伝えたいことを話し終え、すっきりした心持ちで外へ出ると、すっかり夜が更けていた。
思いのほか長居したことを悟り、アーチーは申し訳なさそうに言う。
「ちょっと誘ったつもりだったのに、こんな遅くまでつき合わせちまった。悪かったな、大事な舞台を控えてるのに」
「気にするなよ。丁度いい具合にアルコールが回ったから今夜はぐっすり眠れそうだ」
「そいつは良かった」
安堵したその途端、なれなれしく近づいてくる女連れの若い男が目に入った。
テリィを見るなり、小馬鹿にしたような口調で男は切り出す。
「これはこれは。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
どこかで見た顔だとアーチーは直観したが、誰なのか、すぐには思い出せない。
「それはこっちの台詞さ。いいのかい?ストラスフォードのトップスターが堂々とデートなんかして」
ストラスフォードのトップスター ──テリィがそう言っているのを聞き、ようやく思い出した。
この男はグラビアの写真で見た俳優だ!
途端、シカゴの本宅で聞いた話がよみがえってくる。
(そうか、こいつがレイモンドとかいう若造か。ジェフリーとレイチェルの結婚パーティーのとき、アンソニーとキャンディを冷やかしに来たってアルバートさんが言ってたっけ)
「僕はあなたと違って遊び方がうまいですからね。間違っても自分で恋人の存在を公表したりするようなヘマはしません」
キャンディと婚約したことを愚弄され、はらわたが煮えくり返ったがグッとおさえ、テリィは別れの挨拶をしぼり出す。
「それは賢明だな。まあ、せいぜい有効に遊んでくれたまえよ。独身貴族でいられる貴重な時間」
「勿論そのつもりです。ところで、そちらのお連れは?」
レイモンドはアーチーをチラッと見て尋ねた。
「君に言う必要はないだろう」
「そりゃそうですよね。これは失礼を」
品定めでもするように、もう一度アーチーを見たあと、「もしかしてアードレー家の方では?」と言ってニヤリとする。
その目があまりに妖しかったので、アーチーは背筋がぞくっとするのを感じた。
次の瞬間、店の扉が開き、何人かの客が外へ出てきた。
店内からの灯(あか)りが漏れ、その場がパッと明るくなる。
レイモンドの目の色が鮮明に浮き上がる。
それを見た瞬間、アーチーは思わず「あ!」と言いそうになった。
あまりに似ていたのだ。ウォルターの青い目に。
他人の空似にしては似すぎている。
見れば見るほどウォルターを思い出し、薄気味悪いほどだ。
(こいつの目の輝き、どこかで見た気がしてたんだ。そうだ、ウォルターだ。あの青い目に、射抜くような視線に似てるんだ)
アーチーは呆然としたまま何も言い返せずに立ち尽くした。
テリィとアーチーが酒を酌み交わした同じ頃、キャンディはシェリルと道でばったり出会い、近くのカフェでコーヒーをすすっていた。
男二人が連れ立って飲みに行ったのでシェリルは一人で家路を急いでいたところ、仕事帰りのキャンディに出くわしたのだ。
照明に照らされた明るい店内でシェリルの美しさは一際目立ち、何人かの客が気がついて振り返ったりした。
「前からお茶に誘おうと思ってたのになかなかチャンスがなくて。ついに今日になっちゃったわ。でも良かった、キャンディと話せて」
シェリルはなつこい笑みを浮かべ、気さくに話してくれる。
「私こそ!いつもテリィがお世話になってるから、ちゃんとご挨拶したいと思ってたのよ」
「まあまあ、早くも良妻ぶりを発揮ね。私もテリィにはいろいろお世話になってるから、おあいこよ」
「いろいろ世話になっている」というくだりに反応したのか、一瞬キャンディの顔が曇った気がした。
だからすかさずウィンクして、「でも心配しないで。あくまで共演者として協力し合ってるだけ。いいお芝居をするためにね」とフォローするのを忘れなかった。
「わかってるわ。私、信じてるもの」
そう言ったあと、小さなため息が漏れた。
「どうしたの?いつも元気なキャンディらしくないわね。今日は会ったときからそんな調子。何かあった?」
「実は・・・ちょっと悩んでることがあって」
「何かしら。私で良ければ話を聞くわよ」
思い切って相談してみようかと迷った。
アンソニーのことでどんなに悩んでいるか、眠れないほど心配していることを打ち明けようかと思ったが、すんでのところで呑み込んだ。
それをシェリルに話してどうなる?
