文字だけを捉えれば明らかに仏教用語ですが、一般的にも
何となく『故人の冥福を祈ること?』といった感じでの意味が
通じる言葉ですから、本来は宗教的な言葉でも一般に通じ
易い言葉はどんどん使っていきます。
葬儀を行うという感覚も故人を偲び、故人の冥福を祈るなど
供養のひとつではありますが、最高の供養ってなんでしょう?
あなたが故人だとしたら、何をどうしてくれる事が最高の供養
だと思えますか? 結論を言えばそれが答えです。
でも死後の世界うんぬんに関して、明確な正解を述べられる
人など誰一人いませんし、それを証明できる術もありません。
また今回は偏りを避ける為、それぞれに異なる宗教感覚など
も含めずシンプルに、、、となると今自分が生きる世界では?
と考えるのが自然であり常道だと思えます。
ひとつの例として、自分と配偶者が80才、子供が2人、孫が
それぞれに2人として、8 人家族の中で生きた人だとします。
80才の自分が終幕を迎えたあとで、家族に何をどうして貰え
たらあなたにとって最高の供養なのでしょう?
豪華な葬儀ですか? 立派な墓ですか? もっと言うならば、
たった1日の豪華な葬儀さえしてくれたら、あなたはずーっと
満足していられますか? 立派な墓を建てたら誰も来ない墓
でもあなたは満足ですか? 家族は忙しいと宗教者を頼んで
読経や代参してくれたら満足ですか? 或いは・・・
葬儀は火葬だけで、墓もなく自宅で焼骨を供養しているだけ
だとしても、毎日のように自分に話し掛けてくれ、時に愚痴を
こぼし、時には相談をしてくれる子供や孫達で、生活は楽で
無いけど、配偶者を始め家族みんなが、毎日を元気な笑顔で
過ごしている姿を、残した家族みんなが見せてくれる・・・
極端な例ではありますが、あなたにとって最高の供養に近い
のはどちらのパターンですか?
世の中は広く人の感覚も様々だすから、前者という方も少数
ではあってもいるでしょうが、多くの方は後者選択でしょう。
豪華な葬儀、立派な墓、何人もの僧侶での読経、誰が見ても
高額な費用を掛けたのは明白ですが、それは本当に故人を
供養する為だけでしょうか? お金を払うことで誰かに供養の
心を代行して貰ったのではありませんか?
また中には自分はこんなに費用を掛けて供養をしたと世間に
「どうだ!」言わんばかりの自己満足ではありませんか?
ただ勘違いしないで欲しいのは、それが悪いと言っている訳
でもなく、その供養を否定している訳でもありません。
金銭感覚は人によって、生活水準によっても当然違いますし
人の価値観によっても異なるので、高額や豪華の良し悪しを
とやかく言うつもりは毛頭ありません。
言いたいのは、供養とは物や金ではなく『心』で行うものだと
いうこと、自分が故人ならこうして欲しいと思うことを、自分も
してあげれば良い、、ただその供養は心が無いと続けるのが
難しいことのほうが多いってことです。
いつまでも自分を忘れずにいてくれる家族、自分が他界して
からも配偶者、子供達、孫達全員が心身ともに健康で元気
よく過ごしている姿なら、あなたも笑顔で安心できるのでは?
だとすれば、お葬式はどうすべきだと思いますか?
普段顔を見せないくせに、来れば偉そうな顔をして家族皆が
神経を使うような親戚を葬儀に呼ぶ価値はあるのでしょうか?
その結果、家族は故人とのお別れも満足にできず、一緒に
過ごす時間も、時には泣く事さえもできないほど神経を使う
ような葬儀を故人が、、あなたは望みますか?
だからといって世間を無視することはできません。
生前の故人に親交が広ければ、それなりの事業をしていたら
ある程度の規模の葬儀になり、会葬者に神経を使わない訳
にはいかないでしょう。
先のやかましいだけの、迷惑な親戚だとしても、無視してる
訳にはいかないし、必用最小限の接待と神経を遣います。
だから家族が故人を偲び、故人との別れを受け入れるには
お葬式前夜[通夜]の時間を家族を始めとした余計な神経を
使わずに済む故人と深い親交のあった人達だけで過ごす。
これが葬儀期間では最も供養らしい供養ができる時です。
次回の素朴な疑問は通夜をとりあげます。
家族が納得できる、後悔しない通夜の過ごし方を考えます。
何となく『故人の冥福を祈ること?』といった感じでの意味が
通じる言葉ですから、本来は宗教的な言葉でも一般に通じ
易い言葉はどんどん使っていきます。
葬儀を行うという感覚も故人を偲び、故人の冥福を祈るなど
供養のひとつではありますが、最高の供養ってなんでしょう?
