本編からちょっと寄り道して

 

「わたしのあたまのなか」について

少しだけ、綴りたい。

 

 

 

2015年からこの活動を始めてから

私の日々は

カラフルな色合いで満ち溢れていて

とても楽しくて

 

 

私はその世界に夢中になった。

没頭した。

 

そしてその体感覚を「デフォルト」にした。

そうしたかった。

 

 

こんな風に毎日楽しかったら

ずっといいよね!!

そう思っていたし

 

 

私にとっては

めまぐるしいスピードで

日々がめくられていく感じで

その疾走感も、とてもワクワクした。

 

 

そのスピードが

一気に落ちたのが2年前。

 

 

今思い返せば

スピードが落ちた、というよりももう

 

自分の中に

その「カラフルな色合いで満ち溢れる日々」を

そんなにも、求めていない自分が、いたのだった。

 

 

それがわかるまでに、2年かかった。

 

 

 

 

今までは

 

思いついたらやったー!!ってすぐコンテンツ作ったり

リリースまでドキドキしたりワクワクしたり

 

自分が新しい気づきや学びを得ると

すぐ

頭の中がスパークしたみたいになって

 

あれとこれとそれを組み合わせたらめっちゃ楽しいやーん!!とニヤニヤしたり

「即日」「すぐに」「早く」形にしたくて仕方なくて

スピード感みなぎっててめちゃくちゃパワフルなのが、私の特徴だった。

 

 

 

私は

とにかく、背中をぐいぐい「押す側のニンゲンだった。

 

セッションでも「それやろう!!」と

すぐ、形にするアイデアをバンバン提供できたし

 

私のヒラメキは即、地図とロードマップとなって

自分にダウンロードされるから

それを伝えるのも

とっっっっっっても楽しかった。

 

 

いい意味で「中毒」だった。

たまらなく楽しかった。

だからとってもいいヘルツ出てたと思います、あの頃。

 

 

 

 

 

 

2年間。

 

SNSを

止めたり再開したりしながら

自分の内側の様子を見ていたところ。

 

 

どうも「何も考えずに毎日連続して記事をあげる」ことができなくなっていたように思う。

 

 

「できなくなっていた」のではない。

それに対して興味という名目を、少しずつ失いつつあったのだった。

 

 

アカウントを消したいと思ったわけではないし

ほんとうの意味で引退したいと思ったわけではないし(引退します詐欺は、私の得意技・笑)

落ち込みは激しくてとても大変なこともあったけれど

 

「低空飛行状態」でも

私は「自分なりのスピード」で、ここに居続けていた。

 

 

 

ただ、すごく面白いことや

ああ、これ本当によかったなぁとか

幸せだなぁとか

楽しいこと、

それからこの意識の世界の新たな気づきとか

 

 

そういうものを体験したり聞いたり見たりしたら

今までは

すぐさまみんなにシェアしたいと

公にしていたのだけれど

 

 

なんというか、それは

 

自分で抱えていたくなった、というのが

正しい表現かな。

 

 

ごく近しい

ほんとうに私を好きでいてくれる

身内の人たちにだけ

「見て見て、こんな宝物があったよ」と伝えて

それだけでとっても、満たされていた。

 

ぜきコミュのみんながいてくれたことが

涙が出るほど、ありがたかった。

 

箱球のみんな、ぜき組のみんな、ほんとにありがとう。

 

 

 

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超・現実的なビジネス論とか

ブランディングとかの視界で見たら

 

毎日発信したほうがいいだろうし

気づきはすぐにシェアしたほうがいいし

自分プロデュースを魅せたほうがいいし

 

 

現実社会の常識で言えば

「ここにちゃんといますよ」ってアピールはしておいたほうが

絶対にいい!!と、言い切る人たちは多いんだろうな。

 

 

実際、数ヶ月の間

どハマりしていたTwitterの世界で

「敢えて」既存のルールに則ってやってみたことは

私にいろんな刺激をもたらしてくれたし

ゲームみたいでとっても楽しかった。

何も知らないからまずはルールに乗ってみよう、くらいの軽い感じ。

 

 

毎朝繰り広げられる

「いいね」「RT回り」「リプ回り」

それらも全部「ちゃんとした」結果はくれたように思う。

 

 

でも

意識の世界を

宇宙の法則を使っている私は、知っていた。

 

 

行動したから結果を得たんじゃない。

 

 

それをやっている時のこの

「最高にいい気分という感覚」が

その結果をもたらした、ということを。

 

 

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話は戻る。

 

SNSの世界では

これでもかというほど

「カラフルな色合いで満ち溢れる日々」が続いていた。

 

 

それはとっても眩しくて

キラキラしていて

そしてすごく楽しそうに見えるし

実際、やっている人たちは最高に楽しいのがわかる。

 

 

たくさんの

インフルエンサーと呼ばれる人たちの

進化・拡大・成長を見ていて

すごいなぁ、と素直に思えて

 

 

そして「私はどうしてああなれないんだろう」と

 

そっちに意識が向きすぎて

死ぬほど苦しんだことも

長くあったけれど(巨大暴走エゴ鎮座の時期)

 

 

そりゃー、ああなれるわけがない。

 

 

 

私はずっと「立ち止まりたかった」のだから。

 

