服装は黒の・・靴は・・バックはと何かで読んだのか、
誰かに聞いたが知りませんが、誰が決めたか分らない
ものをマナーだと押し付ける自称評論家、決められた
葬儀の定義でもあるかの如く、あーだ、こーだと言う
評論家や葬儀社も多く実にお節介な業界です。

ハッキリ言います。
葬儀に定義などなく、服装の決まりなどありません。



ちなみに、あんしんサポートの葬儀定義は
『葬儀は家族が家族との別れを受入れる為の時間』
『葬儀は死して始まるものでなく医師がサジを投げた
 瞬間から始まるものである』です。

あんしんサポートの定義を読めば分る通り、死んだ後
でなく、葬儀は存命中から始まると考えています。

存命中に覚悟をし、無理せずできる事をし、対象者の
人生を振り返って貰い、家族で生きた日々を振り返り
残り少ない最後の時間を有意義なものにする・・・
そして終幕が訪れたら、家族の手で温かく送る・・・
これが、あんしんサポートの考える葬儀の在り方です。

但しこれも、あんしんサポートの定義であって全ての
人達に当てはめるものではありませんし、強制すべき
ものでもありません。

葬儀は家族の持つ事情や思いと、信仰の有無によって
全く違う内容に変化するものです。 
大事なのは服装や恰好でなく心だし、後に残る家族の
生活のほうが間違いなく大事です。

うちの場合、葬儀になった家族にこう伝えます。

「体型が変わって礼服が着られないとか、礼服は初め
から持ってない人は、それっぽい服装で構いません」

「普段から着物を着てない人は喪服はやめましょう」

昔はホテル2軒で婚礼美粧の仕事をし、僕自身紋服は
千人以上を着せてきましたからね。
着物の美しさも分るけど、大変さも分るからです。

ジーパンでも普段着でも良いし、稼業を継いだ子供が
いるなら仕事着でも良い、或いは同じ趣味を持つ家族
なら趣味の恰好でもいい、画一的な枠に嵌め込こもう
とする姿勢そのものが間違ってると思う。

もっと自由に、もっと家族中心で費用は抑えた葬儀の
新たな形があって良いと、以前からずっと思ってます。

周囲の目を気にすることなく、つまらん見栄も張らず
世間体など気にせず、家族がその場の空気で泣いたり、
笑ったりできる時間と空間を提供できる葬儀がいいね。

数年のうちに、これからの時代に即した新しい葬儀の
形を創り出したいものです。

それと僕の言う家族とは血縁の事ではありません。
他人でも家族のような人もいれば、親兄弟でも他人と
しか思えない人だっているでしょう。

葬儀は誰を誰が送るかで大きく変化するはずです。
また家族関係の良し悪しや、家族以外の人が送る場合
でも送り方は違って当然です。
更に信仰のある人達なら信仰に沿って送るでしょう。
としたら無信仰の人は個々の感覚で送れば良いのです。

あとは、その感覚にも対応してくれる葬儀社があるか
無いか、或いはこれから出現するかどうかですね。

11年間で僕の知る限り、葬儀屋さんの経営者だけで
なく社員も含め既成概念が強過ぎる業界す。

また常識だと口にする人達も結構いますが、常識とは
時代の流れで変化し続けるもので固定ではありません。

それも葬儀屋と宗教者の利益の為に、造りあげてきた
葬儀が正しいと思い込んでることが滑稽です。
仏教熟語でも『諸行無常』と言うではありませんか。
全てのものは変化し続けている・・・
この理論は科学的でも実証されてるんじゃないかな。

この世に存在する全てが変化し続けるなら、葬式だけ
不変などあり得ないわけで、それは不変でなく執着で
しかありません。

こんな僕の言葉の著書にも書いておきました。

『人は執着さえ捨てれば楽に生きられる』

マナーの中にも執着は存在しているように思う。
だからマナー本に書いてある事、マナーだと言う人の
言葉を信じ、箸の持ち方、食べる順番、食べ方、など
全て実行しようとすると大変なんです。
つーかこんな食い方したって旨くねぇだろ・・・

葬儀のマナーも五十歩百歩です。
マナーの基本は人に迷惑を掛けない事だと思ってます。
これさえ守れば世界の何処に行っても問題ありません。


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