あなたが故人だとしたら、何をどうしてくれる事が最高の供養
だと思えますか? 結論を言えばそれが答えです。
でも死後の世界うんぬんに関して、明確な正解を述べられる
人など誰一人いませんし、それを証明できる術もありません。
また今回は偏りを避ける為、それぞれに異なる宗教感覚など
も含めずシンプルに、、、となると今自分が生きる世界では?
と考えるのが自然であり常道だと思えます。
ひとつの例として、自分と配偶者が80才、子供が2人、孫が
それぞれに2人として、8 人家族の中で生きた人だとします。
80才の自分が終幕を迎えたあとで、家族に何をどうして貰え
たらあなたにとって最高の供養なのでしょう?
豪華な葬儀ですか? 立派な墓ですか? もっと言うならば、
たった1日の豪華な葬儀さえしてくれたら、あなたはずーっと
満足していられますか? 立派な墓を建てたら誰も来ない墓
でもあなたは満足ですか? 家族は忙しいと宗教者を頼んで
読経や代参してくれたら満足ですか? 或いは・・・
葬儀は火葬だけで、墓もなく自宅で焼骨を供養しているだけ
だとしても、毎日のように自分に話し掛けてくれ、時に愚痴を
こぼし、時には相談をしてくれる子供や孫達で、生活は楽で
無いけど、配偶者を始め家族みんなが、毎日を元気な笑顔で
過ごしている姿を、残した家族みんなが見せてくれる・・・
極端な例ではありますが、あなたにとって最高の供養に近い
のはどちらのパターンですか?
世の中は広く人の感覚も様々だすから、前者という方も少数
ではあってもいるでしょうが、多くの方は後者選択でしょう。
豪華な葬儀、立派な墓、何人もの僧侶での読経、誰が見ても
高額な費用を掛けたのは明白ですが、それは本当に故人を
供養する為だけでしょうか? お金を払うことで誰かに供養の
心を代行して貰ったのではありませんか?
また中には自分はこんなに費用を掛けて供養をしたと世間に
「どうだ!」言わんばかりの自己満足ではありませんか?
ただ勘違いしないで欲しいのは、それが悪いと言っている訳
でもなく、その供養を否定している訳でもありません。
金銭感覚は人によって、生活水準によっても当然違いますし
人の価値観によっても異なるので、高額や豪華の良し悪しを
とやかく言うつもりは毛頭ありません。
言いたいのは、供養とは物や金ではなく『心』で行うものだと
いうこと、自分が故人ならこうして欲しいと思うことを、自分も
してあげれば良い、、ただその供養は心が無いと続けるのが
難しいことのほうが多いってことです。
いつまでも自分を忘れずにいてくれる家族、自分が他界して
からも配偶者、子供達、孫達全員が心身ともに健康で元気
よく過ごしている姿なら、あなたも笑顔で安心できるのでは?
だとすれば、お葬式はどうすべきだと思いますか?
普段顔を見せないくせに、来れば偉そうな顔をして家族皆が
神経を使うような親戚を葬儀に呼ぶ価値はあるのでしょうか?
その結果、家族は故人とのお別れも満足にできず、一緒に
過ごす時間も、時には泣く事さえもできないほど神経を使う
ような葬儀を故人が、、あなたは望みますか?
だからといって世間を無視することはできません。
生前の故人に親交が広ければ、それなりの事業をしていたら
ある程度の規模の葬儀になり、会葬者に神経を使わない訳
にはいかないでしょう。
先のやかましいだけの、迷惑な親戚だとしても、無視してる
訳にはいかないし、必用最小限の接待と神経を遣います。
だから家族が故人を偲び、故人との別れを受け入れるには
お葬式前夜[通夜]の時間を家族を始めとした余計な神経を
使わずに済む故人と深い親交のあった人達だけで過ごす。
これが葬儀期間では最も供養らしい供養ができる時です。
次回の素朴な疑問は通夜をとりあげます。
家族が納得できる、後悔しない通夜の過ごし方を考えます。
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