今回のテーマは時代の変化に乗り遅れると『当然』と思って
いた事が、いつの間にか『偏見』になっているです。

仏教言葉の中に『諸行無常(しょぎょうむじょう)』という
四字熟語があり、平家物語の祇園精舎の鐘の声、諸行無常の
響きあり・・ で有名ですが『何事に於いても不変などない』
と解釈をしています。

葬儀を始めるきっかけから10年間の中で、年々強く感じて
いる事であり、その速度が年々増している感があります。
それは葬儀だけの事でなく、世の中の全てに感じます。

音楽を聞きながらブログを書くのが常ですが、僕が子供の頃
ヒット曲は1年、2年、と歌われるのが普通でしたが、今は
1ヶ月もすれば忘れ去られるような時代です。

通信手段が人伝えしかない時代は、日本全国に知れ渡るまで
1年や2年は掛かったでしょう。 
しかしラジオが生まれ、更に映像も見られるテレビが生まれ
そのスピードは一気に短縮されましたが、インターネットの
誕生とスマホが生まれた事で、数分前に世界の裏側で起きた
事が分る時代へと急速に変化しました。

平家物語で読まれた『諸行無常』は、当時より今の方がより
強く実感できる時代になったと言えます。

皆さんが生まれてから今日まで、一日たりと同じ日が無いと
同じように全てが変化をしている。
変化は必ずしも良くなるばかりでなく、あとから思えば考え
られないほど最悪であったと反省する事もあるものです。
それは個々の問題に限らず、国家でさえ同様なのは世界中の
歴史を振り返れば明らかなことです。

そう考えると、何が良くて、何が悪いのかは、後々になって
みないと分らない・・・ってのが本当のところでしょう。

我々は分る範囲の将来を見据え、生きる上で生じるあらゆる
諸問題に対し、考えられる最高の最善策で今を精一杯生きる。
今ある人生を目一杯謳歌しながら・・・が人の本文に思える。

仏教で『諸行無常』と言っていながら、檀家離れの穴埋めと
して布施を値上げする。 その根底にあるのは、寺の経営と
生活の安定の為なのは明らかです。

葬儀社も同様、既存葬儀社にとって新規葬儀社の参入は自社
施行数を減らしている元凶でしょう。 当然売上も減る・・
それを葬儀単価の値上げで賄うという図式でしょう。

寺、葬儀社どちらの対応も自己優先思考でしかありません。
利用者の事は、、、っていうか、お金の無い人の事は無視を
しているのか、眼中に無いのか・・・

問題なのは、そんな対応をする寺や葬儀社の情報が人の耳に
伝わるのが、とんでもなく早いってことです。
結局、自分で自分の首を絞めている結果となるはずです。

さて本題です(おそっ!! 今からかい!)

その時代の常識や、多くの人が思う一般論は、当然と考えて
それ以外の少数派意見を唱えると、偏見の目で見られる。
もしくは偏見だと思われるのが人の世の常です。

葬儀に絞って過去の例で考えてみましょう。

昔 : 自宅台所に隣保が入って全てを任せ、隣保の家族全員が
三食故人の家で飯を食い、葬儀も自宅で行い、土葬が当り前
だった時代、群馬県では葬儀後の夕方に念仏を唱え、その時
配られたのが葬式饅頭とも念仏玉とも呼ばれた饅頭でした。

今 : 葬儀場に安置し家族と親族だけの葬儀、隣保には一切の
手間を掛けず、墓を守る人がいないと、葬儀後は散骨や永代
供養墓を利用し、念仏など10年間で一度もありません。

これで分るように、常識は時代とともに日々変化しています。
50年前からの変化と、この数年の変化は全くスピードが違う
のがお分かりでしょうか?

過去の概念、過去の常識に捉われると時代遅れになります。
一歩先を進む必要はありませんが、もし時代の流れに沿えず
過去の遺物を今でも当然と考える頭脳の持ち主が自分なら、
意図的に頭の中にある絵を描き直す必要があるでしょう。

あなたの中にある『常識、当然』は『古臭い偏見』になって
いる可能性大だからです。



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