この数回、葬儀の合間をぬって僕の中にある本音を書きました。
本来なら、葬儀の真髄4『先の時代を見据えた葬儀が必要』が最後
となるはずでしたが、あんしんサポートはすでに、その道を走って
いるので改めて書く必要もないか・・・と考えました。
人の死で暴利を貪ってきた人達の終焉が訪れようとしている。
2030年代に向け、葬儀社は悪あがきをし続けるでしょう。
便乗しようと遅ればせながらの葬儀社も増えるでしょう。
されど、先にあるのは今の仏教界の現状とさも似たりでしょう。
あ、1つ付け加えておきますが、寺が無くなる訳ではありません。
豪華な葬儀が無くなる訳でもありません。
自分達家族のしたい葬儀が堂々とできる時代になるという事です。
今は好き勝手言う親戚や周囲・・・これが減る時代になるのです。
例えるなら・・・マズロー五段階の欲求説という理論があります。
最下段は『生理的欲求』です
赤ちゃんがそうです。 お腹が空けば泣く、眠ければ寝るのです。
強姦や、痴漢などする人間は、この段階での行為と言えます。
二段目は『安全の欲求』です
雨が防げる家が欲しい、寒さを凌ぐ衣服が欲しい、枕を高くして
安心して寝られる場所が欲しいなどです。
三段目は『社会的欲求』と呼ばれます。
仲間意識とも言え、みんなと一緒が良いのです。幼稚園児や小学生の
低学年に多い感覚で、誰々ちゃんも持ってる・・・とかね。
四段目は『尊厳や承認の欲求』と呼ばれます
人に認められたいとか、地位、名誉、権力など欲したり、他人から
注目されたいと思う事、世の中に結構多い人達です。
四段目の欲求で政治家になる人って結構多いんじゃないかな。
五段目は『自己実現の欲求』と呼ばれ最終段階です
自分の求める人間像、なりたい自分を思い描き邁進することです。
同じ政治家を目指しても、尊敬する先人を目指しているなら、五段目
の欲求で政治家を目指した人でしょう。
マズローは晩年、六段階目『自己超越』を追加発表しています。
自分より、他人の為、他人を豊かにしたいと考える人なら、六段階目
の欲求で政治家を目指す人と言えます。
同じ政治家を目指しても四段階、五段階、六段階がいるのです。
その人の内面、資質は職種で分かるのではないという事です。
『馬には乗ってみよ 人には沿うてみよ』ということわざがあります。
馬は乗ってみなければ善し悪しは分からず、人は付き合ってみなけれ
ば、その人の性質はわからないという事ですが、その通りです。
葬儀の悪習慣は第三段階の現れでしょう。
それが一皮、二皮と剥けて自己実現の領域に向かうという事です。
どんな人も、どんな仕事も表面に見える部分では分からないのです。
ようやく今日の本題に突入です。 いつもの如く序章長過ぎ・・・
ブログに時々『天職だと思う』的な
文字を書いてきました。
そう感じる理由を書いてみます。
まず初めに、葬儀屋が天職と言って
いるのではありません。
今の仕事が天職かもしれないと、
我ながら感じるのです。
・あんしんサポート設立まで、葬儀とは無縁の世界で生きてきた
・なぜか葬儀の仕事は、他社に公表するほど忌み嫌ってきた
・父親逝去の一報が裁判所から届いてから周囲の流れが一変した
・あんしんサポートの設立は僕が望んだものでなく流れで生まれた
等々、この辺りの事については何度も書いていますが、それよりも
僕自身が書き続けている考え方なのです。
葬儀の知識は皆無だったし、信仰心もなく関心もないし、宗教の本
らしき物は松下電機創始者『松下幸之助さん』や、ダイエー創始者
『中内功さん』の著書に共通して出てくる法華経をサラッと読んだ
事はありますが、第三の目と呼ばれる白毫(びゃくごう、額にある
ホクロのようなもの)から光が出てと書いてあるのを見て・・・
SF小説とかウルトラマンじゃねぇしと、熟読した事はありません。
僕の人生に於いて『死』とか『葬儀』は無経験ではありませんが、
無縁にも近い中で生きてきたと思う。
にも関わらず、何故か僕には葬儀に対して明確な持論があります。
この考え方は、あんしんサポート設立前から同じことを言い続けて
いるのですから、その点は自分でも分かりませんし不思議です。
当初、僕の話しを聞いた人達は「現実離れした理想だよ」と言った
人もいたし、黙って聞いてはいても内心『馬鹿じゃねぇの、そんな
事が出来るなら、あんたが始める前に大手葬儀社がしているよ』と
考える人達もいたようでした。
当時は世間の多くが受入れないと感じていましたが、今始めなけれ
ば間に合わない、一年後にと考えるなら止めたほうが良いと千明に
