執着を捨てれば楽に生きられる・・・
人生経験の中で自然に芽生えた楽に生きる為の極意と思っている
けど、その本人はと言えば・・・

『料金を上げたくないから、今は大変でも人手は増やさない』
『葬儀より残る家族の生活を守る事のほうが大事』
『家族の生活が守れる葬儀を施行し続けたい』
『死んで騒ぐな、騒ぐなら生きてる時に騒げ』
『葬儀は死して始まるものでなく、医師がサジを投げた瞬間から』

・・・などなど相当な執着を持って生きてるのだから矛盾してる
と言われても否定しないし、拘り続ける必要があると思ってる。

簡単に言うと『楽に生きる』ことより『執着』することが自分の
生きている証であり、生き甲斐にも繋がっているとも思っている。

執着することで、日々の生活は楽で無くなり、辛いこと、大変な
ことは数えきれないほどある・・・というか、自分で大変な道を
選択しているだけの事なんだと思う。 でも後悔は全くない・・・
それと心身の大変さはあるけど辛くはない。

その秘訣というか、多分そうであろうと思う事を記してみたい。
それが『執着』と『無頓着』の共存という感覚だと思っている。

上に掲げたのは執着の代表的な部分であり、その根底にあるのは
『誰もが死後費用の心配をせずに生きられる世の中にしたい』と
動画の最後でも語っていること、だから誰もが可能でない現行の
葬儀社感覚、宗教者感覚、悪慣習について否定するブログが多く
なる理由も理解して貰えるでしょう。

ただ執着が強ければ強いほど、執着の裏側にある部分が自分達を
締め付ける事になるのです。 例えば・・・

① 『料金を上げず可能な限り低料金で続ける』とは・・・
『利益が少ないから労働量に見合う収入もない』となるわけです。

② 『値上げしたくないから人手を増やさない』とは・・・
『どんなに忙しくも葬儀の全てを2人だけで行う』となるのです。

③ 『休日もなくいつでも臨戦態勢でいる』とは・・・
『家族団らんが無い、奥さん孝行もできない』ってことです。

どんな事でも『表』があれば『裏』が存在するし『光』があれば
『影』の部分もできるのが自然の摂理です。

ところが僕の場合『裏』や『影』の部分に無頓着なんだと思う。

①に関しては30代後半くらいから、さしてお金に頓着しない人
だったように思えます。 

若い頃はお金を追いかけてた時期もあるのですが、100万円の時
には200万円欲しいと思い、300万円になっても500万円欲しい
って思うし、800万円になっても1.000万円欲しいと思う。

第一に感じたのは、この欲望に終わりがないこと。 それとある
程度の収入になると、いつでも買えるからだと思うけど、今迄は
あれほど欲しかったブランド品を始めとした雑貨、衣類、車等が
欲しくなくなる事でした。 

例えば食べ物も高級品でなく、玉子掛けご飯、醤油をかけるくら
いの白菜漬けと温かいご飯、塩辛、更に水かけご飯に葉唐辛子の
漬物・・・ が好き!って堂々と言える自分が居るし、980円の
ポロシャツで充分とか、普段乗るなら30万円以下の車で充分と
思う自分になっていました。



さしてお金持ちでは無かったけど、俗に言う『金持ちはケチ』と
言うのはケチじゃなくて、欲しくない、要らないって事なんだと
いう事が何となく分かりました。
もうひとつ言うと、人の倍の収入があっても倍の飯は食わん・・・

②に関しては、確かに体力的に大変な時もあるけど、人が増える
って事は面倒も増えるし余分な神経も使うことなるわけです。
なら気楽にやりたいようにするのが一番と思っちゃう訳です。

だから納得できない人の依頼は受けないと公言しちゃう訳です。
やりたくない仕事はしない、仕事量を増やすという感覚もない。
内容には執着するけど、規模や施行数や仕事量に頓着しない。

③については、休日も無く10年間やって来たのは、誰が考えた
って分かること・・・単純に好きだからなんだと思う。
好きな事をするとか、自己満足でしているなら、趣味だとしても
辛い事があって当然だろうし、仕事が無くて辛いより、忙しくて
大変なほうが遥かに楽なはず・・・それで良いじゃんって感じ。

家族、特に奥さんに関しては、幸いにしてお友達が居てくるので
自分達の時間が合えば、いつでも、どこでも行ける時に行きたい
だけ行って来て欲しいと伝えてあります。 僕が連れていければ
良いけど、現実は難しいと奥さんも理解してますからね。

それと、僕が何時に帰るか分からないから、自分の流れて過ごす
事と、食事の心配は一切しなくて良いこと、時々は子供達と食事
してくるようにと食事代を渡して勘弁して貰っています。
勿論、時間の空いた時は食事だけでも一緒にしますが・・・

いくつかについて書きましたが、全てに於いてこんな感覚です。
仕事に於いても、散骨場まで行くのに季節毎に楽しみを持って
行ったり、毎日外食ですから変化を付けたり、時間が空けば時に
カラオケで発散したり、執着でなく小さな楽しみを見つけながら
一年間を過ごしています。

その結果として、胸を張って堂々と生きていられる時間を得たり
生き甲斐を持って日々生活したり、毎月健康チェックもするしと
中々充実した日々を送れているように思うのです。

執着とは『見栄』『利己的欲望』『我』『建前』『過去の栄光』
などが中心にあるように感じます。 
だけど僕の中での『無頓着』とは、上の執着と同じような部分に
対する感覚だと思えてなりません。

だから『執着』と『無頓着』の共存・・・かな・・・ってね。



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