「そしてね、人を好きになるのに理由なんかいらない。それは私が一番よく知ってるわ。もし理屈で嫌いになれるなら、ずっとキャンディを見つめてるアーチーなんか、さっさと袖にしてやるのに!」
「まあアニーったら。今頃ニューヨークでアーチーは大きなくしゃみをしてるでしょうね」
「ホント。風邪をひかないように気をつけてくれなきゃ」
二人は顔を見合わせて笑う。
明るい笑顔に太陽がオレンジの光を添え、益々健康的に頬を染め上げる。
「アルバートさんの話、初めてしたわね。ずっと本音を知りたかったからすっきりした」
「なんだか私もすっきりしたわ。ずーっとお世話になってきた恩人だから、アルバートさんには幸せになってほしいの。彼とはこれからずっと関わっていくんだし」
ずっと関わっていく――なにげなく発した言葉だったが、アードレー家とは切っても切れない縁でつながっていることを実感する日が間もなく訪れることを、やがてキャンディは知るだろう。
キャンディを見送ったあと、アンソニーはエルロイの部屋を訪れ、間もなくシカゴを発つからと、別れの挨拶を切り出した。
てっきりもっとゆっくり滞在してくれるものと思い込んでいたエルロイは、急に出発すると言われ、悲しいやら寂しいやらで、「こんなに早く行ってしまうのですか」と弱気な顔を見せた。
「本当にすみません。出来ることならもうしばらくいたいんですが、病院には患者さんが待っていますので・・・」
申し訳なさそうに言うと、「分かってますよ。あなたはもう医学生ではないのですからね」と切なげな笑みが応えた。
なんて立派になったのだろうと、改めてしげしげアンソニーの青い瞳を見つめる。
本音を言えば、この若者の隣には是非ともキャンディに寄り添って欲しかったが、妻の座を得ることになるのは、こともあろうにシャルヴィ家の娘。
なんともいえない運命の皮肉を恨み、どうしても言わずにいられなかった。
「本当にいいのですか?フェリシアという女性と結婚しても」
途端にアンソニーの顔が曇った。
年老いた大おばに心配をかけたくはないのだが、安心させてやる言葉が出て来ない。
しばしの沈黙が流れ、やっと出た返答は・・・
「アードレー家とシャルヴィ家が手を結べるなら、それが僕の幸せです。今まで好き勝手なことばかりしてアルバートさんとアーチーにすべてを押し付けてきたんですから、これくらい当然でしょう」
それで皆が幸せになれるなら、人柱にでもなんでもなってやる!──そんな気概が青い瞳から溢れ出ていた。
それでもまだ不安げな表情の老婦人を納得させるために、「勿論フェリシアのことは気に入ってます。尊敬してるというか。だから心配しないでください」と付け加えることを忘れなかった。
「それを聞いて安心しましたよ。好きでもない娘と一緒になって、あなたが家の犠牲になるのだけはまっぴらですからね」
少し安堵したのか、エルロイは僅かに微笑んだ。
部屋へ引き上げ、大急ぎで荷物をまとめる。
朝食も摂らずに出発すると言うから、アルバートは名残惜しそうな顔をした。
「初めて行くのに一人じゃ心細いだろう。僕も同行するよ。最近は仕事に追われてすっかりご無沙汰してるし」
快く申し出てくれた叔父の厚意を、やんわり断る。
心の整理をつけるためにも、一人で行きたかったのだ。これから行こうとするところへは。
それはポニーの家とポニーの丘。
一緒に行くとキャンディに約束したのに、遂に果たせないまま婚約まですることになってしまった。
