前回ブログから、行間は予想通りHTMLタグで調整できます。
次に取り掛かったのがホームページリニューアルでした。
不思議ですが、作れば、作るほどアッサリしていきます。
俗に言われるシンプル.イズ.ベストですかね。
各ページの調整で、久しぶりに自分のホームページを読みました。
そこでいくつかの事が分ったような気がします。
『葬儀は宗教が生まれる以前からあり、宗教とは本来別物である』
『葬儀は死して始まるものでなく、医師がサジを投げた瞬間から始る』
『残る家族の生活より大事な葬儀など無いし、あってはならない』
『そもそも葬儀に高額な費用が掛ることがあり得ない』などなど・・・
葬儀に対する考え方は10年間全くブレてないようです。
もうひとつ、分らないのが宗教というか、日本仏教なのかな・・・
僕の中で宗教とは『生きる指標』のようなものだと考えています。
どう生きれば、穏やかな心で生きられるか・・・
物質面ばかりが満たされても真の幸福は得られない・・・とか
今の幸せが見えず、先の幸せなど見えません・・・みたいなね。
でも日本で一番多い仏教宗教者は、布教をしている人のほうが少ない。
葬儀を最大の収入源とし、布施を取ることばかりを考える人もいる。
江戸幕府が始めた寺請制度からの檀家制度に、いまだしがみついている
姿勢をみるだけで、末期だな・・・と感じさせる。
部外者の僕でさえ思うのだから、本気で宗教を考えて宗教界の中にいる
人達の憤りは、計り知れないほど強いものだろうと思う。
大きなお世話なのですが、宗教離れの加速は避けられないでしょう。
宗教離れと言えば、本人達は布教活動なのでしょうが、わざわざ嫌われ
る言動をしている信仰の厚い人達も結構いる。
それが信仰なのだろうか? それが本当に布教なのだろうか?
僕の場合は無宗教だと公言、どんな宗教でも同じというスタンスだ。
仏式で線香をあげるのも、神式で榊をあげるのも、キリスト教で生花を
あげるのも、何もしないのも全て同じだと思っている。
その行為が他人に苦痛を与えるものでなければ何でもいい。
だからか、あんしんサポートには世間から割と嫌われるというか、余り
受け入れられない宗教の人も入会する。
すると「理解して頂けてありがたい」と言うが、何の理解もしてない。
また理解する必要もない。 葬儀社は無宗教であるべきが持論だ。
っていうか・・・自分の宗教とか、他は邪教だという感覚が分らん。
宗教の究極って『日々穏やかな心で、幸せを感じて生きること』では
ないのだろうか・・・なら、どんな宗教であっても良いと思う。
先ほどの布教活動ですが、自身が人から見て人格者であったり、この
人のようになりたいと思う人間であれば、わざわざ嫌がれるような言動
などしなくても人はついてくるのでは? 押し付けがましい布教をする
人達は自己満足の押し付けにしか思えない。
自分の信仰を人が受け入れない事に憤りを感じるなら、他の宗教を信仰
する人達も同じだと思うけど・・・
僕らの同年代で突然の逝去は決して珍しいことではありません。
癌や病気で亡くなる人、自らの命を絶つ人、もっと若くして逝去する人
勿論、90代で老衰と書かれる人など様々です。
でも我々ができるのは、まず今日を生きること、明日がある事を信じて
そして今ある生活に幸せを感じられたら、それで良い・・・
人生の最後、死した後の心配をしながら生きるなどあってはならない。
せめて、そんな世の中だけは変革したい。
多分、僕の心の奥底にある核は、そんな事なんだろうと思った。
ホームページを改めて読み、10年前に思いを馳せ、更に5日間で書いた
著書を読んで感じたままを綴ってみました。
誰もが終幕後の費用を心配することなく、自分の人生を精一杯楽しめる世の中にしたい
創業者の思いを後世に伝え、当時何を考えていたか嘘のつけない自分日誌でもあります