彼女にまでアンソニーへの想いを知られてしまったら、テリィの立場はどうなるだろう。
喉まで出かかった言葉を理性の力で押しとどめた。
「なんでもないのよ。すごくくだらないことだから。ね?気にしないで」
「ダメよ!ダメダメ。そこまで言いかけたんなら白状なさい。黙ったままだとテリィに言いつけちゃうわよ。キャンディがすごく悩んでるみたいだから、なんとかしてあげなさいって」
「そ、それは一番困るわ!」
「あらどうして?彼に聞かれちゃ困ること?なら、余計に言いなさい。今すぐここでね。そうすればスッキリするわ」
そこまで言われては、ぶちまけるしかない。
それにシェリルの優しい眼差しを見ていたら、本物の姉に気づかわれているような気がして胸の内をさらしたくなった。
「何を話しても私のこと軽蔑しない?」
「するもんですか。誓って約束するわ」
「ホントに?」
「勿論よ」
キャンディは覚悟を決め、背筋を伸ばしてホーッと長い息をついた。
「アンソニー・ブラウンっていう、古くからの友人がいるの。出会ってもう八年以上が経つかしら」
それを聞いた途端にシェリルは目を輝かせ、「あら、その人なら知ってるわよ。彼・・・確かそんな名前だったわ。私の記憶に間違いなければ」
「え?」
キャンディは驚いて目を白黒させる。
「どうしてアンソニーを知ってるの?」
甲高い声が響きわたり、周りのテーブルの客たちが、もの珍しそうな視線を投げてきた。
「しまった!」という表情を浮かべ、キャンディは申し訳なさそうに下を向く。
「あれは去年の夏だったと思うわ。ストラスフォードがボストン公演に行ったときのことよ。彼、私たちの楽屋に来てくれたの。ううん、正確に言うと押しかけてきたのね。テリィにはっぱをかけるために。二人が何をしゃべったのか詳しいことは知らないけど、アンソニーったら一目でわかるほど興奮して、つっかかってたわ、テリィに」
「まあ!」
意外な事件に呆れてしまい、キャンディは口をあんぐりあけた。
「そんなことがあったなんて知らなかった。テリィもアンソニーも全然教えてくれないんですもの」
「でしょうね。活を入れられたテリィは、ばつが悪くて言いたくないでしょうし、アンソニーだってあなたに心配かけたくないから黙ってると思うわ」
*(「活を入れる」について→私も「喝を入れる」だと思っていたんですが、正しくは「活を入れる」だそうです。
こちら をご参照ください。指摘してくださったお客様、ありがとうございましたm(__)m)
キャンディは視線を宙に泳がせたあと、何かを考え込むように唇を噛んだ。
「素敵な人だわね、アンソニー。ブロンドで奇麗なサファイアの目をしてて。あの真っ直ぐな瞳を見たら誰にでもすぐわかるわ、彼があなたのこと大好きだって」
そう言ったあと少し間を置き、シェリルはキャンディをのぞき込んだ。
「もしかして・・・あなたも?」
瞬間、胸がざわっとした。
とにかく否定しなければと、あわてて口が動き出す。
「ま、まさか!だって考えてもみてよ、私にはテリィがいるのよ」
理性が辛うじてそう言わせたが、感情はキャンディを裏切り、熱病に冒されたように顔が火照った。
「彼、とても心配してたわよ、あなたたち二人のこと。幸せになって欲しいって何度も言ってた。なかなか出来ることじゃないわよね?恋敵にエールを送るなんて」
そんなに気づかってくれていたなんて、それを初めて知り、嬉しさと切なさに胸が張り裂けそうになる。
「そういう人なのよ、アンソニーって。優しいけど、本当はすごく強い人」
「よくわかるわ。自信があるからこそ優しくなれるの。太い芯が一本通ってなければ、本物の優しさなんて生まれてこないのよ。だから彼なら一人でも生きていけるかもしれない。でもね、テリィは逆よ。一見自信家で挑戦的に見えるけど、それは脆さの裏返しなの。繊細で傷つきやすくて淋しがり屋で、いつも温かい愛に飢えてる人だわ」
