こんばんは、オオゼキアキコ(ぜっきー)です。

いい加減今回で終わりにしたい!
もう笑いとボケに走りたい!!
でも、まだ書きますよ(笑)
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さて続きです。

その頃パトリスさんは都内にあった素敵なレストランやカフェを閉め、新しい道へと進んでいました。
私はパトリスさんのお店で働かなかったことを死ぬほど後悔していました。会いたい人にはすぐ会う!と決めたのもこの事があったからですね。

結婚したその年の年末、当時私が住んでいたマンションからなんと100メートル先の雑貨屋さんで、パトリスさんがイベントをやることになったのです。
2007年12月28日、32歳。
大興奮したのをよく覚えています。

そのイベントでパトリスさんが「あなた、私の道場がピッタリだと思う。ぜひ来ませんか?」と声をかけてくださったのでした。

パトリス・ジュリアンイマジネーション道場。
洗足池のボートハウスで行われた、夢のような楽しくて厳しい道場。

ここで私は料理で生きる事を再度宣言し、1日カフェを経て、新たな出会いと共に料理教室をやる事となります。

この頃、道場が終わるとコアなメンバーでパトリスさんの家でご飯を作って食べる、という流れが出来ていました。
PJ Familyと称された濃ゆいパトリス大好きな人たち。
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パトリスさんと並んで料理する。私が一番望んでいたことがここで叶いました。
パトリスさんには独特のハーモニーがあり、そこに身を沿わせる事が何とも言えず楽しい。
この頃に博士キャラも誕生しました(笑)。

パトリスさんに「アキコの手は料理をするための手だ」と褒めてもらえたのもこの時。
まさに五感全てからパトリスさんのエッセンスを吸収していた頃。今でもあの洗足池のほとりにあった素敵な一軒家は、私の憧れが全部詰まっています。

けれど。
私が私を生き始めたのと反比例し、夫婦関係はどんどん悪化していきました。
彼が泣きながら「本当の自分を出したら絶対に離れていくと思ったから、つきあっている時は出せなかった。結婚してしまえば何とかなると思った」と言われた時のショックはものすごかったです。

4年間、ほぼ毎日しっかりコミュニケーションを取っていたてもり大事なことは何ひとつ共有できていなかった。
今思うと、私の打算がそのまま私に跳ね返ってきた、それだけのことでした。

パトリスさんに「アキコは男性性が強すぎる。もっと女性を大事にしなさい」と再三言われていたのもこの頃。なぜかピーチ・ジョンのカタログを手渡されました(笑)。
パートナーが自分の鏡だという事もこの頃のパトリスさんの教え。

離婚する時、父に一度勘当されています。
俺が決めた相手と結婚させていれば、こんな事にはならなかったのに。
涙を流しながら、絞り出すように呟いた父の言葉は、私に刺さりました。

勘当は2年続きました。
4畳半の部屋に布団と数冊の本だけ持ち込んでの居候生活が始まりました。
辛くなかったと言えば嘘になります。けれの父に完全シャットアウトされた事で、目の前の料理に集中できた時期でした。
料理教室のノウハウもこの時に出会った方からしっかりと教え込まれ、教室はありがたい事にどんどんファンが増えていきました。
しかしとある事情で、どんなに料理教室が繁盛しても私の手元にお金は残らず、非常にきつい時期でもありました。
結局、試作するお金にも困るようになり、一番人気のあった頃にやむなく料理教室を辞めました。
昔の経験を活かし人事の仕事に再度就き、そこからいろんな企業を渡り歩きました。

そして迎えた39歳。
父からの打診で、カフェ開業を決め、ワクワクしながら準備を進めました。

…と言えれば本当に素敵なんですが、残念ながらこのカフェ開業が、私の人生最大の地獄の始まりでした。
今、店を手放してから改めてわかる事があります。

私のカフェ開業は、大博打でした。
しかも、この店を親に対する復讐のための道具として使うつもりでいました。
無意識レベルで親に「参った」と言わせたい、親に認めてほしいと叫び続けていた私の心の、歪み切った欲望でした。

パトリスさんから私が私を生きる事を教わり、実践し、日々を丁寧に過ごすことの意味を知ったにも関わらず、私の心の奥底にあった「親への恨み」「承認欲求」が、カフェを通じて一気に暴発したのです。

この復讐のアイテムが役に立たないことがわかった時の絶望は計り知れないものでした。
散々な状況でした。
生きていてももう意味は何もないと、何度も死ぬ事を考えました。

それでも、ギリギリのところで必ず何かに守られていたようです。
何とかこの状況から自分を変えたいと思い、藁にもすがる思いで引き寄せの法則の本を読みまくった、マイナスもマイナス、マイナス200くらいからのスタートで実践し始めた頃。
常に不安とのせめぎあい、今思い返してもしんどさが半端なかった。

やがて2013年にQさんと出会い、2014年にHappyちゃんと出会い。
そしてそこから広がったご縁で、とてもたくさんの方々に愛される場所となったカフェ。

正直に言います。ありがたくも繁盛していました。でも、お金が全く残らなかった。本当です。
よくわからないことでお金がどんどん消えていって、マイナスの時さえありました。
私が疑問に思ったのはそこからです。
本当に楽しく過ごせていたら、もっとエネルギーが回って楽しいはず。

何でこんなに疲れてるんだろう。
何が足りないんだろう。


逆でした。

カフェがうまくいかないのは、私の心に何か、隠した本音があるからなのでは?

全てがその一点に気づくための出来事。

前述した通り、私はずっと親への恨みを抱えて生きてきて、いつか見返してやりたいという思いが根底にあり、そのためにカフェをやりました。
この状況でうまくいけば必ず認められる。
親への恨みと共にあった親に認めてもらいたいという真逆の欲求。
根の深い承認欲求です。
当然うまくいくはずがありません。

そして本当にカフェがやりたいかどうかを時間をかけて繰り返し繰り返し問答した結果、カフェを手放す事を決めたのです。

カフェを手放して、すでに9ヶ月が経ちました。
私はすごい勢いで自分と向き合う機会を得て、自分と深く対話し、最終的にずっと抑え込んでいた親への深い恨みに向き合う時が来ました。

暗くて重い、ものすごい闇。
噴き出してくる恨みつらみはそれはもうすごいもの。
めっちゃくちゃ苦しくてしんどかった。

でも、今ならわかるのです。


親の行動は全てが愛情だった


本当です

私への仕打ちは、親自身のため、周りへの見栄のため、世間への体裁のためとずーっと思い込んでいました

でも、違います

全てが親の溢れんばかりの愛情でした
ただ、私の求めるものと180度方向性が違っていた
それだけの事

それに気づくために、カフェをオープンし、手放すことは、私の人生のシナリオで必要不可欠な事でした。

さて、いよいよこの長い長い話も終盤と差し掛かる次第でございます。

私が最後に皆さんに言いたいことは、ただひとつ。 
私の格言でもございます「人間万事塞翁が馬」

もし今いる場所が暗闇で、光ひとつ見えない場所であっても。
もし今いる場所が荒れ放題の野原で、水一滴も得られないような場所であっても。

あなたが、あなた自身で生きる事を諦めない限り

必ず、想像を遥かに超える未来に繋がる。


私は、親への恨みがゼロになった訳ではありません。
時折、いろんな感情が出てきて苦しむ事ももちろんあります。

それでも、私が私自身と繋がっていたら、それだけでもう大丈夫

すでに「私の中に」あることに気づく、すべてはここから
 
今はそれが、過去の私に一番伝えたい事
 
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ん?
父ですか?
私の横で「鬼平犯科帳」見てますよ(笑)
 
おしまい