今更行ったところでどうにかなるものではないが、せめて自分の足でポニーの丘の土を踏んでおきたかった。
それが青春の日々へのオマージュになると思ったから。
今も変わらずキャンディを愛することをやめられない自分への慰めでもあった。
「これまでのことを思い出しながら一人で立ってみたいんです、あの丘の上に。そうしたら何もかもあきらめられる――そんな気がします。単なる自己満足かもしれませんが」
甥の悲痛な覚悟を聞いて、アルバートまで胸が苦しくなった。
いったいどれくらい傷つけば、この若者は解放されるのだろう、「キャンディ」というしがらみから。
どれだけ悩めば、苦しい恋を忘れて未来を掴めるのだろう。
もう十分でしょう。彼は嫌というほど人生の苦汁を味わったんだ。いい加減、解き放ってやってください――そう神に祈るしか出来なかった。
「沢山の思い入れがあるんだろうからな、ポニーの丘には。君の言うとおりにするよ。僕にも誰にも気をつかわずに行ってくればいい」
アルバートが優しげに笑ってくれたから、それだけで心が軽くなった気がした。
「ありがとうございます。何から何まで心配かけちゃって申し訳ないです」
「何を言うんだ。君は何も悪くない。一切悪くないんだ。謝る必要なんかないんだよ」
叔父の温かい心遣いが、何より心にしみた。
嬉しかった。
それでもアルバートにさんざん諭され、何も食べずに出発するのは体に悪いからと、半ば強制的にブランチを摂らされ、腹ごしらえが済んだ直後、本宅をあとにした。
キャンディがまだ残っているのは百も承知だったが、挨拶するために顔を合わせたら辛くなるだけなので、心を鬼にし、黙って出てきた。
シカゴ・ユニオン・ステーションまでジョルジュに車で送ってもらい、別れ際、丁重に礼を言うと「道中お気をつけて。アンソニー様が顔を出されたらポニーの家の先生方はさぞ喜んでくださるでしょう」と言ってくれた。
いかにもジョルジュらしい励ましの言葉だ。
喜んでもらえるかどうか不安は尽きないが、一歩踏み出すしかないと覚悟を決め、汽車に乗る。
車中ではポニーの家に着いてからのことをあれこれ思い巡らした。
どんな挨拶をしようか、ここに来た理由をなんと切り出そうか、キャンディとの関係をどう説明しようか。
緊張のせいか、普段かいたこともないような汗で手が湿っぽくなる。
そもそも訪ねたりすること自体、失礼にあたるのではないか――マイナスの考えばかりが脳内を支配してしまい、そのたびに頭を振って自分を奮い立たせた。
そんなことをしているうち、あっという間に(それなりの時間は流れたはずなのに、そう感じる暇もないくらい驚くほど早く)目的の駅に着いた。
田舎町だからタクシーなどはない。
辻馬車を拾ってのんびり揺られていると、又もいろいろな思いが頭の中を駆け巡った。
周りの景色がどんどん変わっていく。
それでも駅に近いうちは幾分町らしい賑わいがあったのだが、距離が増すほどに緑がいっぱいに広がり、やがてルピナスやブルーベルが優しい香りをくゆらせて歓迎してくれた。
アルバートが言っていたことを思い出す。
花々の競演が始まる頃は、ポニーの家がもう間近に迫っているのだと。
そのとおりだった。
見渡す限り緑が揺れる道だったのが、前方にこぢんまりした建物が見えてきた。
それは可愛らしい赤い屋根の教会と、その隣に、まだ建って間もない様子の増築された別棟だった。
(きっとあれがポニーの家だ!)