キャンディは舌を巻いた。
二人の男性をこれほど冷静に分析するなんて、自分には絶対出来ないと思った。
出会ってまだ日が浅いのに、(アンソニーに至っては、いくらもしゃべっていないだろう)、すっかり性格を見抜いてしまったシェリルの洞察力に脱帽した。
「すごすぎるわ!どう考えたって私より付き合いが浅いのに、なんでそんなにわかるの?」
「そりゃあちょっぴりお姉さんですもの、キャンディよりは」
「ううん、ちょっぴりなんかじゃない、全然、全くお姉さんだわ」
「じゃあそのお姉さんが本気でアドバイスしたいんだけど、いい?」
いきなり言われて少し身構えたが、「ええ、勿論よ」とキャンディは笑った。
「勘違いじゃなければいいんだけど・・・あなたのアンソニーに対する気持ち、わかってるつもりよ」
これまた「どうしてわかるの?」と言いたそうなキャンディ。
そのリアクションを予想でもしていたかのようにシェリルは微笑む。
「あなたもアンソニーと同じ。正直者で嘘がつけないのね、すぐ顔に出るタイプよ。だからわかっちゃう、どんなに隠そうとしても」
「えへっ、や~だシェリルったら」
キャンディは赤くなってペロッと舌を出す。
「これまで周りにいろんなお説教をされたと思うわ。『テリィという婚約者がいるのにアンソニーを好きになるなんておかしい』とかって。確かにそうよ、理屈ではね。でも仕方ないじゃない?好きなんだもの。その気持ちだけはどうすることも出来ないわ。だったら前に進むしかない。ウジウジ考え込んでても無駄よ」
今まで誰もそんなことを言ってくれたためしがないので正直驚いたし、そんなふうに思うこと自体、罪深いのではと不安になったが、本心では嬉しかった。
「でもね、そのとき大切なのはテリィに包み隠さず打ち明けること、あなたの本当の気持ちを。彼を傷つけちゃいけないと思ってうやむやにするのが一番いけないわ。テリィに失礼よ。悪者になる覚悟がないならアンソニーを愛すべきじゃない。二人に『いい子ちゃん』でいようとするのは、アンソニーにとってもテリィにとっても、最低の女になっちゃうのよ。それだけはダメ。キャンディらしくないわ」
太すぎる杭(くい)を心臓に突き立てられた気がしたが、次の瞬間、それこそがシェリルの優しさだと実感した。
言いにくいことを真正面からぶつけてくれた勇気に心から感謝できた。
彼女はなんて大きな器の持ち主なんだろう。
潔くて正直で、どれだけ「男前」なんだろう。
ある種の爽やかささえ感じ、心底ありがとうと言えた。
衝撃的な新聞記事が掲載されてから三日後の午後、ようやく少しだけ騒ぎが収まって外出できるようになったので、アンソニーは仕事に復帰した。
外来患者の診察をこなし、病棟をまわる日々が戻ってきた。
リハビリに来ているメイベルのことがずっと気になっていたので、真っ先に会いに行こうと決めた。
たまたまティモシーも同じ時間帯に通院するはずだから、二人に会うためリハビリ室に向かう。
久しぶりに顔を合わせ、にぎやかな午後になった。
「アンソニー先生がお金持ちの御曹司だったなんてホントにびっくりしたわ。ママも腰を抜かしてたし」
「僕だって!先生も人が悪いな~。アードレー家のこと、全然話してくれなかったじゃないですか」
口をとんがらせて突っかかってくる二人をなだめるのに一苦労だ。
「ごめんごめん。だまそうとしたわけじゃないんだ。いろいろ大人の事情があって、どうしても言えなかった。許してくれるかい?」
そこまで言われたら二人とも引き下がるしかない。
それ以上拗(す)ねるのをやめて笑顔を作った。
