リムジンで本宅に戻る最中、アンソニーは始終うなだれていた。
自分が結婚してやらないせいでフェリシアは医者をあきらめ、しかも大嫌いなクラクストン公爵に嫁がねばならない。
こんな不条理があるだろうか。
考えれば考えるほど責任を感じ、袋小路にはまっていく。
そんな様子に気づいたアルバートは、甥の右手に自分の手を重ね、ギュッと握りしめた。
「君が何を考えてるかよく分かるよ。けどね、今しなきゃいけないのは自分の身を守ること。そして自分の幸せを一番に考えることだ。そのほうがかえって辛いのは百も承知さ。でもフェリシアのために、あえてそうしなきゃいけない。でないと、彼女の決意が無駄になる。違うかい?」
「だけどそのせいで、彼女は望みもしない結婚をしなきゃいけないんです。医者としてのキャリアをあきらめてまで」
「それはフェリシア自身が選んだ答えだ。君に責任はない」
アーチーも同意し、深くうなずく。
二人に説得されればされるほど、自分が卑怯者に思え、益々深みにはまっていく気がする。
思えばアンジェラのときもそうだった。
「君に責任はない」とブライアンは何度も言ってくれたが、言われるほどに追いつめられ、彼女が死んだのは自分のせいだと思えて仕方なかった。
そして今度は妹のフェリシアが犠牲になろうとしている。
一生を棒に振ってシャルヴィ家のために殉ずる彼女と引き換えに、自分は医者の身分も、好きなように生きていく自由も保障されるのだ。
そんなことが許されるわけがない。
アンジェラだって許してはくれないだろう。
言いようのない胸苦しさを覚え、アンソニーは頭を抱え込んだ。
「フェリシアは亡くなったアンジェラに瓜二つなんです。だから・・・だから、今度こそ不幸にはしたくない。絶対に!」
たまりかねたアーチーが、うなだれた肩を抱き起こす。
「だからって二人は別人さ。フェリシアは君が愛したアンジェラじゃない。彼女に義理立てする必要はないし、そんなに自分を追い込むなんて馬鹿げてる」
「そのとおり」
アルバートはもう一度甥を見すえると、こんこんと諭(さと)した。
「人生には自分の意志ではどうにもならないことが沢山ある。きつね狩りからこっち、君だっていやというほど思い知らされたろう?今回また一つそういう経験が増えるってだけの話さ。だから気にするな」
救いを求めるかのように、アンソニーは二人の顔を交互に見つめる。
四つの青い瞳には深い憐憫(れんびん)が満ちあふれていた。
本宅に着くなり、用意してあった荷物をまとめると、アーチーはもう一度リムジンに乗り込もうとしていた。
仕事が立て込んでいるのでこのまま駅に向かい、今夜の汽車でニューヨークへ発つのだ。
妻子に別れの挨拶もそこそこに、彼は忙しく動き回る。
だがアルバートは総長としての責任もあるし、アンソニーが心配なので、もうしばらくシカゴにとどまることにした。
別れ際、アーチーはアンソニーに、急ぎ耳打ちする。
「いいか、絶対早まるなよ」
「え?」
「『フェリシアと結婚します』とか言い出すな、ってこと!」
あまりに真剣な眼差しで言うから、返す言葉がない。
「さっきはアルバートさんも一緒だったからおおっぴらに言えなかったんだけど、実は伝えておきたいことがあるんだ。ニューヨークから戻ったら話すから、それまでおとなしくしててくれよ」
思わせぶりな台詞に耐えられず、アーチーの腕を引っ張り、「話ってなんだよ」とせっつく。
「だから帰ったら話すって。ニ、三分で済む話じゃないからさ」
「もしかしてキャンディのこと?」
「まあ・・・そんなところだ」
瞬間、胸がざわついた。
アーチーは何を伝えようとしているんだろう。
キャンディの一体何を知っているんだろう。
フェリシアを案じているくせに、キャンディの名を聞くと他のすべてがどうでもよくなってしまうほど、深い未練に縛られているのを思い知らされ、愕然とした。
