キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に) -13ページ目

キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

アンソニーメインの二次創作・ファンフィクション「バラの薫る季節に」を掲載しております。

「なんか騒がしくなってきたね。きっとここにも誰か来るだろう。その前に引き上げようか」

キャンディは名残惜しそうにうなずいた。

「アンソニーはすぐボストンに帰るの?」
「いや、ちょっと寄り道して、それからにしようと思ってる。君は?」
「私は三、四日滞在するわ。久しぶりにアニーとゆっくりおしゃべりしたいし」
「それがいい。彼女もきっと喜ぶよ」

会話を引き伸ばすのはこれが限界だ。
二人を包むのは透明な静寂ばかり。
それを破るように、アンソニーの右手がすっと伸びた。

「元気で。ニューヨークへ帰るときは気をつけて」

伸ばされた大きな手に応えるように、自分の白い手をそっと差し出す。

「あなたもよ。お仕事頑張ってね。あまり無理しないように」
「君も」

握手する手を、アンソニーは痛いほど握りしめた。
まるで今生(こんじょう)の別れのように、長いこと、ぎゅっと握りしめた。
手がしびれるかと思うほどの力だったが、不思議に少しも痛くはなかった。
アンソニーの手の温もり、かすかな汗の感触が伝わった瞬間、もう一度きつく握られると、まるで示し合わせたかのように、互いの手がすーっと離れていった。

「さあ、屋敷へお戻り。僕は反対方向に歩いていくから。で、一つだけ約束して欲しい。決して振り返らないって。いいね?」
「分かったわ。最後に見るのが後ろ姿だなんて悲しすぎるもの」

アンソニーは何も言わずに微笑んだ。

「じゃあ、行くよ。幸せに・・・キャンディ」
「幸せにね・・・アンソニー」

名残惜しい風が、二人の間をサワサワと吹きぬける。
もう少しで潤んでしまいそうな瞳を見開き、互いの姿を焼き付ける。
アンソニーが後退り(あとずさり)を始めた。
キャンディもそれにならう。

二歩、三歩、四歩、五歩・・・
二人の距離は、だんだん広がっていく。
それでもまだ、相手の顔を見たまま、足を後ろへ進める。

十歩、11歩、12歩、13歩・・・
アンソニーは立ち止まり、遠くになったキャンディの顔を見納めるように目を凝らすと、次の瞬間、ゆっくりと背を向けた。

大きくて広い背中。
レイクウッドで一緒に過ごしたときより、ずっと男らしくて頼もしい背中。
このまま走って行って抱きついて叫びたい。

──離さないで!一人にしないで──

だが願いも空しく、大好きな人の姿はバラ園を抜け、その先に続く深い緑の森へと吸い込まれていく。
そこもアードレー家が所有する広大な敷地。
アンソニーはその中へ一歩一歩、歩を進めていく。
どんどん小さくなっていく後ろ姿。
約束したとおり、彼は決して振り返らない。
あきらめきれない辛さに、キャンディの顔は苦しそうにゆがむ。

薄紅色の頬を、ひとすじの涙が伝った。

(バカね。最後に見たのが後ろ姿になっちゃったじゃない)

未練がましい自分に愛想を尽かしながらも、やっとの思いで屋敷の方角へ向き直った。
涙のあとを指でぬぐい、上を向いて真っ直ぐ歩いていく。

(さよなら、アンソニー。私、もう泣かない。ううん、泣かないように頑張ってみる!あなたに恥ずかしくないように精一杯生きていくわ。だからあなたも幸せになってね。そして約束よ。次に生まれてくるときは絶対離さないで。何があろうと、あなたの花嫁にしてちょうだい)





夏の終わりの森。
それでもぐんぐん明るさを増し、熱を帯びた太陽の光が地上に降り注ぎ、木漏れ日がゆらゆら揺れた。
アンソニーの頬は涙でグショグショになっている。
誰も見ていないから、思い切り泣くことが出来た。
男としての見栄もプライドも、今はなんの意味もない。
この世で一番大切なものを、たった今なくしてしまった惨めな男、世界一の不幸せ者──自分自身がそう思えて仕方ない。

(キャンディ、約束は守ったよ。決して振り返らなかったろう?辛くても歩き出さなきゃ、きっといつまでたっても離れられない。だから必死で歩いたんだ。足を踏み出すたび、どんどん君から離れていくことは分かってたけど)