「僕たちに出来ることならなんでも協力します。だから遠慮しないで言ってください」
「ホントよ。先生のピンチに力を貸せるなら、こんな嬉しいことはないもの」
そろって真剣な眼差しなのでアンソニーは感動し、少し声を震わせながら礼を言う。
「感激だよ。二人からそう言ってもらえるとはね。年下に心配かけるなんて、僕はつくづくだらしない奴だなぁ。でも君たちの優しい心、絶対忘れないよ。僕にとっては大切な弟と妹だ。これから先、困ったことがあったらいつでもおいで。相談に乗るから」
ティモシーは興奮気味に「先生がいつも心にかけてくれるから、是非とも恩返ししたいんじゃないですか」と身を乗り出す。
だがそれとは対照的に、メイベルは少し淋しげに見えた。
「ありがとう、先生」としか言わず、病棟へ引き上げるアンソニーの後ろ姿を、黙ってずっと追いかけていた。
「どうしたの?さっきから元気ないみたいだけど」
アンソニーが仕事に戻っていき、周りにいた患者たちも三三五五いなくなって二人きりになったリハビリ室で、ティモシーが心配そうに言う。
「別に。なんでもないわ」
言葉少なに応えたあと、帰り支度をするため、メイベルはくるりと背を向けた。
左足を引きずりながらロッカールームへ歩いていく。
「良かったら送ってくよ。一人で帰るより安心だろ?」
「大丈夫よ。正面玄関まで行けばショーファーが待ってるの。だからあなたの助けは要らないわ」
「でも足が・・・」
「足のことは言わないで!」
彼女が急に大きな声を出したから、ティモシーは一瞬ビクッとなった。
「『かわいそうな子』って思ってるんでしょ?そんなの、かえって迷惑だわ」
エメラルドの目は少しだけ潤んでいる。
その涙の意味がわからず、ティモシーの心は揺れ動く。
いつもは男ばかりのガリ勉集団の中にいるから、女の子の涙なんか見たことはない。
こんなとき何を言っていいのやら、慰めの言葉がさっぱり浮かばず、うろたえた。
一方メイベルは、気のきかない「坊や」にイラつき、自分だけの世界に入り込んでいく。
(ああ、早く一人になりたい!そして思い切り泣きたいわ。だって先生ったら、私のこと妹だって・・・。わかってたのよ、そんなふうにしか見てくれてないって)
「もしかしてアンソニー先生のこと、何か気にしてる?」
絶妙のタイミングで無神経な台詞が耳元で響いた瞬間、メイベルの怒りは頂点に達した。
「どうしてそんなこと聞くの?何も知らないくせに、いい加減なこと言わないでよ。あなたなんか大嫌い!」
大粒の真珠が、いくすじも頬を伝ってこぼれ落ちた。
自分が決定打を打ち込んでしまったことにやっと気づき、ティモシーはいよいよ焦りまくる。
「ごめん。僕、男子校なんで女の子に慣れてないんだ。ごめん、ホントにごめん!」
「いいのよ。ほっといて」
無視して立ち去ろうとするメイベルは、まだ左足を引きずっている。
「ダメだよ、ほっとけない。だって辛そうだからさ。足も・・・心も。だから僕が支える。迷惑だろうけど支えるから」
「同情ならたくさんよ!」
振り返った彼女の瞳には、まだ涙がいっぱいあふれている。
「同情なんかじゃない。ただ僕は・・・気になって仕方ないんだ、君のこと」
そう言うなり大股で歩いて、あっという間にメイベルの真ん前に立った。
そして感情のおもむくくまま、彼女を抱き寄せる。
ちょっと冷静に考えれば信じられないくらい大胆なことをしているのに、今のティモシーには考える余裕すらない。
それほどメイベルに対する気持ちは、一途で情熱的だった。
あまりに突然の出来事に、小さな叫び声が「あっ!」と上がる。
抵抗する間もなかったので、気づいたら広い胸の中にすっぽり包まれていた。
初めて感じる男の子の鼓動。