そう思うや、急にドキドキしてくる。
キャンディがいるわけでもないのに、まるで思春期の少年のように胸を弾ませている自分に呆れながら馬車を降りた。
御者に代金を払い、頭を下げる。
「長い道のりをありがとうございました。気をつけてお帰りください」
礼儀正しい若者に、御者はえらく恐縮していた。
ここから先は自分の足で歩いていく。
ポニーの家まで、もういくらもない。
キャンディを思うと、時折足元に絡みつく雑草や、靴にへばりつく泥土までも愛おしい。
深く息を吸い込んだら夏草の香りがした。
そこここから漂ってくるカウパセリやブラックアイズ・スーザンの香りが心楽しい。
こんなにも美しい風景に抱かれてキャンディは幼少期を過ごしたのだろうか。
たとえ親がいなくても親族がいなくても、なんの障りがあるだろう――そう言い切れるほど、幸せな風を感じた。
(キャンディ、君はここで本当に幸せなときを過ごしたんだね。大好きな先生や友達に囲まれて。なんだかちょっと羨ましいよ)
我知らず、優しい笑みがこぼれた。
教会の庭先で草むしりをしていたレイン先生が、こちらに向かって歩いてくる若者に気づいたのはそのときだった。
かなり距離があったので初めは誰だか見当がつかなかったが、姿形が段々はっきりしてくると、少しばかり皺(しわ)の増えた顔がたちまちほころんだ。
あの背格好、小奇麗な身なり、遠目にも鮮やかなブロンド――きっと「あの方」に違いない。
しばらく会っていなかったから懐かしくなり、小走りで駆け寄る。
若者のほうも歩幅を広げ、スピードを上げて歩み寄ってきた。
「お久しぶりです。どうしていらっしゃるか、いつも話題になってましたのよ」
二人の距離が完全に縮まり、互いの姿を目の前にしたときに愛想よく切り出した先生を見て、「彼」は戸惑ったような表情を浮かべた。
それもそのはず。
ここへ来るのは初めてだし、勿論先生に会ったこともない。
だから「お久しぶり」と言われる道理はない。
彼女が人違いをしているのは容易に分かった。
「あの・・・僕は・・・」
なんと挨拶しようか一瞬まごつくと、レイン先生もハッとした様子だった。
似ているのに、なんとなく違う。
よく見ると、この青年のほうが随分若そうだし、立ち居振る舞いもなんとなくぎこちない。
何度もここを訪れているアルバートという感じがしない。
では、いったい誰?
「失礼ですが、あなたはアードレー様ではないんでしょうか?」
申し訳ないと思いつつも、単刀直入に尋ねるしかなかった。
「いきなりお伺いして、こちらこそ無礼をお許しください。僕はアンソニー・ブラウン・アードレーと申します。ウィリアム・アルバートの甥にあたりまして・・・」
礼儀正しく挨拶すると、その場に爽やかな空気が流れた。
真新しいシャツにワイン色のタイ、チャコールグレーのズボン。
何も聞かずとも、育ちのいい、教養高い紳士であることが手に取るように分かる。
レイン先生は年甲斐もなく顔を赤らめた。
「道理でアードレー氏に似てらっしゃるわけですわ。甥っ子さんとは存じませんでした。人違いをしてしまって申し訳ありません」
アンソニーは照れ臭そうに、「いえいえ」と頭を左右に振った。
その直後、玄関先のドアが開き、中からポニー先生が顔を出した。
ドレスの陰には何人かの子供たちが隠れており、突然の来訪者を物珍しげにうかがっている。
「まあ、本当によく似てらっしゃること!」
挨拶するのも忘れ、ポニー先生は目の前の若者の容姿を見て放心してしまった。
