葬儀のうんちくを語る葬儀屋さん、評論家のたぐいは沢山いるが
その根底となる思考はいつから、どこから来たものでしょう。
自分の中から発生したもの・・・なんて事はないだろう。
この感覚は葬儀の仕事を始めた当初から僕の中にあった。
初めに聞かされたのは仏教的な作法や考え方でしたが、違和感も
なく『へぇーそうなんだぁ』程度の感覚でしたから、肯定や否定
というレベルでなく、単純に聞かされただけでした。
ところがキリスト教の葬儀をした時、死後について言ってる事が
仏教とは全く違うことに気づき、更に神式になるとまた違う事を
言う・・・この頃になると、宗教によって異なる考え方ってのが
根本的に変だと思い、なら葬儀ってなんだろうと思い始める。
仏教では仏になると言うし、神道では家の守り神になると言うし、
キリスト教では神の元へ行く・・・どの話しを聞いても納得など
できるものではありませんでした。
ってゆーか『あんた死んだ事あるのか?』という思いが強いし、
これらを語る人達の話しは、全て洗脳された人の話しに聞こえた。
なんてゆーかなぁ・・・自分の言葉ではなく刷り込まリた言葉に
しか聞こえませんでした。 これは全ての宗教が同じでした。
当時は葬儀って宗教儀式だと思っていましたが、人により信仰に
より行く場所が異なるって事!?
あの世はキリスト教国、仏教国、神道国みたいになってるのか?
なら地球のようにあらゆる国が存在してるのかって思った訳です。
そこで人の死について辿っていくと、宗教が生まれる前から人は
死んでいた事が分ります。 また神が生まれた話しについては、
SF小説にしか思えません。 その部分だけがあまりにも突飛な
物語りとなっている事に違和感を覚えました。
そこから改めて葬儀を考えたとき・・・
『葬儀とは家族が家族との別れを受入れる為の時間である』
という思いが強くなったんだと思う。
と同時に『葬儀は宗教儀式にあらず』と考えるようになった。
葬儀の根底は宗教儀式でなく、家族間のお別れであり、ずーっと
一緒に生活してきた人と永遠のお別れをする。
それを受入れる時間が葬儀と考えるに至るのです。
何故、宗教儀式ではないと考えるかは、先に述べたことに加えて
何故か他宗教については邪道だと言う信仰者は多いが、それって
他宗教から見たら同じことなのに、何故断言しちゃうのか・・・
自分の信仰を信じるより前に、他の宗教をけなすほうが先なんだ
としか思えない人達の話・・・利己的偏見としか思えなかった。
・・・だから一層そんなの信じられないと思えた。
また仏教をみれば分かる通り、布施と称して50万円、60万円は
当たり前で、中には同じ戒名で100万円以上を要求する寺もあり、
「うちは格が高いから・・・」と当たり前のようにくちにするが
申し訳ないが、僕には世間知らずのお馬鹿さんにしか見えない。
また高額のお金を徴収する時点で、宗教でなく、葬儀屋さん!?
としか思えないし、布教活動している僧侶を見ることもない。
50万円という金額は、どう考えても布施ではないからです。
布施とは施しのことですから、50万円を平気で出せる人ってのは
極々普通にいるだろうか・・・
少額年金で生活する老人が50万円を貯めるのは大変なはずです。
それを当然のように受け取り、その金はどんな使い方ですか?
自分達の生活費、遊興費、高級自家用車などに使い、あとは本山
への上納金というのも、馬鹿げた発想で、下が苦労し上が楽する
典型的な発想の宗教界の何を信じられますか?
また僧侶が自分で偉いと思ってるのも解せません。
僕には何処が偉いのか全く解りませんし、偉い人かどうか自分で
決めるものでなく世論が決めてくれるものだと思う。
一年程度の修行で、自分は修行をしてきたという宗教者には苦笑
しか出ません。 余りに世間知らずな発言だからです。
世の中、一年程度の修行で一人前になれる職業がどれだけあるか、
大工さん、板前さん、パン職人、サラリーマンだって二年生なら
まだまだヒヨッコでしかありません。
これらの現実が、より強く『葬儀は宗教儀式にあらず』と思わせ
られた要因のひとつなのは間違いありません。
その意味では僧侶より、僕らのほうが宗教家っぽいでしょう。
とは言え、日本人の大半は仏教徒、もしくは仏教徒モドキです。
その人達が仏式葬儀を好むなら、それで良いとも思うのです。
あんしんサポートをお手伝いしてくれる僧侶の方々は、お金の事
など言わないに近い人達ですから、僧侶の中でも宗教家と呼べる
人達なんだと思いますが、だからお金に執着したり、霊感商法の
ような事を言う僧侶に対し、より強く違和感を覚えるんだろう。
うちを手伝ってくれる住職達に共通している事もある。
例えば拾骨の際、箸渡しなる作法で焼骨を拾うのが一般的だが、
あれは土葬から火葬に替わった時、誰かが言った語呂合わせにし
か過ぎない。 故人との最後のお別れであり、故人が残す最後の
身体の一部が焼骨なのだから、手で持てる状況の焼骨なら、でき
れば箸でなく、手で入れてあげて欲しい」と言います。
僕もそう通りだと思えるから、あんしんサポートで葬儀した人は
手で拾骨するほうが多いくらいです。
斎場の担当者も、うちの人達は手で入れると思っています。
大事なのは宗教うんぬんでなく、家族が愛する家族を温かく送る
ことが出来たと心から思えることだからです。
僕は何度も言うように全くの無信仰者です。
仏教を信じる家族には仏教葬儀をし、神様を信じる家族なら神道
葬儀をし、キリスト教信者ならその宗派にちなんだ葬儀手伝いを
すること、それが低料金で満足の、納得のできる内容であること。
ただそけだけ・・・ それ以下でもなく、それ以上でもない・・・
もっと言えば、生活水準に関係なく誰でもが温かく送れる葬儀を
作り続け、施行し続ける事と、現行葬儀の疑問、問題、課題等を
世間に投じ続けることが僕の使命なんだろうと思っている。
人間、生を受ければ必ず迎える終幕なら、葬儀にお金が掛る事が
不思議であり、お金は掛けずとも温かく送れる葬儀の実現だけを
目指し、その先端を走り続ける事で、いつか本来あるべき葬儀の
形に気づく人達が増え、いつかそれが主流となる日がきてくれた
時には、今一石を投じている事に価値が生まれるだろうと思う。
葬儀を商売と考え、団塊世代の死が右肩上がりの今、ビジネスの
チャンスと考えるのは極自然な流れだとは思いますが、本来ある
べき葬儀の形、我が家の葬儀と考えた時、僕の言葉を思い出して
くれたら、きっと事業の役には立たなくても、家族の役には立つ
だろうと思います。
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