「私にとっては死んだも同然だからです。あの子は私に愛想をつかして出て行ったんですわ。散々苦しめてしまいましたもの。母親らしいことなんか何もしてやれなかった。だから死んだと思い込むようにして、あの子のことを胸にしまいこんだんです」
衝撃の告白に、アンソニーは脳天をかち割られたような気がした。
ローザにそんな過去があったなんて・・・!
さぞや辛かったろう。我が子の行方がわからないなんて。
彼女自身には勿論のこと、行方知れずの息子に対しても憐憫の情が沸き起こってきた。
「あなたは自分を責めているんでしょうけど、息子さんは恨んでいないと思います」
意外な言葉に、思わずローザは顔を上げて「なぜですの?」と尋ねた。
「男だからわかるんです。たとえどんなふうに暮らしても、どんな辛い目に遭っても、男にとって母親というのは特別な存在なんですよ。いや、逆境にあるときこそ、尚更存在意義を持つんです。ましてやあなたは優しい人だ。息子さんの心の中で、いつまでもいとおしい象徴として生き続けてると思いますよ」
思いもよらない慰めにローザも二コラも顔を見合わせた。
「あの子・・・そんなふうに思ってくれてるんでしょうか。結婚前の過ちでもうけた息子たちだから、夫のマイケルは疎んじていたんです」
結婚前の過ち──
(どこぞの邸宅の執事と恋に落ちて、彼との間に産まれた子だって言ってたっけ)
アンソニーは以前聞いた話を思い出した。
「執事だったあの人は根っからの権威主義者で、息子のうち一人は、どうしても高貴な血筋と縁続きにさせたがったんです。それで、まだ幼かった次男を知り合いのコネでイギリスに」
「侯爵家へ?」
「はい。でも長男は私が手放しませんでした。どうしても手元で育てたかった。今思えば大変な間違いだったんですね。それはそれは貧しい暮らしで、かなりの無理をさせてしまいましたわ。でも何年かしたあとマイケルと知り合って結婚し、ここにいる二コラを産みました。娘は父親似なんです」
(そうか・・・二コラが産まれたあと、双子の長男は継父イジメをされたってわけか)
ローザを傷つけてはいけないと、アンソニーは口に出さずに妄想した。
「兄弟なのにあまりに境遇が違ってたわ。妹の私から見てもひどいと思うくらい。フランシス兄さんは、侯爵家で何不自由なく暮らしてるのに」
不遇の長兄に同情したのか、二コラは切ない目をしながらポツリと言った。
「フランシスっていうんですか?」
「ええ。イギリスへ行った二番目の兄です。で、もう一人は・・・」
言いかけたとき、ノックの音が響き、続いてドアが開かれた。
キルヒアイゼンが顔を出したのだ。
新米の研修医が患者とうまくやっているか、親心で様子を見に来たのだった。
ローザはアンソニーを絶賛し、心からの信頼を寄せていると言った。
「アンソニー先生には感謝してもしきれません。私を心配して何回も手術を勧めてくださいまして。だから私、決めましたの。ここにいる娘のためにも、先生を信じて手術を受けようって」
聞いた瞬間、アンソニーの顔が輝く。
「じゃあ、やっと決心してくれたんですね?」
「ええ、先生の一生懸命な姿を見ていて思いましたの。神様がお望みなら、私もまだ頑張らなきゃいけないって。だから娘に手紙を書いたんです。もう一度、家族の絆を取り戻そうって」
涙があふれそうになった。
これでローザを救える!母ローズマリーのように天に召されることなく、彼女はこれから先も娘のそばで生きていけるのだ。
アンソニーは心底安堵し、「ありがとうございます」と言いながら病床のローザの手を取った。
優しい笑顔が応える。
「それは私のセリフですわ。本当に、何もかも先生のお陰です。心から感謝します」
母に合わせるように二コラも深々と頭を下げた。
「さあ、これでなんの心配もなくなったわけだ。あとはオペに取りかかるだけ。医者になって初めての大仕事になるな。しっかり頼んだぞ、ドクター・ブラウン」
キルヒアイゼンの声に、アンソニーは身が引きしまる思いがした。
それから一週間後、キルヒアイゼンをリーダーとするチームが組まれ、アンソニーもそのメンバーに連なった。
