よく晴れた四月最後の日曜日、フロッグポンドのスワンボートに揺られながら、ブライアンとパティはいろいろな話に興じた。
歴史のこと、文学のこと、ラテン語のこと。そして将来の夢。
この九月には三年に進級して、いよいよ専門課程が始まるのだと、彼女は目を輝かせる。
その姿がまぶしくて、思わずオールをこぐ手を止め、見とれてしまった。
「小さな田舎町で子供たちに勉強を教えてあげたいの。先ずはちゃんとつづりを書けるようにしてあげなきゃ。そして算数、国語、理科、社会、音楽・・・ああ、数え切れないほどあるわ!子供たちと一緒にやりたいこと。大変な仕事だけど、やりがいがあると思わない?」
茶色い目はキラキラ光り、真ん前にいるブライアンを通り越してずっと遠くを見つめている。
こんな近くにいるのに、彼女の心は自分にない──それがはっきりわかるから、切なくてたまらなかった。
「ごめんなさい。私のことばかり話してしまって。あなたは国家試験を控えてるんでしょ?こんなことで貴重な時間をつぶして大丈夫なの?なんだか責任感じちゃう」
ブライアン自身はほとんど話さず、ひたすら耳を傾けてくれているのに気づいたのか、パティは遠慮がちに顔をのぞき込み、心配そうに尋ねた。
ブライアンが無理に付き合ってくれているのではと勘違いしたのだ。
「気にしなくていいよ。準備は万端だから。今更焦っても仕方ないさ。それより、約束だったよね?今日は話してくれるんだろ?『彼』のこと」
逆にのぞき込まれ、パティはドキッとした。
「彼」とは誰のことなのか、本当はわかっていたが、わざととぼけてみる。
「彼って?」
「意地悪だな~。彼は彼さ。君にとって男といったら、そいつしかいないも同然なんだろ?今のところはね」
最後に付け加えられた「今のところは」というセリフが意味深で、さっきよりもっとドキッとした。
なんだか胸がざわついて、顔がカーッと熱くなる。
こんなふうになってしまうのは、ステアのことを言われたからなのだろうか。
それとも他に理由が?
あるとしたら、一体どんな?
いろいろ考えたら言葉が出てこなくなった。
ドギマギする彼女を観察するのも一興だったが、あまりにかわいそうなので、ブライアンは助け舟を出してやった。
「君とステアが出会ったのはロンドンの寄宿学校だったって、アンソニーから聞いたよ。『その頃自分はニューヨークの病院で孤独な闘病生活を送ってた』って、あいつはぼやいてたけど」
「まあ・・・」
パティはうつむいていた顔を急に上げ、気の毒そうな表情を浮かべた。
「私たちがメイフェスティバルで楽しく踊ったり、スコットランドのサマースクールで羽根を伸ばしてた同じ時期に、アンソニーは一人で苦しんでたのね。それを聞いたらキャンディはどう思うか・・・。彼女にはとても言えないわ」
「もう時効だよ。ヤツだって、今はすっかり普通に生きてるんだし。それよりさ・・・」
言いかけてちょっと意地悪そうな笑みを浮かべるブライアン。
「メイフェスティバルって何するの?もしかしてチークダンス踊ったり、その日だけは女の子にキスしていいとか」
「違うわ!それはあなたの願望でしょ?とってもいやらしくて不潔な」
パティは烈火のごとく怒り出し、ブライアンを驚かせた。
あまりに激昂する姿に圧倒され、オールをこぐ手が止まってしまうほど。
(こんなに興奮するところを見ると、もしかしてファーストキスはまだだったりして・・・。ステアって奴、意外に紳士だったのかな?)
そう思った途端、なんだか急に嬉しくなった。
「そんな怖い顔して睨まないでよ。ちょっと君が羨ましくなっただけなんだから」
「羨ましい?」
「そうさ。だって僕らはそんないい思いは出来なかったんだぜ。なんせ男子校だからね。あっちを見てもこっちを見ても、むさくるしい野郎ばかりで、華やかさなんかちっともなかったよ」
パティはハッとして、「そういえばジョンストンは男子校だったわね」とつぶやいた。
「そんなことより、ほら!あれを見て」
彼の指差す方向に教会の尖塔が見えた。
重厚そうな作りの建物に、春の日差しが注いでキラキラ光っている。
「あの十字架の裏手が僕らの母校。男ばかりの空しい集団だったよ。おかげで恋も出来ずに終わっちまった」
ため息をつく彼に、「本当かしら?」とパティは半信半疑の目を向ける。
だがそのすぐあと、ふふっと笑っていたずらっぽい顔を見せた。
「あ!笑った。笑ったね?そのほうがいい。怖い顔よりずっとかわいいよ」
「まあブライアンったら」
おだて上手の彼にリードされ、パティは怒る気力もなくなったのか、声を立てて笑った。
それはとても不思議な感覚。
ステアが死んでからというもの、男性と話してこんなに心が和んだことなどなかったから。
もう何年も忘れていたときめきを思い出し、なんとも妙な気持ちになった。
(どうしてかしら。彼はステアじゃないのに違和感がないわ。一緒にいてとても楽しい。異性の前でいつも無理して取りつくろってる私じゃないみたい)
それは今のこのシチュエーションが、あのスコットランドの日々と酷似しているせいかもしれなかった。
降り注ぐ太陽、透き通る風、目に染みる緑、キラキラ光る湖水、寄り添う恋人たち、明るい顔と笑い声。
どれもこれも、あの日に似ている。
今日着ている淡いピンクのドレスとつば広の帽子、桜色に染められた唇でさえ、あの日とそっくり同じなのに自分でも驚いた。
「ステアもボートをこいでくれたのよ。スコットランドの湖で」
懐かしそうな目で、パティはゆっくり話し始めた。
あの夏の日とそっくりな景色を見て懐かしさが込み上げたのだろう。
茶色い瞳は心なしか潤んでいた。
「すぐそばにはアーチーとアニーのボートが浮かんでいてね。彼らも黙ったまま微笑み合ってたわ。何を話すでもなかったけど、妙にウキウキしたのを覚えてる。ステアが目の前で笑ってて、ただそれだけで幸せだったの」
ブライアンは何も言わず、ゆっくりオールを操る。
周りを囲む他のカップルたちのはしゃぐ声と、時折上がる水しぶきだけが沈黙をぬうように滑っていく。