出し抜けに言われたので、なんのことか分からず、アンソニーは目をパチパチさせる。
「アンソニーさんですね?ようこそいらっしゃいました!先ほどアードレー氏からお電話をいただきましてね。そろそろいらっしゃる頃じゃないかとお待ちしてたんですのよ」
なんとなく状況が分かってきた。
アルバートが気をきかせ、「僕にそっくりな若い男が訪ねていきますから」とでも口添えしてくれたのだろう。
叔父の厚意に感謝しつつ、アンソニーは丁重に頭を下げて微笑んだ。
面食らったのはレイン先生だ。
「全くポニー先生ったら!私にだって教えてくだされば良かったんですよ。おかげで私、この方に失礼なことを言ってしまったじゃありませんか。アードレー氏と間違えたりして」
「おお、ごめんなさい。このワンパクたちから目を離せなかったものですからね。庭先に出て、アンソニーさんがいらっしゃると伝えるのをすっかり忘れてしまいましたよ」
丸メガネの奥で人の良さそうな瞳がおろおろするのを認めて気の毒に思ったのか、レイン先生は「それなら仕方ありませんわね」と苦笑した。
「さあさあアンソニーさん、中へどうぞ。狭いところですが、お許しくださいませ」
二人の先生は声を揃えてブロンドの若者を招き入れる。
「どうぞおかまいなく。ほんの少しお邪魔したら、おいとましますので」
温かい声に歓迎され、アンソニーは幸せそうに微笑んだ。
遠巻きに見ていた子供たちは、優しげでハンサムなお兄さんの来訪を受け、嬉しそうにはしゃぎまわる。
まだ小さな女の子が物おじせずに近寄って来て、「お兄ちゃん、王子様みたい」と可愛らしい手を若者の手に絡ませる。
年長の女の子たちはそれを見て、キャーッと羨ましそうな歓声を上げた。
アンソニーはすかさずしゃがんで目線を小さな女の子に合わせると、「僕なんかが王子様でいいの?」とウィンクする。
「だってキラキラしてるもん。おめめもきれいなブルー♪」
おませな子はそう言うと、アンソニーの真似をしてぎこちないウィンクを返してきた。
「ありがとう。褒めてもらって嬉しいよ。じゃあ、君の名前を聞いてもいいかな?お姫様」
「アリスよ♪」
ヒューッという口笛に続いて、「なんて可愛い名前なんだ!僕はアンソニーだよ」
そう言うなり、「王子」は片手でひょいと「お姫様」を抱き上げ、先生たちに促されるまま、家の中へ入っていく。
「まあまあ、アリスったらすっかり甘えてしまって。ダメですよ、大切なお客様なんですからね。ご迷惑かけちゃいけません」
申し訳なさそうに頭を下げるポニー先生に、「こんな可愛らしい歓迎を受けて光栄ですよ。迷惑だなんてとんでもない」とアンソニー。
王子様に抱かれてご機嫌なアリスは勿論のこと、他の子たちは――男の子も女の子も――皆大はしゃぎでアンソニーの周りを囲んでいる。
「みんな分かるんですわ、あなたの優しさが。だからこんなになついて。まるでキャンディが里帰りしたときのようだわ」
レイン先生は目を細め、感慨深げに若者を見つめる。
取り囲む子供たちの中に、皆の輪から少し離れたところで、好奇心たっぷりの目をして様子をうかがっている男の子がいるのに気づいた。
(あの肌の色・・・もしかして白人と黒人のハーフかな?)
目を逸らさずこちらを見ているのに、決して近づいてこようとしない。
人見知りが激しいのだろうか。
それにしては何か語りたげな目の動きが、アンソニーを釘づけにした。
アリスを抱っこしたまま、その子のほうへ足を向ける。
途端に彼は逃げるように部屋から出て行ってしまった。
「あ・・・!」
アンソニーの焦った声が漏れる。
