ブログ超ご無沙汰でした。

 

 

話の途中なのになー、と

どっかで思いつつも

 

 

ただただ、この1ヶ月は

「ぜき組」に集中。

 

 

 

言葉の降り方と

気づきがレベチですごかったので

 

 

その時その時に

「今!!」

「ここで!!」

「しゃべらんと!!」

「記憶なくなる!!」みたいな勢いで

ずっとインスタライブしてました。

 

 

 

感度と体感覚のアンテナが

キレキレに研ぎ澄まされていて

 

なんかもう、話してる時は

別人格のような勢い。

 

 

 

 

シリーズは

「磁力」と「臨界点」と

ふたつ残してるんですが

 

それはいずれまた

別の形で。

 

 

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昨日、ライブ配信中に

感極まり

 

自分の中がグッと濃くなって極まった感じがして

その後、いつも以上にすごいスピードで

いろんなことを回しまくりました。

 

 

我を忘れた状態。

 

 

 

狂ったように

いろんなものを作ったり

途中になっていたものを仕上げたり。

 

気づいたら、2時過ぎで

そして、

 

 

今、コミュニティ限定で募集・開催していた

瞑想プログラムの配信をど忘れしていたという

 

自分でもびっくり。

初めてのことやもしれません。

 

 

 

そんな「やらかし」を経て

 

 

今朝方(といっても4時半ごろ)

中途覚醒がめざましい私に

 

スパーンと降りてきたことがあって

 

 

「ああ、今か」と

スイッチバチーン入ったので

(ブログ書きたいけど満ちて満ちて満ちまくるのを待ってた・笑)

 

今日はそれについて、話します。

 

 

 

 

あのね。

 

ここ最近ずっと

 

「観測すれば固まって現実に現れる」って話を基盤に

延々延々と話をしていたのですよ。

 

 

 

それがわかっても

 

無意識の思考の動きを止める、ってことに

意識がいかない人がほとんどで

 

 

ほっとくとまた、どんどん観測して

ほっとくとまた、どんどん素粒子固めて

 

 

あたかも

それが自分自身のような

錯覚を起こす

 

ってことをやり続けてるんです。

みんな。

 

 

 

そこから抜け出したいと

本気でそう願っているし

 

見えない世界

宇宙の法則ってやつで、生きていきたい

 

感覚で生きていきたい

感度バリバリになりたい

 

そっちを信じたい

そう思っていても

 

 

この、一番最初の入り口

「思考癖に気づき続ける」ってことを

ものすごく難しくしている。

 

難しいことだと思い込んでいる。

これも観測だからね。

 

 

 

で。それでも

コツコツと「自分の声」を聞けるようになって

自分の本心に気づくようになった。

 

 

「何も問題なかったら本当はどうしたい?」を

繰り返し、繰り返し

自分に聞いてみて、

 

自分の声はキャッチできるようになった。

 

 

けど。

 

 

その次の

「行動」には

一向に、至らないわけです。

 

 

怖いから。

 

 

 

「それ」を行動に移した時の

シミュレーションを

頭の中で繰り返し、繰り返し行うわけ。

これがいわゆるHappy理論の

「壊れた電卓叩き続ける」ってヤツね。

 

 

 

 

落ち着いて考えてみてほしい。

 

 

 

そのシミュレーションに使ってるデータは

 

「昔の自分」の「経験値」。

 

これってね

過去の周波数

古い自分の周波数に

アンテナをわざわざ、合わせにいってるのよ。

 

 

 

その「昔の自分」のデータを使って

今の自分の「本音」を計算したら

 

 

そりゃ、合うわけないから

怖いに決まってるんです。

 

 

 

で「怖いから」って

行動しない。

本音に気づいてるのに、やってあげない。

 

 

 

なぜなら、居心地悪いから。

なぜなら、怖くて「気分が悪い」から

 

 

 

だから

「今はいいよね」って

後回しにする。

 

「今はやろうとすると気分悪いから、これは真実じゃない

「次はできるようになる私を望む!!」って

何度も何度も何度も言ってる。

 

 

 

それさ

決めた後、次、ちゃんと見てる?