かすかに漂う、爽やかなシャボンの香り。
同年代の男子にこんなことをされた経験などないから少しだけ怖かったが、それはすぐに消えた。
次の瞬間感じたのは、胸のときめき。
ドクンドクン、ドクンドクン。
規則的な響きが不思議なメロディーを奏で始める。
(いつだったか、アンソニー先生とダンスしたときも抱き寄せられたわ。あのときもすごくドキドキした。だけどこれとは違う。もっと優しくてさりげなかった。でも今は・・・すごく熱いわ。息をするのが苦しいくらい。なんなのかしら、この気持ち)
それは奇妙な感覚だった。
さっきまであれほどティモシーを避けていたのに、不思議と嫌な気はしなかった。
「足、絶対良くなるよ。自由に歩いたり、思い切り走ったり出来るように僕が治してあげるから」
「バカね!お医者様でもないのにそんなこと出来るわけないでしょ?」
ティモシーがささやいた言葉がおかしくて、メイベルはふふっと笑う。
「なら、医者になる!それで君の足が治せるなら、頑張って医者になるよ」
あまりに真顔なので、思わず「本気で言ってるの?」と言ってしまった。
「勿論さ。医者になってみせる、絶対に!約束するよ」
(もしかして運命だったんだ。死にそうだった僕をアンソニー先生が救ってくれて、あれからすべてが始まった気がする。先生のそばにいていろんな話を聞いたり、医療に打ち込んでる真剣な姿を見てるうちに、どんどん憧れが深まっていったんだ。そして足の悪いメイベルを好きになったのが最後の決め手だったと思う。今はもう経営の勉強なんてどうでもいい。父さんの期待には応えられないけど、必死で説得してわかってもらうしかないさ)
「あの・・・ごめんなさい。苦しいわ。ちょっとでいいから緩めてくださらない?」
恥ずかしそうな声が真下から聞こえる。
ティモシーはそのとき初めて、メイベルをきつくきつく抱きしめていたことに気づいた。
顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「ご、ごめん!」
「変な人ね・・・あなたって」
くすっと笑う彼女があまりに愛らしかったので、鼻先をかすめるブロンドの巻き毛をそっと撫でる。
「次のリハビリ、いつ?」
「毎週この曜日に来てるわ」
「また会えるかな」
「足を治してくれるならね」
「勿論さ!」
「ならOKよ」
天使の微笑みに完全にノックアウトされ、ティモシーは夢見心地でエメラルドの瞳を見つめた。
病棟のナースステーションに戻ったアンソニーを待っていたのはパティ。
彼女も心配してわざわざ様子を見に来てくれたのだ。
顔を見るなり、「大丈夫?大変な騒ぎになっちゃって災難だったわね」と心からの同情を寄せた。
「忙しいのにありがとう。君にまで迷惑かけて申し訳ないよ」と恐縮すると、「気にしないで。あなたの苦労に比べたらなんてことないもの。それに様子を教えてあげなきゃいけないと思って。きっと眠れないほど気にしてるわよ、彼女」
そこまで言って、「しまった!」という顔をするパティ。あとの祭りだ。
だが意外にもアンソニーの反応は鈍い。
連日の疲れが出たせいか、パティがなんのことを言っているのかさっぱりわからないのだ。
「彼女って誰?」
はぐらかすのは無理だと悟るとパティはばつが悪そうに、「キャンディよ。あなたのこと、すごく心配してるの」とつぶやく。
瞬間、アンソニーはハッとしたような顔つきになる。
サファイアの瞳に複雑な色が浮かび、しばらく何かを考え込むような仕草をしたが、邪念を振り払うように頭を二度三度振った。
ひととおり会話がすんだ頃、ノックの音が聞こえ、ブライアンとティモシーが入ってきた。
「ナースステーションの前でウロウロしてたから拾って来てやったんだ。なあ、坊や」
