で感謝した。

「アニーがそう言うなら仕方ないですね。但しあまり待たせないでおくれよ。あの世からお迎えが来たあとでは、花嫁を見ることは出来ないんですから。頼みましたよ、ウィリアム」

半ばあきらめ口調で言い、そのあとボソッとつぶやいた。


「小間使いのマーサを呼んでおくれ。部屋に戻ります」


程なくしてマーサが現れたが、エルロイの機嫌はまだ治まらない。

「全く・・・!ウィリアムはふらふらしたままだし、アンソニーは帰ってくる気配がないし。この家の直系男子は、一体どういうことになってるんでしょうね?」

ブツブツ言いながら車椅子を押されていく声が、徐々に廊下の向こうへ消えていった。



エルロイが退出し、アニーもアレクシスを抱いて部屋を出て行くと、急に静かになった。
午後の陽はすっかり傾き、夕闇が迫る時刻になっている。
そろそろ灯(あか)りが欲しいくらいだ。
さっきとは対照的なうら寂しさに気が滅入ったのか、アルバートもアーチーも、ほぼ同時にため息をついた。

「君はたいそうアレクシスを可愛がってるようだけど、もう吹っ切れたのかい?」

窓辺に歩いていきながらアルバートが切り出す。

「吹っ切れたって・・・何がです?」

広い背を見つめ、アーチーは尋ねる。
本当は薄々わかっているのだ。なんのことを言われているのか。

「君が昔好きだった女の子だよ」

振り返らず、横顔だけをちらっと向けるアルバート。

「正直、完全には吹っ切れてないかもしれません。けど、それとこれとは別です。アレクシスは僕の分身ですからね。可愛くてしょうがないですよ。そういうアルバートさんはどうなんです?大おば様が選んだ女性を寄せ付けないのは、好きな人がいるからなんじゃありませんか?それとも、昔の恋にこだわってたりして・・・」

夕陽に照らされた横顔が、一瞬ぴくっと動いて見えたのは気のせいだろうか。
図星を指されたアルバートは、アーチーの真意をはかりかね、不安げな表情を浮かべた。

(昔の恋だって?君はどこまで知ってるんだ。まさかアンソニーから何か聞いて・・・)

「そういえば、アルバートさんから恋の話を聞いたことないなあ。財力も知性も美貌も全部揃ってるんだから、周りが放っておくはずないのに」

アーチーは直球を投げて豪快に笑った。
どうやらキャンディを妻に望んだことには気づいていないらしい。
アンソニーの口が堅かったのがわかり、ホッとすると同時になんだか嬉しくなった。

「想像に任せるよ。過去はどうあれ、自分の相手くらい自分で決めたいからね。それだけのことさ」
「言ってること、よくわかります。一番大事なのはアルバートさん自身の気持ちですよ。それと伴侶になる人のね。それにしても気になるなぁ。一体どんな人が隣に並ぶんだろう。僕が想像するに・・・明るくて元気が良くて、優しくて、一緒にいると心が軽くなるような、それでいて自分をしっかり持ってる人。かわいくてブロンドで緑の目をして・・・」

そこまで言うと、アーチーはハッとして口をつぐんだ。
振り返ったアルバートの笑い声が部屋中に響き渡る。

「おいおい、調子に乗って『そばかすが沢山あって』なんて付け加えるんじゃないだろうな。それじゃまるでキャンディだ」

途端、アーチーはばつの悪そうな顔をした。

「子供が産まれたってのに忘れられないもんですね。この調子じゃあ、一生かかっても無理かも」
「いいんじゃないかい?君がさっき言ってたとおり、『それはそれ、これはこれ』だよ。秘めた思いってのは死ぬまで心をいっぱいに占めてるのさ。たとえ愛する家族がいようとね。今の生活を壊さない限り、悪いことじゃないと僕は思うよ。人に言えないまま墓まで持っていく秘密が、一つや二つ、誰にでもあるもんさ」

言った直後、アルバートは今のセリフを自分にぶつけた。
人に言えない秘密──キャンディを女として愛したこと──
堂々と口に出して彼女にぶつけたアンソニーやアーチーは、まだいい。
何も言わずに封印した自分の気持ちは、一体どこへ行くのだろう。

この先、キャンディ以上の相手に出会うことなどあるのだろうか。
エメラルドの瞳に屈託のない笑みを浮かべ、心の底から癒してくれるような、得がたい伴侶に。

まだ見ぬ幻の女性を思い描こうと、アルバートは心の目を凝らした。
だがそこには、なんの映像も浮かんではこなかった。



「ところでそのレイモンドっていう役者、うさん臭いヤツですね。こっちの新聞でも芸能欄で取り上げられるほど売れっ子みたいですけど。目的はなんなんでしょう。パーティー会場にいきなり現れたり、アンソニーとキャンディを見比べてニヤニヤ笑うなんて」