涙が視界を遮り、足がふらついているので、道に転がっている小さな石につまずいて転びかけた。
手近の大木にしがみつき、辛うじて体を支える。

ふと見上げると、木々の葉をかいくぐり、天上から陽の光が注ぐのが見えた。
そこだけひときわ、明るく浮かび上がっている。
涙に濡れた頬が照らされたとき、脳裏にはローズマリーの姿が浮かんだ。

(そんな悲しい顔して・・・あなたらしくないわ。元気をお出しなさい)

そう言ってくれている気がする。

(母さん、今はダメだよ。もう限界だ)
(キャンディが遠くへ行ってしまったからなのね)
(・・・・・・)
(でもそれは、あなたの決断が招いた結果でしょ?フェリシアを見捨てなかったからキャンディとの別れが訪れたのよ。だったら運命を受け入れて前に進むしかないわ。自分に嘘をつかずに、いつも全力で。そうすればいつの日か、大切なものは戻ってくるの。どんな形にせよ、あなたのもとに、必ず)

アンソニーは驚き、大きな声を上げた。

「それって、キャンディが戻ってくるってこと?」

ローズマリーは微笑むだけで答えない。

(いずれ分かるわ。神様は懸命に道を切り拓く人を、決してお見捨てにならないものよ)

母が言ったことを噛みしめながら、アンソニーは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

Heaven helps those who help themselves ──


(あなたの好きな、その言葉どおりになるわ。だから安心して自分の道をお行きなさい。私はいつも、ここで見守ってる・・・)

言い終わると、女神のような微笑を残し、母の姿は木漏れ日の中に溶けていった。
それを追うように、遥か彼方の大空を見上げる。
うっそうとした木々に覆われた緑の森。
その上に広がる青い空。
オレンジ色の太陽はギラギラした筋を、木々の隙間をぬって投げてくる。
ほの暗い空間に差し込む、幾重ものきらめき。
自然の中に抱かれているのを感じた瞬間、自分の悩みなど、ほんのちっぽけに思えてきた。

もう迷いはしない。立ち止まったりしない。
決意に満ちた青い眼差しは、真っ直ぐ前を見据えた。
頬を濡らしていた涙のあとを、掌(てのひら)でぬぐう。
さっきまでの泣き顔が、精悍な若者の顔つきに変わった。

(さあ、出発しよう!僕には待っててくれる人が沢山いるんだ。患者さんたちにこれ以上迷惑はかけられない)

深く息を吸い込んで吐き出すと、大きく一歩を踏み出した。
屋敷に戻ったら、先ずはブライアンに連絡しなければいけない。
ボストンへ戻るのは、もうニ三日あとになると。

その前に、どうしても行きたいところがあった。
どうしても、会っておきたい人たちがいた。





アンソニーと別れたあと、キャンディは、アーチーとアニーの住まいを訪れた。
アルバートやエルロイが暮らす中央の本宅から少し離れた同じ敷地内に、コーンウェル家の邸宅が建っている。
まるで宮殿のような本宅とまではいかないが、ヨーロッパ建築を思わせる瀟洒な屋敷だった。

あいにくアーチーはまだニューヨークから戻っていないから、アニーとアレクシスは留守番だ。
キャンディが顔を見せたとき、アニーは遅めの朝食をとり終わったところだった。

「まあ!私は夢を見てるんじゃないでしょうね」

使用人の案内でリビングに招き入れられた幼なじみを認めるや、勢い込んで椅子から立ち上がり、淡いブルーの瞳をクルクルさせ、アニーは嬉しそうに抱きついてきた。
窓辺のベビーベッドでは、アレクシスが上機嫌で笑っている。
広々とした、日当たりのいい空間。
少し開けられた東側の窓からは太陽が燦燦(さんさん)と差し込み、爽やかな風が流れて、優しく肌を撫でた。

「夢じゃないわ、アニー。夕べ遅くに着いたのよ。さすがに起こせる時間じゃなかったから、夜が明けるまで訪ねるのを待ってたの。アレクシスに会うのも初めてだしね。ホントに長かった・・・。たった一晩なのに、一週間も二週間も待った気分よ」