子供扱いされてちょっとばかり腹を立てながらも、「連れて来てもらってありがとうございます」と礼を言い、ティモシーはアンソニーのほうへ向いた。
開口一番、飛び出したのは、「先生、僕、決めました。医者になります!」のひとこと。
その場にいた三人は「ええーっ!?」と、ほぼ同時に叫んだ。
「ちょっと待ってくれ。さっきリハビリ室で会ったばかりじゃないか。あのときはそんなこと全然言わなかったのに一体どうしたんだ?」
弟分の爆弾発言に翻弄され、アンソニーは目を白黒させる。
自分は先にリハビリ室を出て仕事に戻ったが、そのあと若い二人が残り、何か会話があったはずだ。
何をしゃべったのだろう。
気になって仕方ないから突っ込みを入れる。
「メイベルとどんな話をしたんだい」
「え?そ、そりゃまあ・・・」
口ごもっていたら「あら、メイベルと一緒だったの?」と、パティが身を乗り出してくる。
好奇心たっぷりの有閑マダムみたいに。
「そうなんだよな?一緒だったんだろ?」
アンソニーがニヤッと笑うと、ブライアンの冷やかしが追い討ちをかける。
「さては彼女と何かあったな?」
「な、何もありませんよ。誓って何もなかったです」
「そうやって否定するところが益々怪しい」
真っ赤になったティモシーの額には、うっすら汗がにじみ始めた。
メイベルを抱きしめたことなんかがバレたら、どんな「お仕置き」をされるかわかったもんじゃない。
うっかり口を滑らせないように細心の注意を払わなければ・・・本能的にそう悟った。
「ホントに何もしてませんってば」
「当たり前だ!あの子を泣かすようなことをしてみろ、ただじゃおかない」
アンソニーは冗談めかして言ったつもりだが、16歳の純な少年はすっかり真に受けてしまい、「よくわかってます。でも僕を信じてください。お願いですから」と、わけのわからない申し開きをした。
「バカだな~、本気にする奴があるか。メイベルには友達が必要なんだ。ティムが仲良くしてくれたら安心なんだけどな。それに医者になること、僕は大賛成だよ」
「ホントですか?」
「勿論さ。進路のことで迷ってた君があんなに堂々と宣言したんだから、これこそが本物だよ。今の気持ちを大切にな」
決意表明をすんなり受け入れてもらえたことが嬉しくて、茶色い瞳が潤んでくる。
「本当を言うと、昨日や今日、思いついたわけじゃないんです。アンソニー先生に命を救ってもらってからずっとずっと憧れて、医学に惹かれるようになってました。だってすごいじゃないですか!本当ならダメになる運命の人を救い上げて、もう一度生きるチャンスを与えてやれるんですよ。だから医者は神様と同じ力を、ううん、もしかしたらもっと大きな力を持ってるのかもしれない。僕も誰かを助けたいんだ。アンソニー先生やブライアン先生を見ていて強く思いました」
「そういうことなら全面的に応援するぜ。お前ならきっといい医者になる。頑張れよ」
ブライアンの大きな手が背中を優しく押してくれた。
「ありがとうございます。一生懸命勉強して早く一人前になって、メイベルの足を治してやりたいです」
目を輝かせて帰っていく少年を見送りながら、アンソニーとブライアンは顔を見合わせ、同時に言う。
「やっぱり動機はメイベルか」
「あら、いいことだと思うわ。きっかけはどうあれ、彼なら親身なお医者様になりそうだもの」とパティは微笑む。
アンソニーは懐かしそうな目をして、窓の外に広がる夏空を見上げた。
「さっきのティム、八年前の僕にそっくりだったよ。『医者になりたいんです』ってジェフ先生に初めて告白したとき、きっとあんなふうにキラキラしてたんだろうな」
「目に浮かぶよ。熱い眼差しの『アンソニー坊や』がさ」