一刻も早く話を聞きたいのに、今はお預けにされてしまい、じれったい思いを持て余しながらニューヨークへ戻っていくアーチーを見送った。
一方、アードレー家の三人が引き上げたあと、シャルヴィ夫妻はしたり顔で祝杯を挙げていた。
「筋書きどおり、うまいこといきましたわね。それにしてもあのアンソニーって男、顔立ちがエドワードそっくりで驚きました」
「お前もか。実は私もだ。新聞に出ていた写真以上に似ていて気味が悪いほどだった。アンジェラと結婚できなかった恨みつらみを、今頃ぶちまけに来たのかと思ったくらいだ」
「まあオーバーな!でもアンソニーが予想以上に真面目人間で、こっちにとっては好都合でしたわ」
「だが果たして我々が思うように動いてくれるだろうか。土壇場で見捨てられたら、フェリシアはクラクストン公爵と結婚することになる。そうなれば、アードレー家と縁戚になる計画は水の泡だ」
パトリックが一抹の不安を口にすると、女豹の瞳がギラッと光った。
「大丈夫。彼が放っておくはずありません。今もアンジェラが死んだことに責任を感じてるんですよ。そっくりな妹を見殺しに出来るはずない。賭けてもいいですわ、アンソニーは必ずフェリシアと婚約します。よしんば裏切ったとしても・・・」
褐色の虹彩が、いやらしげに夫の顔をなぞる。
「それでもフェリシアは幸せになれますわ。なんと言っても嫁ぎ先はイギリスの公爵家ですもの。幸いあちらもアメリカの富豪と縁続きになる話に乗り気ですし。クラクストン公爵の正体を知ったとき、フェリシアがどんな顔をするか、今から楽しみですわ」
「確かに」
夫妻は意味ありげな視線を絡ませ、不敵な笑いを浮かべた。
シカゴで大騒動が起きている同じ頃、キャンディはニューヨークに残ったまま、歯がゆい日々を過ごしていた。
モニカやジェフリーがいくらなだめても上の空。
仕事でミスを連発してしまうほど、アンソニーへの思いで心乱れていた。
そんな折、ついこの前シェリルに諭(さと)されたことを思い出す。
──アンソニーが好きなら素直になるべきよ。大切なのはテリィに誠意を尽くすこと。嘘をついたままそばにいちゃいけないわ──
(本当にそう。そうだわよね?私がしなきゃいけないのは、テリィに気持ちの迷いを打ち明けること。たとえそれで彼を傷つけることになろうと。どんなに恨まれたって仕方ないのよ。すべて話してわかってもらうしかない!)
キャンディは勇気を奮い起こし、テリィのアパートに向かった。
「シンベリン」の舞台は大盛況のうちに一日一日が終わっていき、千秋楽が間近に迫っていた。
今日は久々の休演日だから、テリィは自室でワインを片手にくつろいでいる。
酒精が張り詰めた神経を緩ませたのか、久しぶりに舞台以外のことを考えた。
真っ先に浮かんだのはキャンディの笑顔。
それにつられるように、シェリルの姿も脳内に広がった。
俺はどう動くべきなんだ?
キャンディが「あいつ」を案じて何も手につかなくなってることくらい、分かりすぎるほど分かってる。
それに、今俺の心を占めてるのは、もしかしてキャンディじゃない人物かもしれない。
認めるのが怖くて長い間考えないようにしてきたけど、ここらが潮時なんじゃないか。
なあ、テリュース・グレアム・・・お前は一体、誰に惚れてるんだ?
ワインを持つ手が震えたので、テーブルの上にグラスを置く。
深いため息が漏れた。
薄暗い迷路にはまり込んだ気がして苦しくなり、頭を抱え込む。
誰に惚れてるかって?──もう答えは出てるさ。
じゃあ、なぜキャンディの手を離してやらないんだ。
どうして「あいつ」のところに行かせてやらないんだ?
瞬間、アーチーの言葉が頭の中で鳴り響く。
──本気で惚れてる女の手を取るのは、今をおいて他にない──
greenish blue の瞳がカッと見開いた。
それはまるで、雷に打たれたかのような衝撃。
返してやろう、キャンディを。アンソニーの元へ。
それこそが、俺の愛の証しなんだ!