「さっき言ってたメイフェスティバルってね、それはそれは楽しいお祭だったわ。五月生まれの女の子たちが花の精になって花車に乗るの。その周りを男の子たちが囲んでパレードが進むのよ。沢山のお菓子とケーキ、そして夜は舞踏会。この日だけは好きな相手と踊って良かったの」
「で、君はステアと踊ったんだね?」
パティは恥ずかしそうに、「ええ」と言った。
「初めてのダンスだったわ」
みるみるうちに頬が薄紅色に染まっていく。
だが、はにかんだ彼女を見つめるヘーゼルの瞳は、徐々に切なげな色をたたえ始める。
高揚したパティの表情とは対照的に、ブライアンの顔は暗い影を帯びていく。
数分の時間が流れたあとだ。
彼は黙ったままオールを巧みに動かし、周りのボートを交わしながら接岸した。
それはものすごいスピードで、パティが何か話しかける間もないほど、あっと言う間の出来事だった。
心なしかムッとしている様子のブライアンは、先にボートから降りると、無言のままパティの目の前に右手を差し出した。
彼の意図がわからず、きょとんとして見上げると、「つかまれよ」というクールな声が返ってきた。
「君一人じゃ無理だろ?引き上げてやるから、さあ、つかまって!」
パティは気まずそうに自分の手を出すとブライアンに重ねた。
温かくて大きな手・・・!
(ああ、そうだったわ。男の人ってこういう手をしてるのよね。私よりずっと大きくて、少しごつくて・・・)
そのとき、忘れていた感触を思い出した。
ステアの手もこんなだったっけ。
器用に発明をこなす繊細な手。
それはものすごいスピードで、パティが何か話しかける間もないほど、あっと言う間の出来事だった。
心なしかムッとしている様子のブライアンは、先にボートから降りると、無言のままパティの目の前に右手を差し出した。
彼の意図がわからず、きょとんとして見上げると、「つかまれよ」というクールな声が返ってきた。
「君一人じゃ無理だろ?引き上げてやるから、さあ、つかまって!」
パティは気まずそうに自分の手を出すとブライアンに重ねた。
温かくて大きな手・・・!
(ああ、そうだったわ。男の人ってこういう手をしてるのよね。私よりずっと大きくて、少しごつくて・・・)
そのとき、忘れていた感触を思い出した。
ステアの手もこんなだったっけ。
器用に発明をこなす繊細な手。
そっと頬を撫でてくれる優しい手。
二人で過ごした夢のようなひとときを思い出し、無意識のうちに言ってしまった。
「ステアはおかしなものを発明するのが趣味で、戦地からもいろいろ送ってくれたわ。ステア&パティ人形とか。あなたも手先が器用そうだから、何か作れるんじゃない?」
「ダメだよ俺は。機械いじりは苦手だ。ましてや発明なんて」
ボートから降りてドレスの裾(すそ)を気づかう彼女を見ながら、ぶっきらぼうに答える。
「でも絵は天才的よ。去年のクリスマスにプレゼントしてくれたステアの肖像画は本当に見事だったわ。私、机の前の壁に飾って宝物にしてるのよ。あ、そうだ!今度はもう少し小さいサイズの絵を描いてくれないかしら。そしたらいつもステアをバッグに忍ばせておけるから」
頬を上気させ、無邪気にはしゃぐパティ。
そんな姿を見ていたら、心臓にチクチクした痛みが走った。
切なくてどうしようもない痛み──どんな名薬をのんでも決して治らない痛み──ブライアンはたまらなくなり、吐き捨てるように言い放った。
「いやだね、断る!」
予想外の拒絶反応が返ってきて驚いたが、パティはそれでも夢中で食い下がる。
「どうして?勿論お金は払うわ。あなたにとっては、いいアルバイトになるでしょ?」
「絵で稼ぐつもりはないよ。それに、今忙しいし」
言われてハッとした。
そういえばこの若者は、一世一代の大勝負を間近に控えているのだ。
「ごめんなさい。私ったらステアのことになると、何も見えなくなっちゃって。大事な試験が迫ってることをすっかり忘れてたわ。勿論、落ち着いてからでかまわないのよ」
「それでもダメだ」
「なぜ?ブライアンったら意地悪だわ。この前はあんなに素敵なステアを描いてくれたじゃない。ねえお願い!もうこれきり頼まないから」
「さっきからステア、ステアってうるさいんだよ!」
あまりの大声に驚き、パティはたじろぐ。
目には恐怖の色さえ浮かんでいる。
「ごめん。言い過ぎた。でもこれだけはわかって欲しい。ステアの絵は、もう描きたくないんだ」
おびえる彼女に申し訳なく思い、ブライアンは声のトーンを下げた。
「だって、もし描いたりしたら、君は益々彼を忘れられなくなるだろう?そんなのイヤだよ」
「どういう意味?あなたの言ってること、全然わからないわ」
しぼり出すように言うと、次の瞬間、思いもよらないセリフがぶつけられた。
「わからなきゃはっきり言ってやる。君が好きなんだ。だからステアにこだわるのはやめて欲しい。死んだ人間を、いつまでも後生大事にして欲しくない!」
今まで背中を向けていたブライアンは急に振り返った。
ヘーゼルの瞳はギラギラ燃えて、今にもつかみかかってきそうな勢いだ。
パティは怖くなって、思わず後ずさりする。
本当はこんなことを言うつもりはなかたったのだ。
黙って思い出話を聞き、一緒にタイムスリップしてあげようと思っていたのに。
いざパティがステアの話を始めたら、どうにも耐えられない、嫉妬深い自分がいた。
「ステアのことを聞きたいって言ったのは誰?だから話したのに・・・。あなたがこんなに無神経な人だとは思わなかったわ」
涙が溢れ出し、頬を伝って地面に落ちた。
その目は失望と不信感でいっぱいになっている。
彼女の悲しそうな顔を見て、つき物が落ちるように我に返ったブライアンは、あわてて駆け寄った。
「ごめん。どうかしてた」
だがパティは頭を激しく左右に振りながら、「もうイヤ!これきり会わないわ」と泣き叫び、差し出された手を振りほどく。
そして怒りの一瞥(いちべつ)を投げると、全速力で走り出した。
(バカだなブライアン!一体何してるんだ?早く追えよ。追って、もう一度謝るんだ。そうしなきゃ、ホントにこれきりになっちまうぜ。それでもいいのか?アマーリアのときと同じになって、本当にいいのか?)