そう言ってブライアンも、外の景色をまぶしそうに見つめた。
それから三人の楽しいおしゃべりが続いたが、しばらくすると「回診の時間だから」と言って、アンソニーが出て行った。
はて、こんな時間に回診などあったかと不審に思ったが、よくよく考えたら、気をきかせてくれたのだとわかった。
パティと二人きりにするための粋な計らいだったのだ。
恋愛不器用なアンソニーにしては上出来だと、ブライアンは一人で悦に入る。
とはいえ、今日のルーティーンを終えて同僚たちが部屋に戻ってきたので、いつまでも話し込んでいるわけにはいかない。
回りくどいことは言わず、のっけからパティに直球を投げた。
「怒られるのを承知で言うけど、本当はすぐにでも君を誘いたいんだ」
途端、パティの頬がたちまち桜色に染まる。
「ステアのことで傷つけちゃったしね。あのときはホントにごめん。ちゃんと仕切り直すから、出来れば許して欲しいんだけど・・・」
遠慮がちに見つめると、間髪を入れず、真剣な声が返ってきた。
「ううん、私のほうこそ興奮しちゃって。悪かったわ」
他に言葉をつなごうとするのだが、それが精一杯。
「良かった!お許しが出てホッとしたよ」
「あらいやだ。私はそんなにコワイ女じゃないわ」
パティが苦笑すると、ブライアンもつられて笑う。
「君も知ってるとおり、今はアンソニーの用心棒で手一杯だけど、落ち着いたら必ず時間を作る。そしたら美味いものでも食べに行こう。おごるからさ」
「まあステキ!食べるの大好きよ」
「だろ?その体型を見れば、言われなくてもわかるよ」
面白そうに言うブライアンに、「もぉ~、意地悪なんだから!」とパティは口をとんがらせた。
舞台の初日が無事に終わり、その反省を兼ねたスタッフ・ミーティングがすんで、団員たちが引き上げたあと、テリィは部屋に残って新聞記事の切り抜きを読んでいた。
片隅に置かれた丸椅子に腰かけ、ひっそりと。
その記事とは、勿論アンソニーの一件だ。
帰ろうとしていたシェリルは、テリィに気づいて近寄ってきた。
記事のヘッドラインに目を走らせると、「彼、大変なことになったわね」と切り出す。
「そういえば君もアンソニーに会ったことがあったな」
「ええ、一回だけど。ボストン公演のとき」
テリィは一瞬何かを考えるふうをして、ポツリと続けた。
「あのとき、今にも食いついてきそうな激しい目をしてたな、あいつ」
「そうだわね。初対面の私にすらわかったわ。殺気立ってるって」
「全く・・・暑苦しい男だよ、キャンディのこととなると」
「そうなの?」
シェリルがとぼけると、思い出したようにテリィが反応する。
「そうそう、この前キャンディと一緒だったんだって?」
「早耳ね~。もう聞いたの?」
「当然!俺たちの間に秘密は存在しないのさ」
「まあまあ、それはごちそうさま」
「冗談はともかく、あいつ、喜んでたよ。君とお茶できて」
「私もよ。そのうち誘いたいって、ずーっと思ってたから。で、何か言ってた?彼女」
「いや、別に。君にこそ、何か言ってた?」
「ううん、特には」
キャンディが「核心に迫るようなこと」を言い出したかどうか──「私、やっぱりアンソニーが好き!だからボストンへ行きます」などという爆弾発言が飛び出したかどうか、互いに気になってカマをかけたが、どうやら何事も起きていないようだった。
それがわかってホッとして、他愛ない会話に移ろうとした矢先だ。
とっくに帰ったと思っていたレイモンドが急に部屋へ入ってきた。
何が嬉しいのか、気味の悪い薄笑いを浮かべながら。
なんのために戻ってきたのだろう。
テリィもシェリルも不安げに顔を見合わせる。
プルシアンブルーの妖しい瞳と目が合った途端、二人の背筋にゾクッと悪寒が走った。