テリィは跳ねるように椅子から立ち上がり、今が夜半だということも忘れて外へ飛び出そうとした。
今すぐキャンディに会って、背中を押してやりたかった。
だが鍵を開けようとした瞬間、チャイムが鳴った。
ドアの外に人の気配がする。
誰だろうと思って開けると、そこに立っていたのはキャンディ。
「いや・・・これはなんていう偶然だ!俺も今から君のところへ行こうと思ってたんだ」
微笑みかけるテリィ。
だが切羽詰まった彼女に笑い返す余裕はなく、エメラルドの瞳は既に潤んでいる。
「話があるの。こんな時間に迷惑だと思ったけど、どうしても今話さずにいられなくて」
言い終わった途端、涙が頬を滑り落ちた。
「丁度良かった。まあ入れよ。俺も話があるんだ」
涙のわけは、今更言われなくても分かっている。
言いにくいことを言わせて、益々キャンディを追いつめたくはない。
(君はついに心の内のすべてを打ち明けるつもりなんだね?「アンソニーが好き・・・だから、ごめんなさい」とでも切り出すのかい?)
今にも倒れそうな細い体を支え、ソファーに座らせる。
真横に自分も腰を下ろし、そっとそばかす顔をのぞき込んだ。
「何も言わなくていい。言いにくいことは胸の中にしまっとけよ。俺は全部分かってるつもりだから」
「テリィ?」
きょとんと見上げる無邪気な顔にウィンクを返す。
「っていうか、はっきり言われたらやっぱりショックだよ。だから言わずにいてくれ、今から君が言おうとしてること」
(その代わり俺も言わないでおく。君を思うのと同じくらいに、いや、もしかしてそれ以上に、好きな女がいるってこと)
(テリィ、やっぱりあなたは気づいてたのね?私がアンソニーを忘れられないこと)
互いに無言のまま、それぞれの胸の奥で静かに思った。
口に出さない分、それは余計に切なく迫ったろう。
とうとうと流れる沈黙は、二人に起こった感情の変化を言葉より雄弁に伝えていた。
「行ってこいよ、アンソニーのところへ。俺に遠慮はいらない。行って、気の済むまで力になってやれ。きっと今あいつが一番必要としてるのはキャンディだろうから」
長い長い静けさを破り、テリィの凛とした声がその場の空気を揺らした。
「許してくれるの?」
「勿論さ。だけど行ったきりは無しだぜ。どんな形でもいい、一回はここへ帰って来いよ。でないと、君とあいつがどういうことになったのか、分からずじまいになっちまう」
おどけて笑うと、「まあ、テリィったら」とキャンディもつられて笑った。
張りつめた空気が一挙に和らいで、二人の間に初めて優しい風が流れた。
急いで休暇届を出し、モニカやジェフリーの理解ももらって、翌朝キャンディは始発列車でシカゴに発った。
一番味方してほしかったテリィに背中を押してもらい、もう怖いものなど何もない。
あとはアンソニーのそばにいてあげるだけ。
自分に出来るすべてのことをして彼を守りたいと、心の底から思った。
シャルヴィ夫妻からフェリシアと結婚するように迫られたその夜、アンソニーは一睡も出来なかった。
浮かんでくるのはそばかすの笑顔ばかり。
バラの門で初めて会ったとき、まだあどけない少女だったキャンディは目を真っ赤にして泣いていた。
なぜか視線をそらすことが出来なくて、たまらず声をかけた。
──泣かないで、ベイビー ──
その途端、少女は急に笑顔になったのだ。
周りを明るく照らし、まろやかに溶かすような、はじけんばかりの笑顔。
あんなに生き生きした女の子を見たのは、生まれて初めてだった。
「君は笑った顔のほうがかわいいよ」
自分で言ったくせに、今度もまた泣かせることになるのか──そう思うと、胸の奥がズキズキ痛む。
それとも何が起ころうと動じないくらい、今はもう、テリィだけを愛しているのだろうか。
淡い初恋など奇麗さっぱり忘れて。
それはそれで切ない。身を切られる思いだ。