もう一人の自分の声が頭の片隅でガンガン響く。
それでも動けない。
二人で過ごした夢のようなひとときを思い出し、無意識のうちに言ってしまった。
「ステアはおかしなものを発明するのが趣味で、戦地からもいろいろ送ってくれたわ。ステア&パティ人形とか。あなたも手先が器用そうだから、何か作れるんじゃない?」
「ダメだよ俺は。機械いじりは苦手だ。ましてや発明なんて」
ボートから降りてドレスの裾(すそ)を気づかう彼女を見ながら、ぶっきらぼうに答える。
「でも絵は天才的よ。去年のクリスマスにプレゼントしてくれたステアの肖像画は本当に見事だったわ。私、机の前の壁に飾って宝物にしてるのよ。あ、そうだ!今度はもう少し小さいサイズの絵を描いてくれないかしら。そしたらいつもステアをバッグに忍ばせておけるから」
頬を上気させ、無邪気にはしゃぐパティ。
そんな姿を見ていたら、心臓にチクチクした痛みが走った。
切なくてどうしようもない痛み──どんな名薬をのんでも決して治らない痛み──ブライアンはたまらなくなり、吐き捨てるように言い放った。
「いやだね、断る!」
予想外の拒絶反応が返ってきて驚いたが、パティはそれでも夢中で食い下がる。
「どうして?勿論お金は払うわ。あなたにとっては、いいアルバイトになるでしょ?」
「絵で稼ぐつもりはないよ。それに、今忙しいし」
言われてハッとした。
そういえばこの若者は、一世一代の大勝負を間近に控えているのだ。
「ごめんなさい。私ったらステアのことになると、何も見えなくなっちゃって。大事な試験が迫ってることをすっかり忘れてたわ。勿論、落ち着いてからでかまわないのよ」
「それでもダメだ」
「なぜ?ブライアンったら意地悪だわ。この前はあんなに素敵なステアを描いてくれたじゃない。ねえお願い!もうこれきり頼まないから」
「さっきからステア、ステアってうるさいんだよ!」
あまりの大声に驚き、パティはたじろぐ。
目には恐怖の色さえ浮かんでいる。
「ごめん。言い過ぎた。でもこれだけはわかって欲しい。ステアの絵は、もう描きたくないんだ」
おびえる彼女に申し訳なく思い、ブライアンは声のトーンを下げた。
「だって、もし描いたりしたら、君は益々彼を忘れられなくなるだろう?そんなのイヤだよ」
「どういう意味?あなたの言ってること、全然わからないわ」
しぼり出すように言うと、次の瞬間、思いもよらないセリフがぶつけられた。
「わからなきゃはっきり言ってやる。君が好きなんだ。だからステアにこだわるのはやめて欲しい。死んだ人間を、いつまでも後生大事にして欲しくない!」
今まで背中を向けていたブライアンは急に振り返った。
ヘーゼルの瞳はギラギラ燃えて、今にもつかみかかってきそうな勢いだ。
パティは怖くなって、思わず後ずさりする。
本当はこんなことを言うつもりはなかたったのだ。
黙って思い出話を聞き、一緒にタイムスリップしてあげようと思っていたのに。
いざパティがステアの話を始めたら、どうにも耐えられない、嫉妬深い自分がいた。
「ステアのことを聞きたいって言ったのは誰?だから話したのに・・・。あなたがこんなに無神経な人だとは思わなかったわ」
涙が溢れ出し、頬を伝って地面に落ちた。
その目は失望と不信感でいっぱいになっている。
彼女の悲しそうな顔を見て、つき物が落ちるように我に返ったブライアンは、あわてて駆け寄った。
「ごめん。どうかしてた」
だがパティは頭を激しく左右に振りながら、「もうイヤ!これきり会わないわ」と泣き叫び、差し出された手を振りほどく。
そして怒りの一瞥(いちべつ)を投げると、全速力で走り出した。
(バカだなブライアン!一体何してるんだ?早く追えよ。追って、もう一度謝るんだ。そうしなきゃ、ホントにこれきりになっちまうぜ。それでもいいのか?アマーリアのときと同じになって、本当にいいのか?)