言い、法人設立の意志確定時点で退職願を提出させたほどです。
どんな根拠で発した言葉か、自分が今考えても分かりません。
でも最初に言い出したのは、僕でなく千明でした。
僕の話しを聞いてるうちに、自分がしている仕事が人を騙している
ようで出来なくなったと、なぜか僕に葬儀社設立を勧めました。
ところが葬儀の仕事を忌み嫌っている人間だし『遺体見たくねぇし』
『遺体なんて触れねぇし』と最初は拒否しました。
でも、仕事が出来なくなった千明が食えるだけの仕事を生み出して
あげなければと、葬儀社と寺をいくつも訪ねて話しを聞きました。
その理由は『良い葬儀社』と『良い寺を』紹介する事業を始める為、
紹介しても問題の無い、信頼に足る葬儀社と寺の発掘が目的でした。
葬儀社は何処に行っても「うちは喜ばれています」と言う。
葬儀の仕事をする人達は、俺とは違うんだなと感心しました。
寺に行くと「布施はお気持ちですから」と全ての寺が言いました。
さすが宗教者になるだけのことはあると感心しました。
ところが葬儀経験者110名に話しを聞いていると、葬儀社や寺が
言ってた事と、葬儀をした家族の言い分が真逆だと分かりました。
葬儀費用は思ってたよりずっと高額だし、布施は高いと言うのです。
相手の話しを素直に信じ、感心しただけに・・・
真逆だと分かると僕の中で火がつきました。 その後の僕の言動を
考えると、闘争心にも近い烈火と呼べる炎だったのでしょう。
そこから一気に葬儀の世界へと走り出したのです。
ど素人が最初にしたのは、葬儀の現状を知ることでした。
当初は自分達で葬儀ができない為、各地域毎に依頼葬儀社を探して
葬儀の度に家族の目線で客観視してきました。
初めての年はわずか3件の葬儀、翌年7件、翌々年が14件と倍々
には増えていましたが、まだ食えるにはほど遠い現実だっからこそ
自分の中で葬儀をどうとらえ、どうあるべきか考えられたとも思う。
倍々ゲームは6年後の年間98施行まで続きました。
自分で葬儀をするようになると、納棺師をする気になっていました。
勿論、話す内容は走る車中で何度も何度も練習したものです。
しかし、そこで話す内容は人から聞いた内容ではありません。
書物を読んだわけでなく、人に教わったこともありません。
湯かんに出席した人達は初めて聞きましたと言う。
千明が初めて聞いた時、自分の知ってる湯かんとの違いに驚いたと
言ってました(知ってたのは業者湯かん、既存納棺師の湯かん)
それが自分でも不思議です。
誰かに聞いた事もなく、教わった事もないのに、何故そんな話しを
して、聞いた人達の圧倒的多数が納得するのか・・・
普通に考えれば、葬儀という厳粛な場において素人の話しを聞いた
人達が納得などするでしょうか?
僧侶の法話でさえ聞き流す人がいくらでもいるのに・・・
また多くの人が納得するような話しだとしたら、なぜ、今までその
話しをする人がいなかったのでしょうか・・・
そして今9年目の日々が流れています。
さすがに素人とは言われないでしょうが、話す内容は全く変わって
ないどころか、あんしんサポート代名詞の『家族目線の葬儀』は、
より明確になり、誰に会っても、何年経ってもブレないと言われる
ほど強いものになっているようです。
何を聞かれても、何を言われても迷うことはありません。
もっとも相手にするのは、会員さんであり、葬儀依頼をする家族で
それ以外の人と討論する気はありません。
根底の理念が平行線なら、どんなに話しても交わる事はありません。
大事なのは、理論武装することでなく、依頼した家族が良かったと
安堵することだからです。
ど素人が突然、既存葬儀社と違う視線の葬儀を始め、会員数は増え
続け、施行数は限界を超え始めている・・・
好きで始めた訳でなく、嫌々始めた葬儀の仕事にも関わらず、利用
された家族から支持される事が多く、あれだけ忌み嫌ってきた葬儀
という仕事なのに、今は葬儀を通じて出会った会員さんから支持や
いつまでも存続をと望む声に生かされている気さえします。
序章が長過ぎて本論は短縮しましたが、言いたい事は書けたと思い
ますから、これが自分で『天職かもしれない』と思う根拠です。
最後に・・・僕の考える天職とは・・・
生まれ持った性格を、最も活かせる仕事に巡り合ったんだと思う。
その意味では、誰にでも天職はある。
あとは巡り合えるかどうかじゃないかなぁ・・・
誰もが終幕後の費用を心配することなく、自分の人生を精一杯楽しめる世の中にしたい
創業者の思いを後世に伝え、当時何を考えていたか嘘のつけない自分日誌でもあります