だけれど、辛いのが自分一人りなら、それが一番いいことなんだ──そう思って無理に納得しようとした。
いずれにせよ、フェリシアを見捨てるわけにはいかない。
アンジェラと瓜二つの彼女を不幸にしたら、もう一度アンジェラを奈落に突き落とすような気がする。
それに去年の夏、シカゴのアードレー家で、芝居だったとはいえ、フェリシアに対して許されない失態を犯したのだ。
自分たちは恋人同士──キャンディにそう思いこませるため、無理やり口づけた。
それがフェリシアのファーストキスだったとも知らずに。
あのとき自分は彼女にはっきり言った。「この借りは、いつかきっと返すから」と。
今こそが、その、「いつか」だ。
彼女を助けられるのは自分しかいないし、しかも助けるなら今をおいて他にない。
ゆっくり時間をかけて考え、それからアクションを起こすのでは遅いのだ。
フェリシアは望まない結婚をさせられてしまう。
考えれば考えるほど深みにはまり、眠れない夜が明けようとしていた。
翌朝、朝食の席でアルバートと顔を合わせた。
赤く充血した目を見るなり、「さては一睡も出来なかったな」と叔父の第一声。
ばつの悪そうな照れ笑いがそれに続く。
「昨日も言ったろう。どうにもならないことを悩んでも仕方ないって。あさってにはアーチーが戻ってくる。そうしたら本格的に話を詰めるから安心しろ」
「話?なんのことです」
「バクスター・コーポレーション との取引を、シャルヴィ家に譲渡する話だよ」
聞くなり、興奮気味の甲高い叫び声がとどろく。
「だってあれは長年苦労してやっと取った契約じゃないですか!ダメですよ、そんなこと。僕のせいでアードレー家の事業が暗礁に乗り上げるなんて悪夢だ」
半泣きになった甥の肩をつかむと、アルバートは真顔で諭す。
「事業なんかいくらでもやり直しがきく。でも君の人生は一度しかない。やり直しはきかないんだ」
「じゃあフェリシアはどうなるんです?彼女の人生だって一度しかない。なのに、好きでもない男と結婚させられ、キャリアもあきらめなきゃならない──最悪だ。僕なら気が狂うでしょう。冗談抜きで」
さすがのアルバートもこれには一切反論できなかった。
確かに甥の言うとおりだ。
アンソニーがなんとかしてやらない限り、シャルヴィ家はクラクストン公爵との結婚話を強引に進めそうな雰囲気だったから。
「僕なら大丈夫。フェリシアとの結婚を忌み嫌うほど彼女を嫌いじゃありませんよ。それに医者だって続けられるし」
無理して作った笑顔が見ていて痛々しい。
「でもキャンディのことは・・・まだ忘れられないんじゃないか?」
「それこそどうにもならないことなんです。だから悩んでも仕方ない。彼女はきっと幸せになります。テリィとはうまくいってるんでしょ?」
アルバートは、ちょっと前に会食したときのことを持ち出した。
「ニューヨークで集まる機会があったんだけど、そのときテリィが言ってた。『キャンディを必ず幸せにします。僕の命に代えても』って。アーチーも証人だよ」
「じゃあ、なんの心配もいらないじゃないですか。テリィはああ見えて一途な真面目人間ですからね。二言はないでしょう。キャンディだって彼を信じてついていくはずだ。二人は絶対幸せになります。あとは僕が身を引けばいいだけの話だ。だから丁度いいんですよ、今回の結婚話は。仮にキャンディの心が揺れていたとしたら、今度こそあきらめがつくいいチャンスだ」
乾いた笑みが満面を埋め尽くし、憂いに満ちた瞳がアルバートの胸を突き刺した。
シャルヴィ家本宅に着くなり、待ち構えていたように夫妻が出迎えた。
アンソニーとアルバートが早々に出向いてくるのを予想していたかのように、迅速な対応だった。
術中におちいったかと思わないではなかったが、今更どうあがこうがすべて無駄に思える。
何者かがシャルヴィ家に数々の情報を流したときからこうなる運命だったのだろう。