もう一人の自分の声が頭の片隅でガンガン響く。
それでも動けない。
追いかけようにも、足が鉛のように重くて身動きが取れない。
いざというとき、こんなにも情けない男になり下がるのかと思ったら、自分自身に愛想が尽きてブライアンはがっくり肩を落とした。
いざというとき、こんなにも情けない男になり下がるのかと思ったら、自分自身に愛想が尽きてブライアンはがっくり肩を落とした。
しばらくそこにたたずんでいたが、なんとか気を取り直し、やっとの思いで寮へ帰ってきた。
徒歩でも15分とかからない距離なのに、何マイルも歩いた気がするほど、長くて辛い道のりだった。
部屋のドアを開けたとき、まだ太陽が頭上近くにある時間だったから、待っていたアンソニーは驚いた。
「どうしたんだよ。随分早いご帰還じゃないか」
心配そうにドア口をのぞきこむ。
案の定、入口につっ立ったまま歩いてくる気配のないブライアンが、蚊の鳴くような声で言う。
「なあアンソニー、教えてくれないか。エドワードが好きだったアンジェラ、それにテリィと恋に落ちたキャンディ──君はどうして彼女たちを許せたんだ?俺には出来ないよ。ステアを愛してたパティを包み込むなんて、とても無理な話さ」
頭を抱え込み、その場に座り込む相棒を見ただけで、今日何が起こったのか手に取るようにわかった。
今さっきパティとどんな会話をかわし、喧嘩別れをしてきたのか。
「気持ちはわかるけど焦るな。こういうことは時が解決するのを待つしかないんだよ。本当に彼女が好きなら、驚くほど自然にステアを受け入れられる日が必ず来る。今は殺してやりたいほど妬けてもね」
そっと微笑んで立ち上がるとアンソニーはジャケットを羽織り、ドアのほうまで歩いてきた。
「ランチ、まだなんだろ?カフェに行こうぜ。今日はおごるよ」
それでもまだうなだれている相棒の肩をつつくと、更に大きな声で言った。
「元気出せ!パティには婚約者がいるわけじゃないんだ。これから口説く時間はいくらでもあるってことさ」
ブライアンはハッとして顔を上げる。
(そうだった。キャンディにはテリィがいるんだ。コイツがいくら愛したって、もう・・・)
彼の辛い恋に比べたら、今の自分にはわずかばかりでも希望がある。
それを悟ったブライアンは、申し訳なさそうにサファイアの瞳を見つめた。
「じゃ、お言葉に甘えてステーキでもごちそうになるかな。スパイスが効いた、とびきり分厚い特上品をね」
アンソニーはギクッとして顔をこわばらせる。
「バカだな~、冗談だって。student cafeにそんな気のきいたメニューがあるわけないだろ!大丈夫。君の全財産を奪ったりしないから安心しな」
それを聞いてアンソニーはホッとしながらも苦笑した。
明るい春の太陽が、まぶしい光を部屋に注いでいる。
日一日と冬が遠のき、若々しい躍動感に満ち溢れていた。
徒歩でも15分とかからない距離なのに、何マイルも歩いた気がするほど、長くて辛い道のりだった。
部屋のドアを開けたとき、まだ太陽が頭上近くにある時間だったから、待っていたアンソニーは驚いた。
「どうしたんだよ。随分早いご帰還じゃないか」
心配そうにドア口をのぞきこむ。
案の定、入口につっ立ったまま歩いてくる気配のないブライアンが、蚊の鳴くような声で言う。
「なあアンソニー、教えてくれないか。エドワードが好きだったアンジェラ、それにテリィと恋に落ちたキャンディ──君はどうして彼女たちを許せたんだ?俺には出来ないよ。ステアを愛してたパティを包み込むなんて、とても無理な話さ」
頭を抱え込み、その場に座り込む相棒を見ただけで、今日何が起こったのか手に取るようにわかった。
今さっきパティとどんな会話をかわし、喧嘩別れをしてきたのか。
「気持ちはわかるけど焦るな。こういうことは時が解決するのを待つしかないんだよ。本当に彼女が好きなら、驚くほど自然にステアを受け入れられる日が必ず来る。今は殺してやりたいほど妬けてもね」
そっと微笑んで立ち上がるとアンソニーはジャケットを羽織り、ドアのほうまで歩いてきた。
「ランチ、まだなんだろ?カフェに行こうぜ。今日はおごるよ」
それでもまだうなだれている相棒の肩をつつくと、更に大きな声で言った。
「元気出せ!パティには婚約者がいるわけじゃないんだ。これから口説く時間はいくらでもあるってことさ」
ブライアンはハッとして顔を上げる。
(そうだった。キャンディにはテリィがいるんだ。コイツがいくら愛したって、もう・・・)
彼の辛い恋に比べたら、今の自分にはわずかばかりでも希望がある。
それを悟ったブライアンは、申し訳なさそうにサファイアの瞳を見つめた。
「じゃ、お言葉に甘えてステーキでもごちそうになるかな。スパイスが効いた、とびきり分厚い特上品をね」
アンソニーはギクッとして顔をこわばらせる。
「バカだな~、冗談だって。student cafeにそんな気のきいたメニューがあるわけないだろ!大丈夫。君の全財産を奪ったりしないから安心しな」
それを聞いてアンソニーはホッとしながらも苦笑した。
明るい春の太陽が、まぶしい光を部屋に注いでいる。
日一日と冬が遠のき、若々しい躍動感に満ち溢れていた。
五月に入り、国家試験まであと一週間に迫った頃、ティモシーはすっかり回復して歩行訓練を受けられるまでになった。
アンソニーは寸暇を割き、彼のリハビリに付き合っている。
今日は一味違った趣向を思いつき、彼を青空の下に誘い出した。
いつも同じコースを歩くより、たまには外の空気を吸い、心身ともにリフレッシュするのが何よりの薬と判断したからだ。
彼の体を支えながら歩いてエレベーターに乗り、病院の屋上に出たら、頭上には晴れた空が広がり、気持ちいい風が頬を撫でた。
「なあ、悪くないだろ?外は気持ちいいぜ。病室の中から見る景色とは雲泥の差だよ」
