「君はアルバート君じゃないのか?もし違うなら、わしの目もいよいよ焼きが回ったということじゃな」
「いえ、そんな・・・。間違って当然ですよ。なんせ似てるそうですから、叔父と僕は」
「叔父だって?」
「はい、アルバートは叔父で、僕は甥のアンソニーといいます」
その名を聞いた途端、男は更に驚きの声を上げた。
「ああ、昨日の新聞に載った青年か!実はアードレー家の御曹司は生きていたっていう、あの記事じゃろ?ハーバードで研修医をしてるそうじゃのお。落馬事故で重体になったらしいが見事な復活じゃないか。こりゃ驚きだ。それにしてもアルバート君に似てる。こんなにそっくりな甥っ子がいたなんて全然知らんかった」
かなり興奮しているのか、一方的にしゃべりまくる老人にアンソニーは唖然とする。
その様子に気づいたのか、やっと自己紹介してくれたのは五分以上経ったろうと思われる頃だった。
御者もさすがにしびれを切らしている。
「わしはマーチンと言ってな、ポニーの家のすぐそばで診療所をやっとるんだ。今、往診の帰りだ。運動のために少し歩こうかと思ってここで降りたんじゃよ」
今度はアンソニーが驚く番だった。
今さっきジミィからマーチン医師のことを聞かされたばかりだったから。
まさかすぐに当の本人に会えるとは思いもしなかった。
「存じてますよ。つい今しがた、ジミィという少年から先生のことを聞いたばかりです。シカゴで叔父の面倒をみてくださったとか。いろいろお世話になってありがとうございました」
「いやなに、大したことはしとらんよ。懸命に看護したのはキャンディじゃから。今アルバート君が元気でいられれるのは、まさにキャンディのおかげなんじゃよ」
記憶を失った叔父をキャンディが献身的に支えた話は以前耳にしたが、実際に様子を見ていたマーチンの口から直接聞いたら複雑な気分になった。
かいがいしくアルバートの世話をするキャンディ。信頼し合う二人――そんな姿を思い浮かべ、また胸がちくりと痛む。
「若くていいのお。まだどんどん吸収できる歳じゃ。ハーバードでしっかり学んで、いつかこういう小さい村で腕を振るってほしいもんじゃな。わしもすっかり歳をとったから、あんたのような若くて有望な医者にあとを任せられると安心なんじゃが」
嬉々としたマーチンの声で、アンソニーはハッと我に返った。
「ご期待に沿えるように頑張ります。実はこういうところに診療所を持つのが僕の夢なんです。大都市の病院なら医者が沢山いて患者さんは困らないけど、辺鄙(へんぴ)なところでは適切な医療を受けられない人が大勢いる。僕はそんな人たちの力になりたいんです。たとえ微力でも。だから出来るだけのことをハーバードで吸収しようと思ってまして」
「そりゃあいい。若いのに感心な男だ。さすがはアルバート君の甥っ子だけのことはある」
「いえ、そんな・・・」
褒められたのが照れ臭かったのか、アンソニーは赤くなって下を向いた。
「頑張るんじゃよ」
老人は若者の肩をポンと叩く。
「誰もが経験できるわけじゃない恵まれた環境にいるんだ。勉強したことを患者に還元するのがあんたの役目じゃ」
ニカッと笑うとマーチンは挨拶代わりに片手を挙げて歩き始める。
「ありがとうございます。先生もお気をつけて」
去っていく老人の背に礼を言い、アンソニーは馬車に乗り込もうとした。
その直後、振り返ったマーチンの声が少し離れたところから聞こえてくる。
「あんたみたいな男ならキャンディといいコンビになっただろうに残念だよ。医者になるのがもう少し早かったら、わしのところで雇ってやったのに」
瞬間、心臓が踊った。
冗談とも本気ともとれないマーチンの言葉が、胸の泉にさざなみを起こす。
(こんな短時間の会話でキャンディへの想いを見抜かれたのか?まさか・・・な。でももしそうだとしたら、なんて鋭い人なんだ!)