追いかけようにも周りは子供たちでいっぱいで身動きが取れない。
仕方なくあきらめ、小さなため息を一つつく。
「あの子が気になりますか?」
様子を見ていたらしいポニー先生が優しく問いかけた。
「ええ、ちょっと。なんだか話したそうな目をしてたように思えたものですから」
「やはりあなたは子供に敏感な方なんですのね。あの子、スリムっていいまして。少しばかり人見知りする子なんです」
ポニー先生の説明に、年長の男の子が「少しばかりじゃないよ、かなりだよ。だってみんなで遊んでる中に絶対入ってこないもん」と口をへの字に曲げた。
「でもキャンディにだけは違うわ。いつもそばにくっついて離れないもの。きっと大好きなのよ。キャンディは優しいし面白いし、木登りも教えてくれるもん」
そばにいたおませな女の子が得意顔で言い添えた。
聞いていたレイン先生の口元がほころぶ。
「そうね、みんなキャンディが大好きなのよね」
子供たちは口を揃えて「そうそう、大好き!」「また戻ってきてくれたらいいのに」「遠くに行っちゃってつまんなーい」と叫び、大合唱になる。
アンソニーは嬉しくてたまらなかった。
キャンディが子供たちにこれほど慕われているのが誇らしい。
今はここにいない愛する人を胸に思い浮かべ、目を細める。
彼の満足げな顔を見たポニー先生が、そっと囁く。
「ここではキャンディがこの子たちの母であり先生であり親友なんですよ。男の子にとっては恋人でもあるかしらねぇ」
「恋人」という言葉を口にした直後、何を思ったのか、先生は少しだけ意味ありげな視線をこちらに向けてきた。
「もしかして、あなたにとってもそうなのでは?」
瞬間、アンソニーはあっという顔をして、照れ臭そうに先生を見つめ返した。
「さあさあアリス、そろそろお客様の腕から降りてちょうだい」
ポニー先生が促すと、アリスは素直に「はーい」と言ってアンソニーを真正面から見る。
「またあとで抱っこしてくれる?」
「勿論だよ、お姫様」
サファイアの瞳が優しく微笑み、ゆっくり静かに下へ降ろしてやった。
子供たちと別れ、二人の先生に案内されて廊下を進んでいく。
「ここは昔からある、古いほうの建物なんですよ。もう少し行くと新築した別館になって、そこに客間がありますから是非そちらへ」
ポニー先生がにこやかに言うと、レイン先生も口を添えた。
「本当に何もかもアードレー氏のおかげなんですのよ。手狭だったポニーの家を増築してくださって。真新しい奇麗なお部屋に子供たちも大喜びでして。頼もしくて素敵な大おじ様に出会えたキャンディは、つくづく幸せ者です」
聞いた途端、なぜか胸がチクリと痛んだ。
キャンディにつながるすべての人たちを、簡単に幸せにしてしまうアルバートの人間性。そして経済力。
逆立ちしてもかなわない。
やっと研修医になったばかりの経験浅い自分が腹立たしく思えてくる。
「アンソニーさん?」
何かを考え込んでいる若者に気づき、二人の先生はほぼ同時に、案じた声で様子をうかがった。
ハッとしたアンソニーは慌てて笑顔を作る。
「叔父がお役に立てたのなら、僕としても嬉しい限りです」
そう言った直後、妙な脱力感が全身を覆った。
自分で言った台詞のはずなのに、なんだかうさん臭くて罪の意識さえ感じる。
(本当にそう思ってるのか?アルバートさんがこの人たちのためにしてきたことのすべてを妬ましく思ってるんじゃないのか?キャンディが感謝して信頼しきってることが悔しくてたまらないくせに。お前の心は嫉妬でいっぱいだ。醜いぞ、アンソニー!)