杖をついてはいるが、自力で立っているティモシーの肩に手を回してアンソニーはウィンクする。
「ホントですね!空気がこんなに美味しいなんてすっかり忘れてました」
「風薫る五月だからな。爽やかで清々(すがすが)しくて、僕が一番好きな季節だ」
「何か素敵な思い出でも?」
「まあ・・・ちょっとね」
懐かしそうな目で一瞬遠くを見た医学生に気づき、少年はたくましい想像力を働かせる。
「あ、わかった!フェリシア先生でしょ?たとえば彼女のバースデーが五月だとか、初めてデートしたのが五月だとか、そうでなけりゃ、ファーストキスが五月だったとか・・・」
「いい加減にしないか!」
笑いながらも、多少語気を強めるアンソニー。
「残念だけど全部ハズレだ。そもそも僕はフェリシアとはそういう関係じゃないし」
ティモシーはつまらなさそうな顔をし、「なんだ~、じゃあ別の人ですか?」と口をとんがらせた。
「そういうことになるな」
「先生の恋人なんでしょ?今、どこにいるんです?」
無邪気に聞いてくる薄茶の瞳に戸惑ったが、少し間を置いて正直に言った。
「昔の話だよ。彼女は結婚が決まったし」
斜め下の相手に視線をずらすと、ティモシーの目は驚きでカッと見開かれた。
「立ち話もなんだから、あそこに座ろう」
すぐそばにあるベンチまで移動し、二人並んで腰掛ける。
「すみません。余計なことを聞きました。つい調子に乗っちゃって」
「いいんだよ、昔の話だって言ったろう?気にするな。それより君には彼女いないのか?結構モテそうなルックスだけど」
「え?ホントに?」
信じられないという表情を浮かべるティモシー。
「いるわけないじゃないですか!だって、うちは男子校ですよ。先生がいた頃だって、そうだったでしょ?」
「そりゃそうだけど、アンナマリア女学校の生徒と付き合ったりしないわけ?」
ティモシーは目が点になった。
というのも、ある事件が原因で、ジョンストンの男子生徒とアンナマリアの女子生徒は、二年前から交際を禁じられているからだ。
今では互いの学校の正門に近づくことすら許されない。
ましてやこっそり付き合っているのがバレたりしたら退学処分だ。
「なんでまたそんなことに?僕らの頃は、週末にダンパをやったりして結構楽しかったのに。現にブライアンはアンナマリアの生徒と付き合ってたよ」
いぶかしげに言うアンソニーに、後輩は真相を教えてくれた。
「噂なんですけどね、どうやらウチの生徒がアンナマリアの生徒といい仲になって、挙句の果てに・・・」
言いかけた言葉をのみ込むと、ティモシーは自分の腹を指差し、ポッコリ膨らんだ動作をして見せた。
「まさか・・・妊娠?」
仰天したアンソニーは思わず大声を出してしまった。
「その『まさか』らしいんです。それ以来先生の目が厳しくて、とてもダンパどころの騒ぎじゃないですよ。特にディックスはすごい嫌みなんだから!」
懐かしい名前が飛び出したから、アンソニーはすぐに食いついた。
「ディックスって、ラテン語の?」
「ええ。あだ名がヘビ男で」
「そうそう、ヘビ男!目がギョロッとしてて執念深くて、難しい文を長々と暗誦させるんだ。僕はラテン語が苦手だったから、いつもビクビクしてたよ。当時は最悪だったけど、今となってはなんだか懐かしいな・・・」
遠い目をする先輩を見て、ティモシーはふくれっつらになる。
「先生にとっては懐かしい思い出かもしれませんけど、僕は現在進行形ですからね~。たまんないっすよ!」
だが、そんなぼやきは聞こえていないらしく、アンソニーは興奮して身を乗り出した。
「じゃあさ、マクラウド先生はどうしてる?今でも教えておられるの?」
「はい。生物と化学を。僕は文系だからあまり縁がないですけど」
「そうか・・・。ティムは文系だったよな。忘れてた」
「マクラウド先生は大変な人気者ですよ。先生も尊敬してたんですか?」
「勿論さ!」
即答する先輩に共感したのか、ティモシーは嬉しそうに微笑んだ。
「マクラウド先生は素晴らしい人格者だと思います。どのコースの生徒にも人望が厚いです。アンソニー先生が信奉する気持ち、よくわかりますよ」
「僕は途中で編入したから、いろいろ気をつかってもらったんだ。今でも忘れられない恩師だよ」
「編入?初めからジョンストンにいたんじゃないんですか?」
不思議そうな顔をするティモシーに、アンソニーはフッと笑った。
「僕はずっと家庭教師に勉強を教わってたんだ。それもいやいやね。もしあの事故が起きなかったら、指図されたとおりの学問を、おまじない程度に学ぶだけで終わってたと思う。ジョンストンで学ぼうとか、医者になろうとか、将来のことなんか何も考えはしなかったろうさ」
「あの事故?」
食い入るような瞳で見つめる少年が、自分の過去に興味を示しているのは明らかだった。
似たような過去を持つ者として、何かの参考になればと思い、尋ねてみる。
「僕の経験を聞いてみたいかい?」
夢中でうなずく少年の熱意を確認すると、アンソニーはゆっくり語り始めた。
思いもよらないアクシデントで、人生が全く違う方向へ進み出したことを。
勿論自分がアードレー家の人間であることや、執事に殺されそうになったことは伏せたが、それ以外の経緯は包み隠さず話してやった。
キャンディを失ったことも、なぜ医学を志したのかも。
「君と僕はすごく似てるんだ。幼い頃に母親を病気で亡くしてるし、16歳で大事故に遭った。でも君はまだいい。だって意識はしっかりしてるし、もう進路は決まってるんだから。あとは早く体を治してジョンストンへ戻れば、すべて元通りだ。焦る必要はないよ」
「本当にそう思いますか?」
必死で励ますのだが、ティモシーから返ってきた言葉は暗く重苦しい。