思いがけない老人の別れ文句に心をかき乱されながら、アンソニーを乗せた馬車はシカゴのユニオン駅に向けて夕暮れの中を走り出した。
ようやく駅にたどり着いたアンソニーは夜行列車に飛び乗り、次の目的地を目指す。
長い時間汽車に揺られて降り立ったのは、ニューヨークのグランドセントラルステーション。
どうしても会っておきたい人物がいた。
「彼」のアパートなど知らないので、道ゆく人に尋ねながら、先ずは劇団の事務所を目指す。
なんとか住まいを聞き出せると思ったから。
受付で尋ねると意外にあっさり、彼が今ここに来ていることを教えてくれた。
彼がいるのが分かった瞬間、緊張したのか、心臓の鼓動が高まり始める。
限りない幸運に感謝しながら「僕はアンソニー・ブラウンといいます。そう言っていただければ分かるはずです」と伝える。
対応してくれた女性はにっこりしてうなずいた。
「そちらにお掛けになってお待ちください」
「ありがとうございます」
会うのを拒否されないよう神に祈り、彼女が奥に消えていくのを見送る。
さすがはストラスフォード。
事務的な用向きで役者たちが立ち寄るだけの簡易的なオフィスのようだが、来客用のテーブルセットがこぢんまりしたスペースにしつらえてあり、それを見ただけでこの劇団がブロードウェーで一二を争うシェークスピアカンパニーであることが認識できた。
上品なベージュを基調とした部屋。
趣味のいい絵画が小さな額に収まって、壁のあちこちに展示されている。
アンソニーは物珍しげにそれらを眺めて楽しんだ。
ひととおり目を通すと、座り心地の良さそうな椅子にやおら腰を下ろす。
西側の小窓から眩しいほどの夕陽が差し込んできている。
五分ほど待たされたろうか。
さっきの受付嬢と一緒にお目当ての人物が入ってきた。
居留守など使わず、ちゃんと顔を出してくれたことが、この上なく嬉しい。
アンソニーは跳ねるように立ち上がって軽く頭を下げると、緊張しながら「やあ、久しぶり」と微笑んだ。
「ホントだな。最後に会ったのは誰ぞの結婚式で君がニューヨークに来たとき以来の気がする。誰の結婚式だったろう?確かキャンディの病院の関係者」
「ジェフ先生とレイチェルだろ?」
「悪い。俺はよく知らないんだが、そんなところだろう」
バツが悪そうに苦笑いする男を見て、アンソニーはホッと息をついた。
「嬉しいよ、会ってくれて。もしかして無視されるんじゃないかと気が気じゃなかった」
「まさか」
その男──テリュース・グレアムは、相変わらずの端正なマスクに、彼にしては珍しい、愛想のいい笑みを浮かべた。
「それにしても仰天だね。君がブロードウェーへ、しかもわざわざこんなところまで来るなんてさ」
テリィが初めて自分のことを「君」と呼んだので、アンソニーはひどく驚いた。
今まではずっと「あんた」だったのに、どういう風の吹きまわしだろう。
答えるのも忘れ、目をしばたいていると、テリィはまた笑った。
そしてすぐさま真顔で付け加える。
「新聞記事、読んだよ。婚約するんだって?事情はよく知らないが、いろいろ大変そうだな」
「まあ・・・ね」
反射的にあいづちを打ったあと、相手の目を覗き込むと、決してからかっているのではなく、真剣に同情してくれているらしい優しい色を見出して安堵する。
「それはそうと、キャンディに会っただろ?シカゴで」
「ああ。実を言うと今日訪ねたのは、そのへんの話をしたかったからなんだ。迷惑でなければね」
意を決して言うと、テリィはプッと吹き出した。
「分かってるさ、そんなこと言われなくても。君が俺に用があるっていったら、キャンディ絡みに決まってる。まさかニューヨークの名所案内を頼みに来たわけじゃあるまい」