そしてローザの手術は無事成功した。
七月、夏の訪れがニューヨークを活気づける頃、アルバートとアーチーは新しいクライアントと商談するため、揃ってシカゴからやってきた。
あわただしいスケジュールをこなしたあと、今夜の予定地に向けてリムジンに揺られている。
運転手はジョルジュ。そして向かっているのはキャンディと待ち合わせているレストラン。
久々の夕食を楽しもうというわけだ。
後部座席でくつろぎながら、アルバートは取引相手のビジネスカードに視線を落とす。
隣にはアーチー。
猛勉強が報われ、彼は早々にシカゴ大を卒業してMBA(経営学修士)を取得した上、超難関のCPA(米国公認会計士)の資格を、何回かのトライの末、やっと手に入れて優秀すぎる片腕になっていた。
実のところアルバートの片腕にしておくのはもったいないくらいのステータスを、アーチーは自らの努力で手にしたのだ。
それでも奢(おご)ることなく、地道に誠実に、アードレー家の総帥を支え続けた。
彼の献身にアルバートは心から感謝し、アーチーを信頼しきっていた。
「この男が取引相手になったときから、ずっと気になってしょうがないんだ」
尚も名刺を見続けるアルバートに、アーチーが「実は僕もなんですよ。その名前のせいでしょ?」とウィンクする。
「なんだ、君もか」
「勿論です。ウォルター・ヒューズ──この名前を見て思い出さないわけない」
アーチーは少しじれたように、整った眉を吊り上げた。
「そうだな。あのウォルターをね」
「そう、ウォルター・ウィルキンソン。うちの執事だったあの男」
その瞬間、西から注いでいた太陽の筋が翳(かげ)り、同時に二人の顔がさっと影になった。
「あれから何年経ちますかね。アンソニーのあの事故・・・きつね狩りから」
「そうだな、八年ってところか」
「もうそんなに・・・」
「全く、Time flies だよ」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
「それともう一つ、気になる名前があるんだ」
アルバートは内ポケットから別の名刺を取り出し、アーチーに手渡す。
「スタンレー・ピアソン」
アーチーは、そこに書かれている名を読み上げた。
「初めて見るな。この人も取引相手ですか?」
「ああ、さっきのウォルター・ヒューズの同僚だ」
「で、もう一つ気になる名前ってのが、このスタンレー?」
アルバートはうなずく。
「別に珍しい名前じゃないでしょう。『スタンレー』が何か?」
アーチーがいぶかしげな顔つきをすると、アルバートはおもむろに切り出した。
「実はね、いまわの際(きわ)に、あのウォルターが妙な名前を口にしたんだ。最後まで言わないうちに事切れたんだが」
「妙な名前?」
「スタンだよ」
「スタンっていうと、スタンレー?」
「だろうな」
「そんな名前の人物、アードレー家にいましたっけ?」
「だから妙なんだ。少なくとも僕はスタンなんて知らない」
「アルバートさんが知らないなら僕が知ってるわけないじゃないですか!」
アーチーは半ば呆れ顔で肩をすぼめた。
「残念ながらウォルターの声は最後まで聞き取れなかったから、はっきりスタンレーと決まったわけじゃないんだ。だけど今回、ウォルターとスタンレーという名のコンビと取引が決まってから急に引っかかり出しちゃってね。ウォルターが死ぬとき、スタンってつぶやいたのをはっきり思い出したんだ。もしかしたらウォルター・ウィルキンソンと関係がある、重要な人物なんじゃないかって気がして」
アルバートが神妙な顔つきで腕組みをすると、アーチーはいさめるように豪快に笑い出した。
「だとしてもですよ、もうウォルターはこの世にいないんだから、気にすることじゃないでしょう?」
「そうであってほしいんだけどね」
「考えすぎですよ!アルバートさんは疲れてるんだ。このところ働きづめだったから。今日はキャンディと一緒に美味いもんでも食べましょう。あの子の笑顔を見たら、取り越し苦労なんて吹き飛んじゃいますよ」
キャンディという名を聞いてアルバートはなんとなく気が楽になり、心にかかった薄靄(うすもや)が、少しだけ晴れていくような気がした。