条件として提示されたとおり、アンソニーがフェリシアを花嫁とする代わりに両家の対立を解消し、円満に事業提携することが約束された。
「二人が婚約することを、早々に報道してもらわないといけませんわね」
ジャクリーンは喜々として、マスコミにトップニュースを流した。
応接室を出て長い廊下を歩き、召し使いたちがかしずく中、執事と思しき人物から丁重な挨拶を受けたあと、アンソニーとアルバートは屋敷を出た。
目の前には緑の木立が広がり、無数の豪勢なバラとアーチが訪問客を正門へといざなう。
立ち止まってその景色を見つめる。
どちらからともなく深いため息が漏れた。
「これでいいのか?本当に」
「もう言わない約束でしょ。賽(さい)は投げられたんだ。どうあがこうが、敷かれたレールの上を歩いていくしかないんです」
アンソニーが唇を噛みしめたその瞬間、屋敷のほうから誰かが走ってくる足音が聞こえた。
初めはかなり遠くに響いていたが、たちまちけたたましい音に変わり、間近に迫ってきた。
何事かと振り返ると、追ってきたのはフェリシアだった。
呼吸が乱れ、そのせいで肩が大きく上下し、ほつれた後れ毛が風になびいている。
「聞いたわよ。どうしてこんなことするの?犠牲になるのは私一人で十分なはずだわ」
見開かれたエメラルドの瞳に夏の太陽が差し込んでギラギラ燃えている。
いや、ギラギラしているのではない。控えめに輝いていると表現したほうが正確だろう。
もしかして泣いているのか。
腹をくくったアンソニーは、動じた様子も見せずに落ち着いた声で尋ねる。
「じゃあ聞くよ。犠牲になるのがどうして君なんだ。何も悪いことしてないのに」
射抜くような眼差しで見つめられ、フェリシアは金縛りにあったように動くことも答えることも出来なかった。
「正直、こんなに早く婚約するなんて思ってもみなかったけど、悪い気はしないよ。君と一緒になること」
サファイアの瞳は穏やかな色をたたえてそう言った。
「でもあなたには好きな人がいるわ。彼女はどうするの?」
「どうもしない。だってキャンディにはもうフィアンセがいる。二人は必ず幸せになるさ。僕の役目はとっくに終わったよ」
「だから?だから私と婚約するの?それはキャンディへの腹いせかしら」
それがよほど気に触ったのだろう、今までとは一転してアンソニーの顔が瞬時に曇った。
「そんな理由で婚約するような、さもしい男だと思われてたならショックだよ。僕は君を尊敬してるし大切に思ってる。それに何より感謝してる。だから婚約するんだ」
「感謝ってどういうこと?」
「覚えてるかな。去年の夏、アードレー家でさ、僕は無理やり君にキスした。キャンディの目の前で。いくら芝居とはいえ、とんでもないことをしちゃったんだ。ホント、謝って済む話じゃない。でも君は何も言わずに許してくれた」
口づけされたときの甘い感触がまざまざと蘇り、胸がドキドキ高鳴る。
恥ずかしい、はしたない。
アンソニーやアルバートに、こんな動揺している姿を気取られたくなくて、フェリシアはギュッと手を握りしめた。
「あのとき誓ったんだ。この借りはいつか必ず返すって。今がそのときなんだよ」
「そんなの大したことじゃないわ。忘れていいのよ。それに分かってる。あなたが見てるのは私じゃない。私にそっくりなアンジェラ姉さんよ」
言い切った瞬間、耐えられなくなって大粒の涙が頬を滑り落ちた。
初めて見るフェリシアの哀しい涙。
恐らくそれは、彼女の中に「女」を見た初めての瞬間だったかもしれない。
アルバートもハッと息を呑んだ。
「否定はしないよ。君の言うとおりかもしれない。キャンディに対してだって、まだ未練がいっぱいだ。でも、君を放っておけないのも本心なんだ。いろんなことを心の中で整理して、君とだけ向き合うには、きっと時間がかかるだろう。でも前を向いて歩いて行きたいんだ。フェリシアと一緒なら、いや、君とだからこそ、出来る気がする」