キャンディも緑の瞳をクルクルさせてアニーの歓迎に応じる。

「会いたかったわ!しばらくぶりだものね。手紙のやり取りはしょっちゅうだけど、こうして会うのは、もしかして一年ぶり?」

そう言ったあと、アニーは自分の言葉に驚いた。

「まあ、そんなに経つの?いつも手紙でおしゃべりしてるから、そんな長いこと会ってなかったなんて信じられないわ」
「うふ♪私も」

アニーはようやくキャンディから離れると、今度は手を引っ張って、ベビーベッドへ連れて行った。

「ね、アレクシスを見てやってちょうだい」

のぞきこむと、愛らしい笑みが満面に広がっている。
小さな顔に、つぶらな瞳。整った眉に、すーっととおった鼻筋。
パッと見ただけで、父親にそっくりなのがよく分かる。
瞳は涼やかなマリンブルー。髪はつやつやしたプラチナブロンド。
いずれも、アーチーの血を濃く引いている証拠だ。

「なんてかわいいの!アンソニーが言ってたとおりだわ。アーチーにそっくりね。まだこんなに小さいのに、鼻がツンと高くて、クリクリしたブルーの目で、眉も凛々しくて。将来はすごいハンサムさんね」

まるで自分の息子を見るように目を細め、キャンディは赤ん坊に頬ずりした。

「嬉しいわ。そんなに褒めてもらったら、すごいご馳走をしなくちゃ。ねえ、アレクシス。ここにいるキャンディお姉ちゃんは、あなたのこと、すごいハンサムだって言ってくれたのよ。良かったわね~」

アニーも目を細め、最愛の息子をいとおしく見つめる。
すっかり母親らしくなった彼女から、「泣き虫アニー」の顔は完全に消えていた。
幼い頃は、あれほどか細く、頼りない少女だったのに。
時の流れは本当に不思議なもの。
今は自分のほうが、よっぽどか弱い存在になっていることにキャンディは愕然とした。

「そうそう、夕べアルバートさんに聞いたんだけど、アーチーはニューヨークなんですって?」
「そうなの。キャンディも知ってるだろうけど、向こうのクライアントと取引が始まったから、シカゴとニューヨークを行ったり来たりの生活よ」
「寂しくない?」

一瞬、アニーの表情が曇った気がしたが、すぐに明るい声で、「ううん、大丈夫。アレクシスがいるから」と応えが返ってきた。
それだけでは満足できず、キャンディは更に、「私が心配してるのは、あなたとアーチーの仲よ」と突っ込む。
少し前、ニューヨークでアルバートとテリィを交えて食事をしたとき、アーチーが、「アニーは僕をほったらかしで育児に夢中になっている」とぼやいていたのが気になったから。

「安心して。私たちはうまくいってるわ。いつもシカゴにいてくれないのは心細いけど、ブライトンの両親がそばにいるし、アルバートさんも気をつかってくれるし、心配ないわ。それよりあなたはどう?テリィとは順調?」

今度はキャンディの瞳が不安げに揺れた。

「もしかして、ここに来たのは、昨日の朝刊に出てた記事のせいじゃない?」

言われた瞬間、「あっ」という顔になる。

「やっぱりね。アンソニーがシャルヴィ家の娘と婚約するっていう報道でしょ?見たときは驚いたけど、私は却って良かったと思ってる」
「あきらめがつくから?」
「そうよ」

アニーはきっぱり言い切り、キャンディの顔を正面から見据えた。

「ここに来ること、テリィは反対しなかったの?」
「とんでもない!行って来いって背中を押してくれたのは彼よ」

青い目は驚いたように大きく見開かれた。

「よく許してくれたわね。寛大というか、大人っていうか」
「そうね。私もそう思うわ」


しばらく二人は黙り込み、その沈黙をぬうように、アレクシスの無邪気な笑い声が部屋の中に優しい空気をもたらした。

「何度も言うけど、今度こそ潮時よ。アンソニーにも婚約者が現れたんだから、あとはお互い幸せになればいいだけの話じゃない。人の道に外れたことをするなんて、キャンディらしくないわ」

そこまで言われて罪の意識を感じ、少しだけ息苦しくなる。

「アニーの言うとおりね。相手の女性は奇麗で優秀な人だし、きっとアンソニーは幸せになれると思う」

「会ったことあるの?」
「ええ、一度だけ」

瞬間、ローズマリーのバラ園で、口づけを交わす二人の姿が蘇った。
いくら芝居とはいえ、あまりに生々しかった。見たくなかった。
今も折に触れ、あの光景が胸をかき乱すことを、誰にも言えないでいる。