キャンディに指定されたレストランに着いてリムジンから降りると、運転席のジョルジュをのぞき込んでアルバートは微笑んだ。
「今夜は自分たちで帰るから迎えは気にしなくていい」
「お心遣いありがとうございます。では戻らせていただきます」
忠実な部下は恭(うやうや)しく頭を下げ、車をゆっくり発進させた。
店のドアを開けて中に入ると、既にキャンディが奥の予約席に座っているのが見えた。
特別豪華ではない、こぢんまりした店内が趣味の良いアンティークで装飾されており、落ち着いた雰囲気を醸(かも)し出している。
客層は上品そうな人種ばかり。
さほど混んでもいず、かといって閑古鳥が鳴いているわけでもなく、丁度いい客の入りという感じだ。
何よりこの店の一番いいところは料理が絶品だそうで、キャンディとテリィが馴染みにしている、いわば「隠れ家」的な癒しの空間だった。
「アルバートさん、アーチー、こっちよ。早く早く!」
待ちきれずに急かす声が遠くから聞こえた。
二人の姿を認めるや、キャンディは立ち上がって嬉しそうに手招きしている。
「キャンディったらまるで子供だな。あんなにはしゃいで」
アーチーはやれやれという顔をしたが、その実、久しぶりの再会に胸を躍らせていたのだ。
なんせ去年エルロイが倒れたとき、シカゴで会って以来だから。
アルバートも同じに違いない。
だが次の瞬間、「招かれざる客」の姿を見つけ、アーチーの表情はみるみる曇った。
テリィが同席していたのだ。
──まさかあいつが一緒にいるなんて!聞いてないよ──
マリンブルーの瞳が不満げに揺れる。
「なんだテリィも来てくれたのか。なら丁度いい。今夜は一つ、みんなで楽しくやろうじゃないか」
席に着くなりアルバートが陽気に切り出したから、アーチーは益々ムッとした。
(テリィも来てくれて良かった──だって?冗談じゃない!人が良すぎるよ、アルバートさん。僕としては「よくも来たな、この野郎」って心境だけどね。せっかくキャンディとゆっくり話せると思ってたのに)
内なる声は胸の中で不協和音を奏でたが、アーチーも、もういい大人なのだ。
ましてや今は妻子ある身。
聖ポール学院でいがみあっていた頃とは違うんだよ、とでも言いたげに、努めて涼しい顔をして見せた。
「やあ、久しぶり。君とキャンディの婚約パーティー以来だった・・・な?元気そうじゃないか」
差し出された右手に応えながら、テリィも冷静に挨拶する。
「そっちこそすごい活躍だそうじゃないか。キャンディから聞いてるよ。それに子供が産まれたって?おめでとう!まさか君が一番乗りになるとはね」
息子のアレクシスが話題にのぼった途端、それまでの仏頂面はどこへやら、さすがのアーチーも気分が上向いた。
「ごめんなさい、急にテリィを連れてきちゃって。どうしても来たいって言うから・・・ね?」
確認するように、キャンディは隣のフィアンセをちらっと見た。
「そうなんです。僕のわがままで押しかけちゃって。でもせっかくの機会だから、僕らのこと・・・その・・・安心してもらいたくて」
伏目がちに言うテリィに、アルバートは「安心してもらいたいって?」と説明を促す。
「つまりその・・・この前、僕の不手際のせいで、キャンディを傷つけるようなゴシップを書かれてしまいまして」
決まり悪そうに切り出すと、勢い込んでアーチーが割り込んだ。
「ああ、あれだろ?君と相手役──えっと、シェリル?シェリルって言ったっけ?──その女優が君と・・・」
だが次の瞬間、ハッとして言葉をのみ込んだ。
なぜならキャンディの気持ちを考えたら気の毒すぎて続けられなくなってしまったからだ。「テリィとシェリルの仲が怪しい」だなんて。
「本当にすみません。迂闊(うかつ)でした。つまらないことで言葉尻をとらえられて。でもあんな記事、全部でたらめだ。真っ赤なウソです。予定通り、僕らはきちんと結婚しますから安心して欲しいと思って」
「つまりは申し開きだな」
茶化すようにアルバートがウィンクすると、テリィは益々ばつが悪そうな顔をした。