「実は僕、悩んでたんです。事故に遭うずっと前から。ホントに経営学なんかを勉強したいのかって。ただ単に、父の跡を継ぐためにやらされてるだけじゃないか──最近そう思えて仕方ないんです。何を専攻したいのか、自分でもよくわからない。もうすぐ希望大学と学部を提出しなきゃいけない時期に来てるのに」
頭を抱える少年を元気づけようと、優しい声があとに続く。
「そんなに焦るな・・・と言っても無理だろうけど、せめて入院してるうちだけは、ゆったりかまえたほうがいい。思いつめると逆に見失うことだってあるから。肩の力を抜いたときに初めて見えるものだってあるんだ。意外とそれこそ本物だったりするのさ」
「先生・・・」
暗闇に一条の光が差し込んだ気分になったのか、ティモシーはライトブラウンの瞳を輝かせた。
「さっきも言ったけど、僕は君以上に深手を負って孤独の世界を漂ってた。同じ年頃の仲間なんて、まわりに誰一人いやしない。そりゃあもう不安だったよ。一体将来どうなるんだろうって、そればかり考える日もあった。でもそんな僕だって、ちゃんと道を見つけたんだよ。まさに神の啓示って気がした。だから君が過ごしてる『今』は、決して無駄な時間じゃないんだ。神様がくれた、長くて有意義な休暇だと思えばいい」
はるか彼方にチャールズ川がゆったりと流れているのが見えた。
五月の風は優しくそよぎ、強くなり出した太陽の筋が頬を熱く染め上げる。
その瞬間、アンソニーは妙な感覚を覚えた。
ここはボストンで、自分はハーバードの医学生で、すぐ隣にいるのは患者のティモシー少年なのに、今いるのはニューヨークの病院で、隣にいるのは白衣を着た医学生のジェフリー。そして彼の話に聞き入っているのは、やっと正気になり、少しずつ回復しつつある16歳の自分──そんな気がした。
患者と医学生・・・あのときとは立場が変わっているが、今も昔もこうやって、「同じ夢」が脈々と語られている。
先輩から後輩へと、医学を志すきっかけが伝承されていく。
もしかするとティモシーは、自分の背を見つめて、いつの日か「ある決心」をするかもしれない。
16歳のあの日、ジェフリーやクリストファーの影響で医者になろうと決心した自分と同じように。
(実業家の跡取りのティモシーが?まさか・・・な)
そう思いながら隣に目をやると、白衣姿の自分をじっと見つめる熱いまなざしが、キラキラ輝いていた。
アンソニーは寸暇を割き、彼のリハビリに付き合っている。
今日は一味違った趣向を思いつき、彼を青空の下に誘い出した。
いつも同じコースを歩くより、たまには外の空気を吸い、心身ともにリフレッシュするのが何よりの薬と判断したからだ。
彼の体を支えながら歩いてエレベーターに乗り、病院の屋上に出たら、頭上には晴れた空が広がり、気持ちいい風が頬を撫でた。
「なあ、悪くないだろ?外は気持ちいいぜ。病室の中から見る景色とは雲泥の差だよ」
杖をついてはいるが、自力で立っているティモシーの肩に手を回してアンソニーはウィンクする。
「ホントですね!空気がこんなに美味しいなんてすっかり忘れてました」
「風薫る五月だからな。爽やかで清々(すがすが)しくて、僕が一番好きな季節だ」
「何か素敵な思い出でも?」
「まあ・・・ちょっとね」
懐かしそうな目で一瞬遠くを見た医学生に気づき、少年はたくましい想像力を働かせる。
「あ、わかった!フェリシア先生でしょ?たとえば彼女のバースデーが五月だとか、初めてデートしたのが五月だとか、そうでなけりゃ、ファーストキスが五月だったとか・・・」
「いい加減にしないか!」
笑いながらも、多少語気を強めるアンソニー。
「残念だけど全部ハズレだ。そもそも僕はフェリシアとはそういう関係じゃないし」
ティモシーはつまらなさそうな顔をし、「なんだ~、じゃあ別の人ですか?」と口をとんがらせた。
「そういうことになるな」
「先生の恋人なんでしょ?今、どこにいるんです?」
無邪気に聞いてくる薄茶の瞳に戸惑ったが、少し間を置いて正直に言った。
「昔の話だよ。彼女は結婚が決まったし」
斜め下の相手に視線をずらすと、ティモシーの目は驚きでカッと見開かれた。
「立ち話もなんだから、あそこに座ろう」
すぐそばにあるベンチまで移動し、二人並んで腰掛ける。
「すみません。余計なことを聞きました。つい調子に乗っちゃって」
「いいんだよ、昔の話だって言ったろう?気にするな。それより君には彼女いないのか?結構モテそうなルックスだけど」
「え?ホントに?」
信じられないという表情を浮かべるティモシー。
「いるわけないじゃないですか!だって、うちは男子校ですよ。先生がいた頃だって、そうだったでしょ?」
「そりゃそうだけど、アンナマリア女学校の生徒と付き合ったりしないわけ?」
ティモシーは目が点になった。
というのも、ある事件が原因で、ジョンストンの男子生徒とアンナマリアの女子生徒は、二年前から交際を禁じられているからだ。
今では互いの学校の正門に近づくことすら許されない。
ましてやこっそり付き合っているのがバレたりしたら退学処分だ。
「なんでまたそんなことに?僕らの頃は、週末にダンパをやったりして結構楽しかったのに。現にブライアンはアンナマリアの生徒と付き合ってたよ」
いぶかしげに言うアンソニーに、後輩は真相を教えてくれた。
「噂なんですけどね、どうやらウチの生徒がアンナマリアの生徒といい仲になって、挙句の果てに・・・」
言いかけた言葉をのみ込むと、ティモシーは自分の腹を指差し、ポッコリ膨らんだ動作をして見せた。
「まさか・・・妊娠?」
仰天したアンソニーは思わず大声を出してしまった。
「その『まさか』らしいんです。それ以来先生の目が厳しくて、とてもダンパどころの騒ぎじゃないですよ。特にディックスはすごい嫌みなんだから!」
懐かしい名前が飛び出したから、アンソニーはすぐに食いついた。
「ディックスって、ラテン語の?」
「ええ。あだ名がヘビ男で」
