話は4年前の平成19年にさかのぼり、残暑厳しい9月のある日、

仕事が終わり自宅に戻ると、ベットのサイドテーブルに一通の封書

おいてある。ん? なんだ?  差出人は八王子裁判所と書いて
ある。

えっ! 俺、、なにかしたかな? 警察や、裁判所と聞いた
だけで

ドキッ、、特別何かをした訳ではないのだが、何かしたか?

と考える自分に少し呆れてフッと笑いが込み上げる。

開封して内容確認すると、僕が15才で生き別れた父親が逝去し、

遺言書があるので開封に立ち会うか、委任状を記入して返信する

ようにと書かれていた。「八王子に住んでたのかぁ」38年ぶりに

知った父親の消息であった。

生き別れの原因は稼業の倒産である。当時スーパーの息子だった

僕の部屋に突然現れた父親は、優しい笑顔でこう言った。

「暫くぶりだけど元気
か? お前は男なんだから何があっても強く生きて

行くんだよ」微笑んだ顔でこんな言葉を掛けられたのです。


会社が倒産するとは知らない僕は「はぃはぃ・・分ったよ」軽い返事を返す、

父親は「うん」と微笑んで部屋をあとにしたのですが
それが最後でした。
 
その翌日には倒産、生活が一変して世間の目が気になる生活や、

今までのような贅沢も出来なくなりましたが、不思議と父親に対し恨み

辛みを感じた事はありませんでした。

当時38才だった父親は
、怒ると恐いけど子煩悩な、僕にとっては自慢の

父親だったからな
のか、なぜかは自分でもわかりません。

そんな父親の事が気になり、10年ほど前に探そうと思った事があり

ました。でも、よく考えると、父親が僕を探すのは簡単なはず
です。

なのに探さないのは探して欲しくない何かがあるから? 今と
なっては

確認もできませんが、そう考えると探せなかったのです。

懐かしい顔が浮かびますが、裁判所の指定日時は仕事の都合で行け

そうにありません。妹に電話をすると、彼女の家にも、同じ封書が届い

ているようで、すぐに話は通じました。

「お前行けるか?」そう聞く僕に、すぐさま「うん行こうと思ってる」との

返答で、全てを妹に任せることになったのです。

指定日の翌日、早速妹に電話をすると「行って来たけど遺言書の

内容はどうって事はないよ」「そっか、で、一人で暮らしていたのか?」

「ううん、一緒にいたらしい女の人が来てたけど結構良い
生活してた

みたいだよ」と少し怒ったような言い方をした。

「当時の親父は三十代だったからなぁ 彼女が居ても当然だよな。で、

子供は居たのか?」 「ううん 居ないみたいだよ」

「えっ!・・・」「お前その女性の連絡先聞いたか?」

「うん じゃ言うよ」相手の連絡先電話を聞いた理由、それは、亡くなった

父親は74才のはず、って事は70才を過ぎたお婆さん
が、一人残された

訳で、子供が居てくれたら心配要らないけど、
居ないとしたら・・・とにかく

一度、会ってみなきゃと電話をして
日時を決めて、引っ越したという

神奈川に向ったのです。

この先、70過ぎのお婆さん一人でどうやって生きていくのか、かと言って

これから僕と一緒に住むのも難しい、まったく何で子供
作っておかねぇんだよ。 

こんな事を考えながら待ち合わせの駅に到着、どんなお婆さんなんだろ?

