今日は暖かい日曜日(友引)で春だなぁ・・・の前橋です。
暖かくなると雑草も顔を出すから除草剤を撒きました。
夜中の闇にまみれた仕事は日常茶飯事ですが、太陽の下で働く事は
滅多に無いですから、400坪の敷地に散布しただけで汗をかきます。
散布しながら植物も精一杯生きようとしてるんだなぁ・・・と少し
感傷的にも成りますが、放っておくと我々が地獄を見ます。
本日日曜日は入会相談が1件あったけど、電話連絡の入ってる家族
からの一報が無ければ、新盆法要と新盆返礼品も決まった為、印刷
用の完全データ作りをしています。
昨日、今日に限らずいつも入会相談の話題に出る事を書いてみます。
・寺の墓所使用権利は取得してあるけど高い寺だから使いたくない
・先代は良い人だったけど今はお金のことばかり
・葬儀は初めてで何も知らないから、他社なら言われるままでした
毎度のように出る話題です。
僕のブログは宗教者、評論家に対する酷評は多いほうでしょう。
葬儀施行をする側の人間としては珍しい存在かもしれません。
僕の酷評ブログを見て大きく頷いても、同じような事を自分で書く
のは、寺と絡みのある仕事ですから言い難いんでしょう。
当然うちも同じですし、お手伝い頂く住職は他社より多いはずです
けど、お布施額、対応、法話等、どれをとっても会員さん達自身が
経験すれば、温もりがあり、思いやりもあり、金のことは言わない
住職の人達だと分かる。
もっとも、あれだけ癖のある代表がお願いするのだから、いい人で
無いはずがないって思ってかも・・・いずれにしてもお願いしてる
住職さん達は皆さん人として立派な方々なのは確かです。
それを証明する具体例は当然いくつもあります。
ただ宗教界の中での位置もあるでしょうから、あえて書きはしませ
んが、辛口の僕が言うのですから間違いありません。
うちでお手伝いしてくれるようになってから、忙しくなったと言う
住職のほうが多いですが、今は依頼先を絞っています。
もう1つの評論家についても、反論もせず黙っておられる葬儀社の
ほうが多いようですが何ででしょ!? 相手にしてないのかなぁ、、
もしくは反論した後の反撃が怖い? そんな事はないか・・・
ブログを始めた当初は何度も中傷されましたが、その都度対応して
きましたけど、自分の事を全て明らかにした人は一人もいません。
だから討論した事もありません。 僕は全てを明らかにしているの
ですから、相手も何処の誰かを氏名まで明示して当然です。
評論家はある意味無責任な発言をしても支障はありません。
しかし我々は違います。 発言すれば当然利用者に突っ込まれるし、
言った内容の責任をとらざるを得ません。
評論家相手に事業をしている訳ではありませんから、利用者の方が
『良かった』と『納得』して貰えればそれで良いのです。
毒にも薬にもならない無害であれば、何も言う気はありません。
だけど入会相談に来た圧倒的多数から聞かされるのは、どう聞いて
いても『害』としか思えない事が多いからです。
『菩提寺の住職・寺について』
・よく聞く言葉、先代は良い人だったけど、、
・うちの寺は高くて有名なんですよ。等々いっぱい出てきます
稀に良い人だと言われる住職もいるのは確かですが極少数です。
宗教者に対しての酷評は宗教者とは思えないからです。
僧侶は修行をしてきたと言いますが、修行をしたから偉いのか!?
ってことです。 自分の好きで修行をし成果があったとしても全て
自分に対してのことだからです。 修業とはそういうものでしょ!?