「アニーはいいわね・・・」

苦悩を振り払うように顔を上げると、キャンディは努めて明るい声で言った。

「初めて好きになった人と恋が叶って結婚して、彼そっくりの男の子を授かるなんて、夢みたいじゃない?」

アニーは黙ったまま、幼なじみの瞳を見つめている。

「あとにも先にも、アニーが好きになった男性はアーチー 一人しかいないんですもの。初恋が実って結婚する人なんて、ほんのわずかなのよ。だからホントにラッキー。それに、一人の人をずーっと思い続けるのってすごいことよね。私には真似できなかったけど」

困惑した表情を浮かべると、アニーもつられたのか、切なげに切り出した。

「それは誤解よ。私だって、いいことばかりじゃなかった。確かに今の生活は満ち足りてるし、幸せそのものだわ。でも、それを手に入れるために払った代償はすごく大きかったの」
「代償?」

意味が分からず、眉を寄せてアニーをのぞき込む。

「私の場合、アーチーを押し切って結婚してもらったようなものよ。心の中に誰が住みついてるか、分かりすぎるほど分かってたのに、そんなのおかまいなしで強引に彼の心に踏み込んでいったの。いつか私だけを見つめてくれるだろうって信じて」
「現にそうなったじゃない!アニーだけを愛してるからこそアレクシスが産まれたんだし、彼は今、愛する家族のために一生懸命働いてるわ」

必死で訴えるキャンディに、今度はアニーの声がひときわ大きくなった。

「分かってる!よく分かってるわ。でも違うの。あの人の心に、今でも別の女性の影が存在してること、私は知ってる。アーチーが私だけを見つめてくれる日は、多分一生来ない。分かってるの。確かに初めは気が狂いそうに切なかった。でも今は大丈夫。すごく時間がかかったけど、もう苦しくない。アーチーのそばにいられて、彼の子を育てていけるなんて、こんな幸せはないんだって分かったから」

アニーが微笑みを浮かべ、嬉しそうに言うのを見て、少しだけホッとした。

「そのとおりよ。もともとたった一人の人しか愛さないなんて、そうそうある話じゃないわ。アニーみたいに初恋の人と結婚しない限りね。私だって、テリィとアンソニー、二人の影が心の中にあるわ。テリィにはスザナの影があるかもしれないし、アンソニーにはアンジェラの影がある。それにレイチェルにはアンソニーの影が。今でこそ、お腹にジェフ先生の子が宿ってるけど。でも、それは悪いことじゃないと思うの。いろんな恋を知って、傷ついて、少しずつ他人に優しくなれるんだと思う。だからアーチーのことも大目に見てやって」
「大丈夫。彼を責めちゃいないわ」

真剣に思ってくれるキャンディに感謝して、アニーは静かに続ける。

「でもこれだけは、神様が私に与えた罰──アーチーは今でもあなたが好き」

キャンディがムキになって何か言おうとするのを遮る。

「多分、キャンディが思ってる以上に、彼はあなたが好きなの。これは天罰。だって私、小さい頃、ひどいことしちゃったから。神様はちゃんと見てらしたのよ」
「なんのこと?」
「ブライトン家の養女になって、優しい両親が出来て、沢山のお友達に囲まれて、ポニーの家にいたことを知られたくないって思うようになった。だからあんなに良くしてくれたキャンディに冷たいこと言って突き放したでしょ?『お手紙、これきり書きません』なんて最低よね。ひどい仕打ち!それだけじゃないわ。キャンディがレイクウッドでアーチーと仲良く暮らしてるのを知ってからは焼きもち焼いて、聖ポール学院でもあなたを無視した。やっと口をきいたと思ったら、『アーチーをとらないで』って、言ったのはそれだけ。自分のことばかり考えて恥ずかしいわ。そのくせアーチーとうまくいったあとは、急にあなたと仲良くなったりして・・・。都合が良すぎるわよね。それだってキャンディがキューピットになってくれたおかげなんだから。あなたに振られたから、アーチーは私を引き受けただけ。好きだったわけじゃない。心のいやしい私が、アーチーを100パーセント独占できるなんて無理よ。第一、神様が赦さないわ。ごめんなさい。ホントにごめんなさい・・・」