ジェフリーとレイチェルの結婚式での一幕を蒸し返し、アーチーは眉をひそめた。
話題がアンソニーの身辺警護に及んだからだ。

去年の夏、パブリックガーデンで暴漢に襲われて以来、これといったトラブルに巻き込まれていないから、アンソニー自身はけろっとしていた。
だがアルバートやアーチーは、本人以上に心配している。
何しろウォルター・ウィルキンソンに、二度までも命を狙われた経験があるのだから。
ウォルター自身は既にこの世にいなくても、何者かがアンソニーをつけ狙っている気がしてならない。
何より不気味なのは、レイモンドという人物。
得体の知れない妖気を漂わせている。
アンソニーとはなんの関係もないはずなのに、なぜ!?

「あの役者、どことなくアンソニーに似てる・・・そう思えてしょうがないんですよ。新聞で初めて写真を見たときから」

すっかり姿を消した太陽に代わって部屋を明るくしようと、アーチーは燭台に手を伸ばして火を灯(とも)した。

「実物を間近で見たら、もっと妙な感じがするよ。あの青い目、どこかで見た気がするんだ。一体どこだったろう・・・」

思い出せず、もどかしい顔つきになるアルバート。
端正な輪郭が燈火に照らされてちらちら揺れる。

思えばジェフリーたちのパーティーで、レイモンドの瞳について、アンソニーも同じことを言っていた。

──あの青さ、あの輝き・・・どこかで見た気がする。それとも単に気のせいか?──

残念なことに、記憶の断片は機能するのを拒み、レイモンドと過去を結ぶ接点を、ことごとく打ち消してしまった。




四月──すっかり春めいて、マンハッタンの目抜き通りを行きかう人々の表情が和らいできた。
ストラスフォード劇団も、地方公演に向けた稽古で連日活気づいている。
演目は「マクベス」。
メインキャストはもう決まっていた。
主役を出し抜くほど光り輝いているシェリル・ドレイファスに白羽の矢が当たり、今回はマクベス夫人を射止めたのだ。

だが前評判とは裏腹に、なんとなく精彩を欠いているのは誰の目にも明らかだった。
劇団関係者は勿論、批評家もマスコミも、いち早く異変に気づき、好奇の目を向け始めた。

──何かがシェリルを蝕(むしば)んでいる。演技に集中できない原因がある──

真っ先に目をつけたゴシップ記事専門の週刊誌は、「彼女の過去」に探りを入れ始めた。

プロの手にかかってはどうしようもない。
ものの二、三日もしないうちに、知られざる事実が次々と浮上した。

ショーンとの恋。不慮の事故。ファンの自殺。別離──どれもこれもが、おあつらえ向きのトップシークレットだ。
ここで本人のインタビューが取れれば、雑誌の売れ行きが倍増するのは目に見えている。
なんとしても獲物を捕らえようと、記者たちは稽古がはねるのを手ぐすね引いて待ち構え、控室に戻ってくるシェリルを認めると、瞬く間に取り囲んでしまった。

ドアノブに手をかけて中へ逃げ込もうとするところを、男たちは五、六人で脇を固め、彼女が身動きできないようにブロックした。
カメラのフラッシュがたかれる。

「やあシェリルさん!今日はちょっとばかり質問させて欲しいんですけど。ローゼンバーグのショーン・マコーレーが、フランス人女優と噂になってるのはご存じですよね?元恋人としてコメントをいただけませんか」

無神経な質問に体中がざわついた。

(この人たち、なぜそんなこと知ってるの?今まで必死で隠してきたのに。ショーンとのことは誰にも知られず闇に消えたと思ってたわ。なのに・・・)

何も答えられず、青い顔をする彼女に容赦ない銃弾が続く。

「黙ってるってことは、認めたと解釈していいんですね?ショーンとの過去」
「知りません!そんなの誰かのでっち上げだわ」

あわてて否定すると、男の一人はニヤッと笑った。

「おやおや、そうきましたか。ちゃんと裏を取ってあるんですがね、ウェズリー・レイナーの母親に。ウェズリー・・・知ってるでしょ?まさかとぼけたりしないだろうなぁ。なんたって、あんたの命を救った恩人ですからね。この期に及んで『知らぬ存ぜぬ』では、彼も浮かばれない」