「それもそうだ」
照れくさそうに目を伏せると、アンソニーは鼻の頭をポリポリ掻く。
西側の窓から濃いオレンジの光が差し込み、テリィは眩しそうに目を細めた。
「もうすぐ日が暮れる。酒でも飲みながらのほうが本音で話せるぜ。良かったら一緒に来いよ。行きつけのバーがあるんだ」
快く誘ってくれたことが信じられず、アンソニーはまたもや青い目をぱちくりさせながら、勢いよくうなずいた。
あれだけの確執があった相手なのに、まるで古くからの友人のように接しているのが不思議でならない。
思わず相好を崩すとテリィも応じた。
「もしかしたら、飛び入りで意外な人物が加わるかもしれない」
さて誰のことだろうとアンソニーは小首を傾げる。
「それは会ってからのお楽しみってことで。さあ行こうぜ」
軽快なウィンクと共に、涼しげな声が耳元に届いた。
連れて行かれたのは、ダウンタウンの外れにある瀟洒なショットバー。
店の照明はほの暗いが陰鬱な雰囲気はなく、寧ろ心を落ち着けてくれる柔らかな空気に包まれている。
薄明かりの中、視界に飛び込んできたのは趣味のいいアンティークの数々。
客層も上品らしく、ワイワイガヤガヤした不協和音は耳に入ってこない。
それぞれが節度を守って酒を楽しんでいる──そんな感じだ。
テリィはここの常連と見えて、マネージャーらしき男に目で合図すると奥のVIPルームに案内された。
物珍しそうについて行くアンソニー。
他の客とは仕切られた、程よい広さの部屋に通されると椅子を勧められた。
おどおどしながら座る。
「何がいい?俺は普段スコッチ党だけど、今夜は再会を祝してワインで乾杯といくか」とテリィ。
「任せるよ」
「よし、決まりだ!マルゴーを頼む」
「かしこまりました」
マネージャーは丁重に頭を下げて退出する。
高価なワインをいとも簡単に注文するからアンソニーはギョッとして目を白黒させた。
「ストラスフォードのトップともなるとスケールが違うな。そんな高いワイン、僕なら一生かかっても飲めやしない」
「何をおっしゃる、アードレー家の御曹司が」
「それは昔の話さ。今はしがない研修医・・・」
そこまで言いかけ、慌てて口をつぐんだ。
テリィはおかしそうにクックッと肩を震わせる。
「まだ癖が抜けないようだな。アードレー家を追われたのは以前のこと。ついこの前、やっと古巣に戻ってこられたんじゃないか。今じゃ社交界の誰もが知ってるぜ。アンソニー・ブラウンは立派に生きてるってね」
ズバリ指摘されたのが照れくさくてアンソニーは苦笑いした。
「そこまでなら、まあ良かったんだけどね」
「おまけで婚約が決まったのが最悪だったかい?」
「ご明察!」
肩をすぼめると、さっきのマネージャーがワインのボトルとチーズの盛り合わせを持って戻ってきた。
「他にご用の際は、なんなりとお申し付けください」
「ありがとう」
「ではごゆっくり」
アンソニーにも一礼し、静かに出て行った。
「品のいい店だな」
「ああ。ストラスフォードに入団したての頃、団長に連れてきてもらって、それ以来贔屓(ひいき)にしてるんだ。尤も当時はVIPルームになんて全く縁がなかったけどね」
照れ笑いしたあと、内ポケットを探ってタバコを探し当てると一本取り出す。
物欲しそうにしているアンソニーに気づき、意外だという顔をするテリィ。
「まさか吸わないだろ?品行方正な坊ちゃんが」
「バカ言え。いくつだと思ってる。酒もタバコもやるよ」
「へえ~。こいつは驚きだ」
「研修医になってから、さすがにタバコは控えてるけどね。うるさい婦長が睨みを利かせてるし」
アンソニーは苦笑いすると鼻からフッと息を吐いた。