誠意を尽くし、自分と歩いてくれようとするアンソニーに涙がこぼれた。
その優しさと男らしさに、骨の髄まで魅入られた。
たとえそれがめくるめく恋愛感情でなくてもいい。
一生愛されずともいい。
ただそばに彼がいてくれさえすれば、それだけで幸せと思えた。
── アンソニー、あなたが好きよ ──
心の声は激しく叫ぶのに、口には出来ないじれったさ。
代わりに、あとからあとから涙がこぼれた。
たまらなくなったアンソニーは静かに歩み寄り、華奢(きゃしゃ)な肩にそっと手を置いた。
それは単なる憐憫かもしれない。
だが、彼女のために何かしてやらなければいられなかった。
「イギリスの公爵と僕・・・君はどっちを選ぶの?」
いたわるような声が耳元をかすめた。
アードレー家に戻る車の中で、アルバートはずっと目を閉じ、フェリシアの涙を思い出していた。
第一印象は美人で気丈な娘だと思った。
優しい心根の持ち主であることは十分伝わってきたが、同時に、固い壁のような感触──男を寄せつけない、バリアみたいなものを感じた。
彼女の一体どこから、そういう空気が流れてくるのだろう。
「いつか聞いた気がするんだが、フェリシアはアンジェラの恋人が好きだったんだっけ?」
「ええ。さすがに記憶力がいいですね、アードレー家の総長殿は。この分ならシャルヴィと手を結んだあともお家は安泰」
「からかうなよ」
甥の額をちょんとつつき、苦笑いする。
「それに君自身だって、元はといえばアンジェラの想い人だ。偶然とはいえ、好きになる男が重なるもんだな、あの姉妹は」
「僕が想い人だなんて、おこがましいです」
甥が顔を赤らめると、「事実なんだからしょうがない。今更照れっこなしだ」とアルバートはウィンクした。
「しかし・・・姉妹で同じ男を二度まで好きになるなんて、ある意味気の毒だ。フェリシアは」
「顔が似てると男の好みまで似るんですかね」
「そんなに似てるのかい?アンジェラとフェリシア」
「そりゃあもう。何を隠そう、僕も間違えましたから」
「そこまで似てて、フェリシアに恋愛感情を抱かないのか?アンジェラとは違って」
「そうなんです、自分でも不思議でしたよ。こんなに面差しが似てるのに、どうしてフェリシアに恋しないんだろうって。最近ようやく分かってきましたけど」
「っていうと?」
「雰囲気です。彼女の全身から漂う雰囲気がアンジェラとは全然違ってる」
「ほお・・・」
「アンジェラを見てると守ってやりたいって思うんですけど、フェリシアは違う。別に僕が守らなくても、彼女は一人でやっていけそうに思える」
「つまり簡単に言うと、女としてのセックスアピールを感じないってことかな」
フェリシアに悪いと思ったのか、アンソニーは「ははは」と笑うだけで答えはしなかった。
「そういえば、初めて会ったときに言ってました。男性が自分を見るとき、よく言われること── 一回目は『アンジェラにそっくりだね』。二回目は『ちょっと性格が違うね』。三回目は『よく見ると全然似てないね』って。男はみんな同じ。もう慣れたけど・・・みたいな内容だったかな」
「なるほど。それでか」
やっと謎が解けた気がして、アルバートは満足げに指をパチンと鳴らした。
「彼女に感じる男嫌いのバリアは、アンジェラ・コンプレックスが原因だ」
「なんです?それ」
「なまじ顔が似てるせいで、子供の頃から何かにつけて比べられてきたはずだ。真正直で責任感が強く、あっさりした気性のフェリシアは、はかなげで甘え上手のアンジェラが苦手だったに違いない。周りが姉だけにちやほやするから妬ましかったかもしれないな。それでいつの間にか、姉ばかりかまう男たちに敵対心すら持つようになった。だから男と互角に張り合わなきゃ気が済まなくなったんじゃないか」
数えるほどしか会っていないのに、ここまで見抜いた叔父の洞察力に舌を巻く。
