ここニューヨークにも、爽やかな若葉の季節が訪れた。
日一日と緑が濃くなるセントラルパークには多くの市民が集い、心地良い風を満喫している。
大都会の喧騒の中にも一息つける憩いの空間が存在し、人々を癒しているのだ。
キャンディも今、そんな幸せの中にいた。
珍しく二人揃って休暇を取れたから、ランチボックス持参でモニカと日光浴だ。
病院にいるときは目の回るような忙しさだから、ここはまさに別天地だった。
「じゃあ、もう『あの記事』にはこだわってないのね?」
頬張っていたサンドイッチを飲み込むと、モニカが神経質そうな眼差しを向ける。
「あの記事って?」
「テリィがシェリルに気があるんじゃないかっていう、例の記事よ」
「ああ、あれね」
何を今更という顔で、キャンディは気のない返事をした。
「こだわるも何も、ガセネタに決まってるでしょ。そんなものにいちいち目くじらを立ててたら、俳優の奥さんなんてつとまらないわ」
「まあご立派だこと!既に貫禄たっぷりね」
肩をすぼめたモニカは、キャンディが投げる視線の先をなぞリ、少々不安な気持ちになった。
(キャンディったら、こんなに飄々(ひょうひょう)として・・・。私だったら、いてもたってもいられない。直接テリィに真相をただすか、雑誌社に怒鳴り込むでしょうね)
そう思うのは、ある意味当然だろう。
本当に愛しているなら、ゴシップ記事を書かれて平然としていられるはずはないのだから。
なのにキャンディの落ち着きようといったら、まるで「他人事」だ。
こんなに冷静でいられるのは、関心が他へ行っているからでは?──そう思われても仕方なかった。
(まさか、まだ「あの人」を想ってるの?)
一瞬、ブロンドに青い目の青年がモニカの脳裏に浮かんだ。
兄ブライアンの大親友で、ハーバード大学に籍を置く医学生。
(ううん、そんなはずないわ!キャンディはもう、テリィの手を取ったのよ。裏切るわけない)
悪い妄想を打ち消すように、彼女は激しく首を振った。
「ねえ、聞いてもいい?テリィを愛してるわよね?」
あまりに大きな声がしたから、キャンディは驚いて緑の目をクルクルさせる。
「何よ、急に」
「だって妙に落ち着き払ってるから、ちょっと心配になっちゃって・・・」
「動揺する必要がないくらい、テリィを信じてるからよ。これでどう?納得してもらえた?」
子供じみた質問をしてくる相棒に呆れながら、キャンディはウィンクする。
からかうようなその瞳に、木漏れ日が反射してキラキラ光る。
まぶしい・・・
「良かった。その笑顔を見てウソじゃないってことを確信したわ。私はもう、あなたがいろいろ迷って心乱れる姿を見たくないんだから」
ホッとして手元のコップに手を伸ばすモニカに、今度はキャンディが逆襲する。
「人のことばかり気にして、自分はどうなのよ。クリス先生とは何か進展があったの?」
言われた途端、茶色い瞳に暗雲が垂れ込める。
「ううん。何も変わらないわ。今までと同じ」
「ほら~、案の定だわ。人の世話を焼く前に自分の心配をしなさい!私たち、もう21歳になったのよ。積極的にアタックしなきゃ、いつまでたっても彼は気づかないわ」
「もう気づいてるのよ、とっくに。気づいても、知らん振りしてるだけ。私を傷つけないために」
寂しそうに言うと、モニカは深いため息をついた。
「『あなたが好き』ってはっきり言ったら、その場で恋は終わるわ。わかってるの。だから遠くから見つめてるだけでいい。壊してしまうくらいなら、何も言わずにそっとしておいたほうがいいもの」
思いつめるモニカを見ていたら、自分まで胸苦しくなってきた。
人はそれぞれに恋の形を持っている。
どれ一つとして、同じ形をしてはいない。
それをひっそりと大事に温め、育てていくのだ。
あるものはやがて大きな実を結び、あるものは途中で朽ちてしまう。
それでも人は愛することをやめられない。
「クリス先生への想い、いつか実るといいわね」
