葬儀とは死して始まるものでなく、医師が治癒のサジを投げた瞬間
から始まるものである。 あんしんサポートの葬儀の考え方です。
だからこそ、穏やかな心で過ごすことは、もの凄く大切なのです。

治せない患者、死を待つ患者は、緩和病棟、ホスピス病棟以外では
退院させられる時代です。 この流れに逆らった考え方をしてみた
ところで、現状の日本ではどうにもならないでしょう。

最後の時を迎える為、自宅に帰れる方は幸せかもしれません。
でも家族に一言伝えておきます。
対象者が自宅に帰りたいと言い、病院も退院を歓迎する流れの中で
親戚などの周囲も同調する傾向は強くなります。
しかし家族事情によって自宅には帰らせてあげたくても、実際には
難しい・・・厳しい・・・当たり前に起こる現実はいくらでもある。

その時は思い出して欲しい
『今できる精一杯のことをすれば良い・・・』
自宅は無理だから施設に、、他の病院に、、極当たり前にあること。
その結果多くの方は施設や病院等で最期を迎えることになります。

どこで最期を迎えるにしても、できるだけ穏やかな心で過ごさせて
あげたいと思うのです。

まだ最後の時を経験してはいませんが、病は気からというが如くで
気持ちの持ちようは心身に大きく影響します。
滅多にありませんが、稀に寝付かない日があったりします。
皆さんも年に一度くらいは経験されるのではありませんか? 
僕はそんな時に共通しているのが考えてしまうことです。
ちょとした事を考え始めた為に、明け方まで寝付けない・・・
何てことがあるように精神的な影響は肉体的にも出てきます。

終幕を迎える、父親、母親、祖父母、或いは長年苦楽をともにした
ご主人や奥さんかもしれません。 大切な人が最後の時を迎える。
そう考えたら『穏やかな心で過ごさせてあげたい』と思うでしょう。









あなたの最愛の人が逝く・・・
永遠の別れをする日が近づいてくる・・・ そう考えてくれたら、、
家族は勿論、医師、看護、介護をされる方々、そして葬儀屋さんも
自分の家族ならと考えてみるべきだと思う。

とにかく『対象者が穏やかな心で日々を過ごせる』こと。
何が正解かは分かりません。 人によって違うのかもしれません。
でも普通に考えて『死』を迎えるのは怖い事なんだと思う。

『医師は嘘も方便を使って欲しいと思う』
・余命2ヶ月なら、せめて1年と伝えてあげたい・・・
・1年あると思えば目標も立てられるし頑張れる
・多少命を短くしても痛みの少ない処方をして欲しいと思う

『看護、介護の人達も同様、嘘も方便は心の特効薬になる』
・顔色が良い、昨日より元気だと言われたほうが心は穏やかになる

『家族ができること』
・写真、動画、思い出の品等で対象者の人生を振り返らせて欲しい
・一枚、一枚の写真を見ながら一緒に人生を振り返って欲しい
・行きたい所があるなら途中で死んだとしても連れて行って欲しい
・食べたい物があるなら死んでも良いから食べさせてあげたい
・逢いたい人がいるなら意志の疎通ができるうちに逢わせたい
・できれば小さな事でも良いから目標を持たせてあげたい。
 目標があれば人は頑張れる・・・頑張って生きようとする。
・自分の人生が有意義だったと思ってくれたら尚よしかな

そして、もうひとつ・・・
対象者が家族に伝えたい事、話しておきたい事を文字で書けるなら、
書いてもらい、書けない状態なら聞き取って文字に起こしてあげる。
家族全員に対してでも、家族ひとりひとりに対してでも、対象者が
思うままを書いたり、聞いて文字に起こしたりすれば良いと思う。
ただ出来れば、家族ではないほうが話し易いかもしれない・・・

更にもうひとつ・・・
死後費用も含めてお金の心配をさせたくない。

まだもう少し人生があると思えて、自分の人生を振り返りつつも、
ちょっとした目標を持って、家族に伝えたい事を記し、お金の心配
などせずに済めば、穏やかな心で過ごす事にならないでしょうか。

全ての人がYESではないかもしれない。
でも少なくとも、何もしないよりは穏やかに過ごせる可能性は高い。
それで良いと思う・・・対象者が最後の時をどんな心境で迎えるか
分かりませんが、あとに残る家族の心は穏やかになれるから・・・
それが温かく送れたと思える最善の過ごし方だと思うから・・・
きっと後悔の無い送り方ができると思うから・・・

我々は終幕後の家族の中にある温もりを壊さず、包んであげること、
そして後に残る家族の生活が守れる範囲で、温かく送れる手伝いを
することしかできませんが、それが本来葬儀社の仕事だと思ってる。

『籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人』
ということわざがあります。 世の中には色々な役割の人が存在し
色んな形で全ての人が繋がっているが一般的な解釈です。

これを『棺に乗る人、担ぐ人、そのまた棺を作る人』と変換したら
今は担ぐ親戚や家族の立場だったり、棺を作る訳ではないけど業者
である葬儀社の立場かもしれないけど、いつか自分も棺の中に入る
『明日は我が身だよ』・・・と戒める言葉ともとれる。

明日は我が身と思って事にあたる・・・
葬儀だけでなく、仕事をする全ての人は相手が存在します。
物販、飲食、レジャー、旅館どんな仕事にも利用する相手がいる。
自分だって商売以外では利用者の立場で考えているはず・・・
それを、そのまま実行すれば良いだけのこと・・・
多分・・これが商売の究極の考え方であり王道なんだと思う。

死を目前にした経験はなくても、喧嘩した直後、嫌な事があった時、
心が嵐のような時なら、何度も経験しているでしょう。
その時、どんな対応が一番癒してくれますか?

色々な方法はあるでしょうが、ひとつの例えを記しておきます。

『激流を制するは静水』
北斗の拳というパチンコをしていた時、画面に現れた文字です。
じつに的を得た言葉だと思う。
対象者の心に死の現実がある以上、穏やかになるのは難しいだろう。
されど言葉や理屈で納得させようとしても無理だろう。
どんなに激しい流れでも、それ以上に大きな静水、湖に流れ込めば
激流は静水に変わる・・・人の心もさも似たり・・・かな。



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