「君こそ安心したまえよ。まともに信じちゃいないから。記者連中ときたら面白おかしくしようと躍起になって、あることないこと書きまくるのさ。金になるなら誰を傷つけようがおかまいなし。そのくらいわかってるよ」
達観したアルバートは貫禄たっぷりに言ってのけた。
遅れをとってはいけないと、アーチーもすかさず便乗する。
「勿論僕だって心得てる。君を信じるよ、テリィ」
途端にキャンディの顔がパッと輝き、「良かった!アーチーがそう言ってくれるのが何より嬉しいわ。なんたって聖ポール学院では犬猿の仲だったものね」と舌を出した。
「そりゃ心外だな~。あれから何年経ったと思ってるんだい?僕らだって分別のつく大人になったんだぜ、なあ?」
妻帯者の風格を出そうとしたのか、上から目線でアーチーが同意を求めると、「まあそんなところだ」と、テリィはぎこちなく応じた。
それからは美味しい料理に舌鼓を打ちながら、とりとめもないおしゃべりが延々と続いた。
エルロイはすっかり元気になり、同時に口うるささも大復活したこと。
「ウィリアムはいつになったら結婚するのか」と、顔を合わせるたび矢の催促でかなり閉口していること。
アレクシスは日増しに成長して、可愛い盛りになっていること。
アニーは育児に没頭し、少しばかりアーチーがおざなりにされていること、などなど。
その話を聞いたときキャンディはびっくりした。
アニーがそんなにも子供にのめりこむなんて予想もしなかったから。
彼女にとってはいつもアーチーが「世界で一番」で、その座を揺るがすものなどありえないと思いこんでいた。
(変われば変わるもんだわ、大好きなアーチーより大切になっちゃうなんて。やっぱり子供ってすごい!)
そう実感したとき、ちょっとだけアーチーが気の毒になった。
「でね、大きな仕事がまとまりそうなんで、しばらくこっちに滞在することになったんだ。恐らく僕ら専用のオフィスを構えることになると思う。そしたらシカゴとニューヨークを行ったり来たりの生活だ。僕もアーチーも忙しくなるぞ」
コーンウェル夫妻のことを考え込んでいたキャンディは、アルバートの声で急に現実に引き戻された。
そして次の瞬間、あふれるほどの喜びが湧き上がってきた。
「アルバートさんとアーチーがそばにいてくれるなんて最高!こんな嬉しいことないわ」
尋常でないはしゃぎように、テリィは少しばかり嫉妬する。
「俺だってそばにいるのに、そんなに浮かれたことないじゃないか」
「あら、だってあなたがそばにいてくれるのは当たり前のことだもの」
キャンディが顔を赤らめると、アルバートがすかさずつっこむ。
「おーお、ごちそうさま。いつもそばにいてくれるテリィは、別に珍しくないもんな」
「まあ・・・そんなこと!」
「そうそう、そばにいるのが当然になっちゃうくらいラブラブなんだね」
アーチーまで冷やかし始めた。
これ以上酒の肴にされてはたまらないと、キャンディはたくみに話題を変える。
「ところでアーチー、これからしばらくアニーやアレクシスと離れて暮らすなんて辛くない?アニーはあなたが頼りだから、きっと淋しがるわ」
瞬間、今まで陽気に飲んでいたアーチーの顔が心なしか曇った。
「彼女はアレクシスにかかりっきりだから平気さ。僕がいようがいまいが、大して関係ないんじゃない?」
キャンディは驚き、「まさか!」と叫ぶ。
「アーチーがいない生活なんてアニーは考えられないはずよ。初めて会ったときから、あなたのこと好きで好きでたまらなかったんだもの。それは私が一番よく知ってるわ。想いがかなって結婚した白馬の王子様なのよ、アーチーは」
「へ~え、そりゃ初耳だ。そんな話があったのか。あんたもなかなか・・・すみに置けないね」
興味津々という顔つきでテリィが身を乗り出してきた。
「キャンディったら余計なこと言うなよ。それは昔の話さ」
「昔?じゃあ、今はどうだって言うの?」
アーチーがあまりに冷めた言い方をするので、キャンディはムッとしてやり返す。
「子供が産まれると変わるもんだ、女って。世界中の誰より、我が子が一番になっちまう。そりゃ当然さ、分身だもんな。そこいくと男なんて淋しいもんさ。全く・・・僕の協力がなかったらアレクシスは産まれてこなかったんだってこと、たまには思い出して欲しいよ」