「しかしまあ、あんた・・・いや、君とこうやって酒を酌み交わす日が来るとは想像もしなかったね」
「同感だ。君とは生涯、犬猿の仲だと思ってたよ」
「俺もさ」
今度は二人同時に声を立てて笑う。
グラスにワインを注ぎ、「Cheers!」と言いながら景気良くグラスをカチンと鳴らす。
「ところで今日はどうしたんだ?仕事漬けの生真面目研修医が、わざわざニューヨークまで足を運ぶなんて」
真顔になったテリィが椅子の向きをこちらに変えた。
「いや・・・その、君に謝らなくちゃいけないと思ったのと頼みたいことがあったから」
「謝る?」
なんのことだと言いたげに青い瞳を覗き込む。
「キャンディじゃなくスザナを選んだ君を非難したことがあったろう?事情も知らないで『好きならなぜそばにいなかったんだ』とか無神経なこと言ってさ。なんのことはない、結局僕も同じことをしようとしてる。今となれば君がどんなに苦しんだかよく分かるよ。申し訳なかった」
「で、謝りに来たってわけか」
アンソニーはうなずいた。
「正直、あの頃はどうにかなりそうなほど落ち込んださ。キャンディとは別れるし、好きでもない女を一生おぶって、それでも生きなきゃいけないのかって絶望的になった。だけど今になって、俺は初めから負け犬になってたんじゃないか、諦めてたんじゃないかと思うようになった」
「え?」という表情のアンソニー。
「つまりさ、よく考えもしないで、やぶからぼうにキャンディと別れる道を選んじまったってことさ。まだ青臭いガキだったんだな。スザナを励まして精一杯看病してやれば誠意は通じたはずだ。あとはもう、時が解決するしかない。しがらみがゆっくり溶け出した頃、スザナを家族に託してもう一度キャンディの手を取れば良かったんだ。たとえ何年かかろうとな。そうしなかったせいで、キャンディも俺も、延いてはスザナも、みんなが間違った道を進んじまったのさ」
遠くを見るような目をしてテリィは苦い過去をぶちまけた。
「君は同じことをするなよ、アンソニー」
静かに笑う顔は、数々の試練を乗り越えた今だからこそ見せられる安堵に満ちている。
「フェリシアのことを言ってるのか?」
「それ以外に誰がいる。正式に婚約する前に、もう一度よく考えるんだな。どうしても彼女と結婚しなきゃいけないのか。そうだとして、夫婦になったあと本気で愛せるのか」
そこまで言って黙り込み、短く浅い吐息をつくと、青い目を見て念押しするように繰り返す。
「尊敬できる同僚だとか、大切な友人としてじゃなく、ズバリ『女』として愛せるか、だ」
言われた瞬間、アンソニーはゴクリとつばをのみ込んだ。
「その覚悟がないなら一緒になるべきじゃない。これはスザナに思い知らされた苦い経験さ」
手もとのグラスを取ると、テリィは一気に飲み干した。
BGMに流れているしゃがれたリズムが、今の気分にぴったり寄り添っている。
「尊敬やいたわりの気持ちだけじゃ、やっていけないって言いたいのか」
アンソニーが真顔で言った途端、「あはは」という乾いた笑い声が部屋全体を揺すぶった。
「試してみるといいさ。案外君なら上手くいくかもしれない。まあ俺の場合、拷問以外の何ものでもなかったけど」
「・・・・・・」
「第一スザナ自身がダメになってった。女ってのは俺たちが思ってる以上に敏感だぜ。同情だけで一緒にいることが分かると、途端に恨めしそうな視線を送ってくるようになるんだ。それならまだいい。そのうち『どうして私を愛してくれないの?』って顔をする。そのプレッシャーに耐えられればなんとかなるかもしれないが、俺はダメだった」
テリィはまたグラスに口をつける。
話に引き込まれたアンソニーは、グラスの中に高価なマルゴーがまだ殆ど手付かずで残っているのをすっかり忘れていた。