その後の現実どうなったか、見てる?

 

 

 

そうやって自分の本音をね

繰り返し、繰り返し無視し続けていると

感度がどんどん鈍るわけです。

 

 

当たり前。

 

 

本音をどんなに伝えても

「また今度ね」って言われちゃうから

 

「あー、本音言っても叶えてもらえないんだったら

 もう、言わないほうがいいや」って

なってるようなもんなんです。

 

 

で、感度死ぬ。

直感もこない。

 

 

だから余計に

目に見えるものを取りに行く方に動いちゃう。

 

自分自身に付加価値つきそうなものとか

得しそうなものとか

お金になりそうなものとか

 

 

いわゆる

現実5パーセントで

「益のある(ように見える)こと」は

ハードル低いからどんどんどんどんやっちゃって

 

 

で、本音はそこじゃないから

内側は余計混乱する。

 

 

だから

「やりたいことがわからない」のは

感度が鈍ってる、ということでもあり

 

 

「やりたいことがわからない」のは

「本当にやりたいこと」を「やってない」から。

 

 

 

 

 

 

 

 

で。ですね

 

今朝、降りてきた言葉は

 

「空っぽになればわかる」

 

 

これ、なんだろうなーと思ってましたが

 

 

この「空っぽになる」って

物理的・精神的・肉体的それぞれにあるなと考えていて

 

 

 

目に見えないぶん

精神的なものが一番、厄介です。

 

 

 

無意識に作動し続けていて

混乱させるから。

 

 

つまり

思考のゴチャゴチャとか

損得勘定とか

上に書いたように謎のシミュレーションとか

 

 

そういうことにばっかり意識が向いてて

自分の中にどんどん

ゴミが溜まっているような状態。

 

 

損するとか、それすらも

自分の観測次第だとゆーとるのに・笑

 

 

不自由さってものを「わざわざ」取り入れて

思考をグルングルンさせて

 

遊んでるんかーいって思うわけです・笑。

 

 

 

意識がね

思考とか、反射的な感情とかに絡め取られてる時

当然ながら、感覚は眠ってます。

 

その状態で決めたり

動いたりしたことって

 

焼け石に水になればまだいいほうで

それにすら、ならないことが、ほんとに多い。

 

 

それが余計

自分に自信を無くさせるし

自分には何もできないって思わせるし

自分なんて…って自己否定ゾーンに走るきっかけになるわけ。

 

 

 

 

 

空っぽになるっていうのは

 

文字通り、空にすることでありまた

自分の中にあるものを全部出すことであり

クリアにするってことでもあります。

 

 

思考を全部クリアにすると

勝手に感覚が、立ち上がってくる。

 

 

で。

その方法に

「表現」というものがパン!!とハマった。

 

 

 

来月、鎌倉で

 

完全オリジナルの朗読劇を使って

感情を内側からフルで出し切って

そこから自分を全解放するという

強化型合宿を

 

遠藤エルとやるのですが

(募集はぜき組先行でスタート)

 

 

 

「表現し尽くす」ってことが

ものすごく、効果的というか

 

 

すごく、手っ取り早く

すごく、奥深く

すごく、自分を浄化して

 

 

頭も心も

空っぽになるから

 

勝手に感度も上がり

勝手にひらめきも降りてくる。

 

 

 

そして自分自身もまた

表現することで

 

「自分を全出し」することで

自分の中を空っぽにして

 

 

そこからまた

インスピレーションで

湧いたものを表現する、ってことを

繰り返してきてたことに、気づいて

 

 

「表現、やばいやん!!と今更ながらに思った次第です。

 

 

 

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私は子供の頃から

謎に、プロのステージに立たされるという

ある種、過酷な人生でした。

 