その言葉がたいそう心に響いたのだろう。モニカは嬉しそうにうなずくと、場を取りつくろうように話題を変えた。
「そういえば、とっておきのニュースがあるのよ。もう少しで言い忘れるとこだった。実はね、さっき用があってジェフ兄さんの家に行ったの。そしたらレイチェルが顔を出して・・・」
言いかけて途中でやめると、モニカはいたずらっぽい目を向けてきた。
「ずっと微熱が続いたんで、風邪だと思ってたら違ったんですって。何が起こったと思う?」
「まさか・・・。うっすらわかるけど、一応確認ね。ジェフ先生が診察したの?」
「ううん、兄じゃなくてウィテカー先生よ」
「ウィテカー先生っていったら、産婦人科の名医じゃない」
「ご名答!」
「じゃあ、もしかして・・・」
キャンディの顔がパッと輝いた。
「さすがね~。勘がいいわ。その『もしかして』なの。もうすぐ四ヶ月ですって。秋が深まる頃にはベビー誕生よ!」
モニカの弾む声に唱和するように、キャンディは感慨深げにつぶやいた。
「レイチェルがママになるのね?あのレイチェルが・・・」
レイクウッドで激しく対立した夏の日が、嘘のように光に溶けていく。
あのとき彼女の心をいっぱいに占めていたのはアンソニーだったのに、今お腹に宿っているのはジェフリーの子供。
流れていった三年の歳月をひしひしと感じ、キャンディはたまらなくなった。
(足踏みしてるようでも、時は確実に刻まれていたのね。私だって、もうすぐテリィと結婚するんだもの)
「兄さん、とても嬉しそうだったわ。早速ボストンにも手紙を出して驚かせてやるんだって張り切ってた」
モニカの口から「ボストン」という言葉が飛び出した途端、キャンディの胸はさざなみのように揺れた。
ボストン──ハーバード大学の所在地。そしてアンソニーが暮らす街。
妄想の連鎖を断ち切れず、頭はたちまちのうちに想ってはいけない人の名前を反芻する。
──アンソニー。アンソニー・ブラウン。永遠に愛してやまない、私の初恋──
「そうそう、ボストンっていうとね、昨日珍しくブライアンから手紙が来て、もうすぐ国家試験を受けるって書いてあったわ。いよいよなのね、兄も、それに・・・」
一瞬言いよどんだあと、静かに「アンソニーも」とモニカは付け足した。
敏感に反応し、キャンディの瞳は切なげに揺れる。
何を想って揺れるのかは、誰にもわからない。恐らく彼女自身にさえ。
たった一つはっきりしていることがあるとすれば、恐らく一生、アンソニー・ブラウンという名が脳裏から消え去る日は来ないだろうということ。
切ないため息が漏れた瞬間、二人の真後ろを白い子犬が走り抜けていった。
そのあとを飼い主らしき金髪の少年が、ジョギング姿で追い駆けていく。
その光景を見るとはなしに眺めていると、モニカのつぶやきが聞こえた。
「平和ね・・・。戦争が終わったからこそ、こうやって穏やかなときを過ごせるのよね。感謝しなくちゃ」
それは真実だった。
ともすれば、日常に埋没して幸せを見失ってしまうことだってあるのだと、キャンディは思う。
見上げれば、晴れ渡った五月の空が頭上に広がっている。
ステアが命を賭けて守り抜いた大空だ。
(ねえステア、私が見える?ちっぽけなことで悩んで、バカみたいでしょ?テリィの存在があるのに、今もまだアンソニーを忘れられずにいるのよ。もうすぐ結婚するっていうのに!自分でも、どうしていいのかわからないの)
そのとき、はるか彼方で優しい声が聞こえた気がした。
(バカみたいなんかじゃないよ。結婚は君の人生を決める大事な決断なんだ。納得できるまで、とことん悩んだら?僕はここで、いつだってキャンディを応援してるから)
それから一週間した頃、国家試験を無事に終えたアンソニーとブライアンのもとに、ニューヨークから嬉しい便りが届いた。
二人とも全力を出し切り、あとは結果を待つばかりになっているので余計に心は弾んだ。
久しぶりに寮でのんびりしながら、早速ブライアンの軽口が始まる。