スザナはどんな気持ちでテリィのそばにいたのだろう。
そして何がきっかけで、空しい恋にピリオドを打つ気になったのだろう。
知りたい気持ちは声になって溢れ出した。
「スザナだって、初めは君と一緒にいられればそれでいいって思ってたんじゃないかな。なのに、いつの間にか高望みし始めた。愛して欲しい。自分だけを見つめて欲しい。キャンディのことは忘れて欲しい──そんなふうになったんだろう?」
「ご名答!で、皮肉なことに女は大体同じような思考回路を持ってる。こと恋愛に関してはな。彼女は頭がいいから他の女とは違う。キャリア組だから、冷静だから、物分かりがいいから・・・いろいろ理屈を並べて自分の女を特別扱いしようとする奴が多いけど、それは男目線で見た都合のいい解釈でしかないんだ。とどのつまり、どの女性もみんな同じってことさ。だから俺は心配なんだよ、君とフェリシア嬢の行く末が」
「だからと言って彼女を見捨てるわけにいかないよ。もし僕が結婚してやらなきゃ・・・」
何を思ったのかテリィは途中で遮り、アンソニーの肩を掴んでグラグラ揺すった。
「今なんて言ったか気づいてるか?『結婚してやらなきゃ』って言ったんだぜ」
サファイアの目は驚いたようにカッと開き、それ以上言葉を続けることが出来ない。
深層心理をえぐり出された気がして尋常でないほど動揺した。
「結婚は義務感からするもんじゃない。そんな気持ちになること自体、初めからつまずいてる証拠さ。だから何度でも言わせてもらう。なんとかならないのか?彼女と結婚する以外、解決する方法はないのか?」
「分からない。少なくとも今は何も思いつかないよ。どうしようもないんだ」
救いを求める瞳には憂いが幾重にも重なり合って、ドロドロした澱(おり)のようなものがたまって見えた。
八方塞がりの現実に耐えかね、アンソニーはがっくり肩を落とす。
「とにかく話を聞いてもらえてありがたかったよ。君がキャンディとスザナの狭間でどんなにか苦しんだと分かって、尚のこと申し訳なく思った。世間知らずだった僕をどうか許して欲しい。いや、今だってまだ何の力もない青二才だ。大口叩いたって、たった一人の女性を幸せに出来ない僕はなんてふがいないんだろう!それにホントはまだこんなにキャンディが好きなんだ。実際バカみたいだと思うよ、恋敵の前で泣き言を言ったりして。でもどうしていいか分からないんだ。だからもう、君に頼むしかない。僕が幸せに出来ない分、キャンディを愛してやってくれって」
何を言っているのか自分でも分からないくらい、頭の中は支離滅裂だった。
こんなに取り乱して子供みたいに駄々をこねて、さぞや馬鹿な奴だとテリィは思うだろう。
だがそんなことを気にする余裕は残っていない。
すべてが絶望的で、奈落の底を這いずり回っている気分だ。
うなだれたままの肩が小さく震える。
ズボンの膝に、幾粒かの涙がこぼれ落ちた。
掻きむしったブロンドの髪も小刻みに揺れている。
それを見ているだけでテリィは息苦しくなった。
何年か前の自分と同じような苦悩が蘇る・・・いや、もしかするとそれ以上かもしれない。
キャンディのすぐそばに、テリュース・グレアムという婚約者が存在する分、あの頃の自分よりずっと切ない気がした。
少なくともヤコブ病院の階段でキャンディを抱きしめたあのとき、彼女のそばには婚約者などいなかったのだから。
自分たちさえ再会を誓えば、「二人で歩く未来」は夢で終わることはなかった。
だが今のアンソニーは・・・
テリィはそっと相棒の肩を起こし、手元に置かれているナプキンを握らせる。