 

 

 

あの頃。

私は「立ち止まる」ことが怖かったのではなく、立ち止まるという選択肢があることすら、知らなかった。

 

 

面白すぎて、ブログを書き綴っていた頃があったように

楽しすぎてイベントや講座をバンバン出しまくっていた頃があったように

 

それと同じように私の中には「立ち止まりたい時」というものがあったのだ。

 

 

 

これからも

自分の心地よいペースで

活動を続けるために

 

私は「立ち止まりたかった」。

それを切に願っていた自分がいた。

 

 

それは

「わたしは伝える人である」という枠を一度外し

 

まずは私自身が

私の中で

ゆっくりと丁寧に物事を味わって

そして、自分で好きな時間

それに浸り、籠り、隅々まで味わって

 

私が「世界に発信したい」と思えるその時まで

自分の中に、持っていたかったのだ。

 

 

 

つまり

めまぐるしいSNSという世界の波に

その脅威的なスピードに

私自身が、呑み込まれてしまっていた。

 

 

私の言葉で言えばそれは

「心の純度を失った」状態でもあった。

 

 

何か体験する

大好きなものに触れる

 

そういう「好きに対する感度」は

ますます高まっているのに

 

 

頭の中で「これは仕事になる」とか

「コンテンツにつながる」とか

余計な電卓をビシバシ叩いている自分がいたのだ。

 

 

純粋に楽しむこととか

純粋に喜ぶこととか

そういうものに

もっと深く身を投じていていいはずなのに

 

 

目先の欲に追われた「ワクワク」とか「面白さ」ってものが楽しくなっちゃったんだな。

 

 

これは

自分に対して
嘘をついたり、何か盛ったりはしていないから

すごく小さな違和感でしかないから

あまりにも気づきにくい。

 

 

それが大好きな私も、確かに私の中にいる。

でも、あれ? これって本当にやりたいことだっけ?と

疑問を持つことが増えていったように思う。

 

 

 

だから2年前、私は立ち止まったのだ。

 

希望通り。

“立ち止まらされた”のだ。

宇宙に。

 

 

 

文字通り

なんの思考も入らず

「ただ、好き」「それだけでいい」を

もう一度、思い出すために。

 

 

 

 

ぐるぐる回って苦しんで

散々いろんな人に迷惑もかけて

浮き沈みの激しさに振り回されて

もう、このままいったらダメになるかもと

もう、無理かもと

 

そう思った時

 

ちゃんと「降参した」時

ちゃんと「助けてください」と手を伸ばした時

 

宇宙は私に、道をくれた。

 

 

これ、やるといいよ、って。

 

 

 

毛嫌いしていた瞑想を

毎日少しずつやるようになって

 

 

私の中で

それこそ日々、安堵感というものに触れ続けることを許した時。

 

 

なんでもかんでもやる!!とか

全部のイベントに行く!!みたいな

 

 

現実社会でいうところの

「とにかく、量!!」みたいな

 

それに浸り続けることで

何かが生まれることを「期待」するような

 

 

そして量をこなすことで

その中から「質」を削り出すみたいな

 

 

そういう作業を

知らずのうちにずっと続けてきた。

 

 

つまりそれが私にとって

「走り続けてきた」ということに該当する。

 

 

そのやり方とあり方をやってきて

それでは、どうにもならなくなって

立ち止まってみて、わかった。

 

 

そんなことをしなくても

わたしの純度を上げさえすればただ、大丈夫だった。

 

 

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「カラフルな色合いで満ち溢れる日々」が嫌いになったわけでは、もちろんない。

 

もう二度とやりません、とか

参加しません、とか

そういうことではない。

 

 

ただもっと私は

 

わたしのために

わたしのためだけに

自分がうつくしく生きたい、と思ったのだ。

 

 

外見や見た目ではない。

自分が、じぶんに対して正直に、素直に、うつくしいと思える自分になりたいと、そう思ったのだ。

 

 

当たり前に「イマココ」で

自分の感度が瞬時に切り替わっていく

その感覚に素直でありたい

 

そう、私は望んでいる。

 

 

 

私は自分の人生の中心にある

メインの部分での

「好きなもの」がほぼ、変わらない。

 

「好きなはずだ」と思い込んでいるのではなく

時々見直してみてもやっぱり大好きで

 

それがあることは、ギフトだと思っている。

 

 

 

そこが変わらないことを知っているなら

あとは自由に、なんでもやればいいだけだ。

 

 

 

 

 

 

「今のわたし」は

 

大きなこと

仰々しいこと

すぐの変化とか

大量の何かをいっぱい得ることとか

 

一気に事を進めようとか

結論出そうとか

極端に突き詰めようとしたりとか

 

そういうことは一切求めてなくて

 

 

ただ、自分が自分に正直に

そして、まっさらに生きていきたい。

 

 

 

 

いつからそうなったかさえ、自分でもわからない。

だけど今もう、そういうやらかしちまった自分でさえも「仕方ないやつめ」と、とても愛おしく思える自分がいる。

 

 

 

おわり。

 

 

 

 

 

私は今日

 

この記事が書けたことで

 

ブログをやっていて

ほんとうによかったと

すごく、思っています。

 

 

読んでくれてありがとう。