言い終わると、アニーは唇を噛んで下を向いた。
キャンディの瞳が、悲しみとも怒りともつかない、苦悩の色に染められていく。

「もし本当に神様がお赦しになってないなら、そもそもアーチーと結婚させてくださらなかったろうし、アレクシスだって産まれてないはずよ。そんなことも分からないの?」

アニーはハッとしてキャンディを見上げた。

「確かに孤児院出身を恥じた日もあったかもしれない。でも一体何年前の話?聖ポール学院のことだって、私は何も恨んでないわ。だってアニーはいつも心配してくれたじゃない?テリィと別れて泣いてたときも、アンソニーとテリィの間で揺れてたときも、アニーは私のこと、一番に思ってくれたわ。それがとっても嬉しかった」
「キャンディ・・・」

ブルーの瞳はたちまち潤んできて、次の言葉が続かない。
代わりに涙があふれてくる。
キャンディはアニーの手を取り、強く握りしめた。

「私たち、同じ日にポニーの家の子になったんじゃない。きっと見えない糸でつながってるんだわ。これからも、ずっと一緒よ。私も幸せになるから、アニーも精一杯アーチーを愛して!」
「ええ、ええ」

アニーの白い頬を、幾つもの真珠の粒が滑り落ちた。

涙はたちまち伝染する。
キャンディは右手で頬をぬぐうと、にっこり笑っているアレクシスを抱き上げる。

「良かったわねえ。世界一素敵なパパとママの子に生まれてきて。これから、うーんと幸せになるのよ。私もずっと見守ってるから。あなたの『もう一人のママ』になってあげるわ」

幼子を抱くキャンディが完全に母の顔になっているのを認め、アニーは嬉しそうに目を細めた。
こうして彼女が自身の子を胸に抱く日はいつ来るのだろう。
アンソニーと再会してから何年も経つのに、いまだに彼とテリィの間で揺れているキャンディが気の毒に思えてくる。
どうにかならないものだろうか。
スパッとどちらかに決めて、縁がなかったほうの男性を、きっぱり忘れられればどんなに楽だろう。
いっそのこと、アンソニーでもテリィでもない、他の人が現れてキャンディを幸せにしてくれたら・・・そんな思いがふと胸に浮かぶ。
他の男性――考えた途端、真っ先に「アードレー家総長」の顔が浮かんだ。

(そうよ、アルバートさん!彼がいるわ!テリィと別れてからアンソニーが現れるまで、かなり親密な感じだったじゃない。もしかしたら彼と結婚するんじゃないかって、私もアーチーもパティも思ってた時期があったもの)

思い出したら黙っていられなくなってしまった。
勝手に口が動いて、気づいたらキャンディに直球を投げていた。

「ねえ、アルバートさんをどう思ってるの?」

急に言われて驚いたのか、鳩が豆鉄砲を食ったような目をしてキャンディがこちらを向いた。

「ごめんなさい。いきなりでびっくりしちゃうわよね。突然思いついたから」

抱いていたアレクシスをベビーベッドにそっとおろすと、キャンディはアニーの方へ体の向きを変えた。

「かなり驚くわね、その質問には。なんで今更・・・って思っちゃうわ、正直言って」
「そうよね。私だってそう思うわ。でもアレクシスを抱いてるあなたを見てたらふと思ったのよ。その子がキャンディ自身の子だったら、どんなにいいだろうって。アンソニーとテリィの間で揺れてるだけじゃ、幸せはつかめないのよ。いっそのこと、二人以外の男性に決めたほうがすっきりするんじゃないかって思ったの」

一瞬きょとんとして、そのあとキャンディはふふっと笑う。

「また始まったわ、アニーの心配性が。気にかけてくれるのは嬉しいけど、私はもう婚約してるのよ、テリィと。だから大丈夫。ちゃんと二人で幸せになるわ」
「そう?ならいいんだけど」

小さなため息をついたあと、またアレクシスのほうを見るキャンディの横顔をなぞる。
威勢のいい言葉とは裏腹に、少し疲れているように見え、益々痛々しくなった。

「あのね、答えたくなければいいんだけど、アルバートさんのこと、ホントはどう思ってたの?」

アニーに向けた緑の目は、さっきよりも驚いているように見える。

「どうって・・・?」
「テリィと別れてから、あなたをずっと支えてきたのはアルバートさんじゃない?キャンディはすっかり頼り切ってるようだったし、もしかして結婚するんじゃないかって思った時期があったの」
「まあ!」
「私だけじゃないわ。アーチーもパティもよ。特にアーチーなんて・・・今だから言うけど、本当はキャンディの相談相手になりたかったんじゃないかしら。彼の目はいつもあなたを気にしてた。もしキャンディが頼ったなら、たとえ何を犠牲にしても一肌脱いだはずよ。猛アタックだったわね、あなたに。残念ながら、ただの夢で終わっちゃったみたいだけど。キャンディが何も持ちかけなかったから」