「まだいくらも飲んでないうちから、なんだい。泣き上戸だったとは驚きだな。ほら、それで顔を拭けよ。こんなとこをキャンディが見たら一発でドン引きだぜ」
顔を幾分上に向けると、テリィが笑みを浮かべているのが見えた。
その瞳は限りなく優しい。
相変わらずクールだが、そこに本気の友情が芽生えていることを直観し、得も言われぬ至福を感じた。
「キャンディのことは心配いらない。俺が引き受けるにせよ、他の誰かが引き受けるにせよ、彼女がそばにいてくれる限り、精一杯愛して守る」
「そばにいてくれる限り?」
含みのある言い方をされたのでアンソニーは面食らった。
「男と女ってのは何が起こるか分からないからな。これで絶対決まり!なんてことは、生きてる限り、多分あり得ないんだ。結婚してもまだ未練たらたら揺れてる奴もいるし」
最近になって漸く心を開き合った「誰か」の顔を思い浮かべながら、テリィはクックッと声を立てて笑った。
「でも嬉しかったよ。君がここまで本心を見せてくれて」
greenish blue の瞳は、穏やかで温かい色をたたえ、そう言った。
「お返しに、と言っちゃなんだけど、俺も腹を割って話そう。今日初めて君の顔を見たときは秘密にしておこう・・・いや動揺させちゃいけないから秘密にしておくつもりだったんだけど、君がここまで本音をぶちまけたんだ。俺もそうしなきゃフェアじゃない」
意を決したようにフーッと息を吸い込んで吐くと、真っ直ぐサファイアの瞳を見つめる。
これから何を言われるのか──それが怖くてアンソニーは一瞬身構えた。
「いいか、一挙に言うぞ。伝えなきゃいけないことは二つだ。一つは・・・キャンディはまだ君を愛してる。愛してるから揺れてる。だから俺はアンソニーに会って話して来いって、あいつの背中を押した」
青い目が大きく見開かれる。
彼女がシカゴに来たのはテリィの指図だったなんて!
休暇が取れたからエルロイやアニーやアレクシスに会いに来たのだとキャンディは言っていた。
あれは嘘だったのか。
「信じられない。まさか君が彼女を・・・。知らなかったよ」
感謝とも驚嘆ともとれない声で呟くと、深いため息をついてグラスを見つめる。
その直後、頭の中には「キャンディがまだ自分を愛して揺れている」という台詞が鳴り響いた。
途端に心臓がドクンドクンと音を立て、大きく脈を打ち始める。
──キャンディはまだ僕を愛してる!──
我知らず顔がほころんだ。
それを見られたかどうか定かではないが、妄想に耽ろうとするのを現実に引き戻すかのように、テリィは慌てて「まだもう一つあるぞ。伝えておかなきゃいけないこと」と言った。
ハッとして顔を上げる。
「これを言ったら、もしかして俺は殴られるかもしれない。『君の分までキャンディを愛しぬいて、命に代えても幸せにする』って誓ったくせに、舌の根も乾かないうちに俺は大失態をやらかした。いや、正確に言うと、やらかしそうになったんだが」
逡巡(しゅんじゅん)するテリィを見てもどかしく思った。
大失態とはなんのことだろう。
まさかもうキャンディと深い仲になって・・・。
そう思った瞬間、常識外れの考えを持った自分が滑稽に思えた。
(何が「まさか」だ!キャンディとテリィは婚約してるんだぞ。「そういう」仲になったって、なんの不思議もない。当たり前のことじゃないか。キャンディに貞操を期待するほうがどうかしてる)
穏やかに流れていた気持ちが、彼ら二人が愛し合う姿を想像しただけで、どうしようもなく掻き乱された。
いわれのない嫉妬に狂う自分を抑えられなくなってくる。
まだこんなにもキャンディを愛しているんだと実感せざるを得ない瞬間だった。
(何を苛立ってるんだ?お前が結婚しようとしてるのはキャンディじゃない。フェリシアだ!)
