時々ふと考える。
「好きを仕事にした人」って
ある意味とても厳しそうなイメージがある。
どうして、その人たちはその仕事を選んだのだろう。
死ぬほど頑張ってる自分の犠牲的精神を見せたいから?
違うよね。
ただ単に「それが好きで、極めたい」って気持ちだよね。
自分がそうしたくて
自分の中の欲求に正直で
それにいちばん沿うものだから
それを選んでいる。
「それ」が、自分の喜びに直結しているから、それを選ぶ。
わたしたちの生きているこの世界で
有名無名は一切問わず
人類の発展のために尽くした人たちは
誰もがみんな、共通する「とあるもの」をしっかりと持っている。
それは、自分が本当にやりたいことに
徹底して情熱を持ち続け
その表現のためには
どんなことでもやる、という覚悟。
その覚悟と対極にあるものが「わがままという評価」だ。
わがまま、という評価は、つまりは利己主義(自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方)として捉えられているわけだけれど、これ自体に全くもって意味はない、と言うことを先に言っておく。
そもそも「わがまま」って一体どんな状態か、考えたことはあるかね?
そしてこの評価を誰かに下す時は、どんな時だろうか。
そう。
「誰かの言動や振る舞いが、自分の期待通りに行われていない時」なのだ。
わがまま、という言葉は、他人へ向ける評価の中でもっとも相手を屈服させるのに使いやすい言葉だ。
「あなたって、わがままだよね」
これを出されると、大抵の人は「うっ」と立ち止まる。
それは、社会の中で多数派、マジョリティで生きていくことが最善である、という教育を受けた私たちを最も効果的に、効率よく支配できる言葉でもあるからだ。
この言葉は、人の罪悪感を見事なまでに刺激する。
そして、ありもしない孤独の世界を感じさせる。
「わがままで生きていたら、仲間外れにされちゃうんじゃ…」
そうやって「自分はわがままではない」ことを証明する人生をすぐ、送ろうとしてしまう。
けれど、この機会に考えてみてほしい。
あなたが、あなたのやりたいことを自由にやったとして、本当に社会のバランスは崩れていくのだろうか。
こういう問いかけをするとすぐに「一般論」や「社会」や「他人」を持ち出して批評する人がいるけれど、ストップ。
そこに必要なのは「あなた」の目線だけだ。
あなたが自分の好きなことをやることで、それが社会の秩序を乱したり、あなたが超危険な存在となってしまう可能性があるだろうか。
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例えば、世の中で天才と呼ばれる人たちは、周囲の人間を喜ばせるために芸術や研究に没頭するわけではない。
彼らは自らの喜びに直結した欲求に全身全霊を注いだだけのこと。
そのストイックさが「わがまま」と呼ばれることも、もちろんあるだろうけれど、彼らは自分の喜びを表現し尽くすことに対して臆さない。
それは、彼らが強いからではない。自分の喜びに素直に忠実に従っているからこそ、その評価すら受け付けない状態となっている、ただそれだけのことだ。
それこそが、自由の定義のひとつだと、私は認識している。
私たちの人生の目的のひとつは
「私たちの内なる魂の声を掘り当て、それを臆することなく世の中に徹底的に表現し尽くすこと」である。
そこに行き着くまでには、自分自身の完全なる解放、
自分に自由を与え、自分を愛する人を含む全ての存在からの批評を受け入れる覚悟を決めることだ。
そしてもうひとつ。
あなたが自分の物語を描き始めると覚悟を決めた瞬間から、あなたの周りには同族がどんどん集まってくる。
つまりそこは、現代の社会からの評価では「わがままと呼ばれる人たち」の集団となる。
そこには、わがままは存在しない。
だって全員が「わがまま」となるわけだから。
今ここで、はっきりと断言しよう。
情熱に正当化なんてものは、一切必要ないのだ。
自分の使命を掘り当てた人たちは、自分の物語を描くこと、表現し尽くすことに没頭しているからこそ、それらの評価とは一切無縁となる。
そんなことより、表現し尽くすことの方の奥深さ、楽しさにどんどんはまっていくからだ。
さあ、あなたはどっちで生きる?
他人の評価を気にし、決してはみ出さず、いつでも怯えながら「いい人」であろうとする人生か。
誰になんと言われようと、自分の心を100%夢中にさせるものを表現し尽くす人生か。
私は「わがまま」って最高の賛辞だと思っています。
ありがとう、わがままよ!!!!(笑)
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