ワインで酔いが回ったせいか、アーチーはポツリと本音を漏らした。
すかさず今度はアルバートが突っ込みを入れる。
「おいおい、それは露骨過ぎるセリフじゃないか?とりあえずこちらのお嬢さんは未婚のうら若き乙女なんだからな」
アーチーが「しまった!」という顔をして斜め前を見ると、テリィの隣でキャンディは真っ赤になっていた。
楽しい時間はあっという間に流れ、時計の針はもう11時を指していた。
そろそろお開きにしようということになり、アルバートが勘定書きを手に取る。
「あ!それはいけません。僕は押しかけた身ですから・・・。図々しいけど、割り勘で勘弁してもらえますか?」
テリィが内ポケットを探って財布を出そうとすると、アルバートはそれをさえぎった。
「今夜はおごらせてくれよ。君は娘婿になる大事な男じゃないか。ディナーくらいお安い御用さ。その代わり、キャンディをよろしく──よろしく頼む」
真正面から言われ、テリィはたじろいだ。
うわべの言葉は柔らかいが、青い瞳の奥から漏れ出る、刺すような視線を感じ、今まで味わったことのない摩訶不思議な気配に戸惑った。
火のように熱い、ギラギラした眼差し。心臓を射抜くような、挑戦的な眼差し。
これは一体なんなのだろう。
(アルバートさんが、こんなに激しい一面を見せるなんて!穏やかで器のデカい、温かい人とばかり思ってた)
それは彼の瞳の色がアンソニーのそれと酷似している上、容姿も限りなく似ているせいかもしれなかった。
炎のようなアンソニーの目が、そのままアルバートに乗り移ったような錯覚すら覚え、テリィは妄想に取りつかれた。
(もしも、もしもだ、アルバートさんがアンソニーと同じ感情をキャンディに抱いていたとしたら!)
今まで想像もしなかったが、そういう可能性がないとは言いきれない。
そう思った途端、テリィは恐怖で身がすくんだ。
この先自分たち二人の前に、アルバートがどんな形で存在するのか考えたくはなかった。
「キャンディは必ず幸せにします。たとえ僕の命に代えても」
少々オーバーだが、そのくらいの決意表明をしなければ気がすまなかった。
でないと近い将来、アルバートにキャンディをさらわれそうな気がしたから。
「いやだ~、テリィったら大げさよ。命に代えても・・・だなんて」
キャンディが照れ笑いするとアルバートはいつもの穏やかな目に戻って、「ホントだ。ちょっと大げさだな」と、小さく笑った。
会計が済んで店の外に出ても、まだ通りは賑やかだった。
ほろ酔い気分になり、すっかり気が大きくなったアーチーは、自分から右手を差し出してテリィに握手を求める。
「今日はすごい収穫だったよ。初めて君とまともに話せて良かった。案外いい奴だったんだな。こんなことなら聖ポール学院でも仲良くしとくんだった」
「それはこっちのセリフさ」
テリィもなつこい笑みを浮かべた。
「近いうちにまたこんな機会を持てるといいな。出来れば次はサシで飲みたい」
「そりゃ光栄だ。是非とも!」
アーチーがテリィを誘ったのは単なる気まぐれからではなかった。
さっき「命に代えてもキャンディを幸せにします」と言ったときの目が、なんだかとても苦しそうで、痛々しくて、ひどく気になったのだ。
それは100パーセントの恋心から出た誓い文句ではなく、義務や責任といった悲壮めいた感情が半分を占めている気さえした。
それはまるでアニーに対する自分の気持ち。
妻や息子を愛しながら、心のどこかで常にキャンディを引きずっている自分のように思えてならなかった。
(テリィ・・・君の中には本当のところ誰が住み着いているんだい?僕の勘が正しければ、それはキャンディじゃないだろう?彼女以外の一体誰が、心をいっぱいに占めているんだ)
考えれば考えるほど、知りたくなった。
「ねえ、アーチーったら聞いてるの?」
ハッと我に返ると、真横でキャンディが目を三角にしている。
「え?なに?」
「もう~、やあね!さっきからずっと『アニーとはうまくいってるんでしょ?』って聞いてるのに」
「ああ、ごめん。ついボーッとしちゃって」
