どのブログで書いたのか、この数回に書いた覚えはないですが
ずっと言い続けているので、何度も書いているのでしょう。
「逆境や逆風を始め、どんな状況でも前向きな考え方をする」
この具体例を教えて欲しいという事だろうと思います。
そっかぁ、なるほど、サラッと読み過ぎる人なのね。
これが質問を読んだ最初の感想ですが、実際は少し書いては
いるつもりでしたが、あまり伝わってないみたいです。
言われてみれば、改めてその部分を強調して書いてはいません
から、伝わらなくて当然かもしれません。
また考え方は分っても、どうしたら、そこに辿り着くかまでは
多分、書いたことはないような気がします。
『いつも前向きに向上心を持って・・・』良く耳にする言葉の
ひとつなだけに、サラッと読んでも当然だし、ふーん、、とは
思っても、そっかぁ!なんて思う人は殆どいないでしょうね。
僕の場合に限定して言うなら、3つの思考から成り立ちます。
1. 現状を嘆いても何ひとつ良くなる事は絶対にない
2. 結局は自分で脱出するしかないが結論だろう
3. なら、苦しむより、気楽に進めるほうが無理がない
改めて書くなら、こんな流れなんだろうと思います。
ちなみに 僕の場合15才で稼業の倒産を経験し、良くも悪くも
頼れる人が目の前に居なくなった時、どうする事が最善の方法
なのかを、現実から自然に学んだのだろうと推測しています。
具体例としては・・・
前回のブログで暇な時期は、傲慢になった自分を戒める機会を
与えられたと思う・・・といった内容を書きましたが、これも
その感覚のひとつだろうと思います。
他の葬儀社より低料金だと利用者も分っているし、決して沢山
儲かってないのも分るからか、利用者のほうが低姿勢になって
くれるケースが圧倒的なだけに、凡人の僕は少しづつ傲慢さが
湧き出てくる・・・葬儀がいつ入って来るか、全く先の読めな
い仕事だから、少し暇になると不安感が頭を持ち上げる。
それを利用して『己の傲慢さを戒める』事に利用する。
その時思い出すのが『実るほど、頭を垂れる 稲穂かな』です
同時に倒産後、僕を養ってくれた祖父母を思い出します。
持論のひとつに『供養とは故人を忘れない事』ってのがある。
その意味では、40年前に亡くなった祖父母の供養ができる
時間も与えられたことになる。
また小さな葬儀社は、大手より施行数も少ないはずです。
大手葬儀社の霊柩車やマイクロバスを見る度に、落ち込むって
人もいるかもしれません。 昔の僕もそれに近い感覚でした。
その時は、こんな風に考えます。
1. 現状を嘆いても何ひとつ良くなる事は絶対にない
・この時点で大手葬儀社と同じ施行数など不可能と理解する
2. 結局は自分で脱出するしかないが結論だろう
・施行を増やすには、どうすれば良いかいくつも考える
・広告宣伝には金が掛る(金の掛からない方法を模索)
自分で作れば安くなる。(作れるだけのスキルを付ける)
自分達でポスティングすれば良い。
協力してくれる人達を集めよう。
我が想いを伝える場を作ればいい
友人知人、自治会など様々な人達に講演会、勉強会の誘い
勉強会、講演会ができるスキルを身に付ける
とにかく思ったら動く、動きながら考えるを身に付ける
3. なら、苦しむより、気楽に進めるほうが無理がない
・大手は葬儀数も多いけど、経費も莫大に掛かる
・良く見れば明らかに赤字の葬儀会館をいつくも所有してる
・でも、俺達は施行数は少ないけど、経費も少ない、暇なら
少し我慢すれば乗り切れる。倒産の確率は断然低く気楽
そして・・・いつも思うのは、
・俺には普通に働ける心身の健康がある。
・他に必要なのは気力だけ
・日本には普通に食える仕事はいくらでもある
・本当に駄目なら、仕事はいくらでもある失敗を恐れるな
・失敗したって良いじゃないか、何もしないより遥かに良い
・俺は凡人だから消費者を引っ張る力量はないけど、消費者が
望むことを聞き、それを実現することなら出来るはず・・・
そして、そして・・・最後に思うのは
・なんだかんだ言っても、普通に食って生きてるじゃん
・自分がすべき仕事があって、自分が守るべき人達がいて、
・自分を必要としてくれる人達がいる・・・それが良い
・きっと明日は今日より一歩先に進めるはず・・・それで良い
誰もが終幕後の費用を心配することなく、自分の人生を精一杯楽しめる世の中にしたい
創業者の思いを後世に伝え、当時何を考えていたか嘘のつけない自分日誌でもあります