両親と京都大阪へ行って来ました。
京都は、母方の祖父母のお墓参り。
大阪は、父の会社の一番の取引先だった商社へ。
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父は、会社のことではあまり多くを語らないが、かなり努力して会社を大きくした。
若い頃、ものすごい苦労を重ねて販路を開いていったことを知ったのはずいぶん大人になってからだった。
そんな父の歴史でもある、大阪の本町。
そして、メインの取引先だったこちらの会社。
十数年前に事業を縮小してからは、直接のお付き合いはなくなったものの、それでも何十年もの間、取引の大半はこちらにお世話になった。
私は幼稚園の頃から電話応対を厳しく躾けられていたために、直接お会いしたことはないにせよ、たくさんの営業の方とお話をさせていただいた。
私も初めて見る。澤村株式会社の本社。
その周辺を三人で歩きながら、父がいろんなことを説明してくれた。
あのホテルがいつも泊まっていたところで、朝食なんかついてなかったから、その角の汚い喫茶店で朝ごはんを食べたんだ、とか(現在も健在だった!!)
この通りの商社は全て飛び込みんで回った、とか。本社の真裏に警察署があるのに、その細い路地は全部麻雀の店で、よくそこで麻雀したんだ、とか。
この辺はインド商がずらりとならんでいたんだ、とか。
父の説明で回る大阪の街は、いろんな歴史が散りばめられていて、とても感慨深かった。
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父は、20代の半ばで祖父の会社に入社し、そこから会社を大きくするために奔走した。
栃木の小さな、名前も知らない会社の若者が、サンプルを持って飛び込みで営業し、門前払いをされまくったこと、泥水をすするような思いで地べたを這いつくばりながらも、諦めず一軒一軒商社のドアを叩き続けたこと。私は社会人になってたまたま2人きりになった夜に、父からポツポツと聞かされた。
不器用だった父が、靴を履き潰しながら大阪の街を歩き回ったこと。罵倒され、馬鹿にされ、悔し涙を何度も流したこと。お金がないから夜行列車で大阪まで何度も通ったこと。
その話は当時の私には衝撃的だった。既に成功した父の姿しか知らなかったし、そんな苦労は微塵も感じられたことはなかったから。
祖父はそれからわずか数年で病に倒れ急逝し、33歳で父は全てを請け負った。
残された弟妹たちの世話から結婚の支度、学校の学費から就職の世話、そして私たち家族を養う責務もあり、父は本当に大変だったと思う。
でもそのことを一度も、誰かのせいにしたことはない。不満も苦労も当然あっただろうに、自分が選んだものだ、と腹を決めてやり続けていたのだと思う。
それを恩着せがましく言われたことも、一度もない。(こう書くと非常にかっこいい父に思えるが、他のことに関しては自慢して褒めろという父である・笑)
昨日の朝。
新幹線の時間にまだ余裕があったので、神社へお参りに行こう、と提案し、三人で向かった。
参拝を済ませ、新大阪の駅に向かう車中で、父が不意に私にこう告げた。
「お前が男の子だったら、いちばんよかったんだろうなぁ」
先に断っておくが、これは最上級の褒め言葉である。
「お前は販路を広げていくのもうまいし、人の気持ちがわかる。商売に一番向いていたのは、お前だったなぁ」
「上の2人は、商売人には不向きだったな。人の下について実力を発揮するタイプだ。でもお前は違う。一番逞しいし、タフだし、商売センスもある。すぐに新しいことを取り入れてやろうとする。お前がもし、会社を継いでいたら、今頃もっと違う形になっていただろうなぁ」
正直。
顎が外れるほどびっくりした。
父に商売のことで褒められる日が来るなんて思っていなかったし、そもそも褒められたいと思っていなかった私にとってまさしく寝耳に水。
ちなみに父は私が今何をしているか、全く知らないのである。おそるべし、商売人の勘よ…!!!
母は、兄たちを侮辱したとプンプン怒っていたけれど(母親の息子への偏愛のすごさよ…・笑)兄たちが商売に向いていないのは本当のことで、人の下について実力を発揮するタイプである。(それは両親の教育ゆえの、いわゆる後天的な性格によって作られたものであることはいうまでもない)
この時。
なんというか「 ああ、満たされるなぁ」と、そう感じた。
誰かに認められた、というこみ上げる嬉しさとは真逆のもの。認められなくても認めても私はわたし、ということをどこまでもとことんやり続けてきたわたしにとって、神様がくれたご褒美の飴ようなもの。
不意に口にぽん、と放り込まれた。どこまでも甘い。美味しい。嬉しい。そういうノスタルジックさ。
父は、齢を重ねたこともあり、頑固で融通がきかないところもあるし、スーパーウルトラ後者だし、一度思い込んだら覆らないし、私の業界用語で言えば前提と思い込みの塊で、想像だけで物事を推し進めてしまうところも、多大にある。
一緒に暮らす母、仕事をしている次兄にとっては、相当なストレスもあるのは理解できる。(2人はウルトラ前者)
でも私は、どんなに2人が父を悪く言っても、話は聞くけれど、絶対に母たちの味方にはならないよ、と告げている。
父が私たちに与えてくれた環境を、子供の頃は当たり前のように受け取っていたけれど、本当はそこにはものすごい愛情があるのだということを、私は自分で事業を始めてやっと理解した。
そして、父のすごさも、この年になって改めて実感している。
(母はこのことを「B型同士の謎の連帯感」と呼ぶ・笑)
祖父母のお墓参りをしている時、ふと気づいた。
私は、母が祖父を見送った時と、同じ年になった。
そして、祖父が他界した時と、父は同じ年になった。
母と祖父、私と父は、年の間隔が同じなのだ。
母が私の年の時、兄たちはもう大学生だったし、私は中学生だった。
祖父を尊敬していた母にとって、この歳で親を不意に亡くす、ということは、相当耐え難きことだったんだな、と思う。
そして私は、両親揃ってお墓参りに行けたり、こうして旅行できたり(ほぼツアコンの役割だけど・笑)することは、とてもありがたいことだなと、しみじみ感謝しながら帰路に着いた。
もっと親孝行しよう。
そして一刻も早く父に借金を返し(カフェの借金はまだ残っている・笑)きちんといろんなことを見せて行こう、と固く胸に誓った旅でありました。
帰りに上野公園へ。
桜、満開でした。
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