「俺たちも偉業を成し遂げようとしてるけど、兄貴の奴、一足先にやってくれたな~」
手紙をひらひらさせて意味ありげに笑う相棒をつつき、アンソニーは先を急かす。
「ジェフ先生、何をやったんだい?」
「何をって・・・まあ、なんというか・・・レイチェルに手を出したのさ」
「はあ?」
わけのわからない説明にじれて、アンソニーは手紙を見せろとばかりに手を伸ばす。
「もっとわかりやすく言うとね、兄貴のせいでレイチェルは『これ』だぜ」
ウィンクした直後、ブライアンは思い切り腹を突き出して見せた。
「まさかそれって・・・」
露骨なジェスチャーのおかげで鈍感なアンソニーもようやく察知し、興奮気味に声を弾ませた。
「そうそう、そういうこと!秋には産まれるってさ。これで名実ともにレイチェルは兄貴のものになっちまったな。その昔、レイチェルに惚れられてたアンソニー・ブラウンとしては、ちょっと複雑なんじゃない?」
瞬間、アンソニーは口をとんがらせて、「そんなわけない!」とムキになって言い返した。
「ホントに?」
「当たり前さ」
サファイアの目はギラッと光ったが、相棒の軽口の中に一片の真実が潜んでいるのを否定できず、それ以上反論できなかった。
(確かにブライアンの言うとおりかもしれない。嬉しいはずなのに、心のどこかですきま風が吹いてる。この切なさは一体なんなんだろう?自分を見てくれていた優しい瞳が、とんでもないよそ見をしてるような気がして・・・。おかしなもんだな。僕は一度だって、レイチェルを「そういう対象」として見たことはなかったんだから、彼女が別の男性と幸せになるのは当然なのに)
窓から外をぼんやり眺める背中に哀愁を覚えたのか、ブライアンは心配そうに肩をポンと叩くと、今度は真顔で言った。
「仕方ないさ。女ってのは、暖かいねぐらを求めてはばたいていくんだよ。君もそれを願ってたろう?本気で愛してない限り、つなぎとめる権利はない。それも承知してたはずだろ?」
振り返ったアンソニーはぎこちなく口角を上げ、「勿論さ」と静かに笑った。
その頃ストラスフォードでは、大劇場での公演が始まり、役者たちは心地良い緊張感に包まれていた。
舞台がはねたあとも、連日、演技の再チェックに熱が入る。
まずかった箇所にメスを入れるべく、キャストとスタッフで熱心な意見交換がなされた。
ある程度練り直して、ようやく目途が立つと、一人二人と家路につく。
劇場のすぐ外は、夜がとっぷり更けたメインストリート。
一刻も早くアパートに帰って明日に備えようと、帰り仕度を整えるテリィの横でレイモンドがひっそりささやく。
「稽古に打ち込む気合いが違うのは、フィアンセがいるせいかな。今が幸せの絶頂でしょ?羨ましいですよ。ところで一つ、気になることがあるんですがね」
そこまで言って黙り込むと、レイモンドはからかうような、それでいて、今にも食いつきそうな目でテリィを見下ろした。
プルシアンブルーの虹彩が、妖しげな光を放って揺れる。
「あなた方二人は、一体いつになったら結婚するんですか?」
瞬間、体中に電流が流れた。
テリィの心臓は、ドクンドクンと大きな音を立て始める。
頭は靄(もや)がかかったように真っ白く煙り、耳元では鈍い旋律が不快な調べを奏で始めた。
(こいつ、痛いところをついてくる!一番触れられたくないことを、鋭い刃で切り裂こうとする。俺たちが微妙にすれ違ってきたことを、まるで実際に見て知ってるみたいに)
ひたすら不気味に思い、無意識のうちにレイモンドの横顔を凝視してしまった。
彼の指摘には、確かに一理ある。
盛大な婚約パーティーからそろそろ一年半が経つというのに、いまだに結婚しないでいるのを、外野は奇異の目で見始めていた。
恐らくレイモンドは、真相を聞き出したいのだろう。
下手に返答して、かえって命取りになったら厄介だと思い、だんまりを決め込んでいると、レイモンドは勝ち誇ったような視線を浴びせた。