アニーはおかしそうに笑った。
キャンディは困ったように苦笑し、「それはアニーの妄想でしょ?アーチーがそんなこと考えるはずないわ」と必死で抵抗する。

「いいのよ、時効だから。私が聞きたいのはね、キャンディがあの頃アルバートさんをどう思ってたかってこと」

同じ質問を再三繰り返され、もう逃げられないと観念したのか、キャンディはアニーに背を向けて窓辺へ歩いて行った。
行く夏を惜しむように風がそよいで、見事に手入れされた庭園のバラたちを一つ二つ揺さぶっている。

少しだけ開いた窓が、晩夏の香りを運び込み、ざわめきたつ心をそっと鎮めてくれる。


キャンディは静かに話し始めた。

「白状しちゃうとね、淡い思いがあったのかもしれないわ。初めての気持ちだったから、よく分からなかったんだけど」
「初めての気持ち?」
「ええ。アンソニーやテリィに抱いた恋心とは違ってたの。熱くて激しくてとげとげした想いじゃなくて、もっと穏やかで優しい気持ち。家族に対して持つ愛っていうのかしら。アルバートさんのそばにいたら安心できたの。ほら、恋って楽しいばかりじゃないでしょ?好きだからこそ、疑ったり悲しくなったり嫉妬もしたり。自分が嫌になることだってあるわ。でもアルバートさんに対しては、そういう負の感情が一切なかったの。私はいつも温かく包まれてた。とても居心地がよかった。大切に守られてると思ったわ。胸が苦しいとか切ないとかドキドキするとか、そういうのはないけど、これも愛なんじゃないかって」

やっぱり!とアニーは思った。
きっとキャンディはアルバートの中に、穏やかな愛を見出していたに違いない。
胸を焦がすような熱い想いではないけれど、それも間違いなく愛なのだと確信した。

照れ臭そうな顔をして、キャンディは透き通った空色の瞳を見つめる。

「でも迷いがあったの。万が一アルバートさんと結婚することになったら、こんな私で務まるのかしら?って」
「アードレー家総長夫人の務めってこと?」
「ええ」
「確かにアーチーと結婚するような、気楽なわけにはいかないわね」

アニーが苦笑いすると、キャンディは「でしょ?」とウィンクする。

「私は孤児院出身よ。そんな娘が総長夫人だなんて、世間はどう思うかしら?エルロイ大おば様が私を認めるとも思えないし。ポニーの家の小娘のせいで、アルバートさんやアードレー家の立場が悪くなるなんて、あってはならないことだと思ったの」

卑屈になるキャンディを励まそうと、アニーは必死で食い下がる。

「そんなのあなたらしくないわ。ポニーの家出身がそんなに恥ずかしいことなの?出自にこだわってた私を叱ってくれたのは、他でもないキャンディじゃない」
「それはそうだけど・・・でも理由なら他にもあるのよ。一族のトップである夫を支え、長老たちや親族に気をつかい、社交界やマスコミへの対応、慈善事業・・・ちょっと考えただけでも山ほど仕事があるわ。それに加えて礼儀作法や語学や地理や歴史や文学・・・ああもう!勉強しなきゃいけないことだらけ。せっかく看護婦として一歩を踏み出したのに、これまでやってきたことを全部あきらめなきゃいけないなんて辛すぎる。『アルバートさんといると居心地がいい』なんて半端な気持ちじゃ無理。すべて捨てて一から吸収する覚悟がないなら、結婚する資格はないと思う」

今までの思いを一挙に吐き出したあと、キャンディは一瞬言葉を止め、静かに息を吸い込んだ。
そして小さな声で、まるで消え入りそうな声で、申し訳なさそうに続けた。

「好きっていう気持ち以前に、総長夫人の重圧をこんなにも感じること自体、何かが違うんじゃないかって思えたのね。だって好きなら一心にその人を求めるじゃない?たとえどんな試練が待っていても。でも私は立ち止まっちゃったの。どうしたらいいんだろうって。何も考えず、未知の世界に飛び込む勇気は出なかった。そしてやっぱり、心のどこかにはテリィの影があったわ。そんな簡単に忘れられるわけなかった」

