私は子供の頃から本、という存在が大好きだった。
いつでも、どこに行くにも、どんな時にも本を持ち歩く。
父の車の中でも正座して本を読む子供であった。(おかげで車酔いはしない)
鷹揚にして両親の思惑から大きく外れた人生を送って来ている私だが、本に関しては見事に両親の願った通りになった、と言えよう。
私の記憶、というのは絵画的な仕組みになっているようで
全体を一枚の絵で捉えている。
だから、あの本のあのページのあの文言、ほら、前後にあれがあってこうで…という形で記憶の貯蔵をしている。
私の記憶は、千と千尋の釜爺の、引き出しのようになっているのである。
あちらが開けばこちらが閉じ、またあちらを閉じればこちらが開く、といった具合に。
話を元に戻そう。
なぜ、本が大好きか。
それにはとても大きな理由がある。はっきりとした、私の中だけで掴んでいる理由。
本とは、こちら側から能動的にかかわらない限り、その中にある世界に、情報に、色に、言葉に触れることができないものだから。
その、しんと閉じた表紙の中に、どんな美しさやどんな色合いが隠されているか、それに出会う瞬間がいつだってドキドキで楽しいから、なのである。
本の世界には、映画や音楽とはまた一味違う、別の種のアプローチがある。
私がリアル書店で本を買うことにこだわるのももう、触る行為からすでに本との出会い、というものが始まっているからなのだ。
触れてわかる本の心地よさ、匂い、表紙の紙質、フォント、それこそ印刷されている活字の大きさや行間やスペースの幅まで。
まだ見ぬ言語の隙間から感じる気配、ここにはきっと素晴らしい宝物が眠っているな、と感じさせるその予感が、たまらなく私をワクワクさせる。
余談だが、だから「更級日記」が心底好きなんだと思う…
(更級日記は菅原孝標女が「源氏物語」に惚れ込みすぎたヲタクの話である・笑)
私の人生の一冊、といえばもう間違いなくパトリス・ジュリアンの「生活はアート」、この本以上に私の「コア」を呼び覚ましてくれる本はないと思う。今でも無人島に持って行く荷物の中に迷わずに入れる一冊だ。
ただ、それ以上に強烈に私の心の中に爪痕を残した本がある。
「夾竹桃の花が揺れる頃に」
大阪は星が丘にある、SEWING TABLE COFFEEができるまで、そしてできた後の記録。
この本は忘れもしない、2005年にNASU SHOZO COFFEEに立ち寄った際、いきなりぐわっと、この本のほうから存在感を示して来た唯一の本だ。
レジの真後ろにあった、商品棚の中でこの本は異彩を放っていた。
出版社を見てみたら葉山のウィンドチャイムブックスだったことも、胸をときめかせた。「これ、買う」といったわたしに「なんでこんなところでわざわざ葉山の本、しかも大阪のカフェの本なんか買うの?」と鼻で笑われたことも、批判を込めて痛烈に覚えている。(元夫である)
この本の良さ、というものはここでは多くは語らないでおくけれど、玉井さんの息づく姿がありありと浮かぶ。そして人との繋がり、繋げてゆくもの。人知れず繋がっていくもの。その豊かさに、決して大きな波ではないその小さな波が人の胸を打ち、やがて大きく人を動かす力となる、そのエネルギーが満ち溢れている。
後日「貝殻となり」という続編が出た時、私は焦りまくって慌ててブックロアさんに注文した。早く読みたくて、待っていました、とメッセージを添えて。
数日後、本が私の手元にやって来た。直筆のハガキと、本の中に出てくる小舟の作り方の小冊子とともに。
こういう、人のぬくもりや体温を感じる出来事が、私の本質的な部分を支えているのだ。
昔も今も、それは変わらない。
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この本たちはもう絶版になっていて手に入りづらいので(今アマゾンのリンクを貼ろうとしたら、26646円になっていた…)読みたい方にだけ、そっとお知らせしておきます。ここは本当に素晴らしいショップなので…届く人に届いてくれたら嬉しい。
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私は店を辞めたことに、どこかしら後ろめたい気持ちをいまだに抱えている。
私の店を心待ちにしてくれていた人たち、たくさんの人に愛された場所を、私のエゴで切り捨てたことに対して、私は今だに自分の中にくすぶり続ける「罪悪感」というものがあることを知っている。
