故人に逢わせたい、故人に逢いたい
この言葉を聞く度に思う。
この言葉よーく考えてみてください。変でしょ!?
「亡くなったから逢わせたいの?」
「存命中には逢わせられない人だったの?」
同じ逢うなら遺体でなく、生きてる時、出来るならば
意志の疎通ができるうちに逢いたい、逢わせたいって
考えるのが普通だと思うのですが・・・
この経験は何度しても変だと思い、葬儀はいつ始まる
かの定義を、あんしんサポートではこう言ってます。
『葬儀は死して始まるものでなく、医師がサジを
投げた瞬間から始まるものである』
その前にあるのが『葬儀は家族が家族との別れを受け
入れる時間のことである』の言葉です。
医師がサジを投げた瞬間の対象者は元気な人も多い。
だから行きたい場所があるなら、途中で死んでも良い
から連れて行き、食べたい物があったら医者に内緒で
食べさせてあげれば良い・・・
個人的には、医師の指示に従うより、対象者の思いを
叶えてあげるほうが後悔はしないと思うから・・・
その結果で例え死んだとしても・・・
突然の逝去以外、家族は受け入れているはずです。
家族が受入れる時間を過ごす中で、対象者の望む事を
無理せず出来得る限りで良いからしてあげる・・・
逢いたい人がいれば逢わせる・・・
行きたい場所があれば連れて行く・・・
食べたい物があれば食べさせる・・・
こんなひとつ、ひとつの行為が葬儀なんだと思う。
心臓が停止し遺体になってから騒ぐのが日本人ですが、
騒ぐなら存命中に騒ぐべき、人生閉じたら家族の手で
温かく送ってあげれば良いと思う。
我々の経験上では、看護をして付き添ってきた家族で
騒いだ人はいない、騒ぐのは今まで疎遠だった子供や
兄弟姉妹のほうが断然多いし、こんな人のほうが遺産
でも騒ぐのだから、こんな人達の神経が分らない。
法律はどうであれ、人間的には問題があるし最低だと
言われても当然、見てるだけで腹が立つ奴だ。
故人の尊厳とか、故人の供養と言うなら、できるだけ
早い時期に、残る家族が毎日を元気な笑顔で過ごして
いる姿を見せてあげることだと思う。
少なくとも、派手で豪華な葬儀をする事ではない。
それは残る家族の自己満足と見栄でしかない・・・
今回の言葉『葬儀は死して始まるものでなく・・』は
何度もブログに書いた言葉ですから、見たことあると
思う人も沢山おられるでしょう。
この言葉も、素朴な疑問から生れたものです。
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