昨日は葬儀のあと、都内寄りの埼玉県まで出かけ、一日運転して
いるような感覚の日でした。 行きは時間的な余裕もあり国道を
走りましたが、帰りは疲れそうだから高速でした。
その中で時たま本日のテーマ『無償の愛』という言葉が出ました。
それは「無償の愛なんて無い」と言う人もいるという現実。
僕の中では驚きでしたが、自分の感覚とは違う人間が存在すると
いう現実を改めて教えられた言葉でもありました。
身体が空かず1日空いたブログでしたが、書く内容も少し変化を
することになり、結果オーライのようです。
『無償の愛』僕の中には存在する感覚です。
誰でも分かり易いのは、子供が生まれると生まれて来た事に感謝
したり、病気の時、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学や専門
学校と年を重ねる毎に、様々な費用も掛かり、手も掛かってきた
のが我が子達であり、正直なところいまだに金銭面も含め、手は
掛り続けていますが、その代償を求める気持ちはありません。
多分、多くの人が子供や孫に対し愛情を持ち、それを様々な形で
表現しているだろうと思うけど、その見返り、代償を求める人の
ほうが少ないんじゃないかと思う。
これぞまさしく『無償の愛』の典型だろうと思う。
それが夫婦愛だろうが、親子愛、肉親愛、人類愛、或いは家族で
飼ってるペット愛だとしても無償の愛は存分にすれば良い。
傍から見ても微笑ましい愛情表現となるからです。
ただ昨日の話しの中で『無償の愛なんて無い』と言われたと言う
人もいるのですから、そう考えると愛情を受ける側にも注意する
必要がある・・・ってことになると思う。
そう考えるとストーカーは代償を求める自己中心愛なんだろう。
なら子供達に対する愛情は、将来は自分の面倒を看ろという事に
なるのだろうか・・・孫に対しては祖父母である自分の言う事は
いつまでも聞け・・・って事かな。
無償の愛は、本来動物の中に本能として備えているものだと思う。
鳥でも、獣でも、魚でも我が子や卵がかえるまで、外敵から守り
孵化すれば稚魚を口の中に入れて守る魚もいるし、子供が生きて
いける時まで我が子を守る動物や、鳥の親は当たり前に存在する。
人間も哺乳類の一種でしか無いのだから、その意味で一緒だろう。
ただ動物の中にも子育て放棄する例外もある訳で、人間の中にも
無償の愛が存在しない人がいるのは例外だと思いたい。
個人的な感覚で言えば、山口百恵さんが歌った愛の嵐の中で出て
くる言葉『心の貧しい女だわ、あぁ、ああ、あたし♪』って感じ
だなぁ、無償の愛を否定するほど貧しい心になりたくない。
無償の愛はなにも大袈裟なことばかりではない・・・
・買い物して重い荷物は奥さんで無く、自分が持てば良い
・奥さんと一緒ならドアは開けてあげれば良い
・年寄りが困っているようなら助けてあげれば良い
こんな程度の事なら、いくらでも書けるほどあるだろう。
これらのひとつ、ひとつに代償を求めるのでなく自己満足すれば
良いだけのことだろうと思う。 実際に考えたことは無いけど、、
『買い物して重い荷物は奥さんで無く、自分が持てば良い』なら、
・きっと傍から見れば優しい旦那だと思うだろうと思えば良い
『奥さんと一緒ならドアは開けてあげれば良い』なら
・よその奥さんが見れば羨ましいだろうし、俺、格好いいかな
『年寄りが困っているようなら助けてあげれば良い』なら
・これでまたひとつ徳を積んだな・・・
って感じでも良いんじゃないかな。
家族間で無償の愛が当たり前にしたいなら、朝起きて顔を合わせ
たら笑顔で「おはよう」、ご飯や味噌汁、お茶を出して貰ったら
「ありがとう」、食べ終わったら「旨かったぁ」と独り言のよう
で良いから、相手に聞こえる程度の声で言い続けてみると良い。
暫くすると夫婦や親子関係が少しづつ変化しているはず・・・
ちょっと違うけど、以前は美容室の経営指導をしてきたと書いた
こともあるし、当時の社長から言われた言葉を書いた事がある。
「武井さん、そんなに美容室の為に頑張って裏切られたら、どう
するの? ほどほどにしないと自分が馬鹿をみるよ」
聞いた瞬間は意味が分からなかった・・・
僕の中には無い感覚だったからですが、自分が何かしてあげたと
思うからで、どんな事をしたとしても、それをどう感じるかって
相手自身の感覚だから、感謝されるかもしれないし、何とも思わ
ないかもしれなくて当たり前だと思っていたからです。
・・・んと、僕が経営指導するのは僕の勝手で、それを受入れる
受入れないは経営者の勝手、それを続けるか否かは双方の勝手っ
て感じが一番分かり易い表現かな・・・
続けたいと思うか、思わないかは心が決める事だから、自分でも
分からないし、続けたくなければ続けなければ良いだけの事。
昨日葬儀したお婆ちゃんは、搬送して顔当てをとると、エンゼル
バンドはしてあったけど、入歯も入って無いからが口はポッカリ
開いていた。 だから家族には聞かず綿花でくちを閉じておいた。
翌日の湯かんで故人を見た家族は感謝してくれましたが、たとえ
感謝されなくても何とも思わないだろう。
僕が自分でくちを閉じたいと思って閉じたからで、当然無料です。
家族達が温かく送れたと思う葬儀に成れば、僕は満足できるから
その為に必要だからしただけ、子供達が大変な姿を見たくはない
から自分達親ができる事をするだけ、無償の愛の代償ってもしか
したら・・・『自己を満足させてくれる』って事かもな・・・
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