と駅前を探しますが、それらしき老人の姿は見えません。

まだ到着してないようだと少し待つ姿勢をとった途端、電話が鳴る

お、中々良いタイミングだ。電話の向こうから「到着ですね。
すぐに行きます」

「はぁ? 何で到着したの分るんだ?」車の助手
席側にある歩道に

立っている女性が声を掛けてきました。

「武井さんですか?」なんと70代の女性ではなく、後から聞くと61才の

女性だったのです。

それを知った途端、さすがに俺の親だ! と思うと軽く笑いが出て
まい

ました。 「何かおかしいですか?」 「いえいえ 思い出し笑い
しちゃい

ました。すみません」 正直、内心ではホッとしました。

これからの人生はいくらでも考えられる年代だったからです。

軽く挨拶を済ませると車に乗って貰い静かに話のできる場所を聞き

ます。 案内してくれたのはホテルのロビーでした。

最初の一時間ほどは本当に息子さんなのですか?の繰り返しです。

父親は彼女に天涯孤独の身だと言っていたそうで、子供さんが居る

なんて今でも信じられないと言います。

ところが僕の名前を言うと「その名前は甥っ子さんだと何度も聞い

た事があります」と言うのです。

「はぁ? 天涯孤独なのに甥です
か?」そう言われた彼女は「あ、ほん

とだぁ」と初めて見せた笑顔
でしたが それで打ち解けたようです。

その日は結局ホテルの部屋をとって一晩中寝ずに話しをしました。

青い海が好きで海外旅行もあちこち連れて行って貰ったようです。

最後の海外旅行となったグァムでの写真は、頭にバンダナを巻いた

ジェリー藤尾さんのような風貌の男性が写っています。

38年前に別れたまま、僕の頭の中にある父親の容姿と同じでちっ

とも変わっていませんでした。

写真には父親の他に数人の外人男女が写っています。

「お知り合いですか?」と聞く僕に、満面の笑みで、楽しそうに

「いいえ、グァムで偶然知り合った人達なんですよ。彼は旅に行くと

現地の人や旅行者とすぐに仲良くなっちゃう人でし
たから・・・」

それを聞いた僕も言う「あはっ、僕と一緒です。僕
も旅先で出会った

人達とすぐに仲良くなれる奴ですから」数時間前
までは一度も会った

事の無い僕に対して、今は少し心を開いて話し
ている自分自身に

対しても納得したのでしょう。

笑顔で大きくうなづくと同時に、親子なのだと感じたようです。

一通りの話をすると父親の最後や葬儀、そして焼骨は好きだった

ハワイの海に散骨したと聞かされました。

散骨という言葉を聞いた事はありますが(本当にあるんだなぁ)

これが最初の感覚でした。

父親は人生の終幕は全て計画を立ててあり、線香は嫌いだから要ら

ない、赤いバラを供えてくれ、俺に万が一が起きたら近所の葬儀屋

さんに行けば、全て段取りはしてあるからと言われており 逝去か

散骨までの全てを、父親に言われた通りに出来た満足感があり、

今のこの場に父が居て、良く頑張ったって微笑んで見守ってくれて

いる気がすると言うのです。 

そんな風に話す彼女からは、満足感が伝わってきます。

僕の感じた印象は、彼女の中で尊敬する人であり、言われた事が

ちゃんと出来た満足感があり、今尚自分を見守ってくれていると

感じさせるだけの信頼関係があったのだけは分かりました。

倒産の責任も取らず、家族を放り出して消息を絶った父親なのです

から、地元に残った家族は金銭的にも、精神的にも辛い時期を過ご

した過去を思い出すと、父親達は二人で働き、ゆとりのある生活をし、

あちこち旅行にも行ける生活をしていた事が、少し腹立たしか
ったの

だろうと思える妹の発言や感覚も理解は出来ますし当然とも
思えます。

けど、僕の名前を甥だと嘘をついてまでくちにした父親
の心情を考えると、

恨み辛みより、父親と彼女と二人の生活では、
幸せな時間を過ごせたの

だと分った事で、僕の中にも安堵感が広が
ったのです。 

色々な話をした最後に「父親がなぜ散骨を選択した
か分かりますか?」と

聞く僕に「いいえ分かりませんが海が好きだ
ったから?」と言うので、

こんな風に言いました。

「いいえ、そうじゃないですよ。 自分の遺骨があったら あなたの人生の

足かせになるから何も残さない方法を選択したはずです。

きっと、父親にとっても、あなたは大切な人だったんですよ。

だから、自分が居なくなった時は、一人で寂しく過ごすあなたより

誰かに包まれて幸せに過ごすあなたを見ているほうがずっと気は

楽なはずです。 その為の何も残さない選択、だから、父親の亡霊に

縛られるのではなくて父親との思い出は心の中にしまって、毎日を

元気な笑顔で過ごせる人生を選択する事が、父親に対する最高の

供養であり、安心させる方法だと思いますよ」と言って彼女との時間を

あとにしたのです。

群馬までの数時間、車中、頭の中で昨日からの話を振り返っていると、

彼女から感じた満足感とも、達成感とも思える様子がやたら
と気になるのです。

お葬儀と満足感、どうしても僕の中ではミスマッチです。 (葬儀 = 悲しみ)

しか知らない僕にとって新鮮な感覚でもありました。

38年ぶりに見た父親の写真、別の女性と暮らした年月、恨み辛み

芽生えても不思議でない状況なのに、僕の中には彼女に対する
感謝と、

幸せだったと思える安堵感だけしかありません。

変な感覚・・・・・・ こんな風に思わせる葬儀ってなんだろう? 

写真を見る限りたった一人の、火葬だけの葬儀、僕の知る限り豪華

派手で、沢山の会葬者が居るような葬儀自慢をする人は何人も
見たけど、

たった一人だけの葬儀なら、申し訳無さそうに、恥ずか
しそうに、しそうな

感じではあっても、心から満足そうな顔ができる
葬儀があるとは思えな

かったのです。

僕の知らない何かがあるのかもしれないと思うと、帰ったら色々調べたい

衝動に駆られながら、西に沈む太陽に向って一路前橋まで
の余韻とも

言える心地よい数時間の運転をして帰宅したのでした。

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