悪魔の高笑いが聞こえた気がした。
その直後、重い沈黙を破ってテリィがやっと口を開いた。
「俺は・・・ほんの一瞬だったがシェリルになびいていた。キャンディを想う気持ちよりずっと強くて激しかったと思う」
予想もしなかったことを聞かされ、何度目かの衝撃を食らう。
今日はテリィの告白にやられっぱなしだ。
昔の自分だったら、聞いた途端に激怒して間違いなく殴りかかっただろう。
だが今は不思議とそんな気持ちにならない。
恐らくテリィは揺れ動く想いを許せず、人知れず悩んで苦しんだに違いない。
沈み込んだ彼の背中を思い浮かべただけで自分自身が胸苦しくなってくる。
「17でキャンディと出会ってから俺はずっとあいつひとすじだった。他の女になんか目もくれたことはない。スザナのそばにいたときだって何も感じなかった。なのにシェリルだけは違ってた。まるで心の隙間を埋めるようにすんなり入り込んできて、気づいたら頭をいっぱいに占めてた。その存在は日に日に大きくなってキャンディを呑みこんでいくんだ。こんなことは初めてだった。怖かったよ。これ以上心を持っていかれるのが」
一気に話すとグラスのワインをグイッと飲み、ため息をついてうつむいた。
アンソニーの反応を恐れたからだろうか。
「そういうことだってあるさ。キャンディへの想いが褪せてしまうほど魅力的だったってことだろう?シェリルは。よく分かるよ。もし僕が君だったら、やっぱり彼女に惹かれると思う」
初めて会ったときの凛としたたたずまい、それでいてこの上なく優しい眼差しが脳裏をかすめる。
「あまり自分を責めるなよ。他の女性に入れあげた点では僕だって同罪なんだから。いや、もっとひどいな。君は未遂に終わったけど、僕の場合完全に罪を犯しちゃったから」
「そうなのか?」
テリィは少し顔を上げ、いたずらっぽく笑った。
「白状するとね」
ばつの悪そうな顔が照れながら言う。
「真面目人間の君でも時にはつまずくことがあるんだな。アンジェラっていう女性のことだろ?キャンディから聞いたよ。尤もそれは記憶を失ってる最中のアクシデントじゃないのか?」
「まあ・・・な」
「なら仕方ない。意識の外でやってた恋にまで責任もてないもんな。そりゃ不可抗力だ」
「そう願いたいよ。だけどやっぱりスッキリしない。心のどこかにひずみがあるからキャンディ以外の女性が入り込んでくるんじゃないかな。アンジェラを好きになったのは、そういう甘さのせいさ」
「あまり自分を責めるなって言ったのは君だろう?もうよせよ。過去を悔いたって始まらない」
慰められ、アンソニーは少しだけ気が楽になった。
「シェリルを好きになって初めて分かった。どんなに好きなつもりでも心の中には常に迷路がある。ほんの小さなことで進む道を間違えると、全く違う運命がぱっくり口を開けて待ってるんだ。そこに足がはまるとたちまち奈落へ落ちていく。容易には上がってこれない」
「おいおい、シェリルは奈落かい?」
肩をすぼめるアンソニーに、「もののたとえだよ」と笑い返す。
「幸いキャンディが地上からロープを投げてくれたんで、それにつかまって這い上がれた。またあいつの手を取ることが出来たんだ」
「・・・・・・」
「ほんの一日、二日前の話さ。君とフェリシア嬢が婚約するっていう記事を見た途端、俺の中で何かが弾けて飛んだ。もう長いこと感じてなかった想いが頭をもたげて心の中に広がっていくのが分かった。真っ先にキャンディの顔が浮かんだよ。君があいつを守ってやれなくなったなら、もう俺しかいないんだ。そう思った瞬間、シェリルの存在が、もやと一緒に吹き飛んだ。今まであれほど心をいっぱいに占めていたのに・・・。本当に不思議な体験をしたよ」
アンソニーは黙ったままテリィの顔をじっと見つめていた。なんともいえない運命の皮肉を呪いながら。
もしフェリシアとの婚約が決まらなければ、ついにキャンディを取り戻せたかもしれないのに!
テリィはシェリルに激しく惹かれていた。
キャンディは自分を愛してくれている。
そして自分もキャンディを愛している。
三人にとって、それぞれが幸せを掴める最高のチャンスだったかもしれない。
だが幸運はまたもや両の手をすり抜け、一陣の砂の如く風に流されて跡形もなく消え去った。
悔しさと哀しさがない交ぜになり、アンソニーは唇をきつく噛んだ。