「おや、青い顔してどうしました?もしかして気になることでも言っちゃいましたかね?」
唇の端を吊り上げ、不敵な薄笑いを浮かべると、軽く会釈してテリィの前を通り過ぎていった。
その後ろ姿には、ストラスフォードをしょって立つスターのオーラが溢れている。
事実、この男は美貌に一層の磨きをかけ、女性ファンの嬌声を一身に浴びているのだ。
氷のような視線を放つ青い目は、ブロンドの髪に縁取られ、憎らしいまでに魅力的な容姿を作り上げている。
悔しいが、若さという一点に絞れば、とてもかなわないとテリィは思う。
何年か前の自分なら対抗出来たろうが、今はもう・・・
やるせない思いで「敵」の背を見送りながら、先刻のセリフを反芻(はんすう)した。
──いつになったら結婚するんですか?──
(式を延期するのは今年いっぱいが限界だろうよ。それ以上は世間が許さない。そんなこと、重々承知してるさ。でも・・・)
頭の片隅に、二人の人物が浮かんでは消えた。
それはアンソニーとシェリル。
(キャンディは「あの男」と、そして俺は「彼女」と。もし、そんなことになったら・・・)
一瞬思い描いた甘美な夢を打ち消すように、テリィは頭を激しく振って自らをいさめた。
六月にしては珍しく爽やかな日曜日、ここオウバートン家では、ささやかなパーティーが催されていた。
この家の女主人であるレオノーラと娘のメイベルが発起人となり、三人の英雄の快挙を祝おうというのだ。
その三人とは──アンソニー、ブライアン、フェリシア──つい先日、ハーバード大学を卒業してめでたく国家試験にパスし、医師免許を取得した面々だ。
全員が一発で合格したことに、周囲は勿論のこと、当の本人たちが一番ホッとしたに違いない。
誰か一人でも涙をのむ者がいたとしたら、こんなお祭り騒ぎの気分になれるわけないからだ。
三人揃っての偉業を祝う側として、パティとティモシー ──彼は先日めでたく退院したばかりだ──が馳せ参じた。
パティとしては、心からのおめでとうを言いたいのは山々だったが、ブライアンにだけは、相変わらず素直になれなかった。
というのも、この前の一件──初めてのデイトで突然告白されたこと──から、まだそれほど日が経っていないからだ。
それでも彼女は大人の女性らしく、精一杯のポーカーフェイスで三人を祝福した。
「アンソニーにフェリシア・・・それにブライアン、本当におめでとう!これは私からの、ほんの気持ちよ」
そう言ってパティは、可愛いラッピングがほどこされた小箱をテーブルの上に置く。
リボンをほどくと、手作りのアップルパイとクッキーが、見るからにおいしそうな姿を現した。
食欲をそそる香りがあたり一面に広がり、皆の顔がほころぶ。
「おっ、めっちゃ美味そう!」
ブライアンは本能的に叫んだ。
「これ、全部君が?」
アンソニーは身を乗り出し、尊敬の眼差しをパティに注ぐ。
するとパティは、「ええ、まあ・・・」と小声で応え、恥ずかしそうにうつむいた。
「ホント羨ましいわ~。パティったら、普段はボーッとしてるくせに、いざっていうと、こういう芸当が出来るんですもの。それに引き換え私ときたら、女らしいことは、からっきしダメ」
ため息混じりにフェリシアがぼやくと、「いいってこと、いいってこと。君にはその明晰な頭脳があるじゃないか。女の身で医師免許を取るなんて、すごい芸当だと俺は思うね。それでこそフェリシア。あっぱれだよ」とブライアン。
「全くもって同感だね」とアンソニーがうなずくと、「私もそう思うわ」と、パティは一瞬チラッとブライアンに視線を投げ、すぐに目をそらした。
一方ティモシーはというと、さっきから「ある人物」に目が釘付けで、心ここにあらずの状態になっていた。
そのせいか、ほとんど口をきかなかったし、会話に参加していないようにさえ見える。
彼の視線の先に絶えずあったのは、メイベル。