 

親の趣味で

子供にさせる習い事

「何をやっても可愛い、うまい、素敵、うちの子が一番」って

あーいう、甘ったるいやつではなく

 

 

3歳から

何も知らされず

日舞のお稽古場にぶっ込まれ

 

 

稽古で手を抜けば

すぐバレて鬼のように怒られるし

本番で「気を抜けば」

おっそろしいくらい全部伝わってしまうし

 

母と祖父母は、マジでおっかなかった。

先生の方が優しかったよ(笑)。

 

 

ミスを怒られるんじゃないの。

本気度を見られてるの。

 

今思うと、酷だなと思うけども

 

私はめっちゃくちゃ

日舞、楽しかったんよね。

 

 

 

あの頃

あんまり自分ってものも

よくわかってないうちから

 

「表現する」ってことを

叩き込まれていたので

 

 

それが解放に繋がってたとは

まったく、気づいてませんでした。

 

 

空っぽにすることのすごさをもう

無意識下ではとっくに、わかっていたってことね。

 

 

 

表現するってね

 

自分の内側を見るのに

めちゃくちゃ役に立ちます。

 

 

 

その後、演劇の世界に

どっぷり使った時もそうでしたが

 

舞台の上って

ごまかしがきかない

 

ただ、目の前の自分に夢中になるしか

ないんです。

 

 

稽古不足とか

体調不良とか

声が出ないとか

昨日の自分の出来と比べるとか

 

そんなの、頭の中で

どんなにぐるぐるしていたとしても

 

始まってしまったら

もう、自分に集中するしかない。

 

 

文字通り

全出しするしか、なくなる。

 

 

それが表現の面白さだし

奥深さだし

「沼」と言われる所以だと、思います。

 

 

表現するって

いろんな形があるけれど

 

 

自分の中に溜まったものがありすぎて

思考があまりにもぐるぐるしすぎて

身動き取れなくて

パンク状態になってて

苦しくて

でも、動けなくて

 

 

そんな時は

思いっきり、振り切って

自分の内側を全部「空っぽ」にする。

 

 

そんな機会を自分に与えてあげてもいいんじゃない?

 

 

 

ただ、これってね

思考優先

結果重視

行動することには抵抗がない

 

 

頑張り系女子の方々には

死ぬほど、怖いことだと思う。

 

 

立ち止まる怖さと同じ性質だけれど
「無」になる怖さって

 

やっぱり、命取られそうな怖さがあるような

錯覚を起こすんだよね。

 

それよりも

5パーセントだってわかってるけど

頑張って頑張って動いちゃってた方が

「なんか、やってる感」が得られるから安心、って

 

それを長くやってきちゃった人たちには

死ぬほど怖いの。

 

 

私がそうだったからわかるぜよ(笑)

 

 

だけど、一度「無」になったあと

そこから入ってくるものって

 

 

マジで本当に

自分のど真ん中からくるものだから

 

 

結局、ドンズバにしかならんのよ。

 

 

 

頭でどんなに

こねくり回しても

全然わからなかったことが

 

いきなり

なんの脈絡もなく

「あ、わかった」ってなったりする。

 


抵抗があってできなかったこと

やれなかったことが

 

なぜかすんなりやれちゃったり。

 

「あれ、なんであんなにできないと思ってたんだろ」みたいな感じ。

 

 

 

考えてる間はね

解決なんぞしないのです。

 

 

意識の世界では、感じてることが全てだから。

 

 

だから感覚って本当に大事で

むしろそっちで生きていく方が

自分のど真ん中で行けるんだから

 

そっち、やるしかないよねって感じです。

 

 

 

めっちゃ長くなったので

続きはまた近々書きます。

 

 

 

冬眠よろしく

来春まで潜ろうと思ってたけど

 

そうは問屋がおろさなかった(笑)

 

 

 

それでは、また。