万事休すだ。
どんなルートから探りを入れたか知らないが、今になって途方もないスキャンダルが暴かれようとしている。

「ねえ、なんとか言ってくださいよ。潔い女で有名なシェリル・ドレイファスにしちゃあ、歯切れが悪すぎる。もうネタは上がってるんだ。いい加減観念して・・・」

メガネのフチをいじくってニタつく記者がそこまで言いかけたとき、腕をつかんで思い切りねじ上げる男がいた。
突然の出来事に、一同は驚いて視線を集中させる。

「お前ら、女一人に六人がかりか。しかも、あることないことまくしたてて。どうなるかわかってるんだろうな」

おびえた目で見上げるシェリルの瞳に写ったのは、栗色の髪の青年だった。

「テリィ・・・」

恐怖のあまり、彼女の唇は震えていた。

「ほほう・・・同類相憐れむってところですか?」

カメラを手にした男は急遽(きゅうきょ)被写体を変え、テリィを正面から撮りまくった。

「そういえば、君も似たような体験をしてたんでしたっけ。あのスザナ・マーロウ。もう忘れてましたよ。幸いなことに、彼女は他の男を見つけて結婚してくれた。おかげで君は恋人と婚約までこぎつけたわけだ。実に幸運でしたなあ。厄介払いが出来て」

その場は爆笑の渦になった。
誰もが面白おかしそうに、そして悪意たっぷりにテリィを見つめる。

「なんだと!」

握りしめた拳を振りかざそうとすると、シェリルは「やめて!」と甲高い声を上げた。

「こりゃあ面白いことになってきたぞ。テリュース・グレアムが、これほど腹を立てる原因は何か。スザナの事故を蒸し返されたからか、それとも・・・」

ハンチングをかぶった中年男はそこまで言うと一瞬黙り、ニヤッと笑った。

「シェリル・ドレイファスが侮辱されたからか。一体どっちでしょうなあ。我々としては、後者のほうが面白い記事を書けるんですがね。ここにいるお二人さんのツーショットをデカデカ載せて」

先ほどのカメラマンが、テリィとシェリルを交互に撮りまくる。
呆然としたまま抵抗できない二人。
それは本当に一瞬の出来事だった。

はらわたが煮えくり返ったテリィが誰かれかまわずつかみかかろうとしたとき、男たちは蜘蛛の子を散らしたように走り出し、勝ち誇った声が廊下に響きわたった。

「これは最高の絵になりますよ。思わぬ登場ありがとう、テリュースさん」


あとに残されたシェリルは、魂を抜かれたような顔で立ち尽くした。
まだ怒りが収まらないテリィだけが、相変わらず荒い呼吸で肩を震わせている。

「全くなんて奴らだ!人の不幸を笑いものにしやがって」

握った拳を壁に打ち付ける。
だが対照的に、シェリルは消え入りそうにはかない声でつぶやいた。

「それどころじゃないわ。こんなの記事にされたら大変よ。さっきの口ぶりからして、あの人たちが何を書きたがってるかわかるでしょ?」
「薄々ね」

伏目がちに笑うテリィに、シェリルは思わず声を荒らげてしまった。

「あなたったら、何を呑気なこと言ってるの?もしそのでっち上げ記事を読んだら、キャンディはどう思うかしら。誤解して傷ついて・・・そしたら私、お詫びのしようがないじゃない」

でっち上げ──テリィと自分は恋仲で、だからこそ彼は記者に囲まれた自分をかばって怒声を浴びせた──そう書き立てられる。
シェリルはそれを恐れていた。

「君って人は、自分のピンチにも他人の心配か?キャンディなら大丈夫さ。でたらめに惑わされて嫉妬するような女じゃない」
「随分自信があるのね」
「それだけ深い絆で結ばれてるのさ、俺たち二人は」
「まあまあ、ごちそうさま。気をつかって損しちゃったわ。じゃあキャンディのフォローは頼んだわよ」
「Yes, ma'am」

テリィはおどける。

そのあとすかさず、こう付け足した。

「君こそ大丈夫か?ショーンの裏切りで滅入ってるのに、昔の傷をほじくり返されて。俺に出来ることがあったらいつでも言ってくれ。何かの役には立てると思うぜ」

どうやら社交辞令ではないとわかり、ほんの少し胸が熱くなった。
この業界で女が一人、肩肘張って生きていくのは骨身にこたえる。
吹き荒れる風も肌には冷たい。
こんなふうに心が折れているときにかけられる人の情けは、温かいと同時に、独り身の自分を切なくさせた。

(キャンディはいいわね。こんなふうに心配してくれる人がすぐそばにいて。私にも昔はショーンがいてくれた。でも今は・・・)

込み上げてくる涙を見られまいと、シェリルは背を向ける。
その後ろ姿を見た瞬間、妙な感覚が湧き上がってくるのをテリィは感じた。

(俺はさっき、なんであんなに激昂した?あれじゃあ記者たちに誤解されて、あることないこと書かれても文句は言えないな)

なんともいえない、おかしな気分だった。
仮にそんな記事が出回ったとして、不思議と嫌な気はしなかった。
それどころか、シェリルと自分の仲を誤解されるのを喜んでいる「もう一人の自分」がいることに気づき、動揺する。

(しっかりしろ!テリュース。こんなんじゃ、キャンディと結婚する資格なんてないぞ。あいつを愛していながら身を引いたアンソニーにも申し訳が立たない。わかってるんだろう?)