彼女を初めて見た瞬間、まるで魔法にかかったように体が硬直し、頭のてっぺんから足の先まで電流が流れたようになって、まともではいられなくなったのだ。
誰はばかることなく、ティモシーは金髪の天使に見とれた。
男ばかりが雑居する砂漠のような進学校では、ついぞ味わったことのないオアシスを、彼は初めて経験したのだろう。
「おい!そんなにガン見するなよ。メイベルが気味悪がってるぞ」
たまりかねたブライアンが隣の席から足を伸ばし、テーブルの下にあるティモシーのかかとを軽く蹴った。
「え?」
それでようやく我に返ると、決まり悪そうに頭をかく。
間髪を入れず、天使はいぶかしげな視線を少年に投げ返した。
ブライアンが指摘したとおり、ティモシーのことを「気味の悪い奴」と思っているのだろう。
そのやり取りをさっきから面白おかしく観察していたアンソニーが、思いっきり茶化す。
「お姫様のご機嫌を損ねると、金輪際出入り禁止になっちゃうぞ」
聞いた途端、ティモシーは半泣きになった。
楽しい語らいの時はあっと言う間に過ぎ、そろそろお開きの時間がやってくる。
レオノーラは微笑みながら、改めて若者たちにねぎらいと祝福を述べた。
「皆さん、本当に良かったこと!今までの努力が報われたのですわ。これで一安心。お仕事の足場は固まったんですから、あとは沢山恋をして、運命の人を見つけて、人生の足場を固めてくださいな」
その言葉にそれぞれがドキッとして、意中の異性を思い浮かべた。
ブライアンはパティを。パティはステアを。ティモシーはメイベルを。メイベルはアンソニーを。フェリシアもアンソニーを。
そしてアンソニーは・・・手を伸ばしても、もう決して届かない人──はるかニューヨークで、テリィとの結婚を誓い合ったキャンディを想った。
「是非またいらしてくださいね。ろくなおもてなしは出来ませんけど、気持ちはいつでも皆さんを歓迎してますから」
そう言いながら見送ってくれるレオノーラの優しさが、場の雰囲気を明るく、温かくした。
太陽がすっかり西に傾き、オレンジ色のまぶしい光を地上に伸ばす頃、皆はエントランスから私道に向かって続く、長いバラの小道をゆっくり歩いた。
ブライアンはさりげなくパティの横に並び、ささやくように言う。
「この前はごめん。いきなりぶしつけなことを言っちまって。でも、あれはウソじゃないから」
瞬間、パティの心臓はドクンドクンと大きな音を立て始めた。
すぐ隣のブライアンは勿論のこと、アンソニーやフェリシアやティモシーにまで聞こえてしまいはしないかと、恥ずかしさに頬が真っ赤に染まる。
「大丈夫。気にしてないわ」
それ以上は言葉にならなかった。
帰っていく客人たちを見送りながら、玄関口でメイベルが切ない面持ちで立ち尽くしている。
アンソニーとフェリシアの仲が気になって仕方ないのだ。
レオノーラは慈愛に満ちた目で、そんな娘を黙って見守った。
(あなたの気持ち、いつの日かアンソニーに届くといいわね)
パティとフェリシアが連れ立ってそれぞれの寮へ引き上げた後、男ばかりが三人残された。
その途端、待ち構えていたようにティモシーが食いついてくる。
「あの~、メイベルのことなんですけど・・・。さっきの話では、ハーバード大の付属病院にリハビリしに行ってるってことですか?」
「そうだよ」
神妙な顔つきの少年が、どうやら一目ぼれしたらしいのを確信したアンソニーは、包み隠さずメイベルの病気について話してやった。
必ず彼女の味方になるはずと信頼してのことだ。
(あんな可愛くて、元気いっぱいに見えたのに・・・。そんなに苦しんでたのか)
心の底からかわいそうだと思い、なんとか病を治してやりたい衝動に駆られた。
経営学志望の自分には、およそ関係ない話のはずなのに、なぜかメイベルの病気が気になって仕方なかった。
「今日は歩き回る機会がなかったからわからなかったろうけど、彼女、歩くときに左足を引きずるんだ。それをひどく気にしてる。見てて痛々しいくらいにね。もしもこれから先、また会うチャンスがあったら、是非とも味方になってかばってやってほしい」