自分に向けて放った言葉が胸の中で黒い渦を巻き、自己嫌悪に油を注ぐ。
こんなにも心が狭いことが、ほとほと嫌になってきた。
「さあ、ここからが建て増しした部分なんですのよ。せっかくいらしてくださったんですから、是非新しいほうへどうぞ」
ポニー先生の声で我に返ると、新築特有の木の香りが心地よく鼻をくすぐった。
木材の色も、古いものとは全然違う。
見目麗しいには相違ないが、そちらに足を向けるのはなんとなく気が進まなかった。
真新しい空間よりも、昔からある――キャンディが暮らした証(あかし)が残り、彼女の香りが染みついている部屋で、幼い日のキャンディを感じたい。
そうしたら、果たせなかった約束のほんの少しでも、キャンディに返せる気がしたから。
「僕は古いほうの部屋で結構ですよ。というより寧ろ、そちらでお話を伺いたいんですが・・・駄目でしょうか」
申し訳なさそうに顔色をうかがう若者に、ポニー先生は「かまいませんよ。でも、どうしてわざわざ古いほうで?」と尋ねる。
「彼女が・・・キャンディが住んでいたところを見たいんです」
うっかりすると聞き漏らしてしまいそうな頼りなげな声で答えると、アンソニーは下を向いた。
その様子ですべてを察したのだろう、二人の先生は微笑んだだけで、何も言わずにいてくれた。
昔からある小さな古ぼけた客間。
案内されて椅子に腰かけたときには、大きな窓から西日が差し込む時刻になっていた。
いくら夏の日が長いといっても、そろそろ丘に登らないと日没になってしまう。
アンソニーはほんの少し焦りを感じた。
「おかまいなく」と念を押したにもかかわらず、手作りのアップルパイと紅茶をふるまってくれたレイン先生に感謝しながら、にこやかに世間話をする。
研修医として頑張っていること、アルバートの噂話、そしてついこの前新聞に載った記事――自分がアードレー家の一員であると公表されたこと――にも話が及び、初対面とは思えないほど和やかな雰囲気になった。
だがフェリシアと婚約することになるだろうという話だけは、どうしても出来なかった。
誰とでも話を合わせられ、相手を幸せな気分に出来るのは天性のものなのだろう。
アンソニーだけではない。アルバートもアーチーもステアも、アードレーの血を引く者は皆、人の心を柔らかくする不思議な術(すべ)を持っているらしい。
輝くような笑顔で心の扉を叩いてくるこの若者を、先生たちは眩しそうに見つめた。
「あなたのそういうところに、キャンディは惹かれたのでしょうね」
話し込んで随分経った頃、ポニー先生がぽつりと言った。
アンソニーはあっという表情になる。
「ごめんなさい。ぶしつけなことを言ってしまいまして。でもね、本当を言うと、一度でいいからお会いしてみたかったんですよ、あなたに」
そう言うなり、先生は口元を緩めた。
強くなってきたオレンジ色の光を頬に受け、メガネの奥の目を細める。
レイン先生も、「私もですわ」と満足げに笑う。
「もう何年前になるでしょう。せっかくアードレー家の養女になったというのに、いきなりここへ帰ってきてしまって。理由は何も言いませんでしたしね。あのときはただもうびっくりしたけれど、間もなく分かりましたわ。キャンディの気持ちは痛いほど」
懐かしそうに言うポニー先生。
「本当にそうでしたわね。抱きしめてやりたいほど、あの子は一人で悲しみに耐えていましたもの」とレイン先生。
二人はなんのことを言っているのだろう。
目で問いかけるアンソニー。
「毎晩うなされていたんですよ。ある人の名を繰り返し叫んで、『なぜ死んじゃったの?』とね。目にいっぱい涙をためて。その人が誰なのか、キャンディは一言も言いませんでしたけど、私たちにはすぐ分かりましたわ。あの子にとって、どんなに大切な人だったか」
二人の先生は顔を見合わせる。
そして正面に向き直ると、ポニー先生はアンソニーをまっすぐ見つめた。
「あれは紛れもなく、あなたの名前でした」
サファイアの瞳が、驚きで大きく見開かれる。
「大好きだったのでしょうね。あなた方はお互いのことを」
オレンジの太陽がアンソニーの横顔に照りつけ、そのせいだろうか、光が瞳に溶け込んで、神々しいほどキラキラ輝いた。
「そんな日もありました・・・」