思った途端、脳裏にブロンドの男女の幻影が浮かび上がった。
切ない視線を絡ませながら、何者かに邪魔され、離れ離れになっていく二人。
その「邪魔者」は、もしかして自分自身なのか?
彼らを見ているうちに、ふとそう思った。

──共に手を取って歩いていくべきなのは、あの二人じゃないのか──

頭には次第に真っ白な靄(もや)がかかっていき、それ以上幻を追うことはかなわなくなった。



「テリィもシェリルもガードが甘すぎる。自分でスキャンダルを作り上げるなんて。まあ、どんな記事を書かれようが、今は好都合だと思うべきだ。『マクベス』のいい宣伝になるからな」

偶然居合わせレイモンドは、廊下の隅で先ほどの顛末(てんまつ)を盗み見ていた。
テリィとシェリルがいなくなってしまうまで、虎視眈々と「獲物」の動きをうかがっていたのだ。

随分してから屋外に出ると、闇の世界が街を支配していた。
すっかり暗くなったマンハッタンの裏通りを歩きながら、コートの襟を立てる。
変装用のキャスケットを目深にかぶり、レイモンドは妄想を続けた。

(シェリルにあんな過去があったとは驚いたね。俺としたことが勉強不足だったよ。彼女をかばうテリィの真意にも、今まで気づかないでいた。もし俺の目が節穴でなかったら、これは面白いことになりそうだぜ。キャンディがまだアンソニーを忘れられないでいることを祈るのみだ)

予想もしなかった恋愛のカルテット(四重奏)を思い描き、レイモンドは思わずほくそえむ。
その不気味な笑いが天空に舞い上がり、大都会の夜に溶け込んで消えた。




朝の病棟実習の前、ローザの病室に顔を出すアンソニーのところに、血相を変えてブライアンが飛び込んできた。
全速力で駆けてきたらしく、立ち止まったあとも荒い呼吸が収まらず、しばらく無言で肩を上下させている。

「一体どうしたんだよ。何か言ってくれなきゃわからないぜ。急に駆け込んできて、ローザさんに失礼じゃないか!」

そう言って彼女のほうに視線を向けると、ローザは優しい目で微笑んでいる。
ブライアンも申し訳ないと思ったのだろう。一礼すると、やっと呼吸が整ったのか、第一声を発した。

「すまない。悪いとは思ったんだよ。でも一刻も早く教えてやりたくてさ。君は長いことずっと気に病んでたから」
「だから何を?」

普段は穏やかなアンソニーが語気を強めた。
要領を得ない相棒にイライラしたからだろう。

「ティモシーだよ」
「ティモシー?」
「ヤツの意識が回復した!」

絶叫するブライアンに、周りの患者たちは「何事が起きたのか」とベッドから身を起こした。

「あ・・・失礼」

自分の声の大きさに驚き、ブライアンは顔を赤らめて周囲に頭を下げる。
今まで冷静だったアンソニーの表情は豹変し、相棒の胸倉をつかむとグラグラ揺すった。

「それは本当か?」

今度はアンソニーが絶叫する。
あまりに興奮しているので殴られるかと思ったほどだ。

「冗談でわざわざここまで来るか!」

ようやく納得すると、きつく締め上げていたブライアンの襟を急に離し、アンソニーは何も言わずに病室を飛び出した。

けたたましい靴音が廊下中に響きわたる。
疾風怒濤とは、まさにこのこと。
院内は静かに歩かなければいけないという常識など、今の瞬間、この医学生の頭の中には微塵も残っていないに違いない。
起き上がっていた患者たちはあっけに取られ、アンソニーが走っていった方向を目で追う。
緊急事態の真相を探ろうと、興味津々なのだろう。

残されたブライアンは更にばつが悪くなり、苦し紛れにローザを振り返った。
穏やかなエメラルドの瞳が、いたわるようにこちらを見ている。

「あいつ、失礼極まりないですよね。さっきの俺よりずっと。ローザさんに挨拶もしないでいきなり出てくなんて。悪気はないんです。どうか許してやってください」

代わりに謝罪するブライアンを見上げ、彼女はウィンクした。

「仕方ありませんわ。アンソニー先生はこの日をずっと待っていたんですもの。あなただってそれをご存じだから知らせに来てあげたんでしょう?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、あとを追いかけておあげなさい。彼は舞い上がると意外に無謀なことをしでかす人ですから。多分、重々ご存じでしょうけど」

ふふっと笑う婦人を見て、この人はすべて見抜いてるんだなと感服し、ブライアンは恥ずかしそうに頭をかいた。