しばらくは目を白黒させて聞き入っていたアンソニーだが、ややあって、感嘆のため息を漏らした。
「すごすぎますよ、その分析。僕なんか毎日のように顔を合わせてるのに、何も考えたことなかった。ブライアンもです。いつも二人して、なぜフェリシアはいつも男を目の仇にして意地を張ってるのか、ずっと不思議に思ってましたから」
「おいおい、みくびってもらっちゃ困るよ。これでも君らよりかなり年上なんだからな。それに当主としてまともな観察眼を持ってないと、シャルヴィの奴らになめられるし」
得意げに言うと、「それはそれは恐れ入りました」とアンソニーはオーバーに頭を下げた。
ふざけ合っているうちに、車はアードレー家本宅の敷地へ入っていった。
降車してエントランスに入ってもまだ、アルバートの頭からはフェリシアの泣き顔が離れなかった。
翌日、「アードレー家のアンソニーとシャルヴィ家のフェリシアが婚約する」という記事が報じられ、社交界は再び騒然となった。
今度は財界も巻き込んでの大激震だ。
何しろシカゴの覇権争いを繰り広げてきた天敵同士が縁戚になるのだ。
各界にはかりしれない影響が出るのは必至だろう。
アードレー家サイドの気が変わらないうちに、一刻も早く二人の婚約を公にしようというジャクリーンの肝入りで、こんなにも早く記事にされたのだ。
ブライアンやテリィを始めとして多くの人間がまたも仰天したが、一番驚いたのはニューヨークに出張中のアーチーだろう。
シカゴを発つとき、あれほど「早まるな」と念を押したのに、忠告を無視して暴走したアンソニーをこれほど恨めしいと思ったことはない。
「あいつめ!戻ったら伝えたいことがあるって言ったのに、もう忘れたのかよ」
キャンディとは入れ違いで会えないし、かと言ってニューヨークにこれといった知り合いはいない。
誰かに気持ちをぶちまけないとどうにもならないほど、アーチーはじれていた。
やるせない思いを抱えたまま、ストラスフォード劇団の事務所へ向かう。
舞台の最中でこそないが、昼のあわただしい時間帯、まさかテリィに会えるわけなかろうと、あきらめ半分で訪ねたのだが運が良かった。
彼は事務所に来ていた。
迷惑を承知でランチに誘うと、二つ返事で応じてくれた。
他人に聞かれたくない話なので、グローサリーでサンドイッチとコーヒーを買い込み、アードレー家のオフィスを目指す。
徒歩で10分とかからないウェストエンド・アヴェニューにあるビルに、二人して入っていった。
「打ち合わせ中だったんだろ?悪いな。急に誘ったりして」
「なに、かまわんよ。なんの用件か大体わかるしね。今朝の記事だろ?君がそんなにあわててる理由は」
答える代わりにアーチーは深いため息をついてソファーにどっかり腰を下ろした。
正面にある来客用の椅子にテリィも座り込む。
「全く・・・アンソニーの奴!早まるなってあれほど言ったのに。君がキャンディの肩を押してシカゴに来させようとしてること、帰ったら真っ先に伝えるつもりだったんだ。なのに・・・」
アーチーは前のめりになって親指の爪を噛むなり、貧乏ゆすりを始めた。
怒り、諦観、焦燥──いろいろな感情がない交ぜになっている。
テリィも深く息を吐き、足を組んで椅子の背にもたれた。
「まあ、あいつらしいと言えば『らしい』な。こうと決めたら猪突猛進。周りのアドバイスなんかまるで耳に入らない。キャンディのことではさんざんやり合ったからよく知ってるよ」
「わかるわかる。昔から熱い奴だったなぁ。曲がったことが大嫌いで」
「意外に頑固でさ。優しいマスクに似合わず」
「そうそう」
二人は顔を見合わせ苦笑いする。
「でもせっかくキャンディを手放す決心をしたのに、彼女を受け止めてくれるアンソニーはあの始末だ。シェリルのこと、どうするつもり?」
心配そうにアーチーが尋ねると、テリィはフッと笑う。