今朝、生前予約されていた71才の方が逝去、指定先の
病院から搬送、あんしん館ご安置、明日は友引で火葬場
休場のため、明後日の朝一火葬の予約をした。
71才、、昭和21年生まれ、終戦の翌年に生まれた方
ですから、団塊世代のはしりって事になります。
医師、看護師以外は誰にも看とられることなく、逝去後
処置が終われば、我々が搬送して安置、線香を供えます。
火葬の法的手続きを済ませ、予約日時に火葬、火葬場の
職員が拾骨、遺骨は後見人に引き渡すと完了です。
指定時間に病院に到着すると、一階所定場所で待機する。
ストレッチャーで病室から運ばれてきた遺体を、我々の
ストレッチャーに乗せ替える。
担当の看護師さんから、故人の荷物を一緒に持ち帰って
後見人に渡して欲しいと、ビニール袋を3つ渡された。
故人の衣服類と毛布、それに位牌があると聞かされる。
あんしん館にて納棺安置を済ませると位牌を確認する。
多分、両親と祖父母なのだろう・・・
荷物は何も無いのに、位牌と数枚の写真だけ持っていた
のだから大切にしていたのだろう予測はできる。
写真は元奥さんと子供? かな、、、って感じがした。
事実は分りませんが、大切にしていたのは間違いない。
そこで位牌数本と写真は棺の中に収めた。
何処でどう処理されるか分らないより、一緒に持ってく
ほうが故人も安心できるだろう・・・
この葬儀の良し悪しを言うつもりは毛頭ない。
考えようによって、最後まで面倒を看て貰えるのだから
その意味では幸せな人かもしれない。
ただ明日は我が身の人はいくらでもいるはずです。
家庭を持ち、一人二人の子供にも恵まれたが、何らかの
理由で離婚したり死に分れ、子供は家から出ているなら
気がつけば一人だけの生活・・・
健康で生活に支障の無い収入があれば、独身生活もそれ
はそれで良いかもしれない・・・
ですが、病気になったり認知が入ったりすれば、状況は
一転して今回の故人のような流れも不思議ではない。
今回の故人から学ぶもの・・・
》今の健康はずっと続くとは限らない
》今の夫婦関係、親子関係、家庭が続く保証はない
》自分の命がいつ燃え尽きるかは全く分らない
書いてみれば極々当たり前のことです。
でも、この当たり前を忘れるのが人間でもあります。
或いは『でも』『しかし』を使って『すぐではない』と
思い込むのも人間の持つ愚かさであり、良さでもある。
71才とは、8年後の自分自身です。
勿論8年後まで、僕が存命しているかさえ分りませんが
いつかその時は望む、望まないに関わらずやってきます。
そう考えると以前書いたように、人の生死や人生も含め
全ての形あるものが『諸行無常』なのは確かです。
なら『我が人生の終幕期』を数パターン作成しておいて
毎年、年が明けたら、その都度変更や修整を重ねていく
のが最善の方法かもしれないと思える。
『健康で財布の余裕もある時』
『痴呆等で正確な判断ができなくなった時』
『財布に余裕が無くなった時』
『配偶者より自分が先に逝った時』
などなど自分に考えられるシナリオを作り修整を重ねる。
終活という言葉は世間で認知されていますが、書いた時、
書いた時期と終幕時が同じとは思えない。
またシナリオはいくつも考えておくほうが良いでしょう。
それが家族にとって遺言となるし、内容によって家族を
守ることにも繋がります。
自分の死後、自分の葬儀や見栄より、まずは家族の事を
考えられる程度の器量は人として備えたいものです。
にほんブログ村
誰もが終幕後の費用を心配することなく、自分の人生を精一杯楽しめる世の中にしたい
創業者の思いを後世に伝え、当時何を考えていたか嘘のつけない自分日誌でもあります