「今夜は飲みすぎよ。アニーとアレクシスがいないからって羽目を外しちゃダメじゃない。シカゴにいる奥様に言いつけちゃうわよ!」
本気で突っかかってくるキャンディが可愛くもあり、少しばかりお節介にも思えた。
「もしかして、さっきのこと気にしてる?アニーがアレクシスばかり構うから面白くないって言ったこと」
「当たり前でしょ!あなたが自分の息子に嫉妬してるんじゃないかと本気で心配してるのよ」
「まさか~。アレクシスは僕の天使だし、アニーは最高の奥さんさ。だから心配なんかいらないよ」
キャンディの目線までかがみこむと、「ね?」と言いながら緑の瞳にウィンクした。
「よろしい!そういうことなら大いにけっこう」
目の前にアーチーの顔が迫ってちょっとドキッとしたキャンディは、照れ隠しにわざと大きな声を出す。
そんなやり取りを、アルバートもテリィも微笑んで見つめた。
アルバートとアーチーがホテルに引き上げたあと、人影が途絶えた路地裏でテリィはキャンディをそっと抱きしめた。
二人を照らすのは月明かりだけ。
ワインがほのかに香る広い胸の中で、キャンディは優しい声を聞いた。
「さっきあの二人の前で誓った言葉は嘘じゃない。結婚のこと安心してていいよ」
思わず顔を上げ、「ホント?」と確かめる。
「勿論さ。クリスマスまでには式を挙げよう」
キャンディは目をキラキラさせてうなずくと、心の中でそっとささやいた。
(いよいよなんだわ。もう迷っちゃダメ!テリィだけを信じてついていくの、これからの長い人生を。だからさよなら、私の初恋)
テリィも心に誓った。
(これ以上立ち止まってちゃいけない。俺がやるべきなのは前に進むことだけ。よそ見は無しだ。一切無しだ。アンソニーのためにも、俺は絶対キャンディを幸せにする!)
拳をギュッと握りしめ、テリィは深く息を吸い込んだ。
ちょうど同じ頃、真っ暗な部屋で燭台(しょくだい)の灯りに照らされ、レイモンドが手紙をしたためていた。
宛名は──アンジェラの継父、そしてフェリシアの実父である、シャルヴィ家総帥、パトリック・シャルヴィ。
「さて、いよいよか。今まで大金をつぎ込んで探偵に調査させたんだ。そろそろ機は熟したろう。シャルヴィを焚きつけるときがついにやってきたんだ。これから面白くなるぞ!先ずはパトリックがどう出るかだ。ゆっくり高みの見物といくか」
悲劇の幕が、まさに切って落とされようとしている。
プルシアンブルーの瞳は、これ以上ないほど妖しく光って揺れた。
八月。シカゴの郊外に居を構えるシャルヴィ邸。
長年にわたって覇権争いを繰り広げているフランス移民だけあって、邸宅の豪華さはアードレー家に引けをとらなかった。
今朝は夫婦だけで顔を付き合わせ、ずっとリビングにこもりきりだ。
夫パトリックの手には差出人のない手紙が握られており、妻のジャクリーンは鬼の首を取ったように目をギラギラさせている。
それほどまでも、手紙の内容は衝撃的なものだったから。
アードレー家執事のウォルター・ウィルキンソンが二度もアンソニーを殺そうとしたこと、その陰謀のせいで彼は死んだことにされ、地元の有力紙に死亡記事が掲載されたこと、後にアンソニーはアンジェラと恋仲になり、ひいてはそれが彼女の自殺につながったこと、今は妹のフェリシアがアンソニーに恋焦がれていること──どれもこれもがアードレー家に揺さぶりをかけるのに、おあつらえ向きの材料ばかりだった。
よくもまあここまでシャルヴィ家に都合よく揃えてくれたと思わざるを得ないほど。
「アンジェラはともかく、私の実子であるフェリシアにまで手を出していたとはな。アンソニーとやら、どう始末をつけてくれようか」
愛娘を穢(けが)されたと早合点したパトリックは、ワナワナと肩を震わせた。
「今に見てるがいい。新聞社を煽(あお)って全部記事にしてやる!そうすればあの若造ともどもアードレー家は一巻の終わりだ」
「ちょっと待ってください。それには及びませんわ」
興奮する夫をなだめるように口を挟むジャクリーン。
シャルヴィ家をここまでにのし上がらせた陰の立役者であり、たちの悪い黒幕だ。