アンソニーの懇願に、「勿論です!」と二つ返事で応えるティモシーを見るなり、ブライアンが横から割り込む。
「全く、こいつときた日にゃあ、せっかくこれからいい子を紹介してやろうと思ってた矢先にフライングだもんな。まあいいさ。お前とメイベルは同い年だから気も合うだろうよ。これからいろんなチャンスが巡ってくる。頑張れよ、色男!」
ティモシーの顔がパッと輝き、やる気がみなぎってくる。
「もっとも彼女がご執心なのは、そこにいるアンソニー先生だけどな」
「ええーーっ!?」
有頂天になったのも束の間、間をおかずにお見舞いされたブライアンの衝撃発言に、天国から地獄に引きずり下ろされたティモシーは、それきり言葉を失った。
「冗談冗談。いつものことさ。ブライアンの言うことなんか、話半分に聞いとけ」というアンソニーのフォローも、まるで耳に入っていないようだった。
ティモシーをジョンストン校の寮へ送り届けた後、二人はやっと帰途に着いた。
街灯に照らして見ると、腕時計の針は九時を指している。
自転車を押しながらアンソニーがポツリと言う。
「さっきはパティといい雰囲気だったじゃないか」
「まあな」
我知らず、にやけてしまうブライアン。パティの様子がまんざらでもなかっのが、よほど嬉しいのだろう。
「実のところ、アンソニーには感謝してるんだ」
「なんで?」
「この前・・・ほら、俺がパティにこっぴどく振られた日さ。覚えてる?」
「うん」
「すっかり滅入って愚痴ったよな?『ステアを好きだったパティが許せない。どうして君は、テリィを好きになったキャンディを愛せるんだ?』って」
「覚えてるよ」
「そのとき言ってくれたことが、なんとなくわかる気がしてきた」
「僕が?なんて言ったっけ」
すっかり記憶から抜け落ちていたので、少々不安げに尋ねる。
「本気でパティが好きなら、驚くほど自然にステアを受け入れられるって」
「ああ・・・」
聞いた途端、アンソニーはばつが悪そうに頭をかく。
他人の口から言われると、なんてキザなセリフに聞こえるんだろう。
「最近思うんだ。俺はもしかしたら、ステアが好きなパティごと受け入れられるんじゃないか、それくらい彼女に惚れてるんじゃないかって」
いつもと違い、相棒が珍しく真顔で言うから、なぜだか妙に嬉しくなった。
「ホントに良かったよ。運命の相手が見つかってさ。これでやっとアマーリアは卒業だな。過去の恋を封印して、新しい人生をスタートできるってわけだ」
まるで他人事のようにサラッと言ってのけたアンソニーに、ブライアンはすかさず釘を刺す。
「人のこと分析してる場合か!君もいい加減に封印していいんじゃないか、キャンディへの想い」
瞬間、アンソニーの青い瞳は、いつにも増して大きく見開かれ、救いを求めるようにブライアンを見る。
親友の忠告はありがたかったが、胸にちくりと突き刺さったような気がした。
翌朝、アンソニーはローザの病室に向かった。
但し今度は学生ではなく、一人前の医者として。
卒業前に医学生の課程をすべて終え、めでたくジュニア・レジデント(研修医)に昇格した今、再びローザの担当になっているのだ。
以前は指導教授であるキルヒアイゼンの指示のもと、限られた医療行為しか行えなかったが今は違う。
ちゃんとした「担当医」の看板を背負い、自分の判断で医療を施すことを許されたのだ。
ついに念願のポジションにたどり着いたが、それに伴う責任は想像を絶するほど重かった。
ブライアンにしても同じこと。
彼は婦人科の病棟で患者を受け持ち、医師としての一歩を踏み出した。
アンソニーは、なんとしてでもローザの病を治したかった。
もし救えなかったら、医者になった意味など全くないとさえ思う。
たとえどんなに嫌われてもいい、今日こそは手術の承諾書に、是が非でもサインをもらう覚悟でやってきた。
