一言でいえば『家族が現行葬儀を持て余している』のです。

日本人は海に囲まれ孤立した単一民族に近い形でで生きてきた

からでしょうか、人との争いを避け、周囲との同調を良しとし

たり自己主張の少ない民族のひとつだと思います。

言い換えれば『個性』に乏しい国民とも言えるでしょう。

戦後の食えない時代、貧しい時代は葬儀も一種のお祭り感覚で

滅多に無い事だからと、周囲は仕事の手を止め手伝い、家族は

御馳走を振る舞う。 発展途上国にありがちな形です。

しかし世界に類のない、経済成長を遂げた素晴らしさの反面、

成りあがり的おごり『消費は美徳』と公言した時代の中、葬儀

という特殊な儀式ゆえ、豪華に、盛大にさせるのは比較的簡単

だったはずです。 家電品を見れば分るように、あらゆる物が

便利さを追求した時代、葬儀も同様で自宅から民間式場に移り

バブル効果で、とにかく盛大に豪華にと高額にしながら、供養

という言葉を上手に利用してきた結果が現行葬儀です。

それが世界で最も高い葬儀というイベントをする日本であり、

時代は当時の真逆になったにも関わらず、お祭り騒ぎ感覚葬儀

だけは葬儀社と僧侶の企業努力?によって続いています。

ところが不景気が続き、超高齢化になり、年金だけの生活では

高額葬儀などできない現実は、かなり前から始まっていたのに

今迄と同じようにしないといけないと思う家族、その通りだと

あおる親戚、葬儀屋、隣保、それに輪を掛けて葬儀して、読経

して、戒名をつけないと浮かばれないと言う宗教者や葬儀社の

前に屈してきたのが、葬儀をする家族という図式でしょう。

家族、親戚、隣保、葬儀屋、僧侶、高額葬儀を先導したのは、

『葬儀屋』と『僧侶』にほかなりません。

葬儀屋は自分の儲けだけを考え、これでもか!と供養の言葉で

押し付け高額にし、それを擁護してきたのが僧侶です。

例えば僧侶に『お車代』とか『お膳料』を包む習慣があるけど

なんで!?と思いませんか? 他の職業で聞いた事がない。

ところが家族は相場が分らず葬儀屋に聞くと「お車代3万円」

なんて言われる。 葬儀屋は家族が払うのですから痛くも痒く

もないし、僧侶は収入が増えるから「あそこは良い葬儀社だ」

なんて言う。 この手の葬儀社は、人を操る術に長けていると

言うか、頭が良いと言うか、おっさんか爺さんの僧侶が来れば、

車まで若いお姉さんが荷物を取りに行き、助手のように持って

運ぶことから始まり、全て言いなりの対応を帰るまでする。

普段奥さんに頭が上がらない住職でも気分は良いでしょう。

結果、この住職は、この葬儀社を絶対に悪く言わない。

そこを計算しているのが、この葬儀社の利口なところです。

また何故か僧侶を偉いと思っている老人が多く、僧侶の中には

自分が偉いと思っている人もいて、どこかの政治家のようです。

以前こんな事がありました。

同級生から何十年ぶりで突然の電話、親戚の人が亡くなったが

とにかくお金が無いと友人に相談したら、武井に相談してみろ

と言われ連絡したという。 聞けば寺に聞いたら30万円で葬儀

してあげると言われたと聞かされたが、金はあるのか尋ねると

無いというので、すぐに寺は断って俺が行けるまで病院に置い

て貰え、あとは行ってから話しをする」と伝え電話を切った。

用事が終わり、病院に駆けつけ自宅に搬送安置すると相談。

お寺はちゃんと断ったと聞き、当時は可能だった5万円火葬を

することになった。 火葬日予約時間に合わせ霊柩車で火葬場

まで行くと、親戚の人達が走り寄ってきて言う「武井さん坊さ

ん来てるんですけど、どうしたら良いでしょう?」「はっ?

お金が無いから頼めないって、ちゃんと断ったんでしょ?」

「はい、そうなんですけど、、来てるんですよ」

「分った、考えますから、皆さんは普通にしててください」

棺を下し火葬炉に入れる時、住職が読経し、白木位牌には信士

戒名まで書いて持ってきていた。 火葬炉に入り係員が居なく

なった時「本日は住職が好意で来て頂き、読経と戒名まで授け

てくださいました。 皆さんお礼を言わせて頂きましょう」

「ありがとうごさいました」と全員で言い無料の待合所に向か

おうとした時、その住職が僕のところに来て言いました。

「火葬が終わったら、すぐ遺骨を持って来い!」

プチンッ! 「俺は家族に頼まれたんで、あんたに頼まれた訳

じゃない。 家には持っていくけど寺に持って行く気はない」

すると住職は黙って帰りました。 

火葬中、家族にはこう言っておきました。

折角来てくれたのだから、2万円持ってお礼に行ってくれば

良いんじゃないかな。もし、足らないと言ったら、分りました

と2万円持って帰ってくるだけで良い。増やすことはない」

後日言われた通り2万円包んでお礼を言ってきたそうです。

30万円は寺の言い値です。30万円どころか5万円だって無い

のですから辞退したのです。 それでも来たのは好意と考える

しかありません。 本当なら2万円は辞退しても不思議でない

のですが、納めたら押し売りと言われても仕方ないのです。

いずれにしても、親戚や隣保は住職にお伺いをたてる・・・

そりゃ宗教者ですから、宗教儀式については「その通り」って

事になるでしょうが、それを偉そうに「こうしなきゃ駄目だ」

と言うのが満足な知識も無く、住職の言葉だけを鵜呑みにした

出しゃばりな親戚、隣保ってところです。

自分がどんなに厚い信仰心があっても『信仰とは己の心に刻ん

だ生きる道しるべ』と気付かないなら、たいした信仰心でない

と思われたとしても不思議ではない。

多少の違いはあっても、大筋ではこんなところでしょう。

問題なのは、これらの全てに『お金』が絡む、それも『高額』

である事、そして葬儀の核である家族の意思、都合が全く加味

されてない事が大問題なのです。 

家族の生活水準を大きく超える費用の葬儀を創り出し、それを

押し付けてきた結果、拒否する家族が出てきているだけです。

今回の流れは必然的に発生したものであり、当たり前の姿に

向かっているだけの事でしょう。

どんな事でも変化に抵抗はつきものですが、まぁ、この流れは

変えられないんじゃないかな。

その最たる部分が少し前に書いた『僧侶派遣』を含め宗教界が

大きく揺れている現実です。 

葬儀の場所、料理、祭壇、霊柩車などが変わるのは簡単ですし

今の葬儀様式になってわずかな年数でしかありませんが、長い

歴史を持つ宗教界が大きく揺れるほど、大きな変革の波が押し

寄せて来ているって事なのだろうと思います。

これから暫くは宗教界自体がもめにもめるでしょうが、これも

ある意味必然だと思えます。

形ある物いつか壊れるのが自然の摂理、宗教界、葬儀業界とて

それは同じ、成熟期を迎えれば崩壊し、そして新たなる誕生へ

繋がるのでしょうが、故人の事ばかりでなく、残る家族を守る

温もりある変革をして欲しものです。

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