「そうそう、ヘビ男!目がギョロッとしてて執念深くて、難しい文を長々と暗誦させるんだ。僕はラテン語が苦手だったから、いつもビクビクしてたよ。当時は最悪だったけど、今となってはなんだか懐かしいな・・・」
遠い目をする先輩を見て、ティモシーはふくれっつらになる。
「先生にとっては懐かしい思い出かもしれませんけど、僕は現在進行形ですからね~。たまんないっすよ!」
だが、そんなぼやきは聞こえていないらしく、アンソニーは興奮して身を乗り出した。
「じゃあさ、マクラウド先生はどうしてる?今でも教えておられるの?」
「はい。生物と化学を。僕は文系だからあまり縁がないですけど」
「そうか・・・。ティムは文系だったよな。忘れてた」
「マクラウド先生は大変な人気者ですよ。先生も尊敬してたんですか?」
「勿論さ!」
即答する先輩に共感したのか、ティモシーは嬉しそうに微笑んだ。
「マクラウド先生は素晴らしい人格者だと思います。どのコースの生徒にも人望が厚いです。アンソニー先生が信奉する気持ち、よくわかりますよ」
「僕は途中で編入したから、いろいろ気をつかってもらったんだ。今でも忘れられない恩師だよ」
「編入?初めからジョンストンにいたんじゃないんですか?」
不思議そうな顔をするティモシーに、アンソニーはフッと笑った。
「僕はずっと家庭教師に勉強を教わってたんだ。それもいやいやね。もしあの事故が起きなかったら、指図されたとおりの学問を、おまじない程度に学ぶだけで終わってたと思う。ジョンストンで学ぼうとか、医者になろうとか、将来のことなんか何も考えはしなかったろうさ」
「あの事故?」
食い入るような瞳で見つめる少年が、自分の過去に興味を示しているのは明らかだった。
似たような過去を持つ者として、何かの参考になればと思い、尋ねてみる。
「僕の経験を聞いてみたいかい?」
夢中でうなずく少年の熱意を確認すると、アンソニーはゆっくり語り始めた。
思いもよらないアクシデントで、人生が全く違う方向へ進み出したことを。
勿論自分がアードレー家の人間であることや、執事に殺されそうになったことは伏せたが、それ以外の経緯は包み隠さず話してやった。
キャンディを失ったことも、なぜ医学を志したのかも。
「君と僕はすごく似てるんだ。幼い頃に母親を病気で亡くしてるし、16歳で大事故に遭った。でも君はまだいい。だって意識はしっかりしてるし、もう進路は決まってるんだから。あとは早く体を治してジョンストンへ戻れば、すべて元通りだ。焦る必要はないよ」
「本当にそう思いますか?」
必死で励ますのだが、ティモシーから返ってきた言葉は暗く重苦しい。
「実は僕、悩んでたんです。事故に遭うずっと前から。ホントに経営学なんかを勉強したいのかって。ただ単に、父の跡を継ぐためにやらされてるだけじゃないか──最近そう思えて仕方ないんです。何を専攻したいのか、自分でもよくわからない。もうすぐ希望大学と学部を提出しなきゃいけない時期に来てるのに」
頭を抱える少年を元気づけようと、優しい声があとに続く。
「そんなに焦るな・・・と言っても無理だろうけど、せめて入院してるうちだけは、ゆったりかまえたほうがいい。思いつめると逆に見失うことだってあるから。肩の力を抜いたときに初めて見えるものだってあるんだ。意外とそれこそ本物だったりするのさ」
「先生・・・」
暗闇に一条の光が差し込んだ気分になったのか、ティモシーはライトブラウンの瞳を輝かせた。
「さっきも言ったけど、僕は君以上に深手を負って孤独の世界を漂ってた。同じ年頃の仲間なんて、まわりに誰一人いやしない。そりゃあもう不安だったよ。一体将来どうなるんだろうって、そればかり考える日もあった。でもそんな僕だって、ちゃんと道を見つけたんだよ。まさに神の啓示って気がした。だから君が過ごしてる『今』は、決して無駄な時間じゃないんだ。神様がくれた、長くて有意義な休暇だと思えばいい」
はるか彼方にチャールズ川がゆったりと流れているのが見えた。
五月の風は優しくそよぎ、強くなり出した太陽の筋が頬を熱く染め上げる。
その瞬間、アンソニーは妙な感覚を覚えた。
ここはボストンで、自分はハーバードの医学生で、すぐ隣にいるのは患者のティモシー少年なのに、今いるのはニューヨークの病院で、隣にいるのは白衣を着た医学生のジェフリー。そして彼の話に聞き入っているのは、やっと正気になり、少しずつ回復しつつある16歳の自分──そんな気がした。
患者と医学生・・・あのときとは立場が変わっているが、今も昔もこうやって、「同じ夢」が脈々と語られている。
先輩から後輩へと、医学を志すきっかけが伝承されていく。
もしかするとティモシーは、自分の背を見つめて、いつの日か「ある決心」をするかもしれない。
16歳のあの日、ジェフリーやクリストファーの影響で医者になろうと決心した自分と同じように。
(実業家の跡取りのティモシーが?まさか・・・な)
そう思いながら隣に目をやると、白衣姿の自分をじっと見つめる熱いまなざしが、キラキラ輝いていた。
「何をそんなにイライラしてるの?」
課題になっているドイツ語の文献を手ほどきしてやりながら、フェリシアが笑う。
「いつもは温厚なあなたなのに、この前の週末からなんだか変よ」
のぞきこむようにして、またくすっと笑ったが、それでもパティは口をへの字に曲げている。
本当はハーバードのカフェになんぞ出向いて来る気はなかったのだが、教えてもらう身分だから逆らえない。
それで仕方なく足を運んだのだ。
「イライラなんてしてないわ!ドイツ語が難しいから、ちょっと滅入ってるだけよ」
本心を悟られまいと必死でとりつくろったが、フェリシアはとっくに胸の内を見透かしているらしい。
「ホントかしら?私はてっきり、『誰かさん』に会ったことが原因で落ち着かないんだと思ってたわ」