わたしが、私であること。それ以上に大切なものはない。
それは、私がずっと伝え続けて来たことだ。
けれど、そこに繋がってきた人の思いや、私を後ろで支えてくれている人たち、今までもこれからも変わらずに私を見守ってくれている人たち。
そういった人たちへの感謝の念は、いつでも私がしゃん、と背筋を伸ばすきっかけをくれるのだ。
この「罪悪感」というものを、私は持っていて良いものだと思っている。
それは、店を閉めてまで今の仕事を選んだ私の覚悟、それまで私を支えてくれて来た人に対する誠意、そしていつでも真摯に自分と向き合う原動力となるからだ。
あれほど店を愛してくれた人たちへの申し訳なさは、私の今の仕事できちんとやり尽くすことでしか、返すことはできない。
だから、妥協はできないし、私の元へ来てくれた人に対しては、私はきっととても厳しいと思う。言われなくてもわかってるよそんなこと、と思うくらい、ビシバシと言葉を放つし、うだうだと同じことを繰り返している人には鉄槌を食らわす。
私は共感しない、と言い続けているのは、実はそこに理由がある。
共感して欲しいなら、周りにいくらでもそういう存在がいるであろう。その人たちに甘えることもまた、あなたが選ぶことだ、と。私のところへ共感を求めて来られるのは、筋が違う。私は、わたしの持っているものすべてをあなたに手渡して、その使い方を教える。それを使うかどうかはあなた次第だ。
コーヒーのドリップを教えるのと全く同じこと。美味しい淹れ方はいくらでも教えられる。コツもある。けれど実際、コーヒーを淹れなかったらあなたの腕は上達しない。「コーヒーを淹れられない理由」を延々述べられても「だから?」「で、どうしたいの?」としか、私は言えない。
そのおっそろしいほど不器用で、とことんこの業界には不向きであろう、わたしのまっすぐさ、というものの後ろには、大切なもの、こと、人たちへの誠意がある。
私は、そのためにも一切、私を諦めないし、あなたを諦めることはないのだ。
この仕事を、いつかはまだわからないけれど、やり尽くしたら引退する、と決めている。
JAGUARさんは、私が料理人だとなぜか最初から思い込んでいて、いくら私が今の仕事を説明しても全く頭に残っていないらしい(笑)。
この間も「出版が決まりました」と報告したら「なんの料理の本?」と言っていた。
もしかしたら、そこにこそ真実があるのかも知れない。
本に囲まれて来た私は、本があればいつでも幸せだった。
本に励まされて、本に助けられて、本に幸せをもらっている。
これまでも、これからも、私は不幸になることは、ない。
私のそばには、いつだって本があるから。
最後に。
私の大好きな詩をひとつ、皆さんにお届けします。
世界は一冊の本 長田 弘
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
書かれた文字だけが本ではない。
日の光、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
ブナの林の静けさも
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。
本でないものはない。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
ウルムチ、メッシナ、トンプクトゥ、
地図のうえの一点でしかない
遙かな国々の遙かな街々も、本だ。
そこに住む人びとの本が、街だ。
自由な雑踏が、本だ。
夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
シカゴの先物市場の数字も、本だ。
ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
人生という本を、人は胸に抱いている。
一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。
草原、雲、そして風。
黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
権威をもたない尊厳が、すべてだ。
2000億光年のなかの小さな星。
どんなことでもない。生きるとは、
考えることができると言うことだ。
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。