前回の続きブログですね。
「人は執着を捨てれば楽に生きられる」この言葉は間違って
ないし楽には生きられますが、生き甲斐や遣り甲斐とは遠く
なることが多いと思います。
ひとつの事を書くと、それが良いと思われる方もいますので
今回はあえて「人は執着を捨てれば楽に生きられる」の反面
部分を書いてみようと思います。
執着を捨てれば楽に・・・と書いてる当人ですから、普通に
考えれば、僕は執着を持たない人間だろうと思うでしょう。
でも実際は全く違います。
前回ブログの中で一言だけ(但し前向きな執着は別物です)
と書いておきましたが、この部分についてです。
あんしんサポートが、弱者を中心とした葬儀支援に拘ってる
のは正に執着と言えます。 まぁ言い方を変えれば「信念」
とか「信条」とも言えますが執着でしょう。
ただ言葉の使い方の多くが「信念」「信条」は向上心として
使うのに対し「執着」は対象が「金」とか「物欲」等に使う
ことから印象の違いがあるんだと思うけど、突き詰めて考え
れば大差ない言葉だと思う。
但し「執着」は間違いなく自分を追いつめる事になります。
その説明の前に「人は執着を捨てれば楽に生きられる」この
考え方を利用すべきは二種類の人達だと思ってます。
「余生を穏やかに過ごしたい人達」
「挫折、苦悩、困難、など負の場面に遭遇している人達」
老人が余生を過ごす時、何より穏やかな日々を過ごしたいと
思う人は多いんじゃないかな、そんな人達に向けてです。
僕自身は家業の倒産から、お金の無い普通の子に変化した訳
ですが、変化後の自分が普通なんだと思い、自分の人生なら
自分で切り拓けば良いと、過去の栄光が振り切れた時から、
前向きな人生のスタートが切れたと思うからです。
心穏やかに、楽に生きたいならお勧めの言葉が「人は執着を
捨てれば楽に生きられる」なのは間違いありません。
「執着」は間違いなく自分を追いつめる事になる。
あんしんサポートの現実を見れば一目瞭然だと思います。
》弱者を中心とした葬儀支援を実行すると・・・
・低料金は必須 → (当然儲けは少ない)
・儲けは少ない → (でも安かろう悪かろうは駄目)
・更に儲けが少ない → (沢山施行しないと食えない)
・沢山施行しないと食えない → (多くの人に知って貰う)
・多くの人に知って貰う → (広告宣伝費が掛かる)
・沢山の依頼が入ってくる → (労働量が増える)
・労働量が増える → (でも薄利で人手は増やせない)
・薄利で人手は増やせない → (365日24時間仕事)
・本当に良ければ会員数は増える → (肉体の限界がくる)
・葬儀支援が必要な人を優先 → (儲かる葬儀できない)
・365日24時間仕事 → (家族は犠牲になる)
ツラツラと書き出しましたが、たったひとつの事を成し遂げ
ようと思うだけで、まだまだ書けるほど己を追いつめる事に
なるのが「執着」であり「信念」です。
それでも続ける理由は次の通りです。
》当初の予想以上に多くの人達から支持されている
》その多くは、あんしんサポートの存続を願ってくれる
》利用家族の称賛はエネルギーの源になる
》自分達のような凡人でも他人から必要とされ生きられる
》それらが遣り甲斐となり、生き甲斐になっている
僕だけでなく、千明も同じことを言います。
お金儲けは終わりが無いし、さほどお金持ちの経験はありま
せんが、個人的にはお金で満足した経験がありません。
小金を持った時に思ったのは、ブランド品や高級車は欲しい
と思っても買えないから欲しいんで、いつでも買えるなら、
欲しくなくなるものでした。
料亭や豪華な食事は、たまに食うから旨いと思えるもので、
毎日は飽きて食べたられるものじゃない。
僕の場合は「玉子掛けご飯」「水掛けご飯」「白菜の漬物で
ご飯」みたいな食事なら、毎日食べても飽きない。
多少の金を持っても、豪華な食事が好きになるわけでは無く
俺が好きなのは粗食なんだと思った。
葬儀支援という前例の無い事業へと導かれ、最初から活動を
ともにした千明でさえ、料金設定を聞いた時点で、とっても
食えるようになるとは思わなかったが、家族が心から喜んで
くれる姿を見ると「良かった」と思う感覚だけで、手弁当で
突き進んでこれたという。
結果として食えるようにはなりましたが・・・
「人は誰かに必要とされて生きるが最良の生き方なり」
とでも言うのかなぁって気がします。
学生時代を振り返れば、部活で正月休みも無くしごかれて、
家に帰ればバタンキューの日々を過ごしたのも、大会優勝に
執着したからだし、登山をする人達も登頂に執着をするから
日々の訓練で自分を追いつめる事になるわけです。
心穏やかな日々を過ごすなら・・・
「人は執着を捨てれば楽に生きられる」が最善でしょう。
遣り甲斐や自己実現を求めるなら
「目的達成に向け執着しなければ達成は難しい」
僕の経験は「過去の栄光」対にする執着は全て捨て、気楽に
なって人生を生き、自分の生き甲斐や目標に対しては執着、
それが胸を張って堂々と生きる礎になってるように思います。
だから全ての執着が悪いわけでは無いと思います。
執着の対象が人様に迷惑を掛けるものでなく、自身の生き甲
斐や向上心や目的達成なら、大いに結構だと思います。
にほんブログ村
誰もが終幕後の費用を心配する事なく、自分の人生を精一杯楽しめる世の中にしたい
創業者の思いを後世に伝え、当時何を考えてたか嘘のつけない自分日誌でもあります