「先ずはアンソニーが生きていることだけ情報を入れるのです。あとのことは伏せておいて、アードレー家と直接交渉するときの切り札に使いましょう」
豹のような鋭い目がギラッと光った。
「何か考えでもあるのか?」
「勿論ですわ。誰だか知らないけれど、ご丁寧にこんな沢山のゴシップを提供してくれて。アードレー家に恨みでもあるのかしら?いずれにせよ、感謝しなくちゃいけませんわね。差し当たり、本当に信頼できる情報なのか、きっちり調べをいれませんと」
「いつもながらぬかりないな、お前という女は」
パトリックが苦笑すると、ジャクリーンは口角をつり上げた。
「なにしろ私はシャルヴィ家をシカゴ一、いえ、世界一の大富豪にするため、わざわざヨークシャーから嫁いできたんですもの。千載一遇の好機、逃してなるものですか!」
それから二週間後、新聞に掲載された記事を受け、社交界は騒然となった。
その内容は、「アードレー家総帥の甥に当たるアンソニー・エドワード・ブラウン──八年前のきつね狩りで死亡したことになっている──が、実は生存していた」というもの。
シカゴ・トリビューン、ニューヨーク・タイムズ、ボストン・グローブ──いずれも地元の有力紙で取り上げられたのだが、なぜこの三都市に限って記事になったのか全くの謎だった。
シカゴ、ニューヨーク、ボストンは、すべてアンソニーが深く関わっている地域ばかり。
まるで彼の交友関係を知り尽くしているかのような、気味の悪い現象だ。
しかもニュースソースは「匿名」。
一体誰がシャルヴィ家に情報を提供したのか皆目見当がつかなかった。
新聞を読んだ誰もが度肝を抜かれた。
アンソニーがアードレー家出身であることを初めて知ったメイベルとレオノーラ親子、キルヒアイゼンやジェンセンといった病院関係者、ティモシー、ローザの驚きは一様ではない。
それに、「なぜ今頃アンソニーの件がほじくり返されるのか」についても不気味だった。
キャンディもアルバートもブライアンも・・・アーチー、パティ、フェリシア、ジェフリー、モニカ、クリストファー、レイチェル・・・皆が頭を抱えた。そして心からアンソニーを案じた。
恋敵のテリィまでも、だ。
だが一番ショックを受け、恐怖すら感じて記事を読んだのはローザだったかもしれない。
──誰かが悪意を持ってアンソニーを、ひいてはアードレー家をおとしいれようとしている──
ニューヨークのオフィスで記事を読みながら、アルバートは最悪のシナリオを思い描いていた。
「なあアーチー、ここまで来たらもう放っておけまい。確かにウォルターはこの世にいないけど、明らかに別の人間が罠をしかけてる」
「同感ですね。去年の夏、アンソニーが暴漢に襲われたのだって、恐らく『奴』の仕業に違いない」
「甘かった・・・。あのとき素早く行動すべきだったんだ。安易な気持ちでやり過ごして、僕はとんでもない間違いを犯してしまったのかもしれない」
「大丈夫。これからだって十分間に合いますよ」
向かい側のデスクで新聞を広げているアーチーは、アルバートをかばうように穏やかな声で応じた。
「大事なのはこれからです。いよいよ調べをいれるときが来たんですよ、スタンレーって人物に」
「いや、『スタンレー』にこだわらないほうがいいと思う。もしかして名前を変えてる可能性だってあるし」
「さすが!鋭いですね~」
アルバートの深い読みに、アーチーはパチンと指を鳴らした。
「探偵を使おうか。警察に頼ると大事(おおごと)になりそうだし」
「僕も賛成です。事を大きくしたらアンソニーが益々不利になる」
「とにかく一刻を争うのは間違いないな。ぐずぐずしてると、またアンソニーの身に危険が及ぶかもしれない」
「それだけは御免こうむりますよ」
苦々しい表情を浮かべ、アーチーは紙面の端をクシャッと握りしめた。
注)アメリカでは1919年から1933年まで禁酒法(Prohibition)が施行され、消費のためのアルコールの製造 、販売、輸送が全面的に禁止されていましたが、拙作はしがないファンフィクなので、大目に見て頂けると幸いです。
以降、何度か酒場のシーンが登場しますが断り書きは載せません。
ご了承くださいませm(__)m