修行の中から多くを学び、身に付けるまでは全て自分の為・・・
それを多くの人達に知らせ、説き、尚且つ自身が率先垂範する事で、
身をもって生き方、考え方を伝えるのが伝道師だと思うけど・・・
知識は得たとしても頭でっかちなだけで、実践などできない人達が
多くなったから宗教離れが一気に進んでいるんだと思う。
日々修行の中で学んだ事、小さな悟り、それらを説いて回り、時に
大衆の前で説き、聴衆に感銘を与え、生きる気力と喜びを与えた時、
聴衆はお礼として自分なりの布施を提供する。
一握りのご飯、メザシ一匹、石鹸一個だったり、人よって100万円
かもしれない、基本的には聴衆の施しで生活をするのが宗教者の姿
んて言うと「その通り、布施で生活してる」と言う僧侶もいるとは
思いますが、布施と呼ぶにはあまりに高額であり、布施をする側が
無理をしてまで渡している現実を知らないとは言わないでしょう。
知らないとしたら世間知らずも甚だしい・・・
世間を知らない人が説法などできるはずもない・・・
だから托鉢で頂いた食べ物だけで生きるべきと、言ってるのでなく
檀家を始めとして、一般の人達が宗教者として納得できる生き方が
あるのでは? 僧侶の資格をとったから宗教者ではないでしょ・・・
一般人からみて尊敬に値しない宗教者は、布施でなく『読経料』や
『葬儀料』と呼ぶほうが自然だと思う。
布施は取られるものでなく、渡したいと思うものであるべき・・・
お世話をしたい、させて欲しいと思える人物を目指して欲しい。
・・・これが宗教者への酷評を書く最大理由です。
『評論家』
評論家については何度か書いた記憶があるから、簡単に書きますが
『嘘が多い』『絵に描いた餅』『自分の感覚の押し付け』さらには
『昔ながらの概念』で無責任な発言を好き勝手言うからです。
個人的には論外で全く気になりませんが、そんな戯言を真に受けて
葬儀とはそうあるものだと思い込んでしまう人達もいるのです。
話したり、書いたりする側は気楽かもしれませんが、戯言の判断が
出来ず、真に受けた人は葬儀社の言いなりになったり、高額葬儀の
費用を無理して工面したりと迷惑千万な現実が多々あるのです。
今回の最後となりますが、宗教者に手厳しいのは、これから団塊の
世代が終幕を迎える時代に突入するからです。
人は誰も死への恐怖を持っています。 だから死を覚悟する年齢に
なれば自然に宗教観は強くなります。
若い頃は「坊さんなんて要らない」と豪語してた人でさえ、読経を
して貰えば・・戒名があれば・・死後は成仏できたり、極楽へ行け
たりするのかもしれない・・・と思う人は多いのです。
勿論、現実にどうなるかは神のみぞ知る・・・一度死んでみなきゃ
分からない訳で、僧侶だろうが、誰だろうが現実は分からないです。
これは大前提となる部分ですから、あえて書きました。
しかし死を間近に控え、ワラにもすがりたいと思う人達にとっては、
宗教者の存在は好影響にも成り得るはずです。
『心安らかに終幕を迎えられるよう寄り添う・・・』ホスピタルの
ような存在になれるのが宗教者です。
だから金儲けや、自分の生活安定ばかりでなく、老人に寄り添って
心を穏やかにしてくれるような宗教者が現れて欲しい・・・・
そんな思いも込めて、酷評したり、苦言を呈したり、悪たれを言っ
たりもしているのが本音です。
本音で言えば見ざる、聞かざる、言わざる、目、耳、くちを塞いで
いるほうが誰にも憎まれずに済みます。
でも我々は日々、そんな人達と膝を突き合わせて相談を受けている
からこそ、死者の増える2020年代までに覚醒して欲しい・・・
あんしんサポートをお手伝いしてくれている僧侶の方々も、たぶん
ブログは見ているはずですし、代表が何を言っているのか知ってる
はずですが、その点については一切触れません。
それは我々が何を考えて、どんな仕事をし、どんな料金で、どんな
体制で行っているか知ってるからです。
昨年夏、法要の合間に『合同盆法要』の参加費用を知った僧侶から
「武井さん、もう少し値上げしないと合わないでしょ?」と言われ
ましたが、うちで葬儀をして、うちが紹介した僧侶や、直葬の方は
新盆をして貰えるところがありません。 だから低料金なのです。
盆など気にしない方は良いのですが、故人が帰ってくると思ってる
方もいるわけですから、うちを利用された方だけは最後まで面倒を
みないと、精神的消化不良になりますからね。
宗教者として心ある方は、是非一度考えてみて頂きたいと願います。
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創業者の思いを後世に伝え、当時何を考えていたか嘘のつけない自分日誌でもあります