ローザの病室に入ると、既に先客がいる。
後ろ姿が目に入ったが、どうやら若い娘のようだ。
「あれ?お客様ですか?」
おはようございますと言うのも忘れ、アンソニーは興味津々で客人を見つめた。
今までのローザの孤独を思うと、こうして見舞ってくれる人がいること自体、とても不思議に思えたから。
「娘なんですの。前にお話したことがありますでしょ?セーラムに娘が一人いるって」
「ああ・・・そうでしたね」
アンソニーはすぐに思い出し、微笑んだ。
「呼び寄せられたんですね?」
「ええ。先日手紙を書きましたら早速来てくれまして。私もまだ捨てたものじゃないと思いましたわ。こうしてわざわざ足を運んでくれるなんて」
恥ずかしそうに笑うと、うつむき加減になった。
「当たり前でしょ!ママの一大事なんですもの。駆けつけないなんて、私はそんなに冷たい娘じゃないわ」
そう言うと女性はゆっくり振り返り、挨拶をするつもりで、そばに立っているアンソニーをちらっと見た。
瞬間、褐色の瞳に衝撃が走り、「あっ・・・!?」と言ったきり絶句した。
予想どおりの反応を見ると、ローザはおかしそうにふふっと笑う。
「似てるでしょ?」
母の言葉が耳に入らないのか、娘はそれでも沈黙を続けている。
アンソニーだけがわけもわからず、ひたすらその場に立ち尽くした。
「ね?似てるでしょ?私も初めて見たとき驚いたわ」
もう一度ローザが言うと、アンソニーはたまらなくなって食いついた。
「あの・・・僕、何か失礼なことをしたでしょうか?だとしたらお詫びします」
「いいえ、誤解ですわ。先生は何も悪くありません。ただ、この子は驚いてるだけなんです」
益々わけがわからない。
狐につままれたように娘を見ると、やっとまともなリアクションが返ってきた。
「こちらこそ無礼をお許しください。申し遅れましたが、私は二コラと申します。いつも母がお世話になってまして。さっきはごめんなさい。あなたがあまりに兄と似てるんで、ついびっくりして・・・」
「お兄さんと?」
ようやく事態がのみ込めて安心したので、アンソニーは改めて娘を見た。
褐色の直毛を一つに結わえ、ごくごく薄化粧の二コラは、取り立てて言うほどの美貌は持ち合わせておらず、かわいそうなほど地味だった。
母親の華やかさに比べるとまるで対照的だが、人懐こい笑顔と優しげな物腰が、どことなくキャンディを思わせる。
そのせいか、アンソニーは一発で彼女を気に入った。
「僕はあなたのお兄さんに似てるんですか?」
「ええ、そっくり。母譲りのブロンドに、奇麗なブルーの目をしてるんです、兄たちは」
「たち?」
二コラの言葉尻をつかんですかさず聞き返す。
「兄たちって、お兄さんが何人かいるんですか?」
今度はローザのほうへ向き直り、答を引き出そうと躍起になる。
「僕の記憶では確か・・・イギリス貴族の養子になった息子さんが一人いるとおっしゃってたはずですが」
「あらママったら、そんなこと言ったの?」
いぶかしげな視線を送ってくる二コラを見て、もうダメだと観念したローザは、ばつが悪そうにアンソニーを見上げた。
そして、とつとつと申し開きを始める。
「先生、本当にごめんなさい。嘘はこれきりにしますね。実は息子は二人いるんです。双子なんです」
アンソニーは驚いて、大きな声で「えっ!?」と発した。
「双子の一人は、前にお話したとおり、イギリスの公爵家へ養子に出しました。きっと幸せに暮らしてると思いますわ。でも、もう一人は・・・」
そこまで言うと、言いにくそうに口をつぐんだ。
母の心中を思ったのか、二コラが代わりに先を続ける。
「もう一人の兄は、行方不明なんです」
更なる驚愕がアンソニーをとらえ、サファイアの瞳が大きく見開かれた。
「確か初めて聞いたとき、息子さんは死んだとおっしゃいましたよね?」
ローザは初め、息子は死んだと話していたが、次に訂正して養子に出したと言ったのだ。
なぜそんな嘘を重ねる必要があるのだろう。