全てではないでしょうが、多くの葬儀社で施行されている葬儀に家族

という存在がありません。 分り易く言うと『家族の本意が無い』と

言い換えれば理解して頂けるでしょうか。

葬儀経験のある方は思い出してみてください。

安置が済むと葬儀の打合せに入りますが、葬儀屋さんの勧めるパック

とか祭壇の選択から始まり「普通は」「一般的には」「最近は」など

の言葉や「供養になります」という類の言葉に先導されて使用する物

葬具など一切を決めませんでしたか? その時、今の家族が無理せず

できる範囲の葬儀で・・・とか、家族の意思などを聞かれ尊重された

記憶がありますか? パックがあるのに、棺は、、骨壺は、、灯篭は

等々追加や変更が当然のように言われて、結果高額になる葬儀だった

のではありませんか? 料理や会葬礼状は「足りないと困ります」と

言われ終わってみれば、通夜料理は沢山余ってたし、礼状も余ってる

なんて事はありませんでしたか? 祭壇が寂しいからと生花を綺麗に

飾って何万、何十万と費用を掛けたのに、葬儀後棺に花を入れる時は

綺麗に飾った祭壇の花は一切手を付けず、かといって自宅に届くわけ

でもなく、葬儀の時2時間ほど飾っただけで何十万だったのでは?

逝去から葬儀まで4日間だとすれば、毎日ドライアイスを入れに来た

のではありませんか? 「ドライアイス入れますね」と当然のように

言う担当者で、入れた回数分のドライアイスは追加されていませんで

したか? 良く考えるとドライアイスだけでなく、逝去後、葬儀社が

現れてからは全てが葬儀社の意思ではありませんでしたか?

一つひとつ追加や変更は、家族に確認する葬儀社なら、まだ良心的な

ほうで何の確認もなく、当然のように追加、変更する葬儀社だったの

ではありませんか? 書こうと思えばいくらでも例は出てきますが、

上に書いた中に家族の意思はありません。 あるのは葬儀社が誘導を

した中から選択するだけの事で、家族本来の意思ではないのです。

これが、あんしんサポートと多くの葬儀社との決定的な違いです。

多くの葬儀社は自社や自身の概念からものを言います。

中にはお寺にお経を唱えて貰わないと成仏できない、と葬儀社の人に

言われた家族もいました。 あり得ません。 その人は葬儀社でなく

宗教家になるべきです。 お寺は間違いなく仏教だし、神式、教会式

なら僧侶は関係ありません。 また無宗教の人も関係ありません。

その葬儀社は『仏式専門葬儀』だと知らせるべきでしょう。

明日葬儀をされる家族が、本日のブログに例題として書けるかもしれ

ませんが、最終的には葬儀が済んでから書ける、書けないの判断をし

てみるつもりです。

僕は他の葬儀社が良くも悪くも、何をしようが関心はありません。と

以前書いたこともありますし、それは今も変わっていません。

特に個人攻撃は好きではありません。 それはその葬儀社や担当者や

更には家族の真意が分らないからです。

例えば、僕らから見たら「高額葬儀」だと思ったり「高い布施」だと

思えたり「それ要らないでしょ」と思える事でも人の価値観は様々な

ものだからです。 それはブランドの財布10万円をどう思うかって

のと同じ感覚でしょう。 10万円の財布に2千円入れて満足してる

人もいれば、2千円の財布に10万入れたほうが良いと思う人もいる

のと同じで、布施に100万円渡して満足する人もいれば、あんしん

サポートで100万円の葬儀内容が、500万円支払って満足する人

だっているからで、その人、その人の立ち位置、スタンスによっては

相当な違いがあると思うからこそ、個人批判や中傷は避けています。

僕らがとっているスタンスに対しても、国民全員が良いと考えるわけ

ではないからであり、批判されるのは決して好まない故に、人の批判

にも同様に考えているからでもあります。

しかし僕の立ち位置から見て「ん?」と思う事や、今回のように家族

不在の葬儀・・・家族の意思ではない葬儀・・・どう考えても変だと

思うが、と思った事はその内容も合わせて書いています。

今回のブログは、家族の意思は後回しの現行葬儀に対する疑問だけ

なくの僕自身が自分の立ち位置、スタンスを自身で再確認する回に

なったようで、868話まで続けた過去を振り返り、この先1000話以上

進むかもしれない先を再認識させて貰えたような気がします。

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