からかうように、ぽっちゃりした横顔をなぞると、パティは腹立たしげに言い返す。
「変なこと言わないで!」
なんという偶然だろう。遠く彼方では、話題の主(ぬし)である医学生が、相棒と二人でコーヒーを飲んでいる。
目ざとく見つけたフェリシアが、オーバーリアクションでパティの関心を引く。
「あら~、奇遇だこと。見て見て!あなたをデートに誘ったお相手が、あんなところにいるわよ」
ドキッとして言われたほうに目を向けると、フェリシアの言うとおり、ブライアンとアンソニーが真面目な顔で語り合っている姿が目に入った。
分厚い本を片手に、何やら真剣に議論しているのだ。
目前に迫った国家試験の勉強でもしているのだろうか。
課題になっているドイツ語の文献を手ほどきしてやりながら、フェリシアが笑う。
「いつもは温厚なあなたなのに、この前の週末からなんだか変よ」
のぞきこむようにして、またくすっと笑ったが、それでもパティは口をへの字に曲げている。
本当はハーバードのカフェになんぞ出向いて来る気はなかったのだが、教えてもらう身分だから逆らえない。
それで仕方なく足を運んだのだ。
「イライラなんてしてないわ!ドイツ語が難しいから、ちょっと滅入ってるだけよ」
本心を悟られまいと必死でとりつくろったが、フェリシアはとっくに胸の内を見透かしているらしい。
「ホントかしら?私はてっきり、『誰かさん』に会ったことが原因で落ち着かないんだと思ってたわ」
からかうように、ぽっちゃりした横顔をなぞると、パティは腹立たしげに言い返す。
「変なこと言わないで!」
なんという偶然だろう。遠く彼方では、話題の主(ぬし)である医学生が、相棒と二人でコーヒーを飲んでいる。
目ざとく見つけたフェリシアが、オーバーリアクションでパティの関心を引く。
「あら~、奇遇だこと。見て見て!あなたをデートに誘ったお相手が、あんなところにいるわよ」
ドキッとして言われたほうに目を向けると、フェリシアの言うとおり、ブライアンとアンソニーが真面目な顔で語り合っている姿が目に入った。
分厚い本を片手に、何やら真剣に議論しているのだ。
目前に迫った国家試験の勉強でもしているのだろうか。
それとも、講義の内容を論じ合っているのか。
ついつい引き込まれ、夢中で見つめていたら、フェリシアの冷やかしがすぐそばで聞こえた。
「あなたが気になって仕方ないのはドイツ語なんかじゃなくて、あの医学生じゃなくて?勿論栗色の髪のほうよ」
ふふっと笑う顔がちょっぴり憎らしくなり、パティは思わず叫んでしまった。
「フェリシアったら、いつからそんな意地悪になったの?」
「どういたしまして。この前のお返しよ」
手元のカップを取って紅茶をすすりながら、フェリシアはウィンクする。
その瞬間、これと似たような光景が以前に繰り返されたことを思い出し、パティはハッとした。
もっともあのときは立場が逆で、アンソニーを見てドキドキするフェリシアを思い切り冷やかしたのだが。
「素直になりなさいよ。そのほうが、ずっと楽になるわ」
紅茶を飲み干してカップを置き、ペンを取ると、何事もなかったかのように、フェリシアはまたテキストに線を引き始める。
いつの間にか葛藤を乗り越えた親友を目の当たりにして、パティは少々羨ましくなった。
自分もいつかはこんなふうに、揺れる気持ちを鎮められるのだろうか。
そんなことを思いながら、もう一度、遠くのブライアンに視線を投げる。
すると、不思議な淡い光が、彼を取り巻いているような錯覚を覚えた。
驚いて目をゴシゴシこすってみる。
隣にいるアンソニーを見てみたが、光の筋は全く見えない。
ブライアンの周りにだけ、はっきり見えた気がするのだ。
(メガネまで私をからかうの?度が合ってないなら、オシャカにしちゃうわよ!)
わけのわからないことを考え、茶色いフレームに指を伸ばしてカチャカチャ動かしてみた。
本当はわかっているのだ。
まぶしいオーラがブライアンを覆っているように見えたのは、メガネのせいではなかったことを。
ついつい引き込まれ、夢中で見つめていたら、フェリシアの冷やかしがすぐそばで聞こえた。
「あなたが気になって仕方ないのはドイツ語なんかじゃなくて、あの医学生じゃなくて?勿論栗色の髪のほうよ」
ふふっと笑う顔がちょっぴり憎らしくなり、パティは思わず叫んでしまった。
「フェリシアったら、いつからそんな意地悪になったの?」
「どういたしまして。この前のお返しよ」
手元のカップを取って紅茶をすすりながら、フェリシアはウィンクする。
その瞬間、これと似たような光景が以前に繰り返されたことを思い出し、パティはハッとした。
もっともあのときは立場が逆で、アンソニーを見てドキドキするフェリシアを思い切り冷やかしたのだが。
「素直になりなさいよ。そのほうが、ずっと楽になるわ」
紅茶を飲み干してカップを置き、ペンを取ると、何事もなかったかのように、フェリシアはまたテキストに線を引き始める。
いつの間にか葛藤を乗り越えた親友を目の当たりにして、パティは少々羨ましくなった。
自分もいつかはこんなふうに、揺れる気持ちを鎮められるのだろうか。
そんなことを思いながら、もう一度、遠くのブライアンに視線を投げる。
すると、不思議な淡い光が、彼を取り巻いているような錯覚を覚えた。
驚いて目をゴシゴシこすってみる。
隣にいるアンソニーを見てみたが、光の筋は全く見えない。
ブライアンの周りにだけ、はっきり見えた気がするのだ。
(メガネまで私をからかうの?度が合ってないなら、オシャカにしちゃうわよ!)
わけのわからないことを考え、茶色いフレームに指を伸ばしてカチャカチャ動かしてみた。
本当はわかっているのだ。
まぶしいオーラがブライアンを覆っているように見えたのは、メガネのせいではなかったことを。