今初めて聞かされる「秘めた想い」を知り、アニーは胸がつぶれる思いだった。
見た目はあんなに元気に振る舞っていたのに、心の奥では涙の雨を降らせていたなんて!
見抜けなかった自分のふがいなさを責めるばかりだ。

「アードレー家総長夫人になる自信はなかったの。私なんかより、もっともっとふさわしい人がいるはず・・・家柄が良くて教養も高くて美しい人が。いくら考えても、そういう結論にしかならなかった。だからそれがアルバートさんに対する『答え』だったんじゃないかって思うわ」

少し寂しそうにキャンディは笑った。
本当にそうなのかもしれない。
もしアルバートが運命の人なら、あれこれ心配する前に彼の世界へ飛び込んでいっただろう。
でも出来なかったということは――それが「答え」なのだろう。

「勿論、あのまま静かに時が流れていったら、いつかはアルバートさんに寄り添うことになったと思う。いろいろ心配してる私の心を溶かして、優しく手を引いてくれて。そしたら迷わずついていったと思うわ。やっぱり彼が大好きだから」
「分かるわ、キャンディの気持ち」
「それにね、今まで築いてきたアルバートさんとの関係を壊したくなかったの。彼と恋人になって、アンソニーやテリィのときみたいに悲しい思いをするのが怖かったのかもしれない。誰かを失って苦しむのはもうイヤ。アルバートさんにだけは、これからもずっとずっと一緒にいてほしいの。どんな形であっても」
「それであなたは安心できるのね?」

キャンディは深くうなずく。

「アルバートさんがいなくなったら、きっと私、ダメになっちゃうわ」

アルバートへの想いと総長夫人としての重責――惹かれながらも一歩踏み出せなかったジレンマが、痛いほど伝わってくる。

「でもそんなときだった。アンソニーがバラの門に現れたのは。私はたちまち我を忘れて彼にのめりこんだ。恋敵のレイチェルがいようが、そんなことはどうでも良かったの。ただアンソニーのそばにいられれば、彼の笑顔を見ていられれば、それで良かったの」

恥ずかしそうに頬を染めるキャンディ。

「自分でも変だと思ったわ。とうの昔に死んだと思ってた人が目の前に現れて、それだけのことなのに。アンソニーとはおままごとみたいな初恋で、身を焦がすような熱い恋をしたわけでもないのに、なんでこんなに惹かれるんだろうって。今でも分からない・・・」


アニーは優しく微笑み、そっと口を挟んだ。


「ねえ知ってる?誰かを好きになる気持ちって、天から降ってくるんですって。努力して好きになったり嫌いになったりは出来ないのよ」

「まあ素敵!好きっていう気持ちは天から降ってくるのね?まさに奇跡だわ。運命だわ!」

「でしょ?だから『なぜアンソニーが好きなのかしら』なんて難しいことは考えなくてもいいの。自分の気持ちに素直になるだけで、人は幸せになれるんだから」

「でもね、たった一つはっきりしてることがあるのよ」


少し自慢げにキャンディが切り出すと、アニーは興味津々で身を乗り出す。


「なあに?」

「私が一番辛くて悲しかったとき、いつもそばにいて助けてくれたのがアンソニーたちだった。確かにアルバートさんは滝に落ちた私を助けてくれた命の恩人だわ。それにアードレー家の養女にもしてくれた。私が今幸せでいられるのは、あのときアルバートさんが決断してくれたからなのよ。感謝してもしきれないわ。でもすべてがアルバートさんのおかげだったと分かったのは、随分あとになってからのことよ。辛かった当時に私を支えてくれたのは・・・間違いなくアンソニーやステアやアーチーだったわ。もし三人がいなかったら、きっとイライザやニールの意地悪に耐えられなかったし、エルロイ大おば様とラガン夫人の冷たい仕打ちに飛び出してたかもしれないもの」

「その三人の中で、一番心をときめかせてくれたのがアンソニーだったのね?」


キャンディは頬を染めてコクリとうなずく。


「アンソニーがいたから、不幸が幸せに変わったのね?」


キャンディは再び恥ずかしそうにうなずいた。


「それが彼に対するあなたの『答え』なのよ。アンソニーを好きだと思う気持ちは、神様からキャンディへのプレゼントなんだわ」


そう言ってアニーは満面に笑みをたたえた。