その声は小さかったが、強い想いに満ち溢れていて、過去のすべてを受け入れているようにさえ感じた。
「人生にはいろいろ不思議なことが起こるものですよ。次の曲がり角を曲がったら、思ってもみない運命があなたを待っているかもしれません。神様がどんな魔法をかけてくださるか、楽しみに待ちましょう」
微笑むポニー先生を見て、アンソニーは笑顔になる。
「そう言っていただけると救われます。素敵な魔法をかけてもらえるように精進しないといけませんね」
「あなたなら大丈夫。きっと最高の運命が、行く末を明るく照らしてくれますよ」
二人の先生は口を揃えて勇気づけてくれた。
アンソニーに尋ねられたので、窓を開け放ち、上のほうへまっすぐ伸びていく緑の小道を指差した。
ポニーの丘へ続く道だ。
太陽は尚も眩しい光を投げ続け、道は茜色に染まっているように見えた。
幻想的な風景に思わず息を呑む。
先生たちに礼を言って客間をあとにし、玄関に出ようと、さっき歩いてきた廊下を戻っていく。
年季の入った木目の床。温もりを感じる壁。そこここに飾られている子供たちの描いた絵。
その一つ一つにキャンディの香りを感じる。
レイクウッドへ来るまでの12年間、彼女は間違いなくここで過ごしたのだ。
その感触を試したいのか、愛しいものにでも触れるように、アンソニーは壁を指でなぞり、キャンディの息づかいを感じた。
立ち止まり、そっと目を閉じる。
幼い日のキャンディとアニーが、廊下をパタパタ走っていく音が聞こえたような気がした。
玄関に着くと、さっきの子供たちが待ちかまえていたように客人を取り囲んだ。
その中には小さな「お姫様」のアリスもいた。
時間が許すなら外へ出て、とことん遊んでやりたいが無理な話だ。
「また来るからね」というお決まりの言い訳でなだめすかして外へ出る。
「つまんなーい」という声が飛び交い、後ろ髪を引かれる。
とりわけ、今にも泣きだしそうなアリスを見たら胸が痛んだ。
たまらず抱き上げ、柔らかい頬にそっとキスする。
途端にアリスは、とびきりの笑顔になる。
さっきまでかいていたベソはどこへやら、真夏の草原のような、眩しいほどの輝く笑顔になった。
「おちびちゃん、笑った顔のほうがかわいいよ」
無意識に出た言葉にハッとする。
あの日も――遠い昔、バラの門で初めてキャンディと会った日も、自分は彼女にそう言った。
別に狙ったわけでも、かっこつけて気を引きたかったわけでもないのに。
つくづく縁のある台詞だと思ったら、急におかしくなってしまった。
「さあさあアリス、お客様は先を急いでいらっしゃるのよ。こっちへいらっしゃい」
バトンタッチしようとレイン先生は手を伸ばし、アンソニーに抱かれているアリスを引き受けてくれた。
「よかったわね、素敵な王子様に会えて」
抱っこしているアリスにウィンクすると、彼女は上機嫌で、「うん!王子様大好き。だってかっこいいんだもん」とにっこり笑う。
他の子たちにも笑顔が伝染し、「アリスはいいな~。王子様をひとり占めで」と羨ましそうな声が上がる。
「本当にありがとうございました。ご馳走になった上、思わぬ楽しい時を過ごせました。感謝します」
アンソニーが頭を下げると、ポニー先生は名残惜しそうな顔になった。
「お礼を申し上げるのはこちらのほうですわ。幸せな時間をありがとう、アンソニーさん。出来ることならまたいつの日か、是非お会いしたいです」
言ったあとで切なくなった。
果たしてこの若者にまた会う日などやってくるのだろうか。
頭では無理だと分かっているのに、なぜかもう一度会いたくてたまらない。
レイン先生も同じ気持ちで、「また遊びにいらしてくださいね。待っていますよ」と念を押す。
アンソニーは胸が熱くなった。
一挙に母親が二人も出来た心境になり、去りがたい思いでいっぱいになる。
「そう言っていただけて僕は本当に幸せ者です。今度お会いする日まで、お二人ともどうぞ元気でいらしてくださいね」
また深々と頭を下げたあと、二人と目を合わせないように、くるりと踵(きびす)を返した。
もう少しで泣き出しそうな顔を見られるのが恥ずかしかったから。
そして丘へ続く道を、一歩一歩踏みしめていく。
その瞳には涙が溢れ出し、足を踏み